ヒューズ XP-73
謎の双発戦闘機
XP-73 は XP-74 とともに
とある事情のため
空番だったとされていますが、一説によるとヒューズ航空機による双発戦闘機のために予約されていたとも言われます。ヒューズ航空機は言わずと知れた奇人大富豪ハワード・ヒューズのワンマン企業です。
話は 1939 年 12 月、ハワード・ヒューズが世界一周記録飛行用として製作中だった D-2 型双発機の設計を米軍に売り込んだことから始まります。D-2 は全木製の
ロッキード P-38
に似た双胴双発機で、「夢のゲテモノエンジン」ライト R-2160「トーネード」液冷42気筒 2350hp 二基を備える予定でした。軍はヒューズの計画に興味を示したものの、「夢のエンジン」ライト・トーネードは
XP-49
,
XP-58
,
XP-69
等の先行プロジェクトに優先して割り当てられていたため、代替としてプラット&ホイットニー R-2800 空冷18気筒 2000hp の搭載を提案します。
その後ヒューズは D-2 を「爆撃機に最適」「いや長距離援護機こそ適任」など前言をコロコロ翻し、しかも極端に疑り深い性格(この頃既に精神を病んでいたのかも知れない)のため D-2 の詳細仕様を軍にすら公開せず、あまつさえ実機が完成すると「軍への売却は取りやめた」等と言い出す始末でした。得体の知れない D-2 のために戦闘機として「XP-73」、攻撃機として「XA-37」の型番が割り当てられたと言われていますが、果たして軍がどこまで本気だったかはわかりません。ヒューズを山師と疑う者もあれば D-2 を夢の超高性能機として期待する者もあり、軍内部でも物議をかもしただろう事は想像できます。
紆余曲折のすえ、D-2 は 1943 年 6 月 20 日にハワード・ヒューズ自身の手によって初飛行を記録しました。D-2 はエルロンの操縦が重い上パワー増減に従って左右に傾く癖があり、最高速度云々を議論する以前に飛ぶこと自体が危険な飛行機でした。ハワード・ヒューズのいわく:
「この機体は翼型と主翼形状、中央ナセルを再設計する必要がある。」
要するに全面にわたる再設計が必要ということで、端的に言えば失敗作でした。しかし「失敗を認めない男」ハワード・ヒューズはこの強引な「改良型に」D-5 の型番を与え、複座偵察機・三座爆撃機・単座戦闘機に発展可能とぶちあげます。軍もいい加減ヒューズの奇矯ぶりに辟易していたでしょう、プロジェクトの中断を打診しますが彼は「私費を投じても完成させる」と応じません(なにせ彼は大富豪なのだ)。軍は仕方なく「高速偵察機」に XF-11 の型番を与えて開発を続行させます。ところが 1944 年 11 月、D-5 仕様へ「改造中」だった D-2 は謎の火災に逢って焼失してしまいました。火災の原因は落雷だったとされていますが、D-2 の失敗を隠蔽するためヒューズが自ら放火したというまことしやかな噂もあります。
こうして XP-73/XA-37 が灰塵に消えたあと、高速偵察機の XF-11 だけは別機として開発が続行されました。ヒューズ XF-11 は 1946 年に二機が試作されましたが、双胴双発のレイアウトこそ D-2 の面影を残していたものの 3000hp のプラット&ホイットニー R-4360 を搭載した一回り大きな全金属製機で、D-2/D-5 とはほとんど無関係な新規設計だったと言われています。ちなみにこの機体も凝りすぎた設計が祟ってトラブルが続出し試作だけに終わりました。
現在 D-2 に関する資料はほとんど伝わっておらず、果たして戦闘機型「XP-73」という型番が本当に割り当てられたかどうかも謎となっています。
(文・ささき)
緒元(XP-73 予定性能)
製作
1943
生産数
1
乗員
1
全幅
不明
全長
不明
全高
不明
主翼面積
不明
乾燥重量
不明
全備重量
不明
武装
不明
発動機
プラット&ホィットニー R-2800 空冷18気筒 2000hp×2
最高速度
不明
実用上昇限度
不明
航続距離
不明
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