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ベル P-39 エアラコブラ(Airacobra:空のコブラ) 独特な後方エンジンの戦闘機

P-39Q(36.3K)P-39Q
珍しいカラー写真、ユニークな自動車型ドアがよくわかる。国籍マークの周囲を赤く塗っていることから 1943 年 6 月〜9 月までの間に撮影されたものと推定される。P-39 は外見からサブタイプを判断しにくい機体のひとつ。この機体は主翼下面の 12.7mm 機銃ポッドも主翼銃口も見えないので P-39C 型かと思ったが、シリアルナンバー 219447 は P-39Q 初期量産ロット(150機)の二号機となっている。米国内で練習に使われている雰囲気なので重い 12.7mm は外しているのだろうか。


 P-39 は評価の難しい機体です。視点を少し変えるだけで「駄作機」と「傑作機」に評価が二分されます。強いて言うならば「当初の設計目的には使い物にならなかったが、別の任務に応用され大成功した機体」と言うべきでしょうか。
 P-39 は 1936 年の米空軍単発単座戦闘機開発計画に応えた機体で、エンジンを機体中央付近に置き長い延長軸で機首のプロペラを駆動するという変わった機構を持っていました。これは重量物を機体重心近くに置くことで運動性を高め、また機首に強力な火器を集中搭載できるメリットがあると考えられたためです。試作機 XP-39 は 1939 年 4 月に初飛行を迎え、高度 20000ft(6096m) まで上昇時間 5 分、最高速度 390mph(628Km/h) という高性能を発揮しました。XP-39 の高性能は排気タービン(機体後部左側に装備)に依るところが大きかったのですが、何故か軍は続く増加試作機から排気タービンを廃止することを要求します。排気タービン過熱のトラブルが解決できなかったという説もありますが、ラジエターとオイルクーラー形状変更によって過熱問題は解決のメドが付いていたとする資料もあります。あるいは 1938 年に完成していた P-38 によって高々度戦闘機は間に合っており、新たな高々度戦闘機を必要としていなかったという事情によるものかも知れません。いずれの理由にせよ、この変更は P-39 の運命に決定的な影響を及ぼしました。最初の量産型 P-39C では 13000ft(3962m) で最高速度 379mph(609Km/h) に低下し、以後は改良するほどに重量増加して性能低下の一路を辿ることになります。

 P-39 はプロペラ軸に 37mm 機関砲を持ち、サブタイプによって機首や主翼に 7.62mm・12.7mm をニ〜四挺ずつ搭載していました。「重武装」という当初のコンセプトだけは守り通したわけですが、肝心の武装も敵機を撃てる位置に付けるだけの飛行性能が無ければ威力を発揮し得ません。P-39 の性能は 10000ft(3048m) を超えると劇的に低下し、上昇力の悪さや航続距離の短さもあって太平洋やヨーロッパでの迎撃戦闘には全く不向きな機材でした。しかしレンド・リース契約によって 5000 機近い P-39 を受け取ったソ連軍では P-39 を高く評価しています。その重武装と防弾性能に加えて P-39 のコクピットが前下方視界に優れていること、三輪式の着陸脚が不整地での運用に向いていたこと、V-1710 エンジンの信頼性が高いことも評点に入っていると見ていいでしょう。「対戦車攻撃機として活躍した」とも言われますが、むしろ戦闘機としての能力を高く評価され、P-39Q の多くは更に運動性を高めるため主翼の 12.7mm ガンポッドを外したとも言われます。低空での運動性は Bf109 や Fw190 に優るとも劣らず、ソビエトでは P-39 によって何名もの撃墜王を輩出しています。

 なお、ベル社では 1940 年に P-39 を海軍向けに改修した XFL-1 エアラボニタ(Airabonita:空の鰹)を試作しています。またのちに P-39 を大幅に改良した発展型として P-63 キングコブラを生産しています。
(文・ささき)

XFL-1(14.2K)XFL-1
P-39 の知られざる兄弟、海軍型の XFL-1 エアラボニタ。尾輪式の降着装置と背の高いキャノピーが特徴。鰹と言うよりは「はちどり」みたいでカワイイと思うのは私だけでしょうか?

写真提供:US Air Force Museum


[胃袋1/3氏による解説]

緒元(P-39Q)
製作1938年
生産数9584(全タイプ合計)
乗員1
全幅34ft(10.36m)
全長30ft 2in(9.2m)
全高11ft 10in(3.6m)
主翼面積213ft2(19.8m2)
乾燥重量5645LBs(2561Kg)
全備重量7700LBs(3493Kg)
武装12.7mm 機銃×2+37mm 機関砲×1(機首)
12.7mm 機銃×2(主翼下にポッド装備)
発動機アリソン V-1710-85 液冷12気筒 1200hp
最高速度376mph(605Km/h) 高度 15000ft(4572m)
実用上昇限度35000ft(10668m)
航続距離1075ml(1792Km) 増槽使用時

P-39 サブタイプ一覧
サブタイプ生産数特徴
XP-391試作型
YP-3913増加試作型、排気タービン廃止
P-39C80初期量産型
機首武装 7.62mm 機銃×2+12.7mm 機銃×2+37mm
主翼武装なし
P-39D60生産済みの P-39C を改造、武装・装甲を強化
機首の 7.62mm を廃し主翼に 7.62mm 機銃×4を装備
P-39D-1336P-39D に防弾タンク強化、機首銃を 20mm に換装
P-39D-2158P-39D-1 のエンジンを V-1710-63-E6(1325hp)に換装
機首銃を再び 37mm に換装
XP-39E3主翼・胴体を大幅に改設計、二段二速過給器つきアリソンを装備
重量増加のため期待したほど性能伸びず、コンセプトは新設計の P-63 に発展
P-39F229P-39D にエアロ・プロダクロ製プロペラを装備
排気管は左右12本づつ
P-39G0生産型は K, L, M ,N に呼称変更
P-39J25P-39F+自動加給圧調整器付きエンジン
P-39K210P-39F+V-1710-63(1326hp) エンジン
P-39L250P-39K+カーチス製プロペラ、主翼にロケット弾レール
P-39M240P-39L+V-1710-67(1200hp) エンジン
若干高空向けに過給器ギヤ比変更
P-39N2095P-39M+V-1710-85(1200hp) エンジン
エアロプロダクト製プロペラ、減速比変更
P-39Q4905P-39N の武装強化型
後期生産型は主翼の12.7mm機銃ポッドを省略
後期の約800機は四翅プロペラを装備
TP-39Q?P-39Q の改造複座練習型
正式な生産型はなく、改造キットとして提供された
P-400675社内呼称 Model14、英国向けエアラコブラ Mk.I
P-39D の 37mm をイスパノMkII 20mm 機銃に換装
スピナから長く突出した銃口が特徴
機首/主翼機銃も英国仕様のブローニング 303 に換装
XFL-11海軍向け試作型
F2L-12P-39Q 二機を標的曳航機として海軍が評価(XTDL-1)
P-450P-39C の初期呼称
P-760P-39M の追加生産型、生産前にキャンセル

★おまけコラム:The Tale Of Cobra II
 重く鈍重なためパイロットから「アイアンドッグ」の異名まで取った P-39 ですが、戦後のエアレースで P-51 や F4U を相手に健闘したことはあまり知られていません。アメリカのナショナル・エアレースには短距離の周回コースを回るトンプソン杯(Thompson Trophy) と北米大陸を横断する長距離レースのベンディックス杯(BendixTrophy) の二つがあり、前者は今日のリノ・エアレースの原形でもあります。

 1946 年 9 月 2 日のトンプソン杯において、機体を徹底的に軽量化しエンジンをチューンアップした P-39-Q-10BE NX92848 愛称「Cobra II」はパイロット Alvin "Tex" Johnston の操縦により平均速度 373.9mph(601.7Km/h) で見事優勝を飾りました。この時二位はロッキードの伝説的テストパイロット Tony Le Vier の駆る P-38、三位は Earl Ortman 搭乗の P-51D でしたから決して運や偶然で勝ったわけでないことがわかると思います。なお Cobra II とペアで製作された Cobra I という機体もあったのですが 1946 年 8 月 30 日にクラッシュしており、超音速実験機 X-1 にも関わったベル社のテストパイロット Jack Woolams が死亡しています。

P-39Q CobraII(10.4K)最速のエアラコブラ P-39Q「コブラII」
この角度ではわかりにくいが、主翼はエルロンの一部も含めバッサリ切り取られ「削ぎ上げ翼端(Hoerner Wingtip)」と呼ばれる形状に整形されている。排気管は後期の12本タイプ。スピナ先端の突起はピトー管らしい。四翅の大直径プロペラは P-63 キングコブラから流用したもので、前脚柱のオレオ油圧を上げて伸ばしておかないと地面を擦るという代物だった。しかし何故素直に P-63 をレーサー化しなかったのか不思議ではある。


 Cobra II は 1947 年に三位、1948 年には 413.097mph(664.8Km/h) のラップ速度を記録しますが、ゴール直前にエンジン不調を起こし惜しくも不時着しています。機体はその後チノのプレーンズ・オブ・フェーム博物館に買い取られましたが、1967 年にはレース復帰を目指して Don Newberger, Mike Carroll らの手によりレストアが行われます。1968 年 8 月 10 日、Mike Carroll の手で修復後初のテスト飛行に飛び立った Cobra II は高度 2000ft(610m) で突如として操縦不能に陥りました。パイロットは脱出したものの尾翼に衝突してパラシュートを開けず即死、無人の機体は海軍兵器庫に突入して粉微塵に砕け散り、Cobra II の伝説は悲劇的なエピソードでそのページを閉じたのです。

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