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カーチス XP-60 P-40 系列の最終形

 5機しか作られていないのにサブタイプが7種類も存在する奇怪な飛行機、XP-60 は私の大好きな機体です。XP-60 の開発はそれこそ試行錯誤の連続、エンジンを換えプロペラを換え、キャノピー形状を変え脚カバー形状を変え、試作機はどれもほとんど別物に見えるうえ、改良の方向性というものがまるで見受けられないのは滑稽を通り越してむしろ哀れです。我々飛行機マニアは「零戦に層流翼を付けたら…」とか「雷電を水滴風防に改造したら…」などと軽々しく口にしますが、航空機開発とはそんなそんな部品の寄せ集めでは成り立たないことを XP-60 の紆余曲折は教えてくれます。

 XP-60 は 1940 年 11 月に XP-53(社内呼称 Model88) から派生し、社内呼称 Model90 としてスタートしました。しかし XVI-1430 エンジンの失敗によって XP-53 が中断されたあと、米陸軍主力単発戦闘機の巻き返しを狙うカーチス最後の希望となります。
 最初の試作機 XP-60 は 1941 年 9 月 18 日に初飛行を迎えます。しかし折角層流翼を採用していながら突貫工事の仕上げが荒かったこともあり、P-40N とどっこいどっこいの 623Km/h という速度しか出ませんでした。

 1942 年 8 月に新型のパッカード・マーリン V-1650 が完成し、XP-60 はこれを搭載して XP-60D と名称を変更します。しかし軍は 1941 年暮れにマーリンエンジンの供給不足を予想しており、XP-60 シリーズに対し代替エンジンの搭載を指示していました。排気タービン付きアリソン V-1710-75 に換装したタイプは XP-60A(ジェネラル・エレクトリック製タービン) および XP-60B(ライト製タービン)、クライスラー XIV-2200 倒立V型液冷 2300hp に換装したタイプは XP-60C と呼ばれる予定でしたが、後者のエンジンは開発が失敗したためプラット&ホィットニー R-2800 空冷18気筒 2000hp に換装されました。軍はよほど XP-60 に期待していたのか、1942 年 11 月には R-2800 搭載の先行量産型 YP-60A を 500 機も発注しています。

 ターボ付きアリソンを搭載した XP-60A は早くも 1942 年 10 月に初飛行を迎えます。しかしジンクス通り排気タービンは絶不調、しかも中間冷却器の不備によってエンジン過熱が頻発しとても飛行テストどころではなく、結局ターボを外して普通の排気管を装備し 11 月に再テストしています。ですがターボの恩恵も受けられず P-40E より 500Kg 以上も重い機体に性能向上を望むのは無理な話でした。ろくにテストも完了しないまま XP-60A は分解され、XP-60C/E の部品にされてしまいます。

 年明け早々 1943 年 1 月 27 日に最初の空冷型 XP-60C が初飛行しました(何という過密スケジュール!カーチス担当陣にクリスマス休みは無かったに違いない)。この機体はカーチス・エレクトリック製二重反転プロペラを搭載し、高度 20350ft(6203m) において 414mph(666Km/h) というまぁまぁな性能を見せました。更に性能向上を図って軽量化のため四翅プロペラに換装した XP-60E は地上運転中にエンジンを焼損してしまい、代替エンジンの届く 1943 年 5 月 26 日まで初飛行が延期されました。しかしテストの結果は期待にそぐわず、最高速度は若干低下し高度 20020ft(6102m) において 410mph(660Km/h) でした。

 XP-60E は静安定・動安定性ともに悪い機体で機動中に首を振る癖があり、等速直線飛行が困難という困った性質を持っていました。機体表面は層流効果を上げるため平滑材が塗布されていましたが、処理が悪くて翼端からベロベロと剥がれてしまったそうです。軍も愛想を尽かしたのか、1943 年 6 月には YP-60A の発注量を 500 機から 2 機へと激減させました。カーチスにとっては最後通告です。さすがのカーチスも P-60 計画の失敗を認め、1944 年 5 月に契約を解消したいと軍に申し出ました。しかし軍はまだ未練があったのか、YP-60A 二機のうち少なくとも一機を完成させることを命じました。この機体には大幅な改良が行われていたため、完成時には YP-60E の名称が与えられることになりました。

 1944 年 7 月 15 日、YP-60E は祝福なき初飛行を迎えます。「戦闘機の老舗」カーチス社が得たありとあらゆる知識と経験と技術を投入した戦闘機…それは P-47 と F8F を足して三で割ったような、何とも垢抜けない没個性的な機体でした。軍はまるで玩具に飽きた子供のように、この機体を二度飛ばしただけで倉庫に放り込んでしまいます。既に P-51 や P-47 の発展型が 800Km/h に迫る性能を見せている状況で、予定性能ですら 700Km/h に満たない機体をテストする意味など既に無かったのです(それなら何故機体の完成を強要したのか?は謎ですが)。
 XP-60A は分解され XP-60C, D, E, はテスト中の事故で損失、P-60 ファミリの生き残りは YP-60E だけになっていました。この機体は戦後民間に払い下げられましたが、エアレースの予選で事故を起こして失われました。
(文・ささき)


緒元(XP-60E)
製作1943
生産数1
乗員1
全幅41ft 4in(12.60m)
全長33ft 11in(10.34m)
全高12ft 6in(3.81m)
主翼面積275ft2(25.5m2)
乾燥重量8285LBs(3758Kg)
全備重量10320LBs(4681Kg)
武装12.7mm 機銃×4(主翼)
発動機プラット&ホィットニー R-2800-10 空冷18気筒 2000hp
最高速度410mph(660Km/h) 高度 20020ft(6102m)
実用上昇限度38000ft(11582m)
航続距離315ml(507Km)

XP-60 サブタイプ一覧(かなりややこしい)
サブタイプ生産数エンジン特徴
XP-60 1ロールスロイス・マーリン 28(1350hp)三翅プロペラ
最高速度 387mph(623Km)
のちに XP-60D に改造される
XP-60A 1アリソン V-1710-75+排気タービン(1400hp?)
四翅プロペラ、ターボ過給器
予定最高速度 420mph(676Km)
エンジン過熱頻発、テスト完了前に廃棄処分
XP-60B 0アリソン V-1710-75+排気タービン(1400hp?)
XP-60A のタービン仕様変更型
この形態としては完成せず XP-60E に改造される
XP-60C 0クライスラー XIV-2220(2300hp)エンジン開発失敗により R-2800 に換装
XP-60C 1プラット&ホイットニー R-2800-53(2000hp)三翅二重反転プロペラ
最高速度 414mph(666Km/h)
のちに不時着により損失
XP-60D 1パッカード・マーリン V-1650-3(1350hp)
(マーリン 61 のライセンス品)
XP-60 のエンジン換装(同一機)
四翅プロペラ、二段過給器
のちに事故により損失
XP-60E 1プラット&ホイットニー R-2800-53(2000hp)XP-60B を改造し R-2800 搭載
四翅プロペラ
最高速度 410mph(660Km/h)
のちに事故により損失
YP-60E 1プラット&ホイットニー R-2800-18(2100hp)四翅プロペラ、水滴風防
予定最高速度 405mph(652Km/h)
テスト完了前に終戦、民間に売却後損失
YP-60A 0プラット&ホイットニー R-2800先行量産型
二機制作中キャンセルされ一機は YP-60E に改造


★おまけコラム:YP-60E の最期
 ただ一機残った YP-60E は戦後民間に払い下げられ、ジェームス・デサント(James DeSanto) に購入されました。1946 年のソフィオ杯(Sohio Trophy)において P-38 の偵察型 F-5「Connie I」号の左エンジン不調により 7 機中 6 位の惨敗を喫した彼は、なんと YP-60E で雪辱を試みます。伝わっている話によると、彼は YP-60E 購入のために経営していた飛行学校を売り払ってまで資金を調達したそうです。P-51 や P-63 や F4U が捨て値でゴロゴロ放出されていた時代に、このマイナー機のどこがそんなに気に入ったのでしょうか。

 さて NX21979 の民間コードと「Connie II」の愛称を貰った YP-60E はデサントによって両翼端 1.5m 短縮、エンジン水噴射によるパワーアップ(2440hp)など短距離レース用のチューンが施され、ゼッケン 80 番で 1947 年のトンプソン杯(Tompson Trophy)に望みます。しかし予選(Qualify)飛行中に尾翼が破損し操縦不能となりデサントは脱出、命は助かったものの機体は失われました。

 1947 年は「エアレース暗黒の年」と言われた事故多発のシーズンであり、トンプソン杯で失われた機体にはあの XP-40Q も含まれています。事故さえ起こらなければ XP-40Q vs YP-60E カーチス試作戦闘機同士のバトルという究極にマニアックな光景が繰り広げられていたかも知れないのに…惜しい。え?ぜんぜん惜しくないって?!(^_^;)

 ちなみにデサントは翌 1948 年に P-51D N68183「Connie III」で三度目の挑戦を試みますが、今度も予選中にチューンしすぎたマーリン・エンジンが火を吹いて不時着しています。とことん「ツイてない」男ぶりですが…デサントが YP-60E に魅せられたのは、「一生懸命頑張ってるのに成果につながらない」不憫さが自分の姿にだぶって見えたから…なのかも知れません。


★おまけ第二弾:XP-60 特製イラスト
画像をクリックすると白黒ドット絵(540x260)が表示されます。
切った貼ったでパーツを組み合わせて貴方だけの XP-60 画像を作って遊びましょう(笑)

XP-60
XP-60D
XP-60 基本的に XP-53 の延長。各所に P-40 の面影を見て取れる。
XP-60D は四翅プロペラを除き外見は同じ。
ワンピース型の脚カバーは奇妙な特徴。
XP-60A XP-60A ラジエターが機首直下に移り、主翼付け根にターボインテイクが開口。
胴体の高さが増し後部風防・方向舵の形状が変わる。
残されている写真では脚カバー未装備。
機首のラインなど「彗星」に似ているが完成度は遥かに及ばない。
XP-60C XP-60C 二重反転プロペラ。胴体下面に P-51 そっくりのオイルクーラーが付く。
エンジン換装に合わせ機首短縮、操縦席位置が後退。
方向舵形状は XP-60 タイプに戻るがバランスタブが小型化。
XP-60E XP-60E XP-60C そっくりだが機首が延長され操縦席・エンジンも若干前方に移動。
全体に「雷電」と似ているが萌え度では遠く及ばない(笑)。
YP-60E YP-60E 水滴風防。オイルクーラーは機首下面に移動。
方向舵形状は XP-60A タイプだがバランスタブ省略。
一言で評すれば「P-47 の出来損ない」。

XP-60s(36K) ★ここがヘンだぞ!XP-60

・空冷 R-2800 を搭載した XP-60C/E では腹部下面にオイルクーラーを持っているのですが、吸気口形状といい排気フラップといい P-51 のラジエターそっくりです。しかし容積のかさばるラジエターならともかく、小柄なオイルクーラーを何故わざわざエンジンから離れた遥か後方に突出させて装備する必要があったのか、かなり理解に苦しみます。

・カーチスのエンジニアもそう思ったのか YP-60E では機首下面にオイルクーラーが移されていますが、その処理はお世辞にもスマートとは言い難く巨大なアゴ状と化しています。XP-40Q, XP-46, XP-53 そして XP-60、これら全て P-40 の「アゴ型ラジエター」の呪縛から逃れるための機体だった筈なのに、最後の最後でアゴ型に戻るとは何とも間抜けな話です。

・XP-60 には巨大なワンピース型の脚カバーが付属しています。こんな物をつけたら不整地や泥濘地での運用に支障をきたすだろう事はシロート目にもわかりそうなもので、実際これが問題になったのか XP-60A では脚カバーを外していましたが、カーチス社は「長年の戦闘機設計の実績」から一体何を学んでいたのでしょうか?

・XP-60C/E では分離型の脚カバーを持っていましたが、その形状は「そこらの鉄工場から余った板金を貰ってきてぶった切って取り付けたような」無骨なもので、最終型の YP-60E でやっと「普通の」形式になりました。そんな紆余曲折を経るより、何故最初から普通の形にしなかったのでしょう…。

←胃袋1/3氏提供による XP-60 各型の写真。
上から XP-60, XP-60A, XP-60C, YP-60E。見れば見るほど同じ飛行機の派生型だとは信じられない。



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