スファキア第4次(最終)撤退

−4th from Sfakia−

31日〜6月1日

フレイバーグは最後の撤収作戦を31日の夜に実施することをカニンガムに要請し、カニンガムも艦艇を最後の危険に晒すことに同意した。

クレタに対する最後の艦隊撤収、スファキア第4次撤収作戦は第2次撤退を指揮したキング少将が再び敢行した。キング少将は前回に引き続き軽巡フィービに座乗。敷設巡アブディール、駆逐艦キンバリー、ホットスパー、ジャッカル率いてスファキアへと向かった。部隊は敵機の攻撃が無いことに薄気味悪いものを覚えながら航行し、31日の23時20分にスファキアへ到着した。

当初の意志では残る約6500名の全員を助け出すつもりでいたが、状況は理想とはかけ離れたものだった。将兵は石作りの家の間の細い路地を通って、急斜面を降りてちいさな浜辺に向かって歩いた。この砂浜はクレタで戦ったオーストラリア/ニュージーランド兵士に『トップストーリー(最上階) 』として永遠に記憶されるようになる。文字通りここから先には暗い海が広がっているだけだった。

ここの事態はひどいものだった。空腹を抱え、パニックになりかけの将兵が地区の路地など至るところに充満し、無秩序な人の波が撤収海岸に向かう兵士の流れを阻害した。浜辺への移動は遅々として進まず、お陰で肝心の浜辺はしばらく空っぽだった。スケジュールは狂いに狂い、日と月が変わって6月1日の3時に収容を切り上げたとき、乗船できていたのは4000名にも遥かに届かない3710名に過ぎなかった。

キングは22日に続いて再び重大な決断を迫られることになった。海岸の奥地にはまだ撤収地点にまで辿りつけていない兵士の列が続いており、その彼らの背後には遅れ馳せながらも追撃に移っていたドイツ軍降下/山岳猟兵の部隊が迫っていた。しかし、キングの部隊のほうももはや限界であった。各艦は搭載可能の限界まで人員を満載しており、夜明けの空襲のことを考えるとこの地に踏みとどまるのは限界だった。

キングは苦悩の末に離脱の決定を下した。その決断を非難することは誰にでもできる。しかし、真にその決定を非難できるのは彼の置かれた状況にあった人間だけだ。チャーチルであれば恐らくそのように口にしただろう。

そしてもう一人、辛い思いをしながらクレタを後にした将官がいた。クレタ守備隊の総指揮を取っていたフレイバーグ少将である。最後まで踏みとどまって撤退作戦を指導していた彼も、31日の夜から1日にかけて、危険を冒してスファキアに飛んだサンダーランド飛行艇により、カニア地区から後退していたウェストン少将と52名の部下と共に救出された。※1

※1
クレタから脱出したフレイバーグは復仇の念に燃えて以後も戦線の指揮を取り続けた。彼と彼の師団はその後も北アフリカ、イタリアで勇名をはせ、44年にはイタリア戦線のニュージーランド軍団長に昇進、同年から45年にかけてはニュージーランド第2軍軍司令官として仇敵降下猟兵とイタリアの山中で戦い続けた。なおこの時イタリア戦線のドイツ空軍の指揮を取っていたのは第2航空軍司令官、上級大将に昇進していたヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンで、フレイバーグは彼から航空基地を次々と奪取することでクレタ戦の借りを返している。戦後ニュージーランド軍総司令官に就任、1963年死去した。
◆飛:
無念の積み残しなのです。
◇烈:
キングさんはなんかいつも損な役回りになるなぁ(苦笑
◆飛:
22日の件もありますし、しかも今回は部隊の規模がその時とは遥かに小さいのです。前回と同規模の空襲を受けた場合ひとたまりもありません。
◇烈:
ところが、不思議にも今回の往路は空襲が無かったんだよな…
◆飛:
どうたんでしょう?ドイツ空軍になんかあったんですか?
◇烈:
良くわからないなぁ‥。スファキアに向かう地上部隊の支援に当たっていたのかなと思うけれど、あとは‥
◆飛:
10日以上の連続使用に機材が悲鳴を上げた、と?
◇烈:
それが全く無かったとは思い難いね。ドイツ空軍の被撃墜機数は少ないのだけど、損傷機体や故障機体の数は明らかになってないし。
◆飛:
それに、人間にも限界がありますもんね。
◇烈:
人間の体力そのものにドイツ人もイギリス人も無い。疲れているのはイギリス水兵だけではない筈だよ。
◆飛:
でも、このキングさんの撤収部隊と同様、ドイツ空軍にも最後まで活動を続けていた部隊がありました。
◇烈:
そう、それが最後の1隻、クレタ海上戦最後の戦闘がその二つによって繰り広げられるんだ。