スファキア第2次撤退

−2nd from Sfakia−

29日〜30日

29日の撤収ではヘラクリオンとスファキアで併せて約4700名が撤収艦艇に乗船した。スファキアからの撤収便に724名の兵員が乗船したから、残り約4000名がヘラクリオンから撤収艦艇に乗船したことになる。帰路のドイツ軍の攻撃によるヘリワードの沈没と、その他艦艇の損傷で約600名が戦死するか、溺死するか、或いは海に投げ出されたところをイタリア軍の舟艇により引き揚げられて捕虜となった。艦上で発生した負傷者の数も含めて、最終的にヘラクリオンから乗船してアレクサンドリアの港に上陸したのは3486名となった。

損傷を免れた駆逐艦には、更に次の任務が待っていた。戦闘で疲労困憊しきった乗組員は空になったタンクに燃料を補給し、寝台を片付け、弾薬箱を格納し、デッキのあちこちに散乱した薬莢、弾丸の破片、機銃弾などを拾う作業を殆ど機械的に行っていた。連日連夜の酷使に人も船も疲れきっていたが、それでも次の出撃があくる夜に予定されていた。

29日の大被害を押してなお、クレタからの撤退作戦は敢然と実施された。

同日夜、戦傷の為入院したローリングス少将に代りキング少将が指揮を継承した。※1軽巡フィービ、パース、カルカッタ、コヴェントリー、上陸作戦艦グレンジャイル、駆逐艦ジャーヴィス、ヘイスティー、ジェイナスの8隻が隊列を組んでスファキアへの第2次撤収に向かった。

苦しい懐事情からやりくりされたイギリス戦闘機隊の援護のお陰で、往路では目立った損害無く部隊はスファキア沖に到着し、この狭苦しいたったひとつの砂浜から第2陣の将兵の収容を開始した。艦数そのものは28日のへラクリオン撤収便より1隻少ないにも関わらず、今回はグレンジャイルのお陰で前回のおよそ1.5倍を収容できる見込みであった。

グレンジャイルもグレンロイと同じ輸送艦で、デリックを6対も立てた優秀な高速船であった。26日のグレンロイのケースを考えれば、本来このような商船形式の船舶を最前線からの撤収作戦に使用するところは避けたいところであったが、使用できる艦船そのものが急速に減少している今、そのような悠長なことも言っていられなくなってきていたのである。

往路では損害を避けた撤収部隊であったが、帰路はそう上手くは行かなかった。艦隊は日付の変わった3時20分に収容作業を終えて出発した。英空軍の戦闘機隊が損害を少しでも抑えるべく努めたが、それでもパースがクーノー・ホフマン大尉の第1教導航空団第I飛行隊(I/LG1)所属機に攻撃され、缶室に対する1発の直撃弾と複数の至近弾により大損傷を受けてしまった。4名の乗組員と9名の陸兵が戦死した。この戦死者を除いて第2次撤収部隊はアレクサンドリアに6029名の将兵を上陸させたのである。

この頃、クレタの陸上では退路を断たれた守備隊が孤独な戦いに終止符を打とうとしていた。20日の降下開始以来ドイツ第2降下猟兵連隊と殴り合っていたレティモ守備隊、I・R・キャンベル陸軍大佐のオーストラリア兵2個大隊(第2/1、第2/11大隊)だったが、連絡を絶たれ孤立しながらもこの30日まで抵抗を続けていた。しかし食料弾薬が尽き、将兵の忍耐力の限界を迎えて、遂にドイツ軍の降伏勧告を受け入れる決意を固めた。

※1
キングが29/30日の撤収部隊を指揮したことは、「Chronik Seekrieg 1939-1945」には記述が無い(30/31日についてはその記述がある)。しかし、29/30日の撤収部隊の巡洋艦4隻の内、パースとカルカッタは22日のC部隊艦であり、フィービとコヴェントリーはそれぞれ22日にC部隊として行動して損傷したナイアドとカーライルの同型艦である。翌6月初頭からのシリア侵攻「エクスポーター」作戦でもキングはフィービに座乗しているし、この29/30日の撤収の指揮をキング以外が座乗して指揮したと考えるほうが寧ろ不自然であろう。
◇烈:
さて、クレタの戦いもいよいよ大詰めだね。ここまで長かった…
◆飛:
まだ終わりじゃないですよーだ
◇烈:
へぃへぃ。スファキア第2次撤退戦です。
◆飛:
…なんか短いのは気のせいですか?
◇烈:
そ、そんなことないんじゃにかな?(ドキマギ
◆飛:
見え見えの大嘘をつくなーーーっ!!
◇烈:
や、やめ(べスコッ!)ぐはぁ…
◆飛:
(落ちたノートを拾って)…ふむふむ。
◇烈:
……<気絶
◆飛:
つまることろ、マッキンタイア先生の『海戦』が第一次撤退までで終っているので、ネタが無いそうです。
◇烈:
イテテ…ネタばらしやがって…。だいたい事ある毎に一々殴るな!お前は撲殺天使ド〇ロちゃんか!!
◆飛:
遂に著作権ネタにまで手を出したのですよ…