だが、ブラウン少佐とホットスパーは救われた。夜明け前のぼんやりとした水平線の前方に幾つかの艦影が現れ、それが味方艦で、ローリングス少将が危険を冒して待っていてくれたのだと判ったとき、助かったという安堵の気持ちがホットスパーに乗り込んでいた全ての人間の胸に込み上げてきた。
ローリングス少将は離れ離れになって撃沈されたグロスターやフィジーの出来事を忘れてはいなかったのである。これでホットスパーもドイツ空軍機の注意を他の6隻とともに分かち合うことが出来るようになった。そして、バラバラでは哀れなほど無力な対空火力も、7隻集まればなんとか空からの攻撃に対抗できるだけの防御とすることができそうに思えた。
しかし、それでも次の6時間に渡って続いた激しい攻撃によって、その防御がズタズタに切り裂かれてしまったことは紛れもない事実であった。艦隊は夜明けを迎えた段階でも依然エーゲ海側にあり、その唯一の脱出口であるカソス海峡付近には、意図を察したドイツ軍機が押し寄せてきていたのだ。
22日のように後から後から急降下爆撃機が出現しては爆弾を投下し、あまつさえ銃撃すら見舞ってきた。カルパソスから出撃してきたシュトゥーカの第1波攻撃で、駆逐艦ヘリワードが第2急降下爆撃航空団第III飛行隊(III/StG2)のJu87から前部煙突付近に直撃弾を蒙った。
同飛行隊は21日にエイジャックスを爆撃したときは至近弾しか浴びせられなかったが、今度はきっちり仕事を成し遂げたのである。機関にダメージが及んだヘリワードはまるで這うような速度にまで減速し、もはや逃げ切れないと悟った艦長W・J・マン大尉は艦をクレタの海岸に向けた。
ヘリワードは静かに隊列から離れた。最寄のプラガまで僅か7キロ、しかしドイツ軍機の追求は落伍艦を見逃しはせず、ヘリワードはプラガの海岸を目前とするところで更に数発の命中弾を受けて沈没した。乗組員と乗艦していた陸兵約450名はイタリアの小型舟艇に救助され捕虜となった。
続いて、デコイが第3飛行隊と第1飛行隊(I/StG2)の共同攻撃により至近弾を浴び、これによって少々くたびれかけたこの駆逐艦の速力を25ノットにまで低下させた。艦隊はこれ以上の落伍艦を出すまいと同じ25ノットにまで減速した。この速度は更に7時、I/StG2から旗艦オライオンが至近弾を浴びて浸水したことにより21ノットに落ちた。しかしそれでも艦隊は断固として損傷艦を守ったまま一丸となって航行を続けた。
じりじりと速度が落ちてくるにつれ敵の攻撃を回避するのは難しくなってゆき、行動半径の限度いっぱいまで追撃してきた第3急降下爆撃航空団第1飛行隊(I/StG3、ヴァルター・ジーゲル少佐指揮※1)と第77急降下爆撃航空団(StG77)の数個中隊のパイロット達は、次第に正確に目標に照準できるようになっていった。
対空砲火を黙らせる為に銃撃が艦の至るところに叩き込まれ、その中の一撃が苦闘するオライオンの艦橋を直撃した。ローリングスは自らの勇気ある行動のツケを自分の体でも払うことになり、提督自身は負傷、傍らにあったこの艦の艦長、地中海戦線勃発以来、常に全巡洋艦の先頭にたってこの武勲艦を指揮してきたジェフリー・ロバート・ベンスリー・バック大佐も戦死した。
8時15分、艦首3基の両用砲を振りかざして猛戦していたダイドーの、そのど真ん中のB砲塔を爆弾が直撃した。鋭い破片が前後の砲塔や艦橋にまで降り注いで人員を殺傷した。弾体そのものは砲塔内部を下まで貫通して酒保に突っ込み、そこで炸裂した。この1発でダイドーの103名が戦死した。※2
9時、今度はオライオンのA砲塔付近に爆弾が命中し、艦首にあるこの砲塔は破壊された。これもI/StG2の攻撃である。抵抗力は次第に削がれてゆき、そして次の痛烈な一撃がオライオンとその乗員に断末魔の苦悶を味あわせた。
時は10時45分、ドイツ機の投下した1発の爆弾がオライオンのメスデッキを直撃した。※3そこには激戦を掻い潜り、そして艦に救出され死線を抜け出したばかりの陸兵で充満していた、しかしそこは数瞬の内にクレタの陸上を越える地獄と化したのである。全艦を揺るがす爆発が終ったとき、そこには260名の死体と280名の負傷者が残されていた。
今やオライオンの艦上は今や死体と負傷者が折り重なり、炎の中に残骸と何か訳のわからないものが散乱する中を、ホースを抱えた消火班が駆け回る地獄絵図と化していた。オライオンの損傷は極めて深刻であり、間も無く操舵系統も故障して進退遂に極まったかに見えた。舵の故障。それがもたらす惨禍はつい2日前、フランス沖でドイツ戦艦ビスマルクが何よりの形で実証し、そして先ほどもインペリアルの悲運が再現したばかりである。迷走してのた打ち回るオライオンもその後を追うのかと思われた。
しかし、オライオンの乗員は諦めなかった。彼らの視界には自らも傷つきながら戦友を救うべく戦い続ける僚艦の姿があった。その光景に励まされてオライオン乗員はこの状況下においての奇跡を成し遂げた。直ちに緊急舵を準備する一方、艦上を跳梁する火災を押さえ込んだ。燃料系統に海水が混じりこんだために艦の速力は最終的に12ノット以下にまで落ちたが、それでも走り続けられることそれ自体が信じられないことのように思われた。
そして遂に、艦隊はドイツ軍機の攻撃圏内を離脱することができた。夕日が天地を焦がす日没時に艦隊はアレクサンドリアに辿り着いたが、どの乗組員も疲れ果て、その忍耐力の限界に近づき、視力すらも衰弱していた。最後にオライオンがひどく傾きながら、破壊されたA砲塔も痛々しく曳航されてきて、担ぎ込まれるようにして埠頭に横付けされた。
満身創痍のオライオンはクレタ戦の中で沈没を免れた艦としては最大の損傷を蒙り、その本格修理は作業効率に優れたアメリカの造船所で行われたにもかかわらず、完了まで総計実に8ヵ月半を要した。しかしこの不屈の艦は1年半後、装い新たに再びその姿を地中海に現すことになる。ダイドーの損害も同様に大きく、本格的な修理の為にはやはりアメリカで5ヶ月を必要としなければならなかった。へラクリオンからの撤退は実に高いものについたのである。