このころから戦場には更に新手のドイツ軍機が到着して英艦隊上空を乱舞する状況となってきていた。先程のI/LG1残存機だけでなく同第2飛行隊(II/LG1。指揮官、コレーヴェ大尉)、ウォースパイトを爆撃した機体の所属である第77戦闘航空団第3飛行隊(III/JG77。指揮官、フォン・ヴィンターフェルト少佐)だけでなく、アルゴス飛行場に集結させられていた100機以上のシュトゥーカの大兵力(StG77全力,I/StG1,I/StG3)も、今やクレタ地上支援の鎖を離れて艦艇攻撃に殺到しつつあった。今や英艦隊全体に危機が迫ってきていたのだ。
ウォースパイト被爆後すぐにローリングスは反転離脱を指示した。追って合流したC部隊との全体指揮はキングが執ることになったが※1、錯綜する状況の中で彼は隷下の艦艇に対する十分な情報を得ることが出来なかった。
ウォースパイトは続く高高度爆撃を回避したが、A1部隊のもう1隻の戦艦ヴァリアントもドイツ軍機の目標となり、急降下爆撃により爆弾2発が命中した。幸いにもヴァリアントの損害はウォースパイトほど大した事はなかった。
更に14時少し前、離れた海上に発見されたドイツ軍舟艇を沈めるため事前に部隊から分遣され、目下その舟艇を撃沈して反転、単艦キティラ海峡を通過中であった駆逐艦グレイハウンドが、Ju87の編隊に捕まり複数の命中弾を見舞われるや数分間で轟沈した。※2
キングは海上に漂う遭難者の救助を駆逐艦カンダハルとキングストンの2隻に命じ、軽巡グロスターとフィジーの2隻を呼び戻してその対空火力支援に充てるため残置させた。それ以外の艦艇は南西に向け空襲圏内からの離脱を急がせたのである。この指示はやむにやまれぬ処置であったとは言え、後に大きな厄災を招くことになった。実は対空火力支援を命じられたこの2隻の巡洋艦、既に数日来の戦闘で対空砲弾をほとんど撃ち尽していたのである。
この日の夜明けをカニアの北25マイルで迎えたB部隊は、6時30分に索敵攻撃に飛び立ったシュトゥーカに発見され、それから約1時間半に渡りオスカー・ディノルト中佐の第2急降下爆撃航空団の攻撃を受けていた。
モラオイ飛行場を離陸した第1飛行隊(I/StG2。フベルトゥス・ヒッチュホルト大尉)と第3飛行隊(III/StG2。飛行隊長ハイリンヒ・ブリュッカー大尉はカルパソス島派遣の為不在)の目標にされた両艦は、遥か4000メートルもの高度から舞い降りてくる急降下爆撃を振り切って、8時30分頃にようやくA1部隊との合流を果たしたばかりだった。
キティラ海峡の南西50マイルの地点でA1部隊と合同するまでに、フィジーは重大ではないが軽度な損傷を蒙り、グロスターもこの時はまだ損傷らしい損傷こそなかったものの、その代償として対空弾薬の消耗という深刻な問題を抱えていた。9時30分にチェックした時点でフィジーの高角砲弾残弾率は30パーセント(70パーセントの射耗)、グロスターに至ってはなんと18パーセントを残すのみとなっていたのである(82パーセントの射耗)。
キングがこの事を把握せぬまま2隻を残してしまったのも問題であったが、より重大だったのは艦艇を分割したことである。残り少ない対空弾薬であっても、他の多数の僚艦と共同することによって急降下爆撃機の攻撃を挫くだけの火力を集めることは可能だった。その意味でこれは二重の不運だった。※3
カンダハルとキングストンは低空から繰り返されるひっきりなしの銃爆撃を撃退しながら、献身的な努力でグレイハウンドの乗員を救助し続けた。その成果としてグレイハウンドの3名の士官と88名の下士官兵が助け出された。
14時2分にフィジーが支援のため送られ、5分後にグロスターが続いた。しかし間も無くこの2艦の残弾状況がキングに伝えられ(14時30分頃か)、15時にこの4艦はようやく撤退命令を受領した。直ちに西に向かって脱出を開始したが、その跡を多数のシュトゥーカが執拗に追いかけていった。
15時27分、Drエルンスト・クプファー中尉の第1急降下爆撃航空団第3中隊(3/StG1)の攻撃で確認できるだけでも2発、恐らくはそれ以上の命中弾がグロスターを襲い、複数の缶室がその機能を失う程の損傷を蒙った。
艦は減速し、やがて停止した。航行不能に陥ったグロスターにさらに立て続けに爆弾が命中し、あるいは至近弾となって水線下に破口を作っていった。当時の乗組員は「少なくとも8発は命中した」と証言している。残り少ない弾薬も誘爆し、艦の応急班は甲板が炎に包まれるのを抑えることは出来なかった。
15時45分、火災が燃料タンクか弾薬庫に引火したのか、それとも大型爆弾が連続して命中したのか、立て続けに3回の大爆発がグロスターを身震いさせ、遂に乗員は艦を放棄し始めた。満身創痍の巡洋艦グロスターは大きく傾き、左舷舷側からじりじりと海水に浸り始め、17時30分、グロスターの船体は横倒しになって間も無く沈没した。
40年7月のカラブリア沖における艦橋への被爆、41年1月のマルタ沖における不発爆弾の命中と、過去2度の爆弾命中にも強運しぶとく危険を免れていたこの艦にも、ついに三度目の奇跡は起こらなかったのである。
フィジーのウィリアム・ポーリット艦長、カンダハルのW・G・A・ロブソン艦長、キングストンのP・サマーヴィル艦長たちは次第に沈没に瀕しつつある僚艦を目の当たりしながらも、それらに救命筏やボートを落としただけで立ち去るという非情な決定を、断腸の思いで下さざるをえなかった。
乗員救助のために艦を泊めれば、その艦が逃げ遅れて撃沈されるという無限の連鎖を繰り返すだけだからである。果たせるかな、目の前のグロスターもまさにそのように沈められたのであるのだから。
この沈没劇には一つの悲しいエピソードが残されている。グロスターの沈没と共に行方不明扱いとなっていた艦長ヘンリー・A・ローレイ大佐、彼の遺体は4週間後北アフリカのメルサ・マトルー西方に漂着し、英軍将兵に発見されたのである。ローレイ大佐の物言わぬ帰還に対してカニンガムは「それは基地に戻る長い長い道のりだった」と、彼に弔いの言葉を残している。※4