このとき、夜明け前にいち早く退避に移っていたグレニーのD部隊は、別働していたB部隊と共に、ローリングスのA1部隊と既に合同していた。その結果、キティラ海峡沖の兵力は戦艦2(ウォースパイト、ヴァリアント)、軽巡5(グロスター、フィジー、ダイドー、オライオン、エイジャックス)、駆逐艦8(アイシス、インペリアル、キンバリー、ジェイナス、ネイピア、デコイ、グリフィン、ホットスパー)にまで膨れ上がっていた。
この大艦隊は海峡の西20〜30マイルの海域で散発的に現れる敵機を撃退しつつ哨戒を続けていたが、ローリングスはその強大な近接防空火力でC部隊の撤退を援護するべく、艦隊の経路をキティラ海峡の奥に向けた。
13時30分頃にはC部隊が視界に現れたが、その直後の32分、ローリングスの旗艦ウォースパイトが被爆した。20ノットの速力でキティラ海峡を東に進みながら、ウォースパイトは視認できていた敵編隊に対する戦闘準備を整えていた。この時突如として右舷前方の煙の中からBf109の3機編隊が飛び出し、対空砲火が火蓋を切る前に爆弾を叩きつけてきたのだ。Bf109を発見してから爆弾が命中するまでたった10秒の出来事だった。
過去1年間、イタリア軍機の攻撃を悉く空振りさせてきたフィッシャー大佐の操艦も、第77戦闘航空団第3飛行隊(III/JG77)所属、ユイ中尉率いる爆装機の電光石火の攻撃には間に合わなかった。1発目と2発目は外れたが3発目が過たず右舷砲郭甲板を直撃、500ポンド徹甲弾はウォースパイトの艦内深くにまで潜りこんで爆発し、その部分に集中していた副砲と高角砲を一瞬で射撃不能にすると共に、爆風で舷側をかなりの長さに渡って引き裂いた。
4吋連装高角砲の1基が艦外に吹き飛ばされるほどの爆発で、69名の乗員が死傷し、そのうち1名の士官を含む38名が死亡した。被害現場に駆けつけた副長マドン中佐の回顧録を我々は見ることができるが、それによると状況は「トラファルガー海戦の砲列甲板での修羅場」のようだったと述べている。
折悪しく時刻は昼過ぎであり、温暖な地中海にあって気温が最も高くなる頃だった。暑さにうだっていた乗組員は指示に反して軽装で、このため火炎により多数が負傷を負ってしまった。火災は煙を発生させ、爆発の煙やガスと合わせて壊れた通風路を通って機関室に充満し、このため機関室の一部は放棄を余儀なくされた。
ウォースパイトは第1次大戦を経験した古強者で、かのユトランド沖海戦ではドイツ戦艦群の目前で舵故障を起こし集中砲火を浴びた事もある。戦間期には地中海艦隊旗艦の栄職を長く勤め、今現在ロンドンのホワイトホールで対ビスマルク戦への対応に苦慮する第1海軍卿軍令部長サー・ダドリー・パウンド元帥の地中海艦隊司令長官時代の将旗を翻したのもウォースパイトである。
第2次大戦が始まるとウォースパイトは本国艦隊に回航され、ドイツのノルウェー侵入作戦「ヴェーゼル」に対する阻止行動に加わった。ドイツ戦艦との交戦で損傷したレナウン※1から巡洋戦艦戦隊司令官W・J・ホイットワース中将の将旗を受け取り、ドイツ駆逐艦が待ち伏せるナルヴィク・フィヨルドに踏み込む味方駆逐艦をその強大な艦砲で支援したのもウォースパイトだった。
地中海艦隊に復帰したウォースパイトは今度はカニンガム大将の将旗を掲げ、陣頭指揮を取るのを常とするカニンガムの信念そのまま、イタリアの参戦以来何度も最前線で戦い、イタリア戦艦と渡り合うことなどもありながらも命中弾を蒙ることは無かった。1月のイラストリアス被爆に際しては艦首の錨に爆弾が掠るという際どさながらも、この地中海でついぞ無傷を守り通してきたウォースパイトのジンクスが破られたのである。