夜明けと同時に対艦攻撃装備のドイツ軍機が次々と飛行場を発進して英艦隊攻撃に向かった。先陣を切ったのがメニディ飛行場を離陸したリークホフ大佐の第2爆撃航空団(KG2)Do17編隊、シチリアの第30爆撃航空団第3飛行隊(III/KG30)から中隊規模で増援に出されたJu88編隊である。少し遅れてエレウシス飛行場から第1教導航空団第I飛行隊(I/LG1)が先発編隊の後を追って離陸していった。そのころには先行の各編隊が北上中のC部隊迎撃に当り、朝の7時から艦対空の熾烈な戦闘が開始された。
C部隊は対空砲火を打ち上げて爆撃機の攻撃を撃退し、激しい回避行動で爆弾を避けながら前進を続けた。勿論その間著しいペースで対空弾薬は消耗されてゆく。そして8時30分、遂にC部隊は探して求めていた独伊軍船団の最後尾を捕らえ始めた。
兵員を満載したボートは軽巡パースに撃沈され、続く小型汽船は駆逐艦の手で始末された。しかし、ここにたどり着くまでにカーライルが被爆し、その損傷のために同艦が速力を20ノットに制限されていることもあって、追撃はキングの思うように進展しなかった。
10時にもなってようやくC部隊はクレタに向かっていた二番目の船団を発見することが出来た。※1ジュゼッペ・シガラ・フルゴス大尉が艇長を勤める水雷艇サジッタリーオと第2舟艇連隊の38隻の舟艇群である。この船団はヘラクリオンに乗船中の部隊約4000名を上陸させる予定でいたが、グレニーのD部隊がルポの率いる船団を撃破したことにより、ドイツ海軍戦域司令官シュスター大将の命令で既に引き返すように指示を受けていた。
9時59分、ミロス島の南25マイルの海上でサジッタリーオは船団の落伍船を集合させているときに英艦隊が接近してくるのを発見し、直ちに煙幕で船団を覆い隠しながら退避に移った。サジッタリーオは数ノットしか出ないような雑多な船舶よりははるかに高速であったが、自分だけその高速で逃げ去るようなことはせず、船団を巧みに煙幕で遮蔽しながらゆっくりと後退した。その跡を隊列から離れた英駆逐艦キングストンが猛然と追撃し、多数の舟艇を眼前とするところにまで迫ってきていた。
このまま前夜の惨劇が繰り返されるように思われたが、しかしこの状況を目の当たりにしながらキングは駆逐艦に反転を命じ、キティラ海峡の付近に存在する味方との合同を目指して西方に経路を変えた。理由はグレニーと同じく対空砲弾の欠乏が大きな原因である。
C部隊は前日から既に敵の航空攻撃に晒されており、今日も朝の7時から今の時点で3時間に渡る空襲を撃退し続けてきた。例えば夜明けで視界が広がると同時にこの船団を発見し、間を置かずに撃滅できたのならともかく、とうに夜は開け、しかも敵の空襲圏内の奥深くで、このように掴み所の無い雑多な舟艇の群れを相手にすることは、ギリシャの基地に展開するドイツ軍爆撃機により割に合わない危険に晒されることなると判断した為であった。
シュスターもイギリス水上艦による警戒が依然厳重なものであることを思い知り、船団による侵攻を一旦見合わせ、サジッタリーオとその船団にピレエウスへの帰還を命じると共に、海上からの全作戦を一時的に中断した。※2
船団殲滅のチャンスを目前にしてグレニーとキングが下した同じ判断は、あとで後方では非難の対象となった。特にキングの行動に関してはカニンガムもはっきりと非難した。※3クレタの戦況に強い関心を示し、絶対防衛を主張した張本人であるチャーチルの見解では、この2つの部隊が徹底して船団を追い続けていれば、船団に分散を許したとしても、乗船中の第5山岳師団を始めとするドイツ将兵にさらに多数の犠牲を強いることができた。それは全体的状況から見てクレタの失陥を回避するほどの効果があるとは考えられないものの、大規模な部隊を投入せず、僅か数隻の水雷艇でお茶を濁そうとしたイタリア海軍の護衛姿勢にドイツ側が反感を持つことによって、両者の同盟関係に精神的な亀裂を生じさせることが出来たかもしれないということである。
このような展開はこれから約5ヵ月後、北アフリカへの補給を巡って実際に生起する。しかし、このいかにも結果論的な見解が1941年5月22日の段階で実行に移されていた場合、そのことは英海軍にどのような代償を求めることになったか。それは、この日の残り半分で英海軍が実際に蒙った損害の大きさによって容易に推察することが出来る。
今や西に向かって全速力で退避するキングのC部隊であったが、高性能機Ju88を操る新手、クーノー・ホフマン大尉率いる精鋭第1教導航空団第I飛行隊(I/LG1)の正確な投弾に苦戦した。旗艦ナイアドは4発の至近弾により舷側を破られ、浸水により速力は半分の16ノットにまで低下した。内部隔壁が浸水を食い止めはしたものの、弾着の衝撃と跳ね上げられた弾片により砲塔2基が使用不能となり、同艦の対空火力は大きく低下した。更に軽巡カーライルも朝に続いて再び被爆し、艦長のT・C・ハンプトン大佐が戦死した。