フレイバーグに肩透かしを喰わせたのは船団の護衛艦シリオに生じたアクシデントだった。替わりに出港したクルタトーネも蝕雷沈没したことにより、船団は当初の計画よりも遅延と混乱を生じていた。なお悪いことに、これらの徴用船舶にはいずれも無線機の装備が無かったので(あるいは、イタリア海軍艦艇と交信する周波数を知らなかったか)、新たに派遣されてきた護衛艦ルポとの合同に手間取り、結局それが21日の日の出までずれ込んでしまった。
ルポの艇長フランチェスコ・ミンベリ少佐は仕方ないのでスピーカーによる肉声指示と旗流信号で船団を取りまとめ、クレタに対する船団経路の嚮導を開始したが、この時、現在地点からクレタまでまだ50マイルもあった。
ところが、ここから船団に対する指示の混乱が始まった。7時15分、イタリア側から船団運行の停止と未来の指示を待つ命令が出され、1時間後、船団と護衛艦はミロス島に引き返すべしという新しい指示が届いた。
ところが11時、今度は別の命令が船団に届き、それによれば船団は鈍足船を置き捨ててでも全速力でクレタに向かい、22日の朝に上陸作戦を決行せよという前の命令と全く矛盾する指示が出されてきた。ミンベリ少佐は理解に苦しみながらも命令に従い舳先を再度クレタに向けたが、一度北へ経路をとって距離を稼いでしまったため、クレタに着くにはまたかなりの時間がかかりそうだった。
何故こうも矛盾した命令が発せられたのか、それは偵察機の誤報告が原因であった。朝の索敵では、偵察機は確かに英艦隊を発見し、その進路が船団の未来位置と交差するコースであったため船団には運行の中止と反転が指示された。
ところがその後の偵察機は敵艦隊が経路を変えたという誤った報告を行い、このため上級司令部も状況を誤断して、船団にはクレタに向かうコースに復帰するように命令が出されたのである。
偵察機が発見した英艦隊、それはI・G・グレニー少将率いるD部隊であった。実際には小規模な経路変更こそすれ、今やクレタ島周囲の警戒航路を辿るD部隊と船団の接触はこれで不可避なものとなった。D部隊はこの時軽巡ダイドー、オライオン、エイジャックス。駆逐艦ヘリワード、ヘイスティー、ジェイナス、キンバリーの7隻で、その1隻1隻のどれもがルポより格段に強力な艦艇だった。
幾つもの不幸と幸運と偶然が作用した結果、本来ぶつかるはずの無かった両者は遂に衝突した。深夜半、スダ湾北方海上で哨戒中のD部隊が遂に船団を視界内に捉えたのである。これが無名だが有名な海戦の始まりとなった。
22時33分、ルポの見張りはスパダ岬の北北東5マイルの地点で、右約1200〜1500mの海上に敵駆逐艦を発見した。これがD部隊の駆逐艦ジェイナスで、こちらの方も船団を発見して経路を変えたばかりだった。※1
空軍の報告に何かしら胡散臭いもの感じていたのか、ミンベリ少佐以下ルポの乗員は警戒を緩めておらず、彼等は手早く戦闘態勢を整えると、たった1分後の22時34分には後部の連装発射管から魚雷2本を発射してみせた。※2
しかし英艦隊が襲撃行動に入って経路を変更した結果この魚雷は逸れてしまい、1分後、この「生意気な」水雷艇を叩き潰すべく英艦隊が砲火を開いた。
ルポは発砲炎で浮かび上がった巡洋艦のシルエット目掛けて残る前部の発射管から魚雷を発射した。短い時間内に彼我700mの距離は正確に測距できたものの、不鮮明な影絵に騙されて、敵速28ノットを20ノットと誤って下算した結果、目標艦ダイドーより射線を後落させてしまった。ところがこの魚雷の逸れた先には2番艦オライオンの進路が交差しており、馳走距離が尽きたのか、はたまたオライオンの艦首波で信管が起動したのか、ともかくオライオンの艦腹のすぐ傍でこの魚雷は爆発すると、爆圧で外板を歪ませては様々な小ダメージを及ぼした。
しかしルポには魚雷の効果を見届けている余裕は無かった。魚雷発射に続いて3門の10p砲の火蓋を切ったルポ目掛けて、英艦隊から放たれた砲弾が唸りをあげて飛んできたからである。至近距離の戦闘で英艦隊側の照準も非常に正確であり、巡洋艦の6吋砲弾は次々とルポの薄っぺらい鋼鈑でできた船体を貫いたが、その割には不思議と損傷は大きくなかった。
ルポは左に回頭して射弾を避けようとしたが、ルポの乗員にとっては肝の縮み上がることに、英艦隊の別の巡洋艦が艦尾ぎりぎりほんの数メートル先を掠め去っていった。巡洋艦の排水量はルポの10倍近くある、もしぶつかっていれば間違いなく踏み潰されて沈められてしまうところであった。
しかし、ルポのこの立ち回りはイギリス側の混乱を誘った。初めての夜戦で完全に頭に血が上ったダイドーの乗員はポムポム砲の40mm弾を味方のオライオンに撃ち込んでしまい、ルポの魚雷を避ける為に隊列はバラバラになってしまった。
この同士討ちを最後に一旦戦闘は終了したが、イギリス艦はレーダーの助けによって船団位置を掴み、それから二時間半の間掃討戦を行った。オステルリン大尉の第1舟艇連隊25隻はバラバラに逃げ散るまでに10隻を撃沈され、乗船していた2331名の兵士のうちおよそ800名が海上に投げ出され、297名が戦死するか溺死するかした。この数字はルポの果敢な立ち回りが無ければもっと大きくなっていた筈である。
グレニー少将は適当なところで追撃を切り上げて部隊を集合させ、クレタの西方海上、アンティキティラ海峡の南西45マイルにあったA1部隊と合同するように命じた。何故なら前日からの対空戦闘で巡洋艦は対空弾薬を射耗しており、旗艦ダイドーにいたってはその70パーセントまでを既に消費していたからである。彼はこのような状態で日中ドイツ軍機の攻撃圏内に留まることは自殺行為だと考えたのだった。カニンガムも彼の部隊が弾薬の補給を行う必要を認め、可及的速やかにアレクサンドリアに帰還したいというグレニーの要請を許可した。
一方のルポは穴だらけになった体を引きずりながら残存の舟艇群を率いて北方へと離脱した。あれだけ撃たれたにも関わらずルポが自力で動けたのは奇妙なことだったが、後でその秘密が明らかになった。ルポには6吋砲弾による何と18発もの弾痕があったが、その中で正常に起爆したのはたった3発、残る15発の悉くが信管の不良により船体を突き抜けて不発に終っていたのである。
奇跡というならまさしくこれがそうだった。この戦闘でルポはオラッツィオ・インディリケイト、二コル・モッコーレという2名の水兵の戦死者と26名の負傷者を出したが、圧倒的に優勢な敵を相手に渡り合い、更には生き残ったことで「海軍で最も幸運な船」と呼ばれることになる。※3
そのころ、キング少将の率いるC部隊は夜の間へラクリオン沖を哨戒したものの敵影を見ず、朝4時、日の出を迎えて命令に従い捜索のため北方に向かった。前日ならすぐさま空襲圏外に離脱を図る状況であったが、D部隊が敵と接触した以上、付近に別の敵船団がいる可能性が大きかったからである。(そしてキングの推測は正しく、独第2舟艇連隊の船団が北西に存在した)
だが、この決断は部隊を長時間に渡り敵の激烈な空襲下に晒し続ける事を意味した。あるいはキング少将は乗艦のナイアド、そして前日新たに加わった防空軽巡カルカッタとカーライルの実力を過大評価していたのかも知れない。
そしてこの時、ドイツ空軍はその大部隊を艦艇攻撃に振り向けることが可能となっていた。前日午後から陸上戦の攻防の中心であったマレメ飛行場は、輸送機ごと山岳兵部隊を送り込むという荒業により、この22日朝までにドイツ軍が完全に押さえることが出来るようになっていたのだった。飛行場に迫ったニュージーランド部隊の最後の攻撃も撃退された。クレタの戦況はドイツ軍にとって依然予断を許さないものの、ひとまず鍵穴をこじ開けることには成功したのである。あとは重装備と後続部隊を送り込むことであったが、その障害となるものがなんであるかはこの夜間に如実に示されたばかりだった。
クレタ最大の激戦、22日の戦況はこのような状態で幕を開けたのである。