20日の日中一杯、これら英海軍の哨戒部隊はクレタ島の南方海上に退避して空襲をやり過ごしていた。日中にイギリス軍の偵察により、ドイツ軍の海上部隊がクレタに向かいつつあるのが発見されたため、※1同日夕方18時、カニンガムは迎撃の為にキングのC部隊にカソス海峡を抜けてヘラクリオン北方の哨区へと向かう様に命令した。
ドイツ軍降下地点の一つであるヘラクリオンは守備隊の猛烈な抵抗によって降下部隊の攻撃が頓挫しており、苦境を打開するべくドイツ軍が海路増援部隊を上陸させる可能性が高いと予想されたからである。
22時に海峡に差し掛かったC部隊は、イタリア空軍機の夜間雷撃と、その後で海峡に張り込んでいたMAS魚雷艇6隻による襲撃を受けはしたが、全艦被害無くこれを切り抜けた。しかし、へラクリオンの沿岸沖で配置に就いたものの肝心要の敵船団は姿を現さず、結局21日の7時まで粘ったにも関わらず遂に夜明けを迎えて、再びカソス海峡経由で撤退を開始した。
後退中のC部隊に対して9時50分から13時50分まで、カルパソス島の航空基地を発進した独伊軍機による爆撃が繰り返された。ことに、「大司教の十字(パトリアルヘンクロイツ)」のマーキングを機首に描いたハイリンヒ・ブリュッカー大尉※2率いる第2急降下爆撃航空団第 飛行隊(III/StG2)のJu87編隊17機はD部隊を激しく攻撃した。しかし、この時点では艦隊側の対空砲火も熾烈で、ブリュッカー大尉の攻撃も軽巡エイジャックスに至近弾による軽度な損傷を与えたに留まった。
この日の攻撃で成功したのは珍しいことにドイツ軍ではなくイタリア軍であった。※3爆撃開始から約3時間、部隊がカソス海峡の南約80マイルの地点まで下がった13時に、カントZ1007bis5機編隊が水平爆撃のために上空へしのび寄り、投弾が開始された。
命中精度が低いのが相場の水平爆撃でこの攻撃は信じ難いほど正確であり、いきなり2発がC部隊の駆逐艦ジュノーを直撃した。後部缶室と機関室への被爆でジュノーは動力を喪失し海上に漂いはじめたが、止めの3発目の爆弾を弾薬庫に振舞われたのが致命傷となった。弾火薬庫への被弾は猛烈な爆発を惹起し、船体後半部は誘爆で粉々に吹き飛んだ。空中からジュノーを撮影した写真を見ると艦後半部は爆炎に飲み込まれており、その炎の中でジュノーは最後の爆発から僅か2分の間に轟沈したのである。僚艦の乗員はその光景をただ唖然として見つめていることしかできなかった。
5名の士官と113名の下士官兵が戦死したが、大爆発の中で6名の士官と98名の下士官兵が救助されたのは奇跡と言ってよい出来事だった。※4
かつてジュノーに救助された海軍航空隊士官搭乗員チャールス・ラムの観察によれば「キリッと緊った体格の、面白味など微塵もないような、典型的な駆逐艦乗りだった」と評された、しかし部下思いのジュノー艦長、英国海軍中佐セント・ジョン・ターホイット准男爵の生死は残念ながら不明である。※5
この攻撃はモラシュッティ大尉率いるイタリア空軍第50爆撃飛行隊によるものである。モラシュッティ大尉やブリュッカー大尉らの編隊が発進したカルパソス島の航空基地へは、この21日の夜明けまでにマック大佐の駆逐艦ジャーヴィス、ナイザム、アイレクスが艦砲射撃を加えていたものの、豆鉄砲の砲撃ではその活動を完全に封じ込めることは出来ていなかったのである。カントZ1007は見た目の映えない爆撃機であったが、この時ばかりは練達の爆撃手のお陰で目覚しい成功を収めたのだった。
このジュノーの沈没は、クレタ戦期間中、イタリア空軍機による唯一確実な撃沈戦果であると共に、英海軍にとってはこれから10日間続く艦艇の被害リストの、その最初の一隻として長く記名されることになる。※6
同日、長距離航空偵察により、駆逐艦に護衛された小型船の集団がミロス島からスダ湾に進行中との報告がもたらされた。これはクレタ防衛の可能性の為には阻止せねばならない存在であり、そして阻止することこそが水上部隊に課せられた本来の目的であった。
日没が迫る中、C部隊は東のカソス海峡から、B、Dの両部隊は西のアンティキティラ海峡からエーゲ海に入ろうとしたが、日が暮れきる前に、D部隊がペロポネソス半島の基地から出撃した前記III/StG2所属の中隊(先程とは別)からの攻撃を受けた。この攻撃も対空砲火により撃退され、Ju87の1機は対空砲弾の直撃によって機体を真っ二つにされ、もう1機は激しく被弾して陸地に到着する前に不時着水を余儀なくされた。煩い航空攻撃を振り払ったD部隊は今度こそ独伊群の輸送船団を一掃するべくマレメ沖合で待ち伏せた。