結果的に見て、空挺空輸攻撃の規模を過小評価し、海上経由の上陸作戦の規模を過大評価したことが、この後暫く続く海上の戦いにおいて、英地中海艦隊が危険を承知でクレタ島近海に踏みとどまろうとした大きな理由となる。
勿論空挺作戦の定石、及び過去の先例などを考えるならば、フレイバーグを始めとする多くの指揮官が、空挺部隊の降下は攻略作戦の尖兵に過ぎないと考えていたことは不自然ではないし、空挺部隊によって要地を確保した後、ギリシャ本土から水上輸送により重武装部隊を送り込んでくるものと予想を立てたことは極めて順当な発想といえる。現に、この予想は独伊軍が組み立てていた当初の侵攻計画とぴたりと合致していたのであるのだから。
そこに思い違いが有るとすればそれはただ一つ、それは、海軍部隊が敵の制空権下で自分の制海権を維持できるという、艦隊司令部よりさらに上の階層に蔓延していた妄執の一点に尽きるといってよいだろう。
この増援輸送の阻止を担う英地中海艦隊はこの時、大戦前半における戦力の一つの絶頂を迎えていた時期だった。クレタ戦の直前の時期に決行された地中海横断の大輸送作戦「タイガー」により※1、本国から船団の護衛を兼ねて送り込まれてきた戦艦クイーン・エリザベス。軽巡フィジー、ナイアドの増援を受け取り、更にマルタの分遣隊「K部隊」※2を引き払って戦力を東地中海に集中した結果、質量でイタリア参戦時を上回る兵力を保有するに至っていた。
陸上戦の支援及び沿岸の哨戒活動が主任務となること、それまでの主な敵であったイタリア主力艦隊に3月末のマタパン岬沖海戦以降出動の兆候が見られないことから、地中海艦隊司令部では保有部隊を小回りの利く小グループに分割し、クレタ島周囲へのパトロールと陸上支援任務に充当する方針を示した。
艦隊司令長官カニンガム大将自身は、クレタを中心とする東地中海全域で予想される複雑な状況に対応するため、司令部をそれまでの戦艦ウォースパイト艦上からアレクサンドリアの陸上に移して、指揮統制に専念することになった。
カニンガムの旧旗艦ウォースパイトには第1戦艦戦隊司令官H・B・ローリングス少将が新たに将旗を翻した。彼はこの他に戦艦ヴァリアント、及び護衛の駆逐艦4隻からなるA1部隊を率いて※3、万が一のイタリア大型艦の出動に備えてクレタ西方海上を遊弋し、併せてエーゲ海に侵入する味方の哨戒部隊の全般の支援も行うこととなった。
16日、B部隊及びD部隊はギリシャからのあらゆる敵からクレタを守るべく、島の北西の哨戒区域にむけてアレクサンドリアを出撃した。情報収集の結果により20日の侵攻開始の可能性を最も有力とみた地中海艦隊司令部は、20日以後数日間分の作戦行動を燃料面で確実なものとするため、18日に展開していた海軍部隊の大部分を給油の為に後退させることにした。B部隊のグロスターとフィジー、それにC部隊の各艦は警戒配置を解いて哨戒区域から離れ、給油地点のアレクサンドリアに向かったが、そこでは待機していたタンカー、ブランブルリーフから重油を受け取る作業をできるだけすぐに終えると、19日には早くも出港して再びクレタ島周囲の哨戒活動に復帰した。
この努力により、予想通り20日に攻撃が開始されたとき、イギリス海軍は以下の部隊をエーゲ海の掃討戦のために即時投入可能な体勢においておくことが出来たのである。
C部隊の指揮はナイアドに将旗を掲げる第15巡洋艦戦隊司令官エドワード・リー・スチュワート・キング少将(以下E・L・S・キングと略記)が、D部隊の指揮官としては地中海艦隊の駆逐艦全部を統括する駆逐戦隊司令部のアーヴァイン・ゴードン・グレニー少将(以下I・G・グレニーと略記)がダイドーに座乗することになった。※4E部隊の指揮官は3月のケルケナ沖海戦で大功を立てた第14駆逐隊司令兼旗艦ジャーヴィス艦長フィリップ・マック大佐である。
簡潔に言って、クレタにおける海上の戦いとは、英海軍がクレタ周囲の制海権を維持できるか(あるいは、「いつまで」維持できるか)、独空軍が英海軍のその意思を打ち砕けるか(あるいは、「どれだけ早く」打ち砕けるか)のせめぎ合いである。空挺作戦の「地上(この場合は海上)からの後続部隊の投入」という定石に従うなら、この海上での戦いは文字通りクレタ攻防戦の勝敗を分ける戦いになるはずであった。
そしてこれは、完璧な空対艦戦闘の形として、最強のイギリス海軍相手にドイツ空軍の実力を証明する、リヒトホーフェンやパイロットたちが長い間待ち望んでいた戦いでもあったのである。