ドイツ軍がクレタを落とそうというその理由は、裏返せばそのまま英軍がこの島を守ろうという理由として言うことができる。しかし、クレタ保持というイギリス政府首班の決定は、絶対的優勢を確保したドイツ軍制空権の下で、何が可能であるか、何が不可能であるかについての認識の不足をさらけ出す最たる例であったと評論されている。
ギリシャに派遣され、その敗退後クレタにいた英陸軍のメイトランド・ウィソン将軍は中東軍総司令官ウェーベルからこのクレタ死守について意見を求められたとき「もし陸海空三軍が十分な兵力を維持していくだけの覚悟を持たなければ、クレタの保持は危険な公約となるだろう」と答えた。
陸海空三軍。この中でもっとも現時点における状況が劣悪なのは間違いなく空軍であった。元々バトル・オブ・ブリデンに象徴される本国方面の戦局の逼迫により、およそ手薄極まりない状態でイタリアの参戦を迎えたイギリス空軍には、修理中の空母イーグルの航空隊や撃破された空母イラストリアスなどの艦載機を陸揚げするなどという苦肉の策による海軍航空隊機と合わせても、独伊空軍に対する数的劣勢は否めない状況にあった。
ギリシャにはジョン・H・ダルビアク空軍少将の英空軍派遣部隊約80機(ブレニム、ウェリントンなど)が海軍航空隊などと共に展開していたが、圧倒的な数の独伊空軍の前にすり潰され、ソードフィッシュ飛行隊(第815飛行隊)の如きは22機の陣容でギリシャに派遣されたにもかかわらず、クレタに撤退したときにはボロボロの8機、それも飛行可能なのは5機を解体して修理したつぎはぎだらけの3機だけという有様だった。
ウィルソンがクレタを保持する条件としてあげた「十分な」空軍など何処にも存在していなかったのである。第815飛行隊のこのことなど全体のほんの一つに過ぎない。他の部隊も状況は似たり拠ったりといってよかった。4月の第4週には第815航空隊のたった3機の残存機もエジプトに後退し、クレタにはヘラクリオンに空軍の戦闘機2個飛行隊、マレメに空軍と海軍の各戦闘機1個飛行隊が残存するばかりとなった※1
4月末の時点でハリケーン6機とグラディーエーター12機(空軍戦闘機隊)を数えるばかりに減少し、同様に疲労し数の減った搭乗員も、5月14日からドイツ空軍が強襲攻撃に先立って開始した連続航空撃滅戦で、手に負えない数の相手との戦いで次々と戦死した。5月19日には、遂に残存機はハリケーン4機とグラディエーター3機を残すまでに追い詰められ、クレタ防備の総指揮を取るフレイバーグの同意の元でエジプトに後退。これでクレタの守備隊はドイツ軍の強襲を戦闘機無しで迎え撃たなければならない事態となった。
フレイバーグも悪化の一途を辿るこの事態を放置していたわけではない。フレイバーグはこの島の防衛の可能性について重大な疑問をもっており、クレタを保持するには彼の手持ちの戦力は、とりわけ空軍について不十分極まりないという意見を率直に表明していた。フレイバーグは地中海方面英軍最高司令官ウェーベル元帥に航空機の増援を要請したが、3月末北アフリカで開始されたロンメルに逆襲によりトブルクを包囲されている現状下では、ウェーベルもクレタに追加の航空部隊を送る余裕は無いと回答する他なかった。だが、以上のような環境下に置かれながらもフレイバーグは、チャーチルに対しては空からの攻撃だけの場合は対処できると答えていたのである。
彼のこの返答もこの時点では決して理由の無いものとはいえなかった。実際、クレタの守備兵力はレールやシュトゥデント、そしてヒトラーが想定していたものよりも強力なものだったのである。全兵力は第4航空軍が準備した地上戦闘軍兵力を上回る4万2640名に達していた。その内1万0258名を占めるギリシャ軍の装備は悪く、また母国の降伏で戦意も低下していたかも知れないが、島の住民のドイツに対する反感は大きく、侵攻側が期待した島民のドイツに対する協力などは望めそうに無かった。
そして、恐らく侵攻軍側にとって最大の誤算は、英連邦本軍の士気の高さをあまりにも下算評価していた事であろう。オーストラリアやニュージーランド出身の剽悍な連邦軍将兵は、ギリシャ本土での連続の敗戦にも拘らず、依然として極めて高い士気をもったままドイツ軍を待ち構えていたのである。
野戦指揮官として優れた力量をもっていたフレイバーグは、ドイツ軍がクレタへの攻撃に空挺部隊を投入してくることを(恐らくそれが「全て」であるとは思っていなかったかもしれないにせよ)予期していた。この想定に基づいて部隊と陣地を配置し、更には対空挺戦闘の訓練すら実施させていた。
部隊の配置は西から、マレメにパティク准将(全体の指揮を取るフレイバーグの代理)指揮のニュージーランド第2師団の2個旅団1万1859名※2、スダ湾とカニアにはウェストン少将指揮の混成部隊(海軍歩兵など)1万4822名、レティモにはヴェイジー准将指揮のオーストラリア第19歩兵旅団6730名、へラクリオンにはチャペル准将指揮の英第14歩兵旅団8024名がそれぞれ配置についていた。これにフレイバーグはマチルダなどの戦車22輌(ただし、稼働率は非常に悪かった)、軽対空砲32門を保有していた。
しかし、島への侵攻が空と海の両方で同時に開始された場合、その状況は予断を許さないものになる可能性が高かった。波の静かな内海であるエーゲ海は小船舶による島伝いの舟艇起動が可能な海域であり、それを阻止するためには水上艦艇部隊による恒常的なエーゲ海の哨戒を必要とした。空挺部隊の侵攻を撃退することは可能であると思われていた状況で、クレタ防衛の可能性を左右するのは海上からの上陸の阻止に有ると思われたのである。
要するにクレタを維持するという政府の決定は、暗黙のうちに500機以上のドイツ爆撃機が夥しく密集する基地の鼻面で、戦闘機の全くない艦隊が随意の活動を持続できるという信念があったことを意味している※3
地中海艦隊司令長官カニンガム大将は艦隊の置かれた困難な状況を良く認識していた。彼も最も必要とする航空機の増援を上部に要請したが、返答は無かった。特に切り札とも言える唯一の空母フォーミダブルは、搭載機を陸上に派遣していたために、クレタ侵攻が間近に迫ったこの時にも戦闘機がフルマー4機しか残されていなかった。このため艦上戦闘機の集結が済むまではフォーミダブルの戦線投入は不可能な体勢だったが、地中海艦隊の果たさなければならない任務は今や明らかであり、カニンガムは16日から水上部隊をクレタ島周囲のパトロールに送り込んでいた。
5月20日を迎えたときには、その巡洋艦と駆逐艦は既に数日の間、航空機の活動できない夜間はエーゲ海からクレタに至る海路の掃討に従事し、昼間は敵の(水上)部隊に襲撃される怖れの無いクレタ南方海上に引き下がるという往復活動をひたすら繰り返していたのである。