メルクール

−独伊軍の侵攻計画−

4月15日〜5月20日

『マリタ』作戦におけるドイツ地上軍の進撃を支えたのが、元オーストリア空軍司令官のアレクサンダー・レール上級大将が司令官を努める第4航空軍の圧倒的な航空優勢であった。そして『マリタ』作戦開始時約1000機だった第4航空軍の内、実に600機の兵力を保有していたのが、ドイツ空軍きっての近接航空支援戦術の専門家として知られたヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン大将の第8航空軍団である。「コンドル」部隊の第2代参謀長、そして3代目の司令官を努めた彼は、ドイツ空軍の地上支援戦術の実質的な開拓者でもあった。リヒトホーフェンは次のクレタの戦いにおける、ドイツ空軍の二人の主役の片方として、この作戦に重大な役割を果たすことになる。

ドイツ軍のクレタ島攻略作戦計画が始めて俎上に乗せられたのは、まだギリシャ本土で陸戦が続いている4月15日のことだった。作戦の立案者は当時ドイツに置かれていた第11航空軍団(降下・空輸部隊)司令官クルト・シュトゥデント大将で、計画そのものは第4航空軍司令官レール上級大将とシュトゥデント大将の両者から空軍最高司令官ゲーリングに提出された。

作戦計画書を受け取ったヒトラーは、速やかにクレタ攻略を達成し、作戦参加部隊が準備中のロシア侵攻作戦に間に合うよう任務を切り上げるという条件で、海・空軍の参謀本部にも相談せずに作戦決行を承認した。

ヒトラーの脳裏にあったのは、英軍がギリシャを撤退しても、クレタ島を確保できる限り東地中海の制空、制海権を維持することができ、同時にバルカン半島への侵攻(反攻)作戦の脅威を常に突きつけておくことで、彼の大事なバルバロッサ作戦から兵力を引き抜いて縛り付けにできるという不安だった。

それだけではない、クレタの飛行場に英空軍が長距離爆撃機部隊を進出させれば、ルーマニアにあるドイツの石油資源の生命線・プロエシチ油田が危険に晒される。「戦争経済」という言葉には敏感に反応するヒトラーにとってしてみれば、喉下に匕首を突きつけられているに等しい気持ちだったに違いない。

なにはともあれ作戦計画は裁可された。シュトゥデントの立案した作戦はそれまでの正攻法といえる陸海空三軍共同のものではなく、自己の圧倒的な航空優勢を利用して空挺降下により一気にカタをつけようという極めて野心的、かつ冒険的なものだった。もっともこれは故ない事とはいえない。

洋上にあるクレタを攻略するには正攻法では海路からの侵攻線を形成する必要があった。その場合当然ながら海上作戦の主役を努めるのはイタリア海軍ということになるが、しかしながらイタリアには敵前強襲上陸という概念すらなく、ましてやそれ以前に現在のイタリア海軍にクレタ島周辺の制海権を奪取して、大型輸送船を送り込める状況を作り出しうる筈もなかった。

彼らは『マリタ』作戦に先立って開始されたギリシャ向け交通線攻撃の出動※1でイギリス海軍に大敗しており(マタパン沖海戦。重巡3隻と駆逐艦2隻を一挙に喪失した)、現状の旧式改装戦艦2隻※2だけで戦艦4隻と空母を保有する地中海艦隊(後述)に勝てる見込みは絶無に等しかったのである。

そしてなにより、ドイツ側には時間の猶予が乏しかった。バルバロッサ作戦はこのバルカン進行の為に既に1ヵ月延期されており、ソ連側の兵力増強と防諜の問題を考えるならばこれ以上の延期は最早不可能だった。『バルバロッサ』作戦の主役を務める陸軍の貴重な装甲部隊を、クレタで海没の危険に晒すことなど論外であったし、どだい移動に手間の掛かる装甲部隊をこれ以上バルカンに関わらせる事などできない相談だった。かといって指揮系統の違うイタリア陸空軍と協議し、しり込みするイタリア海軍の尻を叩いて、その戦力が充実するのを待って実施していられるような状態ではなかったのである。事は急がねばならない、侵攻計画が完全にドイツ空軍主導で組み立てられていたのも無理なからぬ話しだった。

クレタ島侵攻、『メルクール』という名称を与えられたこの作戦の総指揮を取るのは第4航空軍司令官レール上級大将である。彼の第4航空軍は隷下の三つの大部隊により構成される。第4航空軍の中核戦力をなし、従って今回の作戦における攻撃戦力の主攻を努めるリヒトホーフェン大将の第8航空軍団、4月末にマルタ爆撃を打ち切って増援として投入されてきたハンス・ガイスラー大将の第10航空軍団所属機(第8航空軍団指揮下で行動)、そして今回の侵攻作戦の計画者であり、また主役でもあるクルト・シュトゥデント大将の第11航空(空挺)軍団の以上である。

リヒトホーフェンの第8航空軍団はこの『メルクール』に作戦航空兵力650機の兵力で臨んだ。主力を占めるのは双発の爆撃機部隊であり、第2爆撃航空団(Do17三個飛行隊)、第1教導航空団(Ju88二個飛行隊とHe111一個飛行隊)。リヒトホーフェン虎の子の急降下部隊、第2急降下爆撃航空団(StG2)。制空権確保の為の戦闘機部隊には、第77戦闘航空団(Bf109三個飛行隊)、第26駆逐機航空団(Bf110二個飛行隊)があったが、既にクレタ方面には極少数の英戦闘機が残存していただけであり※3、それも降下開始前日の19日までに殲滅された※4。この作戦の期間中ドイツ空軍はBf109を取り付けられていた爆弾懸架装置を活用して戦闘爆撃機として使用した。他に偵察飛行隊2個を保有している。

ガイスラーの第10航空軍団から送られてきた兵力については定かではないが、第26爆撃航空団(He111。飛行隊数不明)、第30爆撃航空団(Ju88。第II、III飛行隊の参加は確実。第I飛行隊は不明)が確認されている。

シュトゥデントの第11航空軍団は増強された第7航空師団(落下傘降下部隊3個連隊と強襲グライダー部隊1個連隊)に各種の空挺支援部隊(工兵、対空砲兵、救急)各数個大隊を加えた約2万5000名が地上戦闘部隊であり、これだけを輸送するために10個輸送飛行隊からなる第1輸送航空団※5、および偵察飛行隊1個中隊の航空兵力があった。

更に彼の指揮下には臨時に、第6山岳猟兵師団の一部兵力で増強された第5山岳猟兵師団、戦果拡張の切り札として第5機甲師団から抽出された2個大隊(第31装甲連隊連隊第II大隊、第55オートバイ兵大隊)が付属された。これらは空挺部隊が要地を確保後、後続の第2波兵力として空路、海路の両方から決定的局面で投入される予定であった。

レールはこの他第4航空軍直轄の部隊として第4爆撃航空団第2飛行隊(II/KG4。Fw200装備。主にスエズ運河に対する機雷敷設を担当)と第126海上偵察飛行隊(SAGr126。Ar196装備)を保有している。

作戦開始に当たって用意された航空機数については以下を参照されたい。

  • 第8航空軍団
    双発爆撃機228機(He111)
    4発爆撃機18機(Fw200)
    急降下爆撃機205機(Ju87)
    戦闘機114機(Me109)
    駆逐機118機(Me110)
    第11航空軍団
    輸送機527機(Ju52)
    グライダー58機(DFS230)
    (J・ローワー「Chronik Seekrieg 1939-1945」収録の
    「Karten von Leopold Vrba Kreta. Invasion auf Flugeln. Moewig: Rastatt 1985」)
  • 第8航空軍団
    爆撃機228機
    急降下爆撃機205機
    双発戦闘機114機
    単発戦闘機119機
    偵察機50機
    合計716機
    第11航空軍団
    輸送機500機
    グライダー72機
    (ドナルド・マッキンタイア『海戦』)
  • 第8航空軍団
    爆撃機280機
    「シュツーカ」150機
    Bf109(戦闘機)90機
    Bf110(駆逐機)90機
    各種偵察機40機
    第11航空軍団
    Ju52約500機
    DFS230型グライダー約100機
    (S・W・ミッチャム『ドイツ空軍戦記』)

実際に決定された『マリタ』作戦の骨子は、レールとシュトゥデントの提案の折衷案で、マレメ、レティモ、へラクリオンの三箇所の飛行場と、島の官庁府があるカニアを奪取することが作戦の柱とされていた(全て島の北岸)

この4箇所に対する空挺攻撃は、作戦開始日の午前中にマレメ、カニア(島の西部)へ、午後にレティモ、ヘラクリオン(島の中央部と東部)への二派に分かれて実施するように計画された。これは後続の部隊に奇襲の要素を失わせる決定だったが、ドイツ空軍が動員できる輸送機戦力の限界(全部隊を一度に降下させるのには2000機が必要とされたが、実際に集めることが出来たのは500機に過ぎなかった)と、リヒトホーフェンの第8航空軍団機による地上支援攻撃を集中して投入するためにはやむを得ない措置であった。

上記の通り、攻略作戦の近接航空支援はリヒトホーフェンの第8航空軍団が全面的に担当する。無防備な輸送機部隊の目標上空への到達を安全なものとするため、落下傘降下とグライダー強行着陸が開始される前に、在地の英軍戦闘機部隊を事前に撃滅することが求められていた。事前攻撃は14日から連続五日間に渡って続けられ、この期間の戦闘で在クレタの英戦闘機隊はほぼ壊滅した。

空挺部隊の降下開始後は、広域に展開している英軍部隊の飛行場周辺への集結を阻止し、飛行場周辺部を孤立化させる。次に、空挺部隊が確保した橋頭堡に対して増援部隊、火砲、重装備を輸送するため、ギリシャ本土からミロス島を経由して行われる海上輸送路の進路の啓開、より具体的には迎撃に当たってくる英海軍部隊の撃破が求められていた。

最終段階ではより広意の阻止攻撃として、エジプトからクレタに送られる英軍増援部隊を海上で航空攻撃により撃退する事であったが、これは後述する。

クレタに対するもう一方の矢、海上からの侵攻について独伊両海軍の部隊を統括して指揮するのは、ドイツ海軍南東戦域司令長官カール・ゲオルグ・シュスター大将である。シュスターの下にあったのは、現地で徴用した小型船およそ60数隻と、その母船となる7隻の輸送船。護衛にはイタリア海軍のエーゲ海に展開している部隊、駆逐艦2隻と水雷艇12隻、それに魚雷艇や掃海艇など十数隻の兵力であった。

船団は大きく2波の悌団[第1舟艇連隊と第2舟艇連隊]を形成し、ひとつが21日にマレメ付近に上陸、もうひとつがそれから24時間遅れて22日にヘラクリオンの海岸に上陸する予定であった。船団が輸送するのは増援の陸戦兵力だけではなく、空輸された部隊が必要としている重火器、弾薬食料などの補給品などであり、それらは速やかなる陸揚げと配布が望まれていたものだった。

前記の事情から、これだけの大作戦にも関わらずイタリア海軍の果たした努力は限定されたものであり、実際に船団の護衛に動員された水上艦艇は第1、第16水雷艇隊の水雷艇、MAS魚雷艇4隻、掃海艇13隻に過ぎなかった。

ほかに10隻の潜水艦がクレタを巡る作戦に投入され、アレクサンドリアとクレタの間の海域にトリケーコ、フィザリア、トパツィオ、アデュア、デッジエ、マラキーテ、スクアロ、スメラルド、シレーナの9隻が配置され、ネレイーデだけはクレタ島北岸沖に回りこんで英海軍を待ち構えた。しかし、この点にだけ結論を先に言ってしまうならば、5月19日から6月2日のクレタ戦期間中、これらの潜水艦は全く戦果を挙げることなく終ってしまったのである。

降下開始の前日の5月19日、それらの船団のひとつがピレエウスの港を出港した。この船団は21隻の小艇を含んでいたが、急募だけに出発早々7隻が機関故障の為に港へ戻らざるをえなくなった。

この船団には第100山岳猟兵連隊の第III大隊と空軍地上員、及び必要器材など2331名が乗船していたが、護衛と嚮導を兼ねるイタリア水雷艇シリオの右舷スクリュープロペラが破損し、同艦は第16水雷艇隊の旧式艦クルタトーネと交代することになった。ピレエウスを出たクルタトーネは先発していた船団に追いつこうとしたが、日付が20日に変わった後、まだ船団と合同しない内にアテネ湾内で機雷に蝕雷してしまった。

アテネ湾は以前にはドイツ軍がイギリス軍の輸送、撤退活動を妨害しようと機雷を敷設していたし、イギリスが撤退する番になると今度はイギリス軍がドイツ軍の港湾使用を封じ込めようと敷設を続けていた、いまやアテネ湾は機雷で満ち溢れた海になっていたのである。

古めかしいスタイルのクルタトーネは爆発に艦底部を食い破られて沈没し、結局巡り巡ってフランチェスコ・ミンベリ少佐が艇長を努める水雷艇ルポが、シリオとクルタトーネに代って船団をクレタ島まで案内する任務に当たることになったのである。

『メルクール』作戦には大規模な兵站補給の準備が必要であった。このため実際の攻撃開始は5月の第3週まで待たざるをえなかった。何しろ第11航空軍団が必要とする航空燃料だけでも79万2000ガロン(約356万リットル)もの莫大な量にのぼり、これに第8航空軍団が必要とする分だけの航空燃料と弾薬を、戦火で踏み荒らされたバルカンの道路と鉄道で運ばなければならなかったからである。平時でも大混乱を引き起こすこと必至の難作業がなんとか終了し、第11航空軍団の航空部隊も16日には移動と集結を終えて、降下作戦開始は5月20日と最終的に決定された。

※1
『マリタ』作戦に呼応する、敵戦線後方への阻止攻撃としてドイツがしつこく要請していたものである。この作戦に先立ちドイツ空軍は「3月16日に雷撃機の攻撃で英戦艦2隻を撃破した」と根拠のない報告でイタリア側を混乱させ、結局上記の敗北に至らしめたことは周知の事実である。このような前科がクレタ戦に関してイタリア海軍が終始積極的な姿勢を見せなかった理由の一つとして、まず間違いないものと思う。なお、英艦隊がその保有全力を東地中海に集中した間隙を突いて、イタリア海軍がこの期間中に中部地中海で活発にトリポリ向け輸送を実施していたことを述べておく
(ドナルド・マッキンタイア『海戦』及び、J・ローワー「Chronik Seekrieg 1939-1945」より)
※2
カイオ・ジュリオ・チェーザレとアンドレア・ドリア。これにタラントの損傷の修理を3月末に終えたばかりのリットリオを強引に戦列に加えても、ウォースパイト、クイーン・エリザベス、ヴァリアント、バーラム、それに空母フォーミダブルを擁する英艦隊の優位は動かない。加えて4月にトリポリ向け枢軸船団が英駆逐隊に襲撃され全滅した事件から(ケルケナ沖海戦)、以後の船団にはイタリア巡洋艦・駆逐艦複数の厳重な護衛が施されるようになっており、これが即応投入可能な巡洋艦、駆逐艦の数量の面で大きな制約となっていた
※3
クレタにおける英軍の戦闘機戦力については『ドイツ空軍戦記』、『海戦』の双方に記述がある。それぞれ要約すると、『ドイツ空軍戦記』ではギリシャから消耗して後退してきた四個飛行隊の残存戦力で、空軍のハリケーンとグラディエーターに海軍のフルマーの合計24機。その内半数は稼動状態になかったとしている。『海戦』では、イラクリオンとマレメに英空軍の3個中隊と海軍航空隊の戦闘機1個中隊が展開。4月下旬までにハリケーン6機とグラディエーター12機に減少した段階でドイツ軍の航空事前攻撃(14日〜)を迎えたとされる。飛行隊=中隊のことと思われるので、空軍の戦闘機飛行隊3個にはハリケーン6機とグラディエーター12機(各飛行隊に平均6機づつ)と、海軍の戦闘機飛行隊1個にフルマー(機数は上記文から単純に推測すると6機)が5月中旬のクレタ英戦闘機部隊の戦力であると思われる
なお、『雷撃』を読む限りではマレメが主に海軍機の基地として使用されており、へラクリオンが空軍機の使用飛行場のようである。同書にはマレメで海軍戦闘機隊の指揮を取っていたアラン・ブラック少佐という人物が登場しており(4月末の時点)、恐らく彼がフルマー戦闘機隊の隊長であろう
※4
19日の時点で僅かにハリケーン4機とグラディエーター3機だけが残存。この残存機はフレイバーグの同意を得た上でエジプトに後退させられた
(ドナルド・マッキンタイア『海戦』)
※5
学研編「ヨーロッパ空挺作戦」より。なお輸送航空団の正式名称は「特別任務爆撃航空団」(部隊略記号KGzbV)
◆飛:
あのー、ひとついい?
◇烈:
ん、なんじゃらほい?
◆飛:
上のドイツ空軍の編成、もっと判り易いのは無いの?このままじゃ凄く判り難い‥
◇烈:
そう言うと思った(笑。実はちゃーんと用意してあるんだ
◆飛:
え?
◇烈:
ここの下のほうにちゃんとあるぞ。飛行隊までのレベルでな
http://jodiecon.org/articles/crete99/OB/OBGermanAll.php
◆飛:
…なんか、上に書いていたことと全然違いますよ?
◇烈:
文句はミッチャム先生に言おうね。イタリア空軍のOOBも用意してある。
http://orbat.com/site/history/historical/italy/italycrete1941.html
◆飛:
だったら、最初っから出しなさいよーーっ!!
◇烈:
や、やめ…ぐはっ(吐血
◆飛:
まったく、定説はあるけどホントはあんまり正しくないんだぞ、と言いたいのならもっと素直に言えばいいのに。
◇烈:
イテテ…単に書いた後に上のを見つけたわけで(脂汗
◆飛:
で、機種別の全体数はどうなんですか?
◇烈:
ここの中段にあるから見ておいてね。
http://jodiecon.org/articles/crete99/GermanCOBriefing.php