ギリシャが第二次世界大戦に巻き込まれたのは1940年10月28日のことである。戦前の38年にイタリアに併合されていた旧アルバニア領から、イタリア第9軍、第11軍合わせて15万の大兵力がギリシャに侵攻してきたのだ。ギリシャの独裁者メタクサス首相は数ヶ月前からのイタリアの露骨な挑発行為※1に対して全軍を既に厳戒態勢に入れており、案の定てぐすねひいて待ち構えるギリシャ軍にイタリア地上軍の攻勢は頓挫し、逆にアルバニア領内に押し返される始末であった。
ドイツはイタリアこの突然の行動に至極迷惑なものを感じていたが、かといってイタリアのこの危険な火遊びはドイツが放置して置けるものではなかった。ギリシャにイギリス軍が介入すれば、対ソ侵攻計画「バルバロッサ作戦」を側背から衝かれることになる。とてもソヴィエト侵攻どころではなくなる。
強迫観念に駆られたヒトラーは12月にドイツ軍によるギリシャ侵攻を決意する。しかしこのとき、実際にはメタクサス首相はイギリス軍の介入には消極的であり、現に翌41年1月初頭にチャーチルの支援受け入れを拒んでいた。
理由は上の逆、すなわちドイツ軍介入の言質を与えない為だったが、その努力はとっくに彼の与り知らない所で無駄なものになっていた。メタクサスはこの直後に急死したのだが、事態が既にギリシャ単独では如何ともし難い事情に陥っていることに気付いたのか、彼は臨終の床から即刻イギリスに支援を求めるように口にすると共に、「この戦いに勝たなければ、ギリシャの女たちは二度と踊ることはできない」という劇的な言葉を遺して息を引き取った。
後継内閣はイギリス軍の受け入れを表明し、イギリスはオーストラリア第1軍団(オーストラリア第6歩兵師団、ニュージーランド第2歩兵師団)、第1戦車旅団、第2機甲師団を北アフリカから引き抜いて、クレタ経由海路でギリシャの戦線に投入した(海空軍の航空部隊も順次投入、約80機)。
3月25日には独伊との同盟が予定されていたユーゴスラビアで政権が転覆された。ドイツ軍はバルカンへの侵攻を、背信したユーゴスラビアへの懲罰も兼ねて大規模に行うことになり、対ソ戦に用意した部隊の一部(第2軍、第12軍、第1装甲集団)をこの方面に投入する事に決定した。
4月6日に開始されたユーゴスラビア侵攻は、多方面から同時に侵攻することで抵抗を一気に粉砕した。第4航空軍による圧倒的な航空優勢の下、電撃戦の典型ともいえる速度でユーゴ領内を突き進んだドイツ軍は、17日には早くもユーゴスラビアを降伏に追い込んだ。
ギリシャへの侵攻は、戦い慣れたギリシャ軍と英連邦軍の存在によりユーゴスラビアほど容易ではなかったが、ブルガリアとアルバニア国境付近に兵力を集中していた防衛側の裏を突き、間隙のユーゴ領南部を迂回したドイツ軍右翼の突破で一気に戦線が崩壊した。退却したギリシャ・英連邦軍はペルシア戦争以来の要害テルモピレーでドイツ軍を阻止しようとしたが、24日にこの最後の防衛線も突破され、防衛軍は総崩れの態勢となった※2。
テルモピレー陥落前の22日、英連邦軍のギリシャからの撤退が決定されていた。兵員撤収作戦には「デーモン」という名称が与えられ、ギリシャ南部沿岸の諸港※3より、巡洋艦や駆逐艦、輸送船から果てはトルコ軽舟からモーターボートにいたるまでありとあらゆる船舶を動員して兵員の収容が開始された。
作戦指揮官はクレタ島のスダ湾陸上に司令部を置く海軍のプリダム・ウィッペル中将である。英海軍だけで※3軽巡7、駆逐艦20、スループ3、上陸作戦艦2、そして中型の輸送船19隻が用意され、これに更にギリシャ海軍の駆逐艦や水雷艇と雑多な小船舶が投入された。
本格的な撤退作業は24日から開始され、夜陰に紛れて海岸に接近した艦船は午前3時までに積み込みを終り、それから急いで外洋に出て行った。というのもドイツ軍は地上軍の急進撃に航空部隊の基地展開が追いつかず、航空機が行動できる夜明けまでに船舶に沖合に逃げられては、航続力の短いドイツ軍機には手出しできなかったからである。
しかし、撤退作業もそう何時までも上手くはいかず、ドイツ軍が基地を前進させて空襲までの間隔が短くなり、更に追い詰められ統制がきかなくなった兵士の混乱により作業が混乱すると、打ち切り時間を過ぎても沿岸から離れられなかった艦船に損害が続発するようになった。
典型的だったのが輸送船スラマト号の事件で、27日の朝4時15分まで海岸から離れられなかった為、夜明けにドイツ軍機に沈められてしまい、乗船していた大量の兵士が海に投げ出された。駆逐艦ダイアモンドとライネックが救助に赴き、爆撃を冒してその内の700名までを助け出したが、スダ湾にとって返すまでに今度はこの2隻が急降下爆撃機に撃沈されてしまった。この2隻から助けられたのは将校1名、乗組員41名、それに陸兵8名の50名で、駆逐艦の乗員を合わせた残りの約900名以上の全員が戦死してしまうという大量の犠牲者を引き起こしてしまった。
それでも5月1日までに海軍部隊は、ギリシャに投入された英連邦軍のおよそ8割に当たる約43000名と、ギリシャ軍残存を含めた総計50732名の将兵を撤退させ、「デーモン」作戦を終了した。大半がエジプトに後送されたが、およそ16000名が絶対死守を要求されていたクレタ島の防衛に新たに充当されることになった。
ギリシャからの撤退戦で英・ギリシャ海軍は駆逐艦6、水雷艇4※4、英国籍の輸送船4※5、ギリシャ籍その他23隻以上、そして病院船2を喪失した。ダンケルクに較べれば少ない損害であると言えたが、それは比較する対象があまりにも大きな損害を出しているので、これが少ないという事にはならない。いずれにせよ敵制空権下で作戦を強行する場合の損害の大きさを知るには十分な証拠であったが、英海軍(の上層部と政府首脳)はこの事実を重大に捉えることなく次のクレタ戦に突き進み、そして破滅的な大打撃を蒙るのである。