クレタはアテネの南南東290キロの位置にある海上の奇観である。東からロードス、カルパソス、クレタ、アンティキティラ、キティラと続く弧状列島線を形成し、小アジア半島とギリシャ本土をいくつかの水路を隔てて繋げている。その水路の中でも特に大きいのが、カルパソス島とクレタ島東端の間のカソス海峡、クレタ島西端とキティラ島の間のキティラ海峡の二つで、これがエーゲ海と地中海を繋ぐ通路として、外海と出入りする大型船は基本的にここを航行することになっていた。
一方、弧状列島線の内側にあるエーゲ海は波の比較的静かな内海となり、これが古代のギリシャ世界を支えた舷側の低いガレー船や小型帆船の活動を容易ならしめていた。ガレー船は今では使われなくなったが、帆船や小型の動力舟艇は現在も1941年のこの時も、エーゲ海の水上交通の主流として広く使われていた。
島は全体として東西に細長く(約260キロ)、南北に短い(最大56キロ、最狭部10キロ)。地形は全体として山岳地形であり、島の形と同じように東西にかけていくつかの高峰が並び立っている。クレタ島は火山島であるため、山の岩肌はごつごつとした花崗岩の岩塊で、灰色と茶色の岩石に裂け目が生じている光景が、傾斜の急な南岸では海まで延々と続いている、冬場には山頂に雪を被っている光景は神秘的ですらあり、ここを訪れる初めての人間には近寄りがたいものを感じさせていた。
島の最高峰はイダ山(2456m)、この山には古代ギリシャの最高神ゼウスが誕生し、山の洞窟で育てられたという伝説が語り伝えられている。
この島が抱える最大の問題は水資源の不足であった。この島は典型的な地中海性気候に属しており、冬場は降雨により、春は山の雪解け水により比較的水を確保しやすかったが、気候が急激に乾燥する夏場から秋にかけては水の確保が最大の問題であった。井戸を掘ろうにも、この島の北岸にある平地はいずれも火山灰の厚い堆積によってできた地形であり、まるで血のように赤い赤土が湧水の露出を困難なものとしていたのである。
そして5月にここが戦場となったとき、土は乾ききって細かな砂塵が濛々と舞い上がり、兵士達はこの砂塵の中で手探りで敵とぶつかっていった。クレタ地上戦の写真で砂埃が舞い上がっている写真が多いのはこのためである。
この地形上の特徴のため、島の北岸と南岸との間の交通はいくつかの縦貫道路を除けば全体として不便であり、北岸は良港(スダ湾、モラオイ湾)に恵まれ人口も集中しているのに対し、南岸は港に乏しく人口も少ない。島の官庁府も北岸西部のカニアにあった。
この島は文明揺籃の地エジプトの北西、ギリシャと小アジア※1を繋ぐ市にある立地上、アフリカとヨーロッパ、アジアの三世界を結ぶ古代の重要なターミナルだった。温暖な気候に恵まれた土地は交易活動で栄え、ミノス文明といわれる海洋文化的色彩の強い社会を育んだ。そこにあった王宮跡に外周を囲う城壁が存在しなかったように、古くは開放的で闊達な、平和な島でもあった。
西方文明の中心世界がギリシャからローマへ、そしてさらに北へと移り変わり、この島はビザンチン人の、次いでヴェネツィア人の有する所となり、東方に勃興したイスラム諸勢力との間で、目立たぬながらも交易関係は続けられていた。やがて西方ヨーロッパ世界は大西洋航路から新大陸への道を開き、さらに喜望峰経由でインドへの道が開かれるようになると、オスマン・トルコの領土となっていたこの島はヨーロッパ的な通商のターミナルから除かれ、やがて神話の世界だけを残して人々の記憶から忘れられていった。
この島にある数多い神話の中でも有名なのが半牛人ミノタウロスの伝説である。実在したクノッソス宮殿をモデルにしたと思われる迷宮の中で、神の怒りに触れ、半牛の魔人として生まれた男が生贄として捧げられた人間を餌食としていく物語で、ごくありふれた伝説潭として知らないものは居ないと言っていい。しかし、この戦いの全てが終ったとき、英・独・伊・ギリシャ、それぞれ立場が違えど、クレタという島そのものをクノッソスの迷宮、あるいはミノタウロスの怪物になぞらえた者がいるかもしれない。
それほどまでに、これから12日間、夥しい人命が失われると共に、クレタの地上には流血が滲みこみ、海上では多くの船が呑まれていくからである。