クレタ島西部北岸、スダ湾はカニアとは括れた半島を挟んで背中合わせの位置にある。ここは良好な泊地で、おまけにギリシャとエジプトを結ぶ航路の中間にあるという絶好の立地にあり、イタリア軍がギリシャに侵攻を始めた前40年10月末から、ギリシャ軍の支援にエジプトから送り込まれる英連邦軍の輸送船団の中継点として、また英地中海艦隊が巡洋艦部隊を派遣して航路警戒に当たらせる際の重要な拠点であった。
41年3月末には、このエジプト〜ギリシャ間航路を切断しようと長躯クレタ島南岸沖にまで進出してきたイタリア艦隊を、このスダ湾から出たプリダム・ウィッペル中将率いるイギリス巡洋艦部隊がいち早く要撃して、味方の地中海艦隊主力を誘導。最終的にマタパン岬沖の夜戦として知られるこの海戦を成り立たせる上で、これ以上ない働きを示したのだ。
当然のことながら、目障りなこのスダ湾のイギリス巡洋艦部隊を排除しようと、イタリア軍も早くからここに対する攻撃を散発的ではあるが繰り返していた。40年12月の3日にはイタリア空軍のSM79が単機でスダ湾に突入し、そこに停泊していた巡洋艦グラスゴーに抱えていた2本の魚雷を命中させた。被害は甚大で、グラスゴーは修理のためにシンガポールで翌年の8月一杯までドック入りする程の深手を負ってしまった。
イタリア軍はほかにもこのスダ湾でもう1隻の巡洋艦に大打撃を与えていた。それがヨークである。
ヨークはイギリス8吋砲搭載巡洋艦の中でも最末期に建造された艦である。4基搭載するのが常であった主砲塔を、建造費圧縮のために3基しか搭載していないことが最大の特徴で、このためヨークとその準同型艦エクゼターは、それまでの3本煙突の優雅なスタイルとは異なる、太さの異なる2本煙突という若干寸詰まった感じを人に与える艦容になった。
結局なりが小さいだけで建造費の大した削減にならなかったヨークは、艦隊に就役した後もいささか中途半端なクラスとして、あまり高い評価を受けることは出来なかった。しかしそれはそれ、設計云々の下馬評を差し置いた活躍を見せるのが実戦というものであり、エクゼターはここで改めて述べるまでもないラプラタ沖の海戦で、11吋砲弾の乱打に耐えながらポケット戦艦シュペーと渡り合ったのはつとに有名である。
ヨークの艦長を務めるのは面長で鼻筋の通ったレジナルド・ヘンリー・ポータル大佐である。若い頃には空母イーグルやフューリアスの飛行指揮官などをこなしたこともあり、航空肌の士官だった。その辺りは兄と似ている。※1
ヨークは開戦以来、そのポータル艦長の指揮の下で大西洋の通商破壊船の捜索などに従事していたが、40年9月に喜望峰経由で地中海入りした。この新しい戦場でヨークは、第3巡洋艦戦隊の一員として東地中海を中心に活動し、10月のパッセロ岬沖海戦※2においてイタリア駆逐艦アルティリエーレの止めを刺し、11月のタラント奇襲における空母イラストリアスの直衛を務めるなど、随所にめまぐるしく駆け回って活躍した。
ヨークの活動の根拠地もやはりスダ湾であった。しかしマタパン沖海戦の生起を目前に控えた3月の26日夜、同湾に停泊していたヨークは突如大振動とともに持ち上げられ、乗組員は寝台から跳ね飛ばされると共に、船腹に大穴が開いて艦内に海水がなだれ込んできた。港外に忍び寄っていたイタリア駆逐艦から発進したイタリアの爆装突撃艇※3が奇襲をかけてきたのだ。
これは第10MAS戦隊と呼ばれたイタリア海軍の特殊部隊で、爆薬を搭載した小型のモーターボート(MTM艇)に一人が乗り込み、艇を目標に定針させたところで搭乗員が脱出する一種の特攻艇である。300キロの爆薬は艇が舷側に当たると水中に転がり落ち、そこで炸裂する。
ヨークは2隻に体当たりされ、後部の水線下に2箇所も大穴をあけられて、機関も破壊されてしまった。後甲板が波に洗われるほど沈下したヨークは沈没を避けるため湾内の砂洲に乗り上げるのが精一杯だった。−そこが終の場所となるのも知らずに、である。
被害判定ではヨークの修理には5ヶ月を要する見込みとされた。擱坐した船体を引き出そうと救助作業が開始されたが、海水を飲み込んで一万トンもの重さになった物体を離礁させるのは容易なことではなかった。電気の止まった艦を離れ、陸上でテント暮らしを始めたヨークの乗組員にとって気がかりだったのは、ドイツ軍が艦の離礁までにこの島に攻めてこないかということだった。
ヨークが擱坐している間にも戦局は激変し、4月の頭に開始されたドイツ軍の「マリタ」作戦はバルカンを席巻していた。ここスダ湾を経由してギリシャに向かった英連邦軍も今や追われる身になり、装備も物資も置き去りにエジプトへ、そして一部はこのクレタに落ち延びてきたのだ。それは否が上でもヨークの乗組員にこの島が侵攻の脅威に晒されていることを肌身に感じさせた。
もし侵攻が始めればどうなるか?そうなったら彼らまだ救えるこの艦を捨てるほかないのだ。ひょっとしたら丸ごと敵に捕獲されてしまうかも知れない。それは戦闘で沈められるより屈辱的なことだった。
しかし現実には、事態はヨーク乗組員が恐れているまさにその方向へ進もうとしていた。ギリシャ本土からの撤退活動「デーモン」作戦を終えた巡洋艦部隊は、今や最前線となったスダ湾から本拠地のアレクサンドリアに退いてしまった。最前線に大型艦を置きっぱなしにしておくことほど馬鹿げたことはない、空襲を受けるのは判りきったことだからだ。
今やスダ湾には身動きの取れないヨークに掃海艇ウィドネスなどの小艦艇、ドイツ軍を迎え撃つ第10MBT艇隊の魚雷艇と、それらに重油を補給する海軍の特設タンカー、オルナ(1万5220トン)が残るばかりとなった。
ヨークにしても状態は前よりさらに悪化している。ギリシャ撤退が始まった4月末からスダ湾への航空攻撃が激しくなり、動けぬまま対空砲台として使われていたヨークはその格好の目標になってしまったからだ。何度も爆弾の命中を受け、後部煙突は根元から傾き、格納庫すぐ後ろへの直撃弾で三番砲塔は天蓋を吹き飛ばされて無残に破壊され、陥没して基部から傾いたまま右の砲身だけが中空に突き出していた。今では他の主砲塔も壊されて動かず、艦橋も煙突も破片で穴だらけの有様である。
湾岸で放棄されていた、ギリシャの旧式駆逐艦レオンの船体も5月15日、敵機の攻撃で撃沈されてしまった。※4ドイツ軍機の攻撃は念入りに繰り返され、最後までスダ湾に踏みとどまっていたタンカー・オルナも、5月18日にフベルトゥス・ヒッチュホルト大尉の第2急降下爆撃航空団第1飛行隊(I/StG2)の攻撃で大破し、乗組員は沈没を避ける為やむなく船体を座礁させた。
5月20日午前5時半から6時にかけて、マレメ、へラクリオン両飛行場とカニアを中心にドイツ軍の空襲が開始された。それから2時間に渡り爆撃は断続的に繰り返され、空挺部隊の降下予定地点であるそれらの地域に猛烈な爆撃が続いた。
主な目標は輸送機を迎え撃つ周囲の対空砲陣地だったが、カニアに隣接するスダ湾の艦艇もその攻撃を蒙らないわけにはいかなかった。数少ない在泊艦船は対空砲火を打ち上げたが、そのか細い抵抗を押し破ってドイツ軍機は正確に命中弾を与えた。R・B・チャンドラー少佐が艇長を努める掃海艇ウィドネスが真っ先に攻撃を受けて浅い湾内に沈没した。※5
そして、この爆撃でもヨークの船体を攻撃したドイツ空軍は、まさにこの5月20日付をもって「わが急降下爆撃機がスダ湾でイギリス重巡を撃沈した」と大々的に発表したのだが、イタリア軍のヨークに対する攻撃の事情は聞き及んでいたのだろうか、イタリア人がどう思ったかは分からない。
ドイツ軍のこの発表は実際には早合点だった。確かにヨークは痛めつけられていたが、この時点でまだ見切りがつけられていた訳ではない。守備隊がドイツ軍を撃退しきればまだその望みはある。