掲題の論文に触発されて、恥ずかしながら小論文を書いてみた。
小野塚氏が解明しようとしたのは、「イギリスに於ける日本艦艇の建造は、イギリスの民間造船企業にどのような影響を与えたか?」である。
1.従来説の構造
従来説の「巨額の実験開発費を日本に負担させるとともに、同型艦の大量生産により自国戦艦の建造費を大幅に低減させることに成功した。」これが正しいか否かを、小野塚氏はデータを基に検証している。
2.同型艦の意味
「八島」、「初瀬」を建造したアームストロング社や「富士」のテムズ鉄工所はその後数年間はイギリス海軍向け戦艦を受注していないので、(同型艦の大量生産により建造費を大幅に低減させたとは言えない。)建造所レベルでの建造費低減効果も認めがたい。との論を小野塚氏は展開している。
3.実験開発費の負担
細部が相違するのでいちがいに言えないが、一般的に朝日、鹿島、香取の建造費は比較となる同時期のイギリス戦艦より安そうだ。むしろイギリスが開発費を負担していたのではないだろうか?との推論を展開している。
氏の推論の他にこんな考え方も成立するという私の論を紹介する。
戦艦の場合
従来説の「実験開発費を日本に負担させる。」という考え方とも少し違うのだが、「直接的な開発費の分担という形では無く、(結果的にではあるが、)試験艦の製造を日本が分担した形になってしまっていた。」という説である。結果的に「イギリスの戦艦の開発費を低減させる効果があった。」であろうし、「イギリス戦艦の失敗作を少なくする効果」があったものと推定される。
この論は戦艦にのみ成立する。日本の戦艦が発注された時の日英の戦艦の私が説明したい事に絞った諸元は以下の様になる。
船名 起工、 竣工
ロイヤル・サブリン 89.09 92.05 34.3糎砲、11,000馬力、16.5ノット、457ミリニッケル鋼板゜
マジェスティック 93.12 95.12 35口径30糎砲、12,000馬力、17.5ノット、229ミリハーベイ鋼板
富士 94.08 97.08 40口径30糎砲、13,500馬力、18.3ノット、457ミリハーベイ鋼板、
八島 94.12 97.09 同上
富士、八島は、それまでのイギリス戦艦より1割程度軽いにもかかわらず機関の馬力を1500馬力増加させて、速力を上げ、砲についてはマジェスティックの35口径30糎砲を最新型の40口径30糎砲に強化した型と言える。富士、八島の速力増加と砲の強化は成功したと判断され、富士、八島が完成した頃に起工された敷島以下の日本戦艦群とイギリスのフォーミダブル級は、砲及び機関を強化し、連続して建造された。即ちこれらの戦艦群は何れも40口径30糎砲搭載の14,000-15,000トンの戦艦で14,500-15,000馬力の機関を搭載し、速力は18ノットであった。
富士、八島が単にマジェスティックの砲を強化しただけととらえる事もできるが、実はマジェスティックは前級のロイヤル・サブリンの34.3糎砲から、口径は小さくても威力の大きい35口径30糎砲に変えたばかりであり、6隻の日本戦艦が無ければ、次のイギリス戦艦のフォーミダブルがすんなり40口径30糎砲に変えられたかというと、はなはだ疑問がある。その意味で富士−三笠の6隻の戦艦が存在した意味は大きかった。
敷島 97.03 00.01 40口径30糎砲、ベルビール缶、229ミリハーベイ・ニッケル鋼板
朝日 97.08 00.07 同上
初瀬 98.01 00.01 同上
三笠 99.01 02.03 40口径30糎砲、15,000馬力、18.0ノット、229ミリクルップ鋼板
フォーミダブル 98.03 01.10 40口径30糎砲、15,000馬力、18.0ノット、229ミリクルップ鋼板
次の香取型は砲力、防御力を格段に強化し、機関馬力を押さえた型で、1年後に起工されたロードネルソン型に引き継がれた。敷島−三笠、フォーミダブルは40口径30糎砲であったが、香取、鹿島では45口径30糎砲が採用された。
この45口径砲の成功が次のイギリス戦艦の45口径30糎砲の採用につながった。
つまり、主砲については、40口径30糎砲も45口径30糎砲も日本が率先して採用し、次いでイギリスが採用したのである。
ただし砲力の強化が全て日本が先駆けた訳ではない。香取、鹿島は敷島−三笠に対して副砲も大幅に強化されている。従来の副砲は15.2糎砲であったが、香取、鹿島は25.4糎砲である。この副砲の強化はイギリスの前級キング・エドワード7世が副砲として23.4糎砲を搭載したのに範を取っていたからである。
香取 04.04 06.05 45口径30糎砲、15,950馬力、18.0ノット、229ミリ
鹿島 04.02 06.05 45口径30糎砲、16,400馬力、18.0ノット、229ミリ
ロードネルソン 05.05 08.12 40口径30糎砲、16,500馬力、18.0ノット、305ミリ
次ぎにイギリスは、本格的巡洋戦艦をライオン型で完成させ、金剛型で艦形を改善しその設計実績を見てから、タイガー型を設計し、巡洋戦艦の姿をほぼ完成させた。つまりライオンが3番砲塔の射界が充分に取れないという欠点を、金剛の設計によって改善し、その設計成果を持ってタイガーを設計して成功している。
ライオン 09.11 12.06 45口径34糎砲、70,000馬力、27ノット
金剛 11.01 13.08 45口径36糎砲、64,000馬力、27.5ノット
タイガー 12.06 14.10 45口径34糎砲、85,000馬力、28
イギリス海軍から見ると富士から三笠までの6戦艦はフォーミダブル型を連続建造するための試作艦と位置づける事が出来よう。例えば富士と八島は主砲を35口径30糎砲から40口径30糎砲に強化するための搭載試験と、機関強化の試験を行う試験艦の役目を果たしていたことは既に述べた。
1890−1900年当時イギリスは年間3隻のペースで戦艦を建造していた。こんな中で搭載砲や機関を強化して失敗したら影響は建造中の3年間分の9隻分にも及んでしまう。失敗の影響はその艦だけに止まらないという意味で、連続して量産中の戦艦に新技術を適用する事には、イギリスはどうしても慎重にならざるを得なかった。
この時日本は、日清、日露戦争に敵より数で劣るという宿命から、個艦性能については絶対に優れた艦を投入しなければならないという宿命から、むしろイギリスよりも新技術の適用に積極的であった。日本は自らイギリスの試験艦を先行して開発し続けるという役目を果たしていた。
さすれば、同じ頃チリ海軍のは2隻の高速戦艦(スイフトシャ)をイギリスに発注したが、その場合イギリス戦艦になんらかの影響があったか?というと否である。チリ戦艦の対戦相手がアルゼンチンのガリバルディ型という4隻の装甲巡洋艦であり、当時の最強の戦艦でなかったため、チリの戦艦は中型の高速戦艦として建造され、当時の最強力艦では無かった。チリ戦艦の発注はイギリス戦艦群にほとんど影響を与えなかったと言って良い。
試作艦に相当する戦艦を日本の戦艦として建造した場合、広義には日本が開発費を分担したと言えるかもしれない。この様な意味で、日本戦艦の単価を上げることなく、イギリスの戦艦開発が支援されたと言えるのではないだろうか?
イギリス海軍の試作艦を日本が金を出して建造していたという仕組になっていたとすれば、日本海軍は開発費を分担したと言う実感は無く、富士と八島の建造費を出したと思っていたはずである。
日本海軍が当時のイギリス海軍の戦艦より少しでも良い艦を入手したいと思えば、それはイギリス海軍にとっては日本がイギリスの戦艦に先行して試作してくれる事を意味したのである。
もしこの論が正しかったとしても、それを補強するようなデータは出てこないであろうし、あくまで推定の域をでるものではない。こんな考え方もあると言う意味で参考にして頂きたい。イギリス人の手紙の中に、「日本戦艦に搭載した戦艦の主砲が成功したら、イギリス戦艦にも搭載したい。」などと言う文章でも出てきたら楽しいのだがーー
装甲巡洋艦の場合
戦艦については私の持論を述べたが、装甲巡についてはどうだったのだろうか?日本は1896年から装甲巡を計画し連続して6隻建造している。イギリスは日本の装甲巡を参考にして1901年以降装甲巡を取得したと言えそうでもあるが、良く判らない。
アームストロング社はチリのオイギンスに続いて、1989年、1900年/2隻、1901年と連続して日本向けの装甲巡を建造している。何れも排水量9,000トン、20糎砲4門、14,500−18,000馬力で速力20−20.8ノットと主力の戦艦に次ぐ威力を持ち、日本の第2艦隊の中核を占めた。
イギリス最初の装甲巡クレッシーは1897年に計画され、日本の最終艦の磐手の竣工した翌年の1901年に竣工した。
常備排水量は12,000トンと3割程度日本の装甲巡より大きく、23糎砲2門、21,000馬力で21.0ノットを出した。
クレッシーの出現は1894年に起こった日清戦争際、12糎〜15糎の中口径速射砲の砲撃により水線帯非装甲の主力艦では戦闘力を失ってしまうとの戦訓から建造されたと言われており、日本の装甲巡との関係は伝わっていない。
次の考察に続く 駆逐艦の考察