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ボーイング P-12 空冷複葉戦闘機の傑作

P-12B(16K)P-12
ワシントン州シアトル Museum Of Flight 博物館の P-12。タウネンドカウリングを持たない初期生産型の P-12B と思われる。P-12 の写真を見ると試作機以外は腹部に半水滴型の増加燃料タンクを抱いている物が多いが、この機体は取り外しているらしい。


 P-12 はカーチスとの競作に敗れた PW-9 系列の失敗を踏まえ 1928 年に設計された機体です。複葉の主翼平面形は P-9 に似た小判型ですが下翼が若干短く、上下に大きなスタガードが付けられています。従来のボーイング戦闘機が何となく間延びしていたのに対し、P-12 では翼幅や胴体長が全体的に縮小されており見るからに運動性の良さそうな引き締まったイメージになっています。主翼は木製骨格に羽布張りですが胴体はアルミ合金骨格の羽布張り、水平・垂直尾翼と補助翼のみ金属波板外皮を採用するというコンポジット(素材混用)が構造上の特徴でした。
 P-12 の先行試作機には細部が異なる Model83 と Model89 の二機が製作され、陸軍より先に興味を示した海軍が両機ともに XF4B の名称で購入しましたが、陸軍は Model89 をベースに増加試作を発注、やがて P-12 の名称で採用されました。初期生産型の P-12B(90機) は空冷プラットアンドホィットニー R-1340 をむき出しで搭載していましたが、改良型 P-12C/D(131機) では NACA タウネンド・カウリングが装備され、生産済みの P-12B にも追加装備されました。運動性が良く扱いやすい P-12 はパイロットからも好評で、F4B の名称で米海軍にも採用され、のちに胴体を全金属構造に改めた P-12E/F(135機) も生産されボーイングのベストセラー戦闘機となりました。
(文・ささき)


緒元(P-12D)
製作1928年
生産数366機(全タイプ合計)
乗員1
全幅30ft(9.14m)
全長20ft 1in(6.12m)
全高9ft (2.74m)
主翼面積227ft2(21.1m2)
乾燥重量1956LBs(887Kg)
全備重量2648LBs(1201Kg)
武装7.62mm 機銃×2または
7.62mm 機銃×1+12.7mm機銃×1(機首)
発動機プラット&ホィットニー R-1340-17 空冷9気筒 525hp
最高速度188mph(303Km/h) 高度 7000ft(2134m)
実用上昇限度25400ft(7742m)
航続距離475ml(764Km)


★おまけコラム:蘇州上空の P-12
 昭和七(1932)年 2 月、時の上海事変で作戦に従事していた空母「加賀」所属の日本海軍十三式三号艦攻三機、三式艦戦三機は蘇州上空で中国軍戦闘機の迎撃を受けました。激しい空戦(日本側艦攻に機上戦死一名の被害)の末中国軍機は撃墜されたのですが、これは米国の義勇飛行家ロバート・ショート(Robert Short)の搭乗する P-12E(正確に言えば P-12E の試作型 Model248) でした。この戦闘は陸海軍を通じて、大日本帝国軍創立以来の実戦初撃墜と記録されています。
 三式艦戦に搭乗していたのは生田乃木次大尉、武雄一夫一空兵、黒岩利雄三空曹の三名でした。黒岩氏はのち飛行教官となって坂井三郎氏ら多くのパイロットを育てますが、若い練習生に問われると例の空戦の話を淡々と語り「奴も勇敢に戦ったよ」とショート氏を評していたそうです。その黒岩氏も太平洋戦争では予備役に退いて輸送任務に就いていましたが、昭和19(1944)年 8 月 26 日にマレー半島沖で未帰還となり戦死と認定されています。

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