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 ▼蒙古襲来の無条件降伏  セリカ 10/1/5(火) 2:30
   ┗Re:蒙古襲来の無条件降伏  おうる 10/1/7(木) 18:59

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 ■題名 : 蒙古襲来の無条件降伏
 ■名前 : セリカ
 ■日付 : 10/1/5(火) 2:30
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   (鎌倉時代の二度にわたる)元寇に於ける元軍の勝利の可能性はあったのでしょうか。即ち、日本が元軍に蹂躙され元の属国となる可能性。

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 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re:蒙古襲来の無条件降伏  ■名前 : おうる  ■日付 : 10/1/7(木) 18:59  -------------------------------------------------------------------------
    文永の役(1回目)は一種の示威行動(威力偵察?)であり、攻撃側が本格的侵攻の準備を整えていないので史実以上の長期戦になる可能性は無いと考えます。予定より早かったか、それとも予定通りだったかはわかりませんが、敵地で暴れるだけ暴れたらさっさと撤退し、敵勢力(日本)に恐怖を植え付けると同時に情報を集めるのが元軍の作戦目的ですから、これは達成されていると考える事が出来、侵攻がとん挫したうえに損害も出ていますが、「元軍にとって成功(勝利)だった」と言っても問題のない結果だと思います。
 同時に元軍を撃退するという守備側の作戦目標も達成されており、その後日本で信じられている「日本にとって勝利だった」という評価も正しいと思われます。
 要するに「痛み分け」なわけですが、どちらにとっても負けようのない戦であり、しかるべくして双方が勝利(作戦目的を達成)した戦と言えると思います。
 文永の役で日本が敗北…元の軍門に降るという可能性は、仮に日本の守備軍が全敗していたとしても、ほぼ無かったと考えます。

 弘安の役(2回目)についても、文永の役同様に示威行動だった…という説と、本格的侵攻作戦だった…という説があり(他にも旧南宋兵士を消耗させるための作戦であり、旧南宋軍兵士が戦死してくれさえすれば勝とうが負けようがどうでもよかった…という説もあります)、どの説もそれなりに信憑性があるため判断しかねますが、それでは話が終わってしまうので本格侵攻作戦だったと仮定して話を続けます。
 元軍は高麗・忠烈王の影響で朝鮮半島経由の北九州侵攻ルートを採用し、全ての兵力を北九州に集結させています。
 しかし、日本は文永の役の教訓から北九州の防備を徹底しており、侵攻軍はモロにぶつかる形になってしまっています。さらに江南軍(旧南宋軍主力10万)の合流が遅れ、東路軍(元軍&高麗軍主力4万)単独での開戦を余儀なくされ、結果的に兵力分断&各個撃破されてしまっています。
 突貫工事で整備した艦船が粗製乱造になってしまっていた&準備していた水や食料の不足から船上で疫病が流行してしまった等の理由が無かったとしても、そもそも初期の上陸を阻まれてしまった時点で勝機は無かったと判断して良いと思われます。
 仮に江南軍の合流が予定通り行われ、全兵力14万(といっても少なからぬ数の非戦闘員を含む)を持って一気に挑んだとしても、防備を固めた海岸に上陸して橋頭保確保の段階で相当の損害が予想でき、日本側守備兵力が約4万だったという数値を信頼するのであれば、たかが十数万の兵力では北九州を制圧し長期確保することすら困難であろうと考えます。
 したがって日本が元の軍門に降る可能性は無かったと考えます。

 江南軍が合流せず、東路軍が日本兵力を北九州に引きつけている間に九州南部に上陸したなら…同時に元軍が兵站と制海権を確保する準備ができていたなら…九州攻略は可能だったかもしれません。
 しかし、九州を制圧確保しつつ更に本州や四国へ侵攻するには追加兵力が必要になるでしょう。
 追加兵力と追加兵力を含めた侵攻部隊を支える兵站線を維持できるだけの水上戦力が元にあったかどうか?2ルート侵攻を元側の政治情勢が許したかどうか?は、判断しかねますが、文永の役の前に日本侵攻を検討していた段階で「日本は島国なので攻略困難」と考えられていたことを考えると、元が日本を攻略出来た可能性は極めて低かったと思われます。

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