Page 31 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼石原莞爾について モーグリ 02/2/8(金) 0:25 ┣Re:石原莞爾について 勝井 02/2/8(金) 1:24 ┃ ┣ほんとう? BUN 02/2/8(金) 10:39 ┃ ┣Re:石原莞爾について アリエフ 02/2/9(土) 0:48 ┃ ┃ ┗Re:石原莞爾について BUN 02/2/14(木) 1:37 ┃ ┃ ┗Re:石原莞爾について 影十字 02/2/14(木) 18:38 ┃ ┃ ┗Re:石原莞爾について シュウスイ 02/2/14(木) 23:09 ┃ ┗Re:吉林出兵、錦州爆撃。 シュウスイ 02/2/16(土) 18:35 ┃ ┣文民統制って知ってる? アリエフ 02/2/16(土) 21:53 ┃ ┃ ┗Re:文民統制って知ってる? シュウスイ 02/2/16(土) 23:29 ┃ ┣Re:吉林出兵、錦州爆撃。 BUN 02/2/16(土) 22:22 ┃ ┃ ┗Re:吉林出兵、錦州爆撃。 シュウスイ 02/2/17(日) 0:03 ┃ ┃ ┗果たして軍事的才能か? BUN 02/2/17(日) 4:55 ┃ ┃ ┗Re:作戦立案能力 シュウスイ 02/2/17(日) 7:30 ┃ ┃ ┗Re:作戦立案能力 BUN 02/2/17(日) 8:52 ┃ ┃ ┗Re:軍の石原評価 シュウスイ 02/2/17(日) 13:18 ┃ ┃ ┗認識の違いがあるみたいですね BUN 02/2/17(日) 15:32 ┃ ┃ ┗Re:指揮官か、参謀か シュウスイ 02/2/17(日) 19:51 ┃ ┃ ┗あとは推定と想像の世界 BUN 02/2/17(日) 20:26 ┃ ┣Re:吉林出兵、錦州爆撃。 影十字 02/2/16(土) 22:59 ┃ ┃ ┗Re:戦史に残る大成功… シュウスイ 02/2/16(土) 23:48 ┃ ┃ ┗Re:戦史に残る大成功… 影十字 02/2/17(日) 0:24 ┃ ┃ ┗Re:10倍の敵兵力。 シュウスイ 02/2/17(日) 8:01 ┃ ┃ ┗日中戦争について 山家 02/2/18(月) 21:46 ┃ ┃ ┗Re:日中戦争について シュウスイ 02/2/18(月) 23:48 ┃ ┗伝説と実像の差 モーグリ 02/2/18(月) 1:05 ┃ ┗Re:石原を過小評価したい理由 シュウスイ 02/2/18(月) 6:14 ┃ ┗賛美する側の病理もある BUN 02/2/18(月) 6:56 ┃ ┗過大評価と過小評価の病理 あるめ 02/2/18(月) 12:18 ┣変人としての石原莞爾 あるめ 02/2/8(金) 11:41 ┗政治家としての石原莞爾 井中かえる 02/2/18(月) 10:24 ┗Re:政治家としての石原莞爾 BUN 02/2/18(月) 11:08 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 石原莞爾について ■名前 : モーグリ ■日付 : 02/2/8(金) 0:25 -------------------------------------------------------------------------
一部戦記系で人気の石原莞爾ですが、本当のところはどういう人だったのでしょうか? 石原莞爾は「作戦の神様」と言われ、アジア主義や世界最終戦争論を唱えて日中戦争に 反対し、東条英機と対立したことなどで評価を上げて(事実、架空戦記で大活躍) いますが、実際の石原莞爾はそんなにすごい逸材だったんでしょうか? |
満州事変を画策し、また圧倒的兵力差を覆して 満州の中国軍を追い払った手腕は 事実として存在します。 また、日中戦争に反対し続けた、これも事実です。 少なくとも(彼なりに)筋の通った戦略眼をもち、 凡庸ならざる作戦能力を有していたことは確かでしょう。 「作戦の神様」とまで言えるかはともかく。 |
> 満州事変を画策し、また圧倒的兵力差を覆して > 満州の中国軍を追い払った手腕は > 事実として存在します。 > また、日中戦争に反対し続けた、これも事実です。 本当?勝井山、本当ですか? 満州事変を画策したのは参謀本部ではありませんか。 親日政権樹立、独立国建設、満蒙領有を定めた「満州問題解決方策の大綱」は 関東軍ではなく陸軍中央の立案したものです。 簡単に言えば関東軍は暴発しただけです。 また支那事変の処理に関しても徹頭徹尾反対という訳でもないと思います。 これらも事実として存在するんですが、如何でしょうか。 |
> 満州事変を画策し、また圧倒的兵力差を覆して満州の中国軍を追い払った手腕・・ 例え圧倒的兵力を持っていても、実態は軍閥の連合体で統一的な命令指揮が取れていなければ、大したこと無いんじゃないかな。 張作霖等、北方軍閥と蒋介石の関係はうまくいっていたのだろうか? これより時代は下るが、37年以降、日中戦争に入ってからも中国軍(国民党軍)は士気が乱れがちで、中国の民衆は日本軍だけでなく国民党軍の横暴も嫌がっていたという。 また、第2次大戦終結後、国民党と中国共産党が全面対決するが、国民党軍は当初、百万人もの兵力と日本軍から捕獲した戦車等の近代兵器を持っており、しかも国内の主要経済地域を押さえていたわけだから、共産党軍に対し質量共に圧倒的な兵力差を保っていた。しかし、数ヶ月間のうちに国民党を見限り共産党に投降する部隊が続出、戦力バランスはたちまちのうちに逆転し国民党軍は瓦解状態になる。 こうした体質の軍隊を相手にするならば、軍事的能力よりも政略で以ってひねり潰せるんじゃなかろうか。石原莞爾が軍人の枠に入りにくい知識人であり、政略的才能があったことは認めるけどね。 |
計画は既に参謀本部で出来上がって実施を待つのみの状態、 作戦については研究段階から図上演習に進んでいたのだから 石原個人の才とも言い切れないでしょう。 機を見るに敏な所は感心ですが私は著作を読んでも 法華経に入れ揚げる宗教的な側面ばかりが目に付いてしまいます。 世界最終戦争という発想自体、その産物に思えてしまいます。 |
BUNさま 全く同感です。特に日中両国で英米と戦うと主張している辺りは、最早まともな軍人かと疑いたくなります。国際平和の観点を省いて純軍事的に見たとしても、中国が内南洋にどれだけの主力艦を派遣しまた何個師団増援として送ってこられるかを考えると、世間一般で認められている軍事的才覚とやらも半信半疑です。 個人的には 「教範製作や図上演習が上手いだけの、妄想癖の官僚軍人」 と断定しています。 |
> 全く同感です。特に日中両国で英米と戦うと主張している辺りは、最早まともな軍人かと疑いたくなります。国際平和の観点を省いて純軍事的に見たとしても、中国が内南洋にどれだけの主力艦を派遣しまた何個師団増援として送ってこられるかを考えると、世間一般で認められている軍事的才覚とやらも半信半疑です。 > 石原の「最終戦論」におけるアメリカとの戦争は、東亜連盟とアメリカとの最後の決戦 戦争であって、「無着陸で世界をぐるぐる廻れるような飛行機ができる時代」で「陸海軍などが存在しているあいだは…なりません」です。まー、妄想癖には違いないのかも しれませんが…。 |
満州事変における石原の軍人としての機略と行動力はやはり 際だっていたと思います。 特に朝鮮軍を増援させるという目的も含んだ第二師団主力の 吉林出兵工作。 陸軍中央が不拡大方針のうえ、本庄関東軍司令官もその決断を 渋ったというのに、半ば強引に実現に進んだというのはもちん 彼の信念と行動力によるものと思います。 また、政府の不拡大方針をつぶすため、自ら錦州爆撃を実施する などの対外的な反響を考慮した心理的作戦も、凡庸な軍人では とても発想も実行もできません。 満州占領後に帰国した石原は、金鵄勲章を受け、同期生の中で トップをきって大佐昇進しているのですから、それはやはり 満州事変での手腕が評価されたということだと思います。 |
>政府の不拡大方針をつぶすため、自ら錦州爆撃を実施するなどの対外的な反響を考慮した心理的作戦も、凡庸な軍人ではとても発想も実行もできません。 そもそも、多くの近代国家において軍人は政治に介入すべきでない、政治的政策決定は政治家の仕事である、「軍人に戦争をやらせてはいけない」という文民統制(civilian control)が基本原則なんですけどね。 彼のやったことは、文民統制の観点からすると問題外ですよ。ま、当時、統帥権独立(これ自体、明治憲法を曲解、拡大解釈しているのだが)の考え方がまかり通っていて、文民統制の原則が十分徹底されていなかったから、このような現地部隊が暴走する事態を招いたわけですけどね。 政略家としての才能、人望はあるかもしれんが、軍人本来の資質とはあまり関係のない、むしろ不適格だと思いますけど。 |
> >政府の不拡大方針をつぶすため、自ら錦州爆撃を実施するなどの対外的な反響を考慮した心理的作戦も、凡庸な軍人ではとても発想も実行もできません。 …確かにちょっと表現が不穏当でした。主張したかった部分は、「対外的な反響を 考慮した心理的作戦」というところです。 統帥権問題については、もちろんこれは統帥を無視した関東軍の暴走です。もちろん それ以外の何物でもありません。 |
事変の暴発した当日、「陸軍中央」は、 満州事変の図上演習中だったはずです。 何をかいわんや。 |
…つまり、別に石原でなくても誰であっても、計画どおりに指揮すれば 作戦成功が可能だった、ということですね。 僕はそうは思いませんが…これは水掛論かもしれません。 |
> …つまり、別に石原でなくても誰であっても、計画どおりに指揮すれば > 作戦成功が可能だった、ということですね。 シュウスイさんの指摘された石原の手際の良さとは軍事的才能よりも むしろ関東軍の暴発を正当化する政治的手腕と評価すべきものでしょう。 どちらにせよ事変は翌年までに計画的に実施され、それなりの結果を得ていたはずだと 考えざるをえません。多少の出来不出来はあるでしょうが、 個人の才が決定的になる局面は史実に於ても無かったと思います。 |
> > …つまり、別に石原でなくても誰であっても、計画どおりに指揮すれば > > 作戦成功が可能だった、ということですね。 > > シュウスイさんの指摘された石原の手際の良さとは軍事的才能よりも > むしろ関東軍の暴発を正当化する政治的手腕と評価すべきものでしょう。 つい不用意に「指揮すれば」という表現を使用してしまいましたが、軍事的 才能を考えるとき、指揮官としての作戦遂行能力の外に、参謀としての作戦 立案能力もあろうかと思います。 もちろん石原は満州事変当時関東軍参謀として、関東軍の作戦立案について 板垣とともに直接的な責任を持っていたことは言うまでもありません。 作戦計画は前年度の作戦計画だけ存置して、その前の作戦計画を全部廃棄する ことになっていることもありますし、柳条溝の爆破工作に続く満蒙の手際よい 制圧作戦立案は彼の功績といってよい、と考えます。 もちろん、これは極東軍事裁判酒田法廷での宣誓口述書において石原が述べて いるように、「平素の作戦計画に変更を加え」たものであって、従前に立案 した作戦計画を単にそのまま実施した、というものではまったくありません。 実際の作戦では、激戦となったのは長春くらいかとは思いますが、日本軍の兵力 は敵の10分の1であり、満鉄沿線1千キロに及ぶ広正面の作戦なのですから、 作戦計画変更を立案しただけでも、その軍事的才能は賞賛されるべきと思います。 事変の翌年、石原がジュネーブ派遣となったときに各国の駐在武官が石原を招待 して「奉天作戦」の研究会を催したくらいなので、当時各国の軍事関係者から も、その手際よい作戦は注目を集めていたのでしょう。 |
参謀本部で実施可能と考えられていた計画を先走って成功させたことが、 何で「まったく」独自のことなのか私にはわかりません。 反乱に近い軍事的冒険を直接手を下して成功させたことで その評価が変る訳ではないでしょう。 参謀だか指揮官だかわからない混沌とした行動が良い証拠でしょう。 満州事変そのものが彼の企画立案によるものであれば 確かに石原莞爾は昭和日本の怪人でしょうが、 そうでは無い以上、取り立ててその才能を評価する必要も無いと思います。 他の方がおっしゃるようにその程度の軍人は幾らも存在するからです。 |
一般的な話として、「実施可能とかんがえられていた計画」をそのとおり 成功させることは、評価されるべきことかと思います。実施したら計画どおりに 進まなかった作戦とか大失敗に終わった作戦は山のようにあるのですから。 満蒙占領計画については、石原が昭和三年十月に関東軍参謀に着任してから板垣 とともに精力的に研究を開始しており、「満蒙問題私見」、「満蒙問題解決の為の 戦争計画案大綱」の作成など、ほとんど彼の仕事一人の仕事といってよいと思います。 もちろん大綱レベルの計画だけでなく、戦術的な部分もそうです。柳条溝事件直後 後の飛行場急襲任務に関しても、当初の作戦計画を変更し、撫順守備隊として予定さ れていた中隊の任務を解いて飛行場の攻撃にあてるなど、柔軟かつ合理的な運用を 行っています。もちろん、これらの戦術的な作戦計画変更は石原も後日自ら述べてい るとおり、陸軍中央とは打ち合わせなどしていません。 石原らの統帥を無視した関東軍の暴走は、もちろん軍事的冒険であって、失敗に終わ れば、当然石原らは詰め腹をきらされたでしょう。しかし、石原は絶対の自信を持って これを遂行し、ご承知のとおり、当初不拡大方針だった軍中央も政府もその成功をみて 関東軍の行動を容認、世論も既成事実固守の方向に動きました。 石原の満州事変での評価は、前にも書いたとおり破格の功三級金鵄勲章と大佐昇進、 参謀本部作戦第一部長というトップエリートへの着任で、軍が既に結論を出している ことだと思います。 |
> 満蒙占領計画については、石原が昭和三年十月に関東軍参謀に着任してから板垣 > とともに精力的に研究を開始しており、「満蒙問題私見」、「満蒙問題解決の為の > 戦争計画案大綱」の作成など、ほとんど彼の仕事一人の仕事といってよいと思います。 昭和六年の年度情勢判断によって方針が立てられ、 陸軍省、参謀本部の課長クラスの研究会によって 「満州問題解決方策の大綱」は決定されたと認識しています。 満州事変の企画立案を石原ひとりに帰するのは無理があるのではないでしょうか。 結果的に許されたのはその合意あればこそであって、 「天才」を評価した訳では無く、満州事変のトリックスターとして祭り上げられ やがて祭り捨てられたのが石原なのではないでしょうか。 前にも言いましたが参謀だか指揮官だかわからないような彼の行動は 常識的な評価の対象にはならないでしょう。 そうした存在はある意味魅力的でしょうが、やはり判官贔屓の範囲を出ないと思います。 |
> 昭和六年の年度情勢判断によって方針が立てられ、 > 陸軍省、参謀本部の課長クラスの研究会によって > 「満州問題解決方策の大綱」は決定されたと認識しています。 > 満州事変の企画立案を石原ひとりに帰するのは無理があるのではないでしょうか。 御指摘の「大綱」は、参謀本部の建川作戦第二部長(情報担当)が指示して主に、 省部の課長クラスが中心となり、6月にとりまとめたものかと思います。 これは、約1年の猶予を置いて日本の危機的立場を内外に啓蒙し、武力発動すると いうもので、石原が実行した具体的な満蒙占領作戦を検討したものではありません。 もちろん、石原らの手による「満蒙問題解決の為の戦争計画大綱」は5月には完成 していましたし、石原らの満蒙占領計画研究は昭和4年5月から時間をかけて行われ ていたものです。 従って、石原ら作成した満蒙占領作戦があらかじめ参謀本部の手の内にあったようか の意見にはちょっと同意できません。むしろ、参謀本部の建川部長は関東軍の石原ら と連絡を取り合っていたいわば「同志」なので、関東軍の筋書きに支援を与える行動 に出ていたとみるべきかと思います。 石原の指揮官か参謀かわからない行動を取ったことについては、満州事変当時の本庄 関東軍司令官が石原らの研究による作戦計画変更を関知しておらず、かねてからの慎 重な作戦計画にこだわって、なかなか石原らの作戦案の命令を決断しなかったことも あると思います。本庄司令官がすぐに石原らの臨機の作戦を理解して命令を下す司令 官であれば、石原がそれほど前面にでる必要もなかったでしょう。 そして、彼が参謀でありながら前面にでる形になったからといって、彼の機略が軍人 としての評価にならない、ということもないと思います。 |
私の言いたい事は概略述べましたし、 シュウスイさんの御主張もわかりましたので 発言者も限られて来た所ですし ここで引き上げたく思います。 |
軍人としての機略と仰られますが、個人的には一軍を率いらせるべきではないと思います。 1937年に蒋介石の上海攻囲により日華事変が勃発しましたが、石原はこの時、塹壕線での消耗戦をおそれ上海放棄を主張しています。この段階でまともな人間ではありませんし、上海派遣軍司令官の松井石根(東京裁判で絞首刑)は逆に9条の攻勢線で戦線突破後南京まで300kmに及ぶ縦深を確保して中国軍を殲滅しています。 軍事的事跡のみを見ると、どうして現在これほど知名度が高いのか理解に苦しみますね。松井の方が戦史に残る大成功を収めているのですが。 |
上海派遣軍司令官の松井石根(東京裁判で絞首刑)は逆に9条の攻勢線で戦線突破後南京まで300kmに及ぶ縦深を確保して中国軍を殲滅しています。 > 軍事的事跡のみを見ると、どうして現在これほど知名度が高いのか理解に苦しみますね。松井の方が戦史に残る大成功を収めているのですが。 …作戦上の成功の度合いは色々な見方があると思いますが、僕としては満州事変の方が 大きな意味合いがあったと思います。 ちなみに日華事変については、石原は正しく泥沼戦となることを予見して不拡大方針 だったのですから、その点も評価されていいと考えます。もちろん、彼が居留民と支那 駐屯軍の包囲をおそれ、やむなく7月10日の派兵案に署名したことは知っていて書 いています。 |
日華事変で不拡大方針を主張していたのは知っていますが、それほど大したことでしょうか? 常備軍で見ましょう。日本軍35万対中国軍350万で零が一つ違います。「皇国軍兵一人が中国兵10人に匹敵」するのであっても膠着ですし、当時本気で信じていた人間はごく少数でしょう。要するに日華事変不拡大は無知か狂人で無い限り当然のことです。松井にせよ誰にせよ、日本が中国を支配できない事は前線・中央のほとんどの人間には分かっていました。分かっていなかったのは近衛・東条くらいでしょう。 無論、政府と関係無く交戦国の名目上首都を攻略した松井も同様に暴走していたことも承知です。ただあの状況で暴走しない野戦軍司令官というのは存在するでしょうか? |
日華事変勃発当時、参謀本部では、作戦第一部長の石原や一部の者を除いて、 「一撃論」が大勢を占めていました。確かに中国は兵力にして10倍だが、 日本が一撃すればもろく崩れ去る、というような。 こうした考えが出たのは、実は満州事変の成功によるものです。 満州事変時の両軍の兵力は、張学良の東北軍、正規軍26万8千、 公安隊18万。これに対する関東軍は独立守備隊5千、第二師団5千 、その他憲兵を含めてたったの1万6千にしかすぎませんでした。 兵力差は表面的には20倍以上、実際に事変にかかわった兵力でみても 10倍くらいあります。 だから、後の日華事変でも、満州での石原の成功を観て安易に「兵力差はあって もやればできる」という感じになってしまったのです。 しかし、日華事変当時の政治情勢はもちろん兵力比率だけで考えられるものでは ありませんでしたし、軍事作戦的にも規模が違います。 この違いを正しく認識し、拡大を阻止しようとしたのが、石原作戦部長あって、 それが理解できなかったのが武藤章作戦編成課長をはじめとする参謀本部の俗物 軍人だった、ということだと思います。 |
別スレッドにすべきかもしれませんが。 日中戦争についてですが、本当に日中戦争で、中国から撤兵すべきではないと考えてい た人達は、極少数だったのでしょうか。参謀本部は、1939年秋と1940年春に華中 華南からの大規模な撤収を計画しかけますが、陸軍省等から「英霊に対する感謝も責任も ない、一顧だに値しない暴論」と反対され、正式課題にさえ掛けられませんでした。これ に対しては、皆、黙っていただけで、本当は撤兵したいと考えていたとよく言われます。 しかし、黙っているというのは、撤兵に反対と言うことを示していないわけで、集団暴行 事件等で、事件を起こした人の一部が、「自分は手を出していない。何で責任がある。」 というのと同じで、撤兵に反対と言っているのも同然の行為ではないでしょうか。当時の 実情を知らないから、そんなことを言えるのだ、とお叱りを受けるとは思います。でも、 私としては、中国から撤兵すべきでないと考えていた人が極少数なら、なぜ日本は撤兵が できなかったのか、と考えるたびに、沈黙による責任ということを考えてしまいます。 また、第二次上海事変のときは、海軍も外務省も陸軍の派遣には賛成していたと思いま す。このような状況下では、陸軍の一部の暴走とは到底言えない、と私は思います。 |
日中戦争が拡大していったのは、確かに陸軍の暴走だけで簡単に説明できる ものではありません。 第二次上海事変は、大山海軍大尉射殺事件を契機とした海軍陸戦隊との中国 軍との戦闘ではじまったものですし、政府としても居留民の安全を図らなくて はならないため陸軍の派遣を決定し、知らず知らずにエスカレートしてしまっ たということもあります。 それでもドイツのトラウトマン大使の仲介により、和平が整いつつあったと いうのに、日本が南京占領したことを背景に、政府内もよせばいいのに強気と なって講和条件をつり上げてしまい、蒋介石から回答が来ないのにしびれを切 らして「帝国政府は国民政府を相手とせず」と声明をだし、和平の機会を自ら つぶしてしまう始末。参謀本部もこの時は事態収拾を望んでいて、この近衛声明 には反対だったんですよね。 「沈黙による責任」という言葉をだされましたが、このときは近衛首相の「優 柔不断」ということになると思います。近衛は自決前に「私の最大の失敗」と 明言したようですが。 やはり陸軍も海軍も政府もとりまとめられるリーダーシップと正しい識見を 持った指導者がいなかったのが、不幸だったのではないでしょうか。くどいですが こんな滅茶苦茶な対外政策(戦争を含む)をしているということは、決して共同 謀議の侵略ではありません。共同謀議だったら、もっと上手にやってます。 |
現在伝わっている石原莞爾の功績は相当脚色されている可能性があります。 http://homepage1.nifty.com/SENSHI/study/isihara-1.htm このサイトによると、戦後石原莞爾が極東軍事裁判で自分が満州事変を 起こしたと主張したというエピソードは石原莞爾の死後作られたもので あることが判ります。 石原莞爾を天才だと言う前に彼の伝説と実像を見分ける必要があると思います。 |
僕はもちろん、石原の極東国際軍事裁判酒田法廷での石原とダニガン検察官の やりとりと宣誓口述書も眼を通しています。確かにこで石原は自分の事件への関与 を述べていません。…というか、柳条溝事件が日本軍の工作であることを全く黙秘 しています。 繰り返しますが、自分の関与はおろか、日本軍の工作自体を証言していないのです。 これは、もちろん下手に真実をしゃべれば、自分が戦犯として裁かれるだけてなく、 当時の関係者にも累が及ぶことを考慮して口をつぐんだのでしょう。 このことを持って、石原が満州事変の起こしたのではないとというであれば、 そもそも、柳条溝事件は日本軍の仕業ではない、ということになりますな。 満州事変における石原の関与を矮小化する、という試みを行っているまともな 歴史研究者を残念ながら、僕は存じません。「軍部ファシズム」という言葉が 好きな左翼系歴史家でも同様です。 しかし、確かに満州事変における石原を過小評価したい論者もいることは確かの ようです。この理由は僕が考えてみるにこういうことではないでしょうか。 つまり、満州事変は日中十五年戦争の開始となる日本軍国主義の直接的な対外侵略 の開始である、と主張したい場合に、満州事変が石原ら一部の者の画策であるとする とはなはなだ都合が悪い。満州事変は日本軍部がなるべく総ぐるみで行った陰謀と したい。そのためには石原の果たした役割を極力少なく解釈する…。 これは僕が勝手に想像したことですので、実際はそうではないかもしれません。 また、僕との議論の交換をしていただいた皆さんがそうした立場であると主張する ものではないし、文面からしてそのような思想の方だとは僕も思っていません。 しかし、そういう論者がいても決しておかしくないということはありますので、 再度ちょっと自分の考えを書かせていただきました。 |
シュウスイさんの指摘はなかなか良い所を突いているようです。 石原莞爾を過小評価したいという心情はその辺りに由来するかもしれません。 しかしまた一方で石原莞爾を過大評価したい心情というものも、 ひとつ考察に価するのではないでしょうか。 石原莞爾の評価は否定と肯定相半ばするのではなく、 無視されるか、必要以上に賛美されるかのどちらかという あまり健全ではない傾向にあるようです。 無視する側の御都合主義もあれば、賛美する側の病理も存在するのではないか、 言ってみれば石原賛美で癒される何らかの思いがあるのではないかとさえ感じます。 適切な評価の定まらぬまま、子供と色々な意味での敗者の玩具になっているように思えるのです。 |
BUNさんの御見解、そのとおりと思います。 IF小説は、そのへんの需要を巧く掬い取って、想定読者の願望に沿って話を面白く仕上げるのが腕なので、石原さんをあるがままに見ている作業が大前提となり、作者の感情移入・願望移入は、それからの装飾作業となるのでしょうね。 |
以下、IF小説論。 すくなくとも当時の常識から見ればヘンな人であったらしいです。 陸軍大学の入試で口頭試問を受けていて(試験官がわざと意地悪な質問をして受験者の肝試しをするので有名、参謀としての冷静さを保てるかを見る)、飛行機から地上の縱列を攻撃する説明をしながら、「搭載機関銃をこのように發射するのであります」と黒板に点々を描きながら「だっだっだっだっだ」と叫んで逆に試験官の度肝を抜いた、と云う逸話などあります。 また演習中に審判官の判定に不服で、いきなり地面に大の字になると、「指揮官(自分のこと)戦死!」と叫んで、それきり動かなかったと云うのも面白い話です。 石原さんが、そういうことが出来たのも、それにもかかわらず順調に出世して参謀本部の要職に補職されたのも、属する派閥の後ろ盾があったからで、また東条さんと対立して勇退したのも、やはり派閥力学の結果であったと思います。当時の軍部の派閥力学には個人の能力・意思では動かせない「場の潮流」があって、事態が否応なく動いていったのではないかと私は考えています。もし否応なく動くのがイヤならば、軍刀振りまわして刃傷に及ぶか叛乱をおこすか、その場からスッポリ抜けてウオプクアンシダ(我不関係的)となるので、石原さんは後者を選んで隠退したのでしたが、場の力学が違うふうに動いていたならば、そこにIFが出てきて、単に石原さんを作戰の神様と云った常套句(笑)で表現しない、より面白い再読に耐える小説が出てくるような気がします。 |
石原は満洲から中央に戻ってから、当時の日本国の軍事についての基本方針であるはずの(はずの、というところが日本の問題なのだが、そこはおく)帝国国防方針にある短期決戦戦略に反して、長期戦対策をほどこしています(例えば重要産業五ヵ年計画など)。こういうところも彼が偉大とされる所以なのではないでしょうか。 議論が満洲事変中心になっていますので、軍政家ないし政治家としての彼の側面についても議論したいと思います。 |
> 議論が満洲事変中心になっていますので、軍政家ないし政治家としての彼の側面についても議論したいと思います。 それはあえてwarbirdsで採り上げる話題でもないと思います。 石原莞爾について論評する上では必要かもしれませんが、 ここで始めると際限がなくなるのではないでしょうか。 やめましょうよ。 |