Page 149 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼バルバロッサ作戦に勝算はあったのか? ベロウ 03/1/28(火) 23:46 ┣勝算の無い戦争をする人間は馬鹿である。 TAKA 03/1/29(水) 1:12 ┃ ┗議論の進め方について クリスティー 03/1/29(水) 10:16 ┃ ┣そうしましょう ベロウ 03/1/29(水) 13:31 ┃ ┗Re:議論の進め方について まなかじ 03/1/30(木) 0:10 ┣仮説1:モスクワ占領による1本勝ち クリスティー 03/1/29(水) 10:44 ┃ ┗Re:仮説1:モスクワ占領による1本勝ち SUDO 03/1/29(水) 11:35 ┃ ┗ドイツの考えた戦争終結方法とは? クリスティー 03/1/29(水) 19:52 ┃ ┗Re:ドイツの考えた戦争終結方法とは? SUDO 03/1/29(水) 20:53 ┃ ┗Re:ドイツの考えた戦争終結方法とは? まなかじ 03/1/30(木) 0:14 ┃ ┗Re:ドイツの考えた戦争終結方法とは? クリスティー 03/1/30(木) 10:12 ┃ ┣バルト海と黒海から補給 クリスティー 03/1/30(木) 11:11 ┃ ┗Re:ドイツの考えた戦争終結方法とは? SUDO 03/1/31(金) 17:49 ┣「ソビエトは土台の腐った小屋だ」 ささき 03/1/29(水) 10:57 ┃ ┗ドイツは正貨が尽きた破産国家だ dg 03/2/2(日) 19:10 ┣何をもって、勝利とするのか。 山家 03/1/29(水) 20:41 ┃ ┗レジスタンスがいても、勝利としましょう クリスティー 03/1/30(木) 10:29 ┃ ┗Re:レジスタンスがいても、勝利としましょう 山家 03/1/31(金) 21:51 ┃ ┗プロパガンダ合戦によるのでは・・ アリエフ 03/2/1(土) 1:38 ┣ドイツの国家指導者達から見た未来図 月読 03/1/30(木) 0:38 ┃ ┗ヒトラーの意図は知りませんが クリスティー 03/1/30(木) 11:01 ┣勝利の意味 アリエフ 03/1/30(木) 2:30 ┣仮説2:主要地域占領による、押さえ込み勝ち クリスティー 03/1/30(木) 11:26 ┃ ┗・・・どなたか御教授をっ・・・ sinn 03/1/30(木) 15:20 ┃ ┗ソ連の支援について クリスティー 03/1/30(木) 18:47 ┃ ┣ソ連を支援する理由を考えると・・・ クリスティー 03/1/30(木) 18:52 ┃ ┃ ┗Re:ソ連を支援する理由を考えると・・・ まなかじ 03/1/30(木) 22:26 ┃ ┃ ┗Re:ソ連を支援する理由を考えると・・・ sinn 03/2/1(土) 0:42 ┃ ┣Re:ソ連の支援について 12式戦爆 03/2/1(土) 22:41 ┃ ┣太平洋ルートは太平洋戦争中も継続中 モーグリ 03/2/2(日) 9:42 ┃ ┃ ┗Re:太平洋ルートは太平洋戦争中も継続中 高村 駿明 03/2/3(月) 17:02 ┃ ┃ ┗関特演発動は モーグリ 03/2/3(月) 22:08 ┃ ┃ ┗Re:関特演発動は 高村 駿明 03/2/4(火) 9:42 ┃ ┗援ソに関し、前言撤回します クリスティー 03/2/3(月) 15:48 ┣バルバロッサ作戦に勝算あり Edwerd 03/1/31(金) 19:15 ┃ ┣バルバロッサ作戦に勝算あり 「ソ連軍の戦力に対する過小評価」 Edwerd 03/2/2(日) 9:21 ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「ソ連軍の戦力に対する過小評価」 山家 03/2/4(火) 21:07 ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「ソ連軍の戦力に対する過小評価」 Edwerd 03/2/6(木) 15:33 ┃ ┣バルバロッサ作戦に勝算あり 「大陸規模における兵站補給体勢の不備」 Edwerd 03/2/7(金) 11:03 ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「大陸規模における兵站補給体勢の不備」 山家 03/2/7(金) 21:21 ┃ ┃ ┣Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「大陸規模における兵站補給体勢の不備」 Edwerd 03/2/8(土) 12:36 ┃ ┃ ┃ ┗計算してみよう SUDO 03/2/8(土) 17:17 ┃ ┃ ┃ ┗Re:計算してみよう SUDO 03/2/8(土) 18:07 ┃ ┃ ┗残敵放置で勝利した戦争 大名死亡 03/3/7(金) 21:19 ┃ ┣バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 Edwerd 03/2/8(土) 18:06 ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 山家 03/2/9(日) 22:16 ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 Edwerd 03/2/10(月) 15:40 ┃ ┃ ┣Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 SUDO 03/2/10(月) 21:26 ┃ ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 Edwerd 03/2/11(火) 17:58 ┃ ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 SUDO 03/2/11(火) 20:14 ┃ ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 Edwerd 03/2/12(水) 13:37 ┃ ┃ ┃ ┣Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 まなかじ 03/2/12(水) 18:54 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 Edwerd 03/2/12(水) 22:01 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 SUDO 03/2/13(木) 1:04 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 SUDO 03/2/13(木) 1:16 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 SUDO 03/2/13(木) 4:40 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗どんどん数的優位が怪しくなるな SUDO 03/2/13(木) 11:53 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗戦闘序列に関して Edwerd 03/2/13(木) 19:27 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗つうわけで、考えてみよう SUDO 03/2/14(金) 8:13 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗戦闘序列について Edwerd 03/2/14(金) 18:47 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:戦闘序列について SUDO 03/2/14(金) 23:15 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:戦闘序列について Edwerd 03/2/15(土) 11:28 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:戦闘序列について SUDO 03/2/15(土) 23:52 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 まなかじ 03/2/13(木) 23:37 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 Edwerd 03/2/14(金) 7:12 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 SUDO 03/2/14(金) 12:20 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 まなかじ 03/2/14(金) 16:05 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 Edwerd 03/2/14(金) 19:07 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 SUDO 03/2/14(金) 23:43 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗キエフ風チキンカツは実に美味。 まなかじ 03/2/15(土) 23:29 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 Edwerd 03/2/15(土) 1:47 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 まなかじ 03/2/16(日) 1:34 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣Re:道に関して Z 03/2/16(日) 3:28 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 Edwerd 03/2/19(水) 10:49 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 Edwerd 03/2/19(水) 10:54 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 SUDO 03/2/16(日) 3:23 ┃ ┃ ┃ ┣Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 クリスティー 03/2/12(水) 20:35 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 Edwerd 03/2/13(木) 14:22 ┃ ┃ ┃ ┣Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 SUDO 03/2/13(木) 1:05 ┃ ┃ ┃ ┗まったくどうでもいいことですが 大名死亡 03/3/8(土) 1:43 ┃ ┃ ┗なぜ戦術能力が? 大名死亡 03/3/5(水) 12:36 ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり Edwerd 03/2/19(水) 11:04 ┃ ┣Re:バルバロッサ作戦に勝算あり SUDO 03/2/19(水) 13:25 ┃ ┃ ┣Re:バルバロッサ作戦に勝算あり Edwerd 03/2/20(木) 17:07 ┃ ┃ ┃ ┣空輸は難しいかもしれません BUN 03/2/20(木) 19:12 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:空輸は難しいかもしれません Edwerd 03/2/26(水) 20:47 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗空輸を過大評価するのは… 大塚好古 03/2/26(水) 22:43 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:空輸を過大評価するのは… Edwerd 03/3/1(土) 10:29 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣思いつくまま適当に空輸の話 大塚好古 03/3/1(土) 23:04 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣Re:思いつくまま適当に空輸の話 Edwerd 03/3/11(火) 14:34 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:思いつくまま適当に空輸の話 Edwerd 03/3/11(火) 15:36 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:思いつくまま適当に空輸の話 Edwerd 03/3/11(火) 15:15 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:空輸を過大評価するのは… まなかじ 03/3/2(日) 1:56 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:空輸を過大評価するのは… Edwerd 03/3/11(火) 14:41 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:空輸を過大評価するのは… まなかじ 03/3/13(木) 12:58 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣Re:空輸を過大評価するのは…(1) Edwerd 03/3/14(金) 14:38 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:空輸を過大評価するのは…(1) まなかじ 03/3/15(土) 0:46 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:空輸を過大評価するのは…(1) Edwerd 03/3/15(土) 22:27 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:空輸を過大評価するのは…(1) まなかじ 03/3/15(土) 23:52 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣Re:空輸を過大評価するのは…(2) Edwerd 03/3/14(金) 14:46 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:空輸を過大評価するのは…(2) まなかじ 03/3/15(土) 23:37 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗腹を立ててもしかたがありませんよ 大名死亡 03/3/17(月) 12:02 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗Re:空輸を過大評価するのは…(1)の訂正 Edwerd 03/3/14(金) 15:59 ┃ ┃ ┃ ┗輸送部隊への補給 木 03/2/24(月) 19:39 ┃ ┃ ┃ ┣横レスですが まなかじ 03/2/25(火) 0:44 ┃ ┃ ┃ ┗Re:輸送部隊への補給 Edwerd 03/2/26(水) 20:45 ┃ ┃ ┃ ┗お返事ありがとうございます 木 03/3/3(月) 19:55 ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり SUDO 03/2/21(金) 10:26 ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり Edwerd 03/2/26(水) 20:43 ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり SUDO 03/2/27(木) 12:37 ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり Edwerd 03/3/1(土) 10:25 ┃ ┣Re:バルバロッサ作戦に勝算あり 山家 03/2/19(水) 21:21 ┃ ┃ ┗Re:バルバロッサ作戦に勝算あり Edwerd 03/2/20(木) 17:17 ┃ ┣南方の戦況がよすぎる 大名死亡 03/3/5(水) 12:38 ┃ ┃ ┗南方の戦況 大名死亡 03/3/8(土) 1:31 ┃ ┗北翼はそんなに楽か? 大名死亡 03/3/6(木) 11:41 ┃ ┗北方の戦況 大名死亡 03/3/6(木) 11:42 ┃ ┗9月タイフーンはこうなる 大名死亡 03/3/6(木) 11:47 ┃ ┗右翼大旋回への疑問 大名死亡 03/3/11(火) 15:01 ┃ ┗遅れ馳せながら返答します Edwerd 03/3/12(水) 22:17 ┃ ┣ブジョンヌイはどう出るか 大名死亡 03/3/17(月) 12:14 ┃ ┣レニングラートが全てではない 大名死亡 03/3/17(月) 12:16 ┃ ┗中央軍集団の攻勢発起時期 大名死亡 03/3/24(月) 1:50 ┃ ┗ブリャンスク南突破作戦への疑問 大名死亡 03/4/5(土) 15:42 ┃ ┗まとめ:レニングラート早期攻略後のモスクワ作戦 大名死亡 03/4/5(土) 15:43 ┃ ┗この作戦の大前提 大名死亡 03/4/5(土) 15:43 ┣初投稿です。 タバスコ 03/2/2(日) 0:59 ┃ ┗ドイツは戦略立案時点で、既に勝ち目がない dg 03/3/2(日) 18:30 ┗当初の予定通り5月に発動していたら? ベロウ 03/2/18(火) 13:22 ┣Re:当初の予定通り5月に発動していたら? まなかじ 03/2/18(火) 15:42 ┗Re:当初の予定通り5月に発動していたら? モーグリ 03/2/18(火) 22:23 ─────────────────────────────────────── ■題名 : バルバロッサ作戦に勝算はあったのか? ■名前 : ベロウ ■日付 : 03/1/28(火) 23:46 -------------------------------------------------------------------------
この話題は「議論ボード」向きだといわれたのでこちらに書き込みます。 バルバロッサ作戦(対ソ侵攻)に勝算はあったのでしょうか? 世間では「モスクワを早期に占領できれば勝利可能」という肯定的意見と「どうやっても無理」という否定的意見の両方を聞きます。 この問題は人によって相当意見が分かれると思いますが、何卒皆さんの意見をお願いします。 |
基本的に負けると分かって戦争を吹っ掛ける人は居ません。普通戦争を行う時には、 漠然としていても勝算を抱いて戦争をする物です。よほどの事がない限り好き好んで 負ける人は居ません。ですから「勝算の無い戦争をする人間は馬鹿である」という事に なります。 ですからバルバロッサ作戦に関して独軍統帥部内に戦争に対する漠然とした不安は あるにしろ、少なくとも独裁者で作戦の遂行者であるヒトラーその人には 十分勝算があったはずです。その漠然とした不安としても「東西二正面戦争に失敗した 第一次大戦の二の舞」とか「ナポレオンの様に冬将軍に負けるのでは?」という類の 漠然とした不安であったと考えます。その点では勝算を抱いて戦争をした事は 間違い有りません。それでなければ「独民族の生存権を東方に求める」即ちソ連の 植民地化を目指して戦争をするはずがありません。 「「モスクワを早期に占領できれば勝利可能」という肯定的意見と「どうやっても 無理」という否定的意見の両方」このどちらも将来から過去を見た見解です。 では独軍が何を考えて居たかというと、ナポレオンと同じ「敵主力野戦軍の撃滅」 です。ナポレオンはスモレンスク・ボロジノ両会戦で「敵主力野戦軍壊滅」に失敗し、 モスクワを占領しても維持できませんでした。 それに対しヒトラーはその失敗を教訓とし、機甲師団の機動力を用いて国境での 敵撃滅をしようと考えたはずです。少なくとも「何が何でもモスクワの早期占領」が 第一目標ではないはずです。その証拠にソ連軍主力撃滅の為にモスクワ街道を 進んでいた中央軍集団に南方への転身を命じキエフでソ連南西方面軍70万を 包囲撃滅しています。もし「何が何でもモスクワ早期占領」が目標なら、わざわざ 精鋭の機甲師団を多数保有した中央軍集団をキエフに投入しません。そのまま モスクワ街道を東進させていれば冬の来る前にモスクワを早期占領させていた事は 間違い有りません。それなのに何故中央軍集団をキエフ包囲線に投入したかと言えば 「敵主力野戦軍壊滅」が目標であったという事です。 では何故目標通り「敵主力野戦軍壊滅」を果たしながら何故モスクワも占領できず、 ソ連冬季攻勢で押し返される事になったかと言えば、キエフで撃滅したのは 必ずしもソ連の主力野戦軍ではなかったという事です。正しくは敵主力野戦軍では 有ったが、その寄り道の間にソ連は又野戦軍を作ってしまった。又切り札の野戦軍 「シベリア軍団」の投入への時間を作ってしまったという事です。 つまりモスクワを危機に曝した位ではソ連の戦争遂行能力を壊滅させられなかった 又既存の野戦軍を壊滅させた位では「敵主力野戦軍壊滅」と言えないほどの ソ連赤軍の動員力を読み違えたというというヒトラーの誤算にあったという事です。 つまり独にはバルバロッサ作戦に関して勝算は存在したが、その勝算その物を 読み違えていた、だからバルバロッサ作戦は失敗に終わった、という事であると 私は考えますが如何でしょうか? |
ちょっと差し出がましいですが。 ベロウさんの提起した趣旨は、 「ヒトラーとしては勝算があったのか?」という主観的な視点の話ではなく、 「現在の視点から客観的に見たら、アレってどうよ?」という客観的な話ではないでしょうか? ですから、 > 「「モスクワを早期に占領できれば勝利可能」という肯定的意見と「どうやっても 無理」という否定的意見の両方」このどちらも将来から過去を見た見解です。 とありますが、「将来から過去を見た見解」で議論して良いのではないかと思いますが。 どうでしょうか? ですから、「ドイツ側に客観的な勝算アリ」、と考える人は、 「ヤー、こうすれば勝てたと推測できます。ハイル・ヒトラー!」、という説を出し、 逆の立場の人は、 「ニエット!我が祖国人民はこういう策で対抗したはずだ!スパシーボ!」、と反論するのが良いのではないでしょうか? |
> ちょっと差し出がましいですが。 > ベロウさんの提起した趣旨は、 > 「ヒトラーとしては勝算があったのか?」という主観的な視点の話ではなく、 > 「現在の視点から客観的に見たら、アレってどうよ?」という客観的な話ではないでしょうか? ヤヴォール、そうです。 説明不足でしたが、現代の眼から見た「客観的」な議論でお願い致します。 > ですから、「ドイツ側に客観的な勝算アリ」、と考える人は、 > 「ヤー、こうすれば勝てたと推測できます。ハイル・ヒトラー!」、という説を出し、 > 逆の立場の人は、 > 「ニエット!我が祖国人民はこういう策で対抗したはずだ!スパシーボ!」、と反論するのが良いのではないでしょうか? 賛成です。ソレで行きましょう。 |
つまり、どうすればソ連は倒れるのかを検討しようということで。 しかも、それがドイツ軍のやれる範囲内でのことでなければならないと。 まあ、無理だったろうとしか言えませんが。 レニングラード、モスクワ、スターリングラードの三大都市を落とし、ヤロスラヴリ、ニジニーノヴゴロド、サラトフを陥落させ、対岸にカザンを臨むボルガ川沿いに戦線を張れるところまで進めば勝てるでしょう。 工業地帯もドンバスだけでは手を上げなかったのは史実の証明する通り。 モスクワ・ツーラ・ヤロスラヴリあたりの工業力も侮れず、特にツーラはソ連の銃砲生産の鍵を握る銃身鋼の製鋼所と巨大な造兵廠があります。 カザン近辺まで進まなくてはウラルの工業地帯は空軍の攻撃圏に入らないことでもあります。 鉄道網という観点からすれば、モスクワ占領はソ連にとって大打撃になり得ます。 ソ連領内での道路輸送がどんなものかは東部戦線の戦記を読めばわかるとおり。 この条件は当然ソ連側も負うものですから、ソ連では鉄道輸送が潤滑であるかどうかは非常に重大な問題になります。 ウラルからの鉄道が南方戦区に行くにはサラトフという迂回路もありますが、北方戦区へはモスクワを経由しなければ届きません。(現在では迂回路もありますが) 実際、レニングラードはモスクワを落とせば干上がるわけです。(ムルマンスク鉄道をペトロザボーツクで荷卸してオネガ湖からラドガ湖へ水運という手もなくはありませんが) また、そのムルマンスク鉄道もヤロスラヴリを経て結局モスクワに入るわけです。(ボログダで東へ出せば次はキーロフまで行くしかない、東過ぎ) ラドガ湖からアストラハンまで、まさにボルガの西岸を源流から河口まで占領し、維持しなければソ連はぶっ倒れてくれそうにありません。 |
とりあえず、議論のタタキ台を並べてみます。 仮説1:モスクワ占領で、ソ連は敗北する。 この説の根拠は、モスクワが政治の中心地であり、(たとえ表面的な首都を移転しようとも)政治的な打撃が大きいだろうと言う考えです。 実際、スターリンの支配体制は確立された物ではなかったと考えます。 反対派は何百万人と粛清されていましたが、逆に言えばそれだけの国民を殺さないと維持できないほどの危機にあったとも言えるでしょう。 モスクワが占領され、スターリンの国防能力に明確な疑問が持たれたならば、軍部内のクーデター、植民地共和国の内乱、白色勢力の復活、などを誘発した可能性があります。 単にスターリンが暗殺されただけでも、後継指導体制ができていなかった(有力なナンバーツーが確定していなかった)ことから、大きな混乱が起こったことでしょう。 それに乗じて、「有利な条件での講和」という勝利を手にすることはできた可能性があります。 (占領地域であるウクライナ、ベラルーシ、バルト三国の半独立と親独傀儡政権を作る、カスピ海南部油田へのアクセス確保、などなど) |
つまりだ、講和とかなんかそう言うものを前提とした戦争ならば、政治的にポイントの高い都市を占領するのは交渉材料として重要ですが、当のドイツ軍はそう考えていないと思うんですよね。 モスクワ戦をやったのは、モスクワにソ連の大軍が集結していたからであり、タイフーン作戦は、モスクワを守るソ連野戦軍(シベリア軍団)を始末するところにあったのではないでしょうか? 言い換えるとだ。バルバロッサで、そのまま東進して空っぽのモスクワを占領する事は、物理的に不可能ではなかったとしても(かなり怪しいものではありますが)ドイツ軍に魅力は無いと言えます。 またモスクワは交通の要衝ではありますが、ムルマンスクーレニングラードのラインには特に影響しませんし、中東方面→スターリングラード→ゴーリキー→レニングラードという水運を妨害する事も叶いません。 更に、既にナポレオンが占領しているという事実は、前と同じように取り返せばよいだけの事で、スターリンの失脚になるとは言えないでしょう。 実際に内陸水運も主力野戦軍も工業地帯も無事なのに、そこで戦争を投げ出そうと考えるでしょうか? よって、タイフーン作戦で、モスクワ陥落と同時に、主力野戦軍を喪失していたならば、戦争は判らなくなると考えますが、バルバロッサで強行東進しても、たぶん何も起こらないでしょう。 |
> つまりだ、講和とかなんかそう言うものを前提とした戦争ならば、政治的にポイントの高い都市を占領するのは交渉材料として重要ですが、当のドイツ軍はそう考えていないと思うんですよね。 そうなんですよ、私も、ドイツの戦争目的というか、戦争終結の方法が疑問なのです。 (日本の開戦時の、戦争終結の目論見・方法論も疑問ですが、それはさておき) 戦争が、開戦から講和までの期間であるならば、必ず「落としどころ」というか、講和すべき条件を持ち、それを達成するのが野戦軍の使命なのだと思います。 ヒトラーがどう考えていたかはともかく、私が上で書いたのは(1)「スターリン失脚によるソ連の混乱に乗じて」講和に持ち込む、という考え方です。 政治・経済が混乱すれば、仮に野戦軍が健在であっても補給や生産が続かず、やがては動員の維持もできなくなるであろうという可能性を挙げたまでで、実際そうなるかというと確信があるわけではありません。 他の講和(無条件降伏を含む)シナリオは、どんなものが考えられるでしょうか? すべての講和シナリオについて、ドイツ側が達成可能性があるならば、「勝算」はあった、という事になると思います。 (2)「ソ連野戦軍の完全崩壊による敗北」 これはちょっと考えにくいですね。 人口や粗鋼生産力などファンダメンタルな要素だけ見ても、統制がとれた状態のソ連を屈服させるだけの戦力は無かったように思えます。 ただ、可能性がないわけではなく、ドイツ側にもう少し機動力があり、補給も追いついていたなら、大包囲作戦がいくつも成功し・・・というのはあり得ると思います。 このへんの考察は、東部戦線に詳しい方のご意見を聞きたく思います。 (3)「生産力、資源補給等の戦略破壊による継戦能力の破壊」 日本はこれで米軍にやられましたが、ソ連−ドイツはどうでしょうね。 ドイツ軍は、四発爆撃機、長距離援護戦闘機など戦略攻撃能力が欠如していましたし、北氷洋に空母機動部隊を出す事もできなかったので、米軍のような戦略破壊は不可能だったでしょう。 (4)「(何らかの理由で)西部戦線が講和し、全戦力を東に向ける」 ヒトラーが、米英と反共協定を結ぶとか・・・んーー・・・まあ、そういうシナリオですね。西側の占領地をすべて返還し、ポーランドの独立を保証し、賠償金を払えば、米英は講和に応じた・・・んーー・・・苦しいけど、特に米国にとって戦争継続の理由はかなり薄くなります。(ドイツと同様にポーランドを侵略したソ連を守る理由はない) ・・・とまあ、このように考えて、もしドイツ軍に勝算があったとすれば、「スターリン失脚による突然の政変」が一番有望かなと思ったわけです。 国内の政情不安では、以前も、帝政ロシアが日本に敗北した例もありますので、ドイツに対して手を上げる可能性は高いと考えました。 |
ソ連軍の工業生産はウラル工業地帯を潰された瞬間に終わります。 手元にまともな資料が無く、高校で使った地図帳(1986です。まだ昭和ですぜ)しかないんですが(ぉ 東部戦線で有名な激戦地、ドン軍集団の戦区、つまりハリコフ周辺のドネツ炭田あたりが、まず目立つ工業地帯です。 製鉄中心と見なされている都市は以下のもの。 ドネツ炭田付近:ザパロージエ、スターリノ、クリボイログ、マケエフカ、ボルゴグラード ウラル工業地帯:マゴニトゴルスク、チェリヤビンスク、カメンスクウラルスキー シベリア:ノボシビルスク、クラスノヤルスク 勿論、これは戦後40年のソ連の状況ではあるのですが、当のドイツ軍が奪取できるのは、そして美味しいほど色々揃ってるのは、つまりハリコフースターリングラードのラインだったりします。 イフとして、黒海沿岸を制圧できれば、イタリア方面から水路での補給も成立しますし、黒海→アゾフ海→ドン川→スターリングラード→ボルガ川のルートでウラル工業地帯への進撃補給ルートが通ります。 ハリコフ周辺から東進すれば、ボルガ川→カスピ海に戦線を張ればバクー油田とウラル工業地帯の連絡を断ち切れます。 つまりスターリングラードはモスクワの数万倍に重要な要衝だったんです。 そして、このライン、つまりコーカサスを押さえれば、ウラル工業地帯の生産能力は大きく低下し、また中東方面からのレンドリースも遮断されます。 この進撃路は当然ですが凄まじく長いのですが、黒海さえ押さえれば補給は大幅に楽になる上に、ワルシャワ→モスクワ間とワルシャワ→セバストポリorスターリノ間はほぼ等距離で、ワルシャワ→ウラル工業地帯と、ワルシャワ→バクー油田なら後者の方が少し近いんです(黒海を活用すると比較にもならなくなる) というわけで、モスクワなんぞどうでも良くて、ブラウ作戦を成功させちゃえばソ連の継戦能力は事実上消失します。つまり勝てます。 41-42の冬季戦とタイフーンで無駄に戦力を喪失せず、上手く早期にサラトフ−スターリングラードの線でボルガを遮断できていたら、勝てなくも無かったと考えます(だから、それが難しいんだってばさ) |
> イフとして、黒海沿岸を制圧できれば、イタリア方面から水路での補給も成立しますし、黒海→アゾフ海→ドン川→スターリングラード→ボルガ川のルートでウラル工業地帯への進撃補給ルートが通ります。 ドナウ川を使うと、もっと安全でしかも近道なのではないかとか書いてみる。 それに、地中海からだと、英艦隊も猛烈に危険だけど、それ以前にトルコが海峡通航を認めるかどうか微妙かも。 |
そうですね。 黒海への補給ルートは、ドナウの水運を使い、あるいは同盟国のルーマニア、ブルガリアからが合理的でしょう。 現実にもそうであったと思われます。 いずれにせよ、南軍集団への補給は、これで確保完了、と。(をい!) |
> いずれにせよ、南軍集団への補給は、これで確保完了、と。(をい!) ついでに、レニングラードを占領し、北方軍集団にはバルト海から補給しましょう! (をいをい) |
> 黒海への補給ルートは、ドナウの水運を使い、あるいは同盟国のルーマニア、ブルガリアからが合理的でしょう。 つうわけで、主攻勢というか主軸は南方軍集団であるということで確定ね(ぉぃ 南方軍集団は中央ロシア高地の西側、ブリヤンスク-クルスク-ハリコフのラインで東進を停止し、ロストフとノボロシースクを占領する(これによって黒海の制海権も把握) 以降、南方軍集団はブルガリア、ルーマニアからの海路補給をメインとし、主力はスターリングラードへと進撃。 ロストフ陥落と言う事は、スターリングラードへの多方向からの攻撃が成立しますので、スターリングラードを落とす事は不可能ではないと考えます。 ここで、南方軍集団は戦線整理の誘惑にかられますが、ぐっと我慢してサラトフへと北上させます。 呼応して中央軍集団を東進させ、ボロネジを確保、これで戦線は、スモレンスク-ブリヤンスク-オリヨール-ボロネジ-サラトフとします。 ここでツーラやモスクワに手を出したくなるところですが、ぐっと我慢です。 サラトフとボロネジから、次はゴーリキーとカザンに向かうのです。 すさまじく長大で巨大な回転運動と言ってよいですね(戦力が無いってば) この間、北方軍集団は我慢です。 なんでツーラ等を攻めないかと言うと、サラトフからカザンへのルートは水運がつかえるんです。つまり黒海・アゾフ海からそのまま通るんです。よってこの攻撃が一番楽なんですね。 カザンを落とすと言う事は、シベリアからモスクワへの鉄道ルートを切ると言う事であり、またツーラ等では事実上鉄が取れませんので製鉄所は停止してしまいます。 既にドネツをドイツ側が確保している状況ですから、ソ連の製鉄はシベリアとウラルしかなく、それをモスクワに届けるには、このシベリア鉄道しかないんです。 つうわけで、間接的にレニングラードまで干上がります。 これをソ連側が避けるには、中央-南方の非常に長い戦線のどこかで攻勢を仕掛けると言う事になるでしょう。 史実ではスターリングラード失陥-ハリコフ攻防戦という形で起きたアレです。 ですが、ロストフを落し、スターリングラードをも落としていた場合、南方と中央を分断できても、南方軍集団(ドン軍集団等も含む)は干上がらないのです。 逆バルジとなり、かえって貴重な戦力を喪失しかねません。 よって、北方と中央の分断を図ると言う事になるかもしれません(史実では44年のバグラチオンが近いかな) これは非常に有効な手立てだと思うのですが、ボロネジまで中央軍集団が前進していると、中央軍集団は南側から補給がとおります。よって、それこそモスクワにカウンターくらいかねない・・・。 勿論双方の戦力から考えて、ドイツ側は途中で立ち枯れしそうなんですが、黒海を落としてると、レンドリースの主役である中等ルートが通らないので、ソ連側も危ないんですよね。 となると、軍隊の補給という概念でも、鍵はロストフではなかろうかとか考えます。 ソ連軍がロストフを守りきれるのか、それが、最終的には戦争の行方に大きく影響すると思います。 とか、無茶苦茶にご都合主義で考えてみる(笑) |
「ドアをひと蹴りすれば自ずから崩れ去る」…ヒトラーはソ連をこのように評していたと聞きます。 彼はおそらくスターリンの恐怖政治、インテリ層の抹殺についてある程度知っていたのでしょう。そしてロシア国民は必ずしも共産主義を望んでおらず、偉大なるドイツ第三帝国の威光を歓迎しひれ伏すであろうと希望観測的に考えていたのではないでしょうか。 それから60年後にソビエト連邦が崩壊した事実を考えれば、彼の予想は必ずしも的外れではなかったのかも知れません。しかし当時のロシア国民の多数はまだ帝政ロシア時代の暗く辛い記憶を持っていました。スターリン主義下におけるソビエト連邦が(帝政時代と比べてさえ)決して暮らしやすい時代だった訳ではないでしょうが、少なくとも「これから良くなるかも知れない」という希望があったのではないでしょうか(それが60年にわたって遂に実現しなかったことが最終的にソ連崩壊を招いたのでしょうが)。 共産党プロパガンダの影響もあり、ソ連国民はドイツ帝国の傘下に入ることは帝政への回帰=夢も希望もない農奴への回帰=であると考えたことでしょう。バルバロッサ作戦…彼等の「大祖国防衛戦争」においてソ連兵が勇猛果敢に戦ったことは言うまでもありませんが、それはヒトラーの目論見から大きく外れた事態だったのではないでしょうか。 私にはヒトラーが「ソ連国民と共産主義」の関係を見誤ったことが敗因の一端であるように思えます。もちろん、それだけが理由ではないでしょうけど。 |
> 私にはヒトラーが「ソ連国民と共産主義」の関係を見誤ったことが敗因の一端であるように思えます。もちろん、それだけが理由ではないでしょうけど。 dg:こんにちは. 1938年末ころの各国GNPについて、イリノイ大学が推計を試み、それによれば、 米国:680億ドル 英国(インド除く):220億ドル フランス:100億ドル ソ連:190億ドル ドイツ:170億ドル イタリア:60億ドル 日本:40億ドル と、されています. そして、1935-1936年ころの、各国GNPに占める国防費のシェアは、 ドイツ・ソ連・イタリア・日本が30-40%、 英仏が10%前後、米国はわずか1.5%でした. 国防費の多いグループは、言い換えれば、ベルサイユ体制を武力で変更 させようと考える国々・ともいえるのでしょう. ドイツがソ連を征服しようとしていたことは、当時、誰の目にもあきらかで、 かつ、当時は今とちがってGNPなどは公表されておりませんから、あれこれ 推計が試みられ、で、ドイツとしては、なりふりかまわずイタリアや日本を 自陣営にひきずり込んだことになります. つまり、ドイツ単独では、ソ連を屈服させる確実性があやしい・という認識 があったのでしょう. ドイツは、前段階として、オーストリア・チェコを併合しています. ドイツ人居住地域を編入する名目ですが、それぞれの中央銀行に準備されていた 金塊も欲しかったのでしょう. そうまでしても、1940年初の段階で、ドイツの正貨は尽きていた・というのが 日銀の見解です. 国庫を払底させてまで準備した対ソ軍を使わない手は残っていなかった. そして、ポーランドを侵略したのですが、そこで英仏がドイツに参戦するとは 思わなかったのではないか? このことが、ヒトラーの思惑のはずれ始めであって、あとは、もう予定外の 出来事なのではなかったでしょうか. |
ゲームでは、よく基本的に敵国首都の占領イコール勝利となることが多いですが、独ソ戦の場合、私には、何をもって勝利とするのか、から、つい考え込んでしまいます。モスクワを占領すれば、ソ連は崩壊するなり、講和するなりしたのでしょうか。 独軍がレニングラードやモスクワ、スターリングラード自体を占領することは、史実では失敗しましたが、決して不可能では無かったと思います。実際、後少しのところまで迫っています。 ただ、それによって、ソ連が崩壊したり、講和を結んだりして、独が勝利したか、と言われると首を傾げざるをえないのです。ソ連の宣伝に過ぎず、独側の記録に明確に残っていないではないか、と言われると、私も資料をきちんと調べこんでいないので、反論できないのですが。独ソ戦の際、ソ連領の600余りの村がレジスタンス活動の拠点になっているとされ、SS等によって破壊されたそうです。また、独占領地帯では、例えば、厳寒期でも冬用ブーツ等の所持は厳禁で、もし、所持が発覚した場合、強制収容所送り等の運命が待っていた、と聞きます。生きていくだけで、40以上の法律違反を犯す必要があり、単に反独活動の疑いを掛けられただけで、強制収容所送りになったそうです。 こういうと、独占領地帯の多くの人が、反ソ活動に志願していた、ソ連はそれ程ひどい国だった、もし、モスクワなり、レニングラードなりが占領されていたら、ソ連国民の多くが立ち上がり、ソ連を打倒していた、と私の知人にさえ、反論されます。でも、独は、独ソ戦を生存圏確保のために始めたのであり、占領地ではその目的を遂行するために振舞ったのでは、と考えると、あながち上記のこと全部がデマとは思えないのです。 もし、独占領地帯が、ソ連時代の方が遥かにましだ、と思わせる状況だったら、独軍がモスクワなり、レニングラードなりを占領しても、レジスタンス活動は続くことになり、ソ連も徹底抗戦を止めず(降伏したら、過酷な状況に置かれるのですから)、最終的には、独の敗北は免れないと思うのです。なぜなら、米国のレンドリースもあるのだし、英も独と戦っている以上、いずれは、独の継戦能力の破綻が来ると思うからです。いかがでしょうか。 |
レジスタンスが居ようと、混乱していようと、いちおう勝利としましょうよ。 そうでないと、話が終わらないし。 つまり、フランスのヴィシー政権のような状態になったら、いったんドイツの勝ち! あとで逆転されても、それはまた別の話。・・・ってことにしませんか? 「・・・ソ連だって60年もたずに消え去ったんだし、ナポレオンも第3帝国もソ連も、長い歴史から見れば結局ロシアの民衆に負けたのさ。ふっ。」 ・・・などという話になってしまいますから ですから、ソ連敗北(判定負け)の条件としては (1)ソ連が主要な都市を放棄して、国家のGNPの過半数を奪われる (2)外国からの支援に頼って奥地で戦うだけになる (3)亡命政府状態となり、重慶あたりで「ナチのバカヤロー」と叫んでいる といった状態になったら、いったんは「判定負け」としましょうよ。 ・・・ちなみに(蒸し返すようですが)ソルジェニツィン氏によると、ソ連の統治期間中に「共産主義」によって殺された国民は1億1千万人と言われています。スターリンだけでも1千万人以上とのこと。 ドイツ兵を殺すよりもたくさん殺しているのは、スターリンにとってドイツ人以上に自国民の方が脅威であったことの裏返しとも言えるのではないでしょうか? (あまり、共産主義がどうのと、政治的な話は避けたいですが、ロシア人やウクライナ人がはたしてスターリンを支持していたのか?という意味で) |
私としては、レジスタンスがしょっちゅう活動する状態で、講和が成立しても無意味ではと思えてなりません。ユーゴスラビア政府が降伏しても、チトー率いるパルチザンによってユーゴスラビアは全然安全地帯ではなく、独は大量に軍隊を配置して治安を維持する必要がありました。ユーゴスラビアのパルチザンがいなかったら、ドナウ河水運やユーゴスラビアの資源確保の維持は史実より遥かに容易になり、WWIIの推移は史実より大幅に変更されていたのではないでしょうか。また、WWIの際、独はブレスト=リトフスク条約によって広大な領土を獲得しましたが、100万人以上の占領軍が必要になり、それによって、1918年の独の大攻勢は兵力不足により失敗したのです。それを思うと、クリスティーさまの主張に疑念を覚えてならないのですが、とりあえず脇におきます。 クリスティーさまの言われるソ連敗北の条件ですが、それは本当に達成可能でしょうか。その目的達成のためには、広大な占領地が必要なのです。史実から考えると、占領地の住民はパルチザンに志願するか、協力するでしょう。そして、占領地はパルチザンによってしょっちゅう脅かされる状況になり、治安を維持するためには、膨大な兵士が必要になるのです。私の目算で計算違い等があったらすいませんが、WWIの占領地等から計算すると、少なくとも数百万人規模の部隊が治安維持だけに必要です。そうなると、前線の兵士は不足気味になります。そういった状況で、ソ連軍の反攻を阻止できるでしょうか。ソ連軍にはパルチザンという味方が加わるのです。 バルバロッサ作戦発動のときでさえ、独軍は同盟軍まで加えても約300万人しか集められなかったのです。それを思うと、独が占領地の住民に対する政策を大幅に変更し、挙って住民が独に協力するように努めることが、実は最優先課題だったのでは、と私には思えます。そうすれば、ソ連は敗北したのではないでしょうか。ただ、それは独の戦争目的(民族の生存圏を獲得する)から、不可能に近い話しだったと思います。 |
>・・バルバロッサ作戦発動のときでさえ、独軍は同盟軍まで加えても約300万人しか集められなかったのです。それを思うと、独が占領地の住民に対する政策を大幅に変更し、挙って住民が独に協力するように努めることが、実は最優先課題だったのでは、と私には思えます。・・ ソ連は独ソ戦中、露骨な共産主義宣伝よりもロシアの民衆の愛国心を鼓舞するプロパガンダに力を入れたわけです。ロシアには伝統的な西欧文化に対する反発意識があるし、いわゆるスラブ主義もそこから来ているわけだが、民衆に対しては宣伝効果が高かったということではないかな。 ドイツは共産主義からの解放を謳うにせよ、ロシア民衆の心理に巣くっている侵略者ではないかとの疑念を取り除く必要があるでしょう。こうなると双方がプロパガンダを精力的に展開し、どちらが優勢でいられるかということになると思う。 ま、独ソ戦でドイツがもっと優勢でソ連の国力が落ち、ソ連共産党の浸透作戦がうまくいかなくなれば、日和見的な民衆はドイツの方にもっとなびいたのだろうけど。 |
ヒトラ−やナチ党指導者層にとって、独ソ戦とは、イデオロギ−的には、共産主義の撲滅を、そしてゲルマン民族の生存圏拡大を目的とした戦争でした。 だからこそ、肥沃な大地に恵まれたウクライナの確保に血道を上げたりするわけですが、この場合、当然の事ながら、現地住民との対立などが生じる事になります。 しかしながら、ヒトラ−達にとっては、前述したように、共産主義の撲滅と生存圏拡大、そしてナチの教義において「スラブ民族=劣等民族」という定義がなされていましたから、それらの反感に対しても、苛烈な弾圧を強めたでしょう。 前置きが長くなりましたが、私が何を言いたいのかといえば、戦争の終結方法は、自国がこの戦争で一体何を求めるのか、によって大きく変化するという事です。 つまり、ヒトラ−達が、前述した目的を完全達成するつもりで戦争を起こしたのならば、ドイツ側としては、ソ連邦を完全崩壊(乃至はそれに近い状態)に追い込まなければなく、当時のドイツがソ連だけではなく英国とも戦争をしていた事から見て、ソ連を完全殲滅するだけの戦力も兵器もない以上、結局、ドイツは戦争目的を達成する事はできなかったでしょう。 |
ご本人がどう考えていたかは本当のところはわかりませんが。 革命に続く赤色・白色の争い、共産党内部の権力闘争と粛正、民族間の不協和、そういったシグナルはドイツに見えていたと思います。 スラブ人を劣った人種と定義してはおりましたが、セルビアやスロバキアの主要なスラブ系勢力を味方に引き入れ、ゲルマン民族の手足として使いこなしていた点は見過ごせません。 (オーストリアやチェコスロバキアは、ゲルマン人だけの国というわけではないわけです。) ロシアの占領地で住民を妥当な扱いができなかったかも知れませんが、ドイツ兵も食う物に困って居たわけですから。(まあ、正当な理由じゃないですが、現実問題として) ソ連の方は焼土戦術などというまさに自国民の権利など無視した戦術を自慢しているわけですから、人民に感謝されたかどうか。 本題の「ドイツが占領地を支配できたか?」といえば、「支配できたのではないか」と思います。 少なくとも、戦記などで読むパルチザンの活動は、ベトナム戦争時のベトコンや、日中戦争時の中国便衣隊などにくらべると、それほど苛烈であったようには思えません。 前線後方の占領地は、「点と線」ではなく、それなりにのどかな後方地帯になっているように思えます。 「中央から切り離されて、独自の意志で戦う」ような国民は、真っ先に粛正されてしまった結果のような気がするのですが・・・ちと読み過ぎでしょうか? |
バルバロッサ作戦等の戦闘の勝利と戦争終結を伴うような政治的な意味での勝利とは区別して議論した方がいいと思います。 独ソ戦開始以来、ソ連があれだけ持ったのは連合国の一員としてアメリカから兵器、資源の援助を受けていたことが大きな要素でしょう。米英としてはナチス・ドイツ打倒が対日戦以上の重要目標であり続けたわけです。 ドイツがソ連の主要部を占領して目標を達成すると共に占領地帯の安定化を図るには、ソ連政権を一地方政権に過ぎないような地位に陥れ(かろうじてウラル以東の生産拠点で何とか持っている状況)、米が対ソ支援に積極的でなくなると共に、ドイツによる占領状態を既成事実として容認することが必要だと思います。ソ連の国力が低下すれば対独抵抗も減少するでしょう。 ただ、こうした状況を達成するためには戦闘における勝利だけでなく、外交やプロパガンダも含めた努力が必要であり、仮に41年中にソ連主要部を軍事占領したとしても、その後の成り行きによってどうなるかわかりません。却って、米の対独抵抗意識を煽る可能性もある。 従って、戦闘がドイツにとって理想的に進展したとしても、42年以降の国際関係次第で政治的勝利、安定した目標達成ができるか決まってくるでしょう。 |
似たような話題があちこちにあるので。 仮説1:モスクワ占領で1本勝ち ・・に続いて、皆さんの論調によく登場する、 仮説2:主要地域占領による、押さえ込み勝ち ・・を考察いたしたく。 「主要地域とは、どこなんだ?」を考えつつ、 「それを確保できるだけの戦力があったか」を検証するのが筋道かと思います。 今のところ、主要地域のイメージとして挙がった候補は、 (1)ロストフ−ドン川−モスクワ−レニングラードのライン。 (2)アストラハン−ボルガ川−ノブゴロド−ラドガ湖のライン。 (3)それより東側の、カスピ海−ウラル山脈−アルハンゲリスクのライン。 のように思われます。 (2)まで行けば(3)は爆撃できる、といった説もありました。 他のライン設定はありますでしょうか。 また、占領できた可能性はいかがでしょうか。 |
話題を外すつもりはございませんので、ご容赦の程。 補給が問題ですが・・・特に物資/装備など 連合国側の支援(公式or非公式)は、いつ頃から、どんなルートだったのでしょう? |
ソ連に対する支援は、公式なものとしては、独ソ開戦直後の1941年8月から初まり、ヨーロッパで戦争が終わった後も1945年6月まで継続されました。(つまり、ここから「冷戦」が始まったともいえる) 主たる支援国は米国で、ソ連に対しては110億ドルの公的支援を行いました。(赤十字など民間支援を除く) もっとも、この支援は貸し付けで、あとで代金を取る形でした。(ソ連は30年近く返済を渋ったあげく、わずか7億ドル強に値切り、長期分割払いで返すことになった) なお、ソ連までの「運送費」はものすごく高くついたのですが、それは計算に入っていません。 援助物資は、主として石油、トラック、ジープ、食料などから、武器、弾薬、戦車、飛行機まで戦争に必要な物一式です。写真では、赤い星を付けた「キングコブラ戦闘機」(米軍では不採用となった)などが有名ですね。 運搬ルートは、 (1)ペルシャ湾からイラクを通り、南部ロシアに送られるもの。 (2)米国から北大西洋、北極海を抜けてムルマンスクなどに送られるもの。 (3)太平洋から日本海を抜け、ウラジオストックに送られるもの。 が主要な物です。 (1)が意外に多く、70%がこのルートでした。もっとも安全であるためでしょう。 (2)は「女王陛下のユリシーズ号」などで有名な、「援ソと言えば北氷洋」ルートです。 (3)は日本の参戦によって輸送路としては利用できなくなりました。 以上が、米国からの補給の概要です。 ちなみに、スターリンは、ほとんど感謝を示さずに、量が少ないの質が悪いのとケチを付けまくっていたとのこと。 非公式な支援は、開戦前は通常に貿易もあった訳ですから、それなりに。 開戦後は、赤十字や、義援団体が個別に支援していたようですが、規模はわかりません。 |
ちなみに、共産主義国のソ連を米国、英国が支援していた理由の本音は、 ソ連がドイツに敗北する、あるいは単独講和をしてしまうことを防ぐためです。 ルーズベルトも、チャーチルも、危険を冒してソ連に物資を届ける必要性を国民に説明する際に、ソ連の脱落を防ぐためとしています。 私が言いたいのは、 ルーズベルトもチャーチルも、ソ連が負ける(単独講和する)可能性が高い、と認識していたと言うことです。 要するに、ドイツの勝機を認めていたわけです。 |
> 要するに、ドイツの勝機を認めていたわけです。 というか、普通の国家ならばアレだけの被害を受ければ倒れます。 常識的に判断するなら、ソ連はもう既に負けていてもいい状態に見えていたはずです。 |
> > 要するに、ドイツの勝機を認めていたわけです。 > > というか、普通の国家ならばアレだけの被害を受ければ倒れます。 > 常識的に判断するなら、ソ連はもう既に負けていてもいい状態に見えていたはずです。 ・・・なんとなれば バルバロッサ作戦(対ソ侵攻)に勝算はあった。 しかし、別の要素(予想外の支援等?) で。目論見は狂った。・・・と理解するべきなんですかね〜〜?? |
> 運搬ルートは、 > (1)ペルシャ湾からイラクを通り、南部ロシアに送られるもの。 > (2)米国から北大西洋、北極海を抜けてムルマンスクなどに送られるもの。 > (3)太平洋から日本海を抜け、ウラジオストックに送られるもの。 > が主要な物です。 > > (1)が意外に多く、70%がこのルートでした。もっとも安全であるためでしょう。 > (2)は「女王陛下のユリシーズ号」などで有名な、「援ソと言えば北氷洋」ルートです。 > (3)は日本の参戦によって輸送路としては利用できなくなりました。 > > 以上が、米国からの補給の概要です。 すいません。私が唯一持っている独ソ戦争の資料、「クルスク大戦車戦」(歴史群像新書)では、(1)が30%、(2)が20%、(3)が50%となっているんですが。日ソ中立条約のため、ソ連国旗が掲げてあると妨害しなかったと。 よろしければ、そのデーターの出所を教えていただけませんか? |
> 運搬ルートは、 > (1)ペルシャ湾からイラクを通り、南部ロシアに送られるもの。 > (2)米国から北大西洋、北極海を抜けてムルマンスクなどに送られるもの。 > (3)太平洋から日本海を抜け、ウラジオストックに送られるもの。 > が主要な物です。 > > (1)が意外に多く、70%がこのルートでした。もっとも安全であるためでしょう。 > (2)は「女王陛下のユリシーズ号」などで有名な、「援ソと言えば北氷洋」ルートです。 > (3)は日本の参戦によって輸送路としては利用できなくなりました。 > > 以上が、米国からの補給の概要です。 12式戦爆さんも書いているように太平洋ルートは日ソ中立条約のおかげで太平洋戦争中もちゃんと機能していました。下のマイソフさんのサイトにそう書かれていますし、下のサイトに対ソレントリースの割合が掲載されてされています。 http://maisov.oops.jp/oss/nif6.htm これによると対ソレントリースは太平洋ルートがメインだったと書かれています。 また、これはマンガですが、小林源文先生の『東亜総統特務隊』(佐藤と中村の愉快な凸凹コンビが登場する話ですね)にもシベリア鉄道を使用した太平洋ルートとイラン経由の中東ルートが登場しています。 |
久々にネット環境に復帰したところ、大変興味深い議論をされていますね。 陸戦とかドイツ・ソ連などはまったく詳しくないので、論拠などは 示せませんが、横レス失礼します。 > 12式戦爆さんも書いているように太平洋ルートは日ソ中立条約のおかげで太平洋戦争中もちゃんと機能していました。下のマイソフさんのサイトにそう書かれていますし、下のサイトに対ソレントリースの割合が掲載されてされています。 > http://maisov.oops.jp/oss/nif6.htm > これによると対ソレントリースは太平洋ルートがメインだったと書かれています。 ということは、日本が日ソ中立条約を破棄し、シベリアに攻め込めば、その援助ルート も絶てたわけですね。日本軍の装備はとてもソ連軍と戦えるものではないかもしれません が、二正面作戦は成立するので、皆様が言われているようなドイツ軍の戦力不足問題は 軽減されるのではないでしょうか、 もっとも、日独により分割されたロシアの実現が、ロシア国民のためになったのかは、 はなはだ疑問ではありますが……。 |
> ということは、日本が日ソ中立条約を破棄し、シベリアに攻め込めば、その援助ルート > も絶てたわけですね。日本軍の装備はとてもソ連軍と戦えるものではないかもしれません > が、二正面作戦は成立するので、皆様が言われているようなドイツ軍の戦力不足問題は > 軽減されるのではないでしょうか、 > もっとも、日独により分割されたロシアの実現が、ロシア国民のためになったのかは、 > はなはだ疑問ではありますが……。 過去の議論で「日本軍が関特演を発動しても勝算ゼロ」という結論が出されています。 http://www.warbirds.jp/discussion/g0282.html しかもしこれをやると、アメリカが援ソルート遮断を口実に日本に宣戦布告・先制攻撃をする危険性があります。そうなった場合、日本は中国・シベリア・太平洋の三正面作戦を強要されます。 それとアメリカが対日参戦した場合、日本が対米戦を優先させた史実と違い、日本が占領していない米領フィリピンの存在が非常に厄介な事になる気がいたします。 |
> 過去の議論で「日本軍が関特演を発動しても勝算ゼロ」という結論が出されています。 > http://www.warbirds.jp/discussion/g0282.html ありがとうございます。よくわかりました。しかし、極東では16個師団で攻撃とか 言っているのに、独ソ戦は360個師団とかなんとか……全然援軍にもなりませんね(汗) > しかもしこれをやると、アメリカが援ソルート遮断を口実に日本に宣戦布告・先制攻撃をする危険性があります。そうなった場合、日本は中国・シベリア・太平洋の三正面作戦を強要されます。 そうですね。「日ソ中立条約を踏みにじった、非道な侵略国を叩け」というレッテル を貼れますからね。1941年夏の時点で対米開戦した場合、五航戦も使えないし、零戦 も数が揃わない、戦艦の整備も終わってない……対米開戦不可能と見て、米国に譲歩は ……しないでしょうね。 |
レンド・リースのルートと規模については、もう少し勉強させていただきます。 (私の記憶ではたしか、ペルシャ湾ルートで7割で、金額ベースの話でした。 また、米国・英国船籍の輸送を扱った資料であったようにも思いますが、不確かです。) すみませんでした。>皆さん |
純軍事的な観点から客観的に考察する限り、バルバロッサ作戦には十分な勝算があったと思います。ただその可能性を著しく低下させた諸要因として多くの研究者が所説とりあげる所ではありますが、私としては大別して、 軍統帥部内における戦略方針の不徹底 ソ連軍の戦力に対する過小評価 大陸規模における兵站補給体勢の不備 の3つをこの作戦の失敗した重要な諸要因として考えます。逆に言えばこれらの問題を全て解決、もしくはある程度軽減させるような対応策を取っていればドイツがバルバロッサ作戦に勝利できた可能性は十分にあったと考えます。 この内、最も重要なのは最初の「軍統帥部内における戦略方針の不徹底」という要因で、ドイツ軍が参謀本部の主張するモスクワへの直接攻撃、又はヒトラーが当初主張していたレニングラードとウクライナの占領を優先する戦略のいずれの戦略を採ったにしても、この問題を解決できていれば、他の二つの問題にも如何様にも対処できる可能性はあった。つまり作戦失敗の一番の敗因は、バルバロッサ作戦の戦略方針が作戦開始前だけに留まらず、作戦が開始された後になっても首尾一貫とした方針を貫く事無く、戦局の推移に従ってヒトラーと参謀本部の確執に影響されつつ迷走した事にあると考えます。 ではドイツ軍の軍事戦略が参謀本部案、又はヒトラー案のいずれかの方針に徹底されていたとして、第2、第3の問題に対してどのように対処できたかは逐次意見をまとめてから投稿したいと思います。 とりあえず私の意見の概要まで |
「ソ連軍の戦力に対する過小評価」は、単に情報収集能力の欠如にあったのではなく、むしろヒトラーの共産主義ソ連に対するイデオロギー的、民族的偏見等の先入観がドイツ軍統帥部の判断に大きく影響を与えていた。後のノルマンディー上陸作戦時の連合国軍の上陸地点をトルコに潜入していた「キケロ」が正確に掴んでいた事からも、ヒトラーが軍情報部との関係をもっと重視していれば、そしてヒトラー自身が陸軍総司令官を兼任するなどして軍事に必要以上に介入を行ったりせず、OKHに大幅なフリーハンドを与えていれば、独ソ戦1、2年目の彼我の(戦力差ではなく)兵力差なるものも(史実以上にもっと容易に)対処する事が如何様にも可能であったはずである。 当初、OKHはソ連軍の兵力をおよそ200個師団余りと見積もっていたが、実際にはスモレンスク会戦の時点でドイツは360個師団以上のソ連軍部隊を確認するに至っていたと言う。それにもか関わらずドイツ軍が独ソ戦の1年目を通して、捕虜の数だけでもヴイヤジマ周辺の包囲戦までに150万人近くの損失をもたらす程の打撃をソ連軍に与える事が可能だったのは、彼我の戦力差が単に兵員の数だけで評価できるものではなく、ドイツ軍の装備・指揮統制能力・用兵思想と個々の将兵の士気・錬度等の総合力で遥かにソ連軍を上回っていたからで、一説に挙げられる様にドイツ軍とソ連軍戦闘要員の損耗の交換比率が1:10〜13であったというのも十分に肯ける事なのです。 そして少なくともドイツが緒戦から得られたソ連軍兵力の見込み違いという誤算から、より一層ソ連を(少なくとも1〜2年というスパンでの)短期決戦で降伏に至らしめる必要性を強く認識し、かつレニングラード前面や、モスクワ前面で3週間から5週間もの間、戦略方針を巡る統帥部の意志決定の遅れから無用な時間のロスを来たす事がなければ、レニングラードやモスクワ前面で強固な防御陣地を築かれる前に、頭数だけ揃っていてもその時点で装備も劣悪で士気の劣るソ連軍を更に圧倒してこれに多大な出血を強いる事はそれほど難しい事ではなかったと考えます。 仮にバルバロッサ作戦が(北方・南方重視策のいずれの戦略を採るかにもよるが)1年で成功裏に終わらなくとも、作戦方針の統一とその徹底を尊守し、作戦一年目を考えられる最良の状態(レニングラード、モスクワいずれかの占領・ないしはキエフとこの両都市の占領し、かつロシアの冬を軽微な損害で凌いでいる)で終える事ができれば、ドイツは作戦2年目にも主導権を保持して全戦線で攻勢をかけるだけの余力を持つ事が出来ていたはずである。そしてソ連軍がその潜在的な経済力の恩恵を受けて、十分な装備と兵站補給能力を整備して大兵力による反攻作戦が可能になるのが1943年以降だった事を考えれば、ドイツ軍がソ連軍の膨大な兵力が顕在化する前に勝利する事は可能だったはずです。 |
どこにつなぐか迷いましたが、ここにつなぐことにしました。 バルバロッサ作戦が終結し、独が勝利する場合、どのような条件で戦争が終結するのでしょうか。戦争を終結する場合、相手の国と何らかの条約(無条件降伏でも、休戦でもいいですが)を結ぶか、相手の国の全土を占領する必要があります。 ソ連が全土を占領されていない状況で、条約をどのような条件で締結するのでしょうか。ソ連は1941年、モスクワ前面に独軍が迫っている状況でさえ、1941年の独ソ戦開始前の国境線に独軍が撤退し、国境線を復旧させるという条件でしか、講和に応じない決意を固めていたと聞きます。なぜなら、独占領地帯では過酷な占領政策が行われており、文字通り占領されるくらいなら死んだほうがましな状況だったからです。そうした状況で、スターリンが講和を検討することはまずありえないし、周囲の党や軍の幹部等々も徹底抗戦を主張するのではないのでしょうか。 そして、独もソ連の無条件降伏以外、少なくとも1943年になるまで戦争終結の条件を考えていなかったのではないでしょうか(このあたりは調査不足なので、間違っていたらすいません)。 このように独ソ双方の講和の条件が食い違った状況では、独ソ間で講和条約が成立するということは極めて考えにくく、独はソ連全土の占領を目指す必要があると思われます。 こう考えていくと、やはり独ソ戦が独の勝利で終結するということは考えにくいことであると私には思われてなりません。 |
山家さん、こんにちは。御久し振りです。 山家さんの論旨は、 ソ連を降伏させるには 1 ソ連と条件付き講和を結ぶか、 2 ソ連全土を占領して無条件降伏に追い込む の二つ方法が考えられるが、 史実にあるようにソ連・ドイツとも、自身が抱えるイデオロギー上の立場以上に、彼らが独裁者であるがゆえの政治的な立場などから中途半端な戦果による休戦・講和等は考えられない。そしてソ連の持つ広大な国土からしてその全土を占領する事もまた不可能に近く、よってソ連を降伏させる事はできない と解釈します。 1、に関しては、確かに独ソ両国の指導者の持つ性格や戦争動機からして両者の間で適当な条件下での講和や休戦が考えられないのは、貴兄の述べる通りです。そもそも戦争当事国間で煩雑に休戦や講和などが結ばれていたのは、戦争の形態が常備・正規軍(ないしは都市国家などが雇っていた傭兵軍)からなる限定戦争が主流であったナポレオン戦争の時代以前のあたりまでで、普奥・不仏戦争を経てドイツ帝国が誕生する時代になってくると戦争は次第に近代化の度合いを増して、その形態は経済を総動員して殲滅戦を指向する全面戦争の形を成して来ました。そして経済革命がもたらした国家の近代化は、同時に先進主要国にその経済的基盤を海外に求める為の植民地主義という名の経済支配を促しました。つまり近代以降の戦争の代償が、一部の領土の割譲や相応の賠償金で矛を収めていた時代のそれとは違い、(ナポレオンが創始した国民軍の誕生から後、より大規模化する軍事力を背景にして)民族やイデオロギー上の問題も関わりつつ、かつより大きな経済的支配を敵国から得る事であったのを考えれば、この当時では第一次大戦末期にあったソ連の単独講和のような形の戦争終結の形態は大国間ではむしろ稀有な事例であると思われます。 よって、私はこの様な条件付きの講和や休戦で独ソ戦が終結可能であっただろうとは考えてはいません。この場合にドイツが勝利する事で有り得たであろう戦争終結の形態は、ソ連の(無条件ないしは希少の条件付き)降伏です。その為に必要なのは、その敵国に経済・政治・軍事的に壊滅的な打撃を与える事で、交戦国の指導部がそれ以上の継戦を主張しても無意味な程の状態を創出する事です。 2、に関しては、敵国の降伏を促すには必ずしも、その全土を支配・占領する必要性は無いと思われます。独ソ戦の事例では、もしドイツが当初のバルバロッサ作戦の最終進出ライン(アルハンゲリスク−アストラカハン)内のヨーロッパ・ロシアを占領したら(実際にはそれより少なくとも現実となると私は考えるが)、スターリンがウラル山脈の先でいくら継戦を叫んだとしても、実質的に資源の乏しい不毛な土地を広大なアジア方面でいくら確保しようと、スターリン政権の支配力が大幅に低下してしまう事は間違い無いでしょう。この場合、極端な事を言えば(スターリン政権を国家の代表とする)その指導部に降伏を打診する事さえ必要が無くなる事も考えられ、つまる所、ドイツがその戦争目的を達成してこれを維持する事で、実質的にその戦争に勝利している事になるというのが私の見解なのです。 また、ヒトラーが「スラブ民族の根絶」というイデオロギー的な動機から、スターリンの全面的降伏以外の許容しない旨の意見がありましたが、これは余り現実的ではないと考えます。ヒトラーとてイデオロギー上の戦争理由は本音と建前の半々で使い分けているはずで、戦争が軍事的にほとんど決定的となるレベルで終息に向かえば前言を翻すのに相違ないでしょう。 また、私が「勝算があった」という見解は、ドイツの軍事戦略の可能性を仮定の条件に置いているものでありますが、その具体的な意見は「大陸規模における兵站補給体勢の不備」の意見を投稿する際に、まとめて述べようかと思います。 |
バルバロッサ作戦に勝算あり 「大陸規模における兵站補給体勢の不備」 兵站補給という観点から観れば、バルバロッサ作戦の目標進出線に含まれるヨーロッパ=ソ連の国土でさえ、明らかにドイツ国防軍の兵站補給システムにその能力以上のもを強いる程の広大さを持っていた。ただドイツがヨーロッパ中央部に位置していると言う地政学的な意味と、プロイセン王国の時代、そしてドイツ帝国誕生以降、ドイツがその生存を脅かすフランス・オーストリア・デンマーク・ロシアなどの近隣の周辺国と戦争を繰り返してきたという歴史的な由来を考えて見ると、ドイツ参謀本部が兵站補給というものに関して比較的狭い地域での戦術・作戦レベルでの観念しか持っていなかった事は無理からぬ事でもあった。大洋を経由する戦略レベルでの兵站補給を常に念頭に置いて軍事戦略を立案しなければならない英国やアメリカの様な海洋国家とは違い、ヨーロッパ中央部という紛争が発生するいわば戦域の真っ只中に位置するドイツにとって、自身が関与する戦争のほとんどは中・小規模な戦域に限定されて行なわれる陸上戦闘に限られていたという事実が、兵站補給に対する固定観念を生んでいた事はむしろ当然の帰結でもあったのです。 バルバロッサ作戦に関して言えば、ドイツ軍にはその兵站補給の要となる鉄道線を改修する鉄道工兵部隊を、当初、わすが6個連隊しか保持しておらず、中央軍集団の戦区においては、開戦1ヶ月後に最初の補給限界点がスモレンスク戦直後に露見し始めていた。この時点でドイツ装甲部隊はモスクワまでの行程の3分2に当たる600キロを走破しており、これはフランス戦における最大進出戦(ボルドー)に至る行程と同じくらいの距離であった。ただソ連侵攻作戦の場合、この時点でもソ連は未だ崩壊する事も無く十分な予備部隊を保持しており、ドイツ軍は「敵野戦軍主力の殲滅」、及び敵の継戦能力を奪う為の「主要都市の奪取」という戦略目標を完全に達成する為に更にソ連領奥深く侵攻する必要に迫られるのです。 ソ連の心臓部であるモスクワの攻略と、その結果として得られるソ連軍主力の殲滅を企図した参謀本部とは違い、ヒトラーの戦略はレニングラードとウクライナの占領を重視したものであったが、穀物と資源の確保・そしてルーマニアのプロシェチ油田をソ連空軍爆撃機の航続半径外に置くという狙いを持ったウクライナの占領は、本来ドイツが採るべき電撃戦による短期決戦の為の戦略というより、そもそも長期戦を覚悟した場合に必要となるものであった。 この点においてヒトラーは、ソ連軍の兵力を過小評価した上で、ソ連軍の主力を国境付近の会戦で殲滅した後にドイツ装甲部隊のソ連領奥深くへの急速な突破が開始されれば、フランス戦で見られたような敵軍事力の組織的崩壊がソ連軍にも現れる事でソ連は短日時で崩壊するであろうと見ていた割には、一方でウクライナ全域を占領する事で長期戦に備える保険を掛ける様な、戦略的に中途半端な方針を採っている事がそもそも根本的な間違いであった。 しかし、一方のレニングラードを奪取を優先するという戦略は、兵站補給の観点から見れば戦略的に極めて合理的な方針であった。ソ連の鉄道線は敵国の侵入を防ぐ意味で、ヨーロッパ標準規格のゲージ幅とは異なる広軌鉄道を採用しており、ドイツがこれらの鉄道路線を利用するには、その前にこれらの広軌鉄道をヨーロッパ標準規の鉄道線に改修する必要があった。しかし北方軍集団が進撃する予定のバルト三国内の[リガ−ウェルキー・ルーキ(スモレンスク北方)間]の主要鉄道線以外の大部分の鉄道線はまだ広軌鉄道に差し替えられておらず、その多くが標準規鉄道であったものをそのまま利用できた。このためドイツの三つの軍集団戦区の内で、兵站補給線の確保という観点から最も条件に恵まれていた北方軍集団の攻撃を優先させる戦略は理に適っている。 そして最も重要な事は、レニングラードを占領すれば、ここにバルト海経由の海上輸送を実施する事で平坦補給上の策源地を得られる事で、後にモスクワを攻撃する上でその攻撃正面の選択肢を増やすだけでなく、レニングラード−ウェルキ・ルーキ間の鉄道線の改修を早期に実施しておく事でモスクワ攻撃の際の補給負担を大幅に軽減できるという利点があることである。 上記の理由から、もしヒトラーがOKHに対して十分な裁量権を与えて、その戦略方針の統一を徹底できていたなら、ドイツは北方・中央軍集団の戦区に優先度を置いた戦略を実施する事でバルバロッサ作戦に勝利する可能性は十分にあったはずである。まずレニングラードの占領を果し、フィンランド軍と会合する事で、北方軍集団の戦力の大部分をモスクワ攻撃を実施する中央軍集団戦区に振り向けることができる。中央軍集団はスモレンスクから先に進撃するための補給体勢の整備に3週間を要したとしても、史実のように装甲部隊をキエフ方面に南下させる事無く、あくまでモスクワ前面の敵野戦軍主力を捕捉・殲滅するという方針を堅持し、南方軍集団の任務はキエフ周辺部を早期に突破する方針を優先させて、その任務は中央軍集団の南側面を掩護するに留めるのである。 大分長くなりましたので、戦略に関するもう少し具体的な見解は、また次回にまわしたいと思います。 |
Edwerdさま、以前、大変お世話になりました。私は、このあたり正直に申し上げてそう詳しくないので、的外れの発言をするかもしれませんが、どうかご宥恕いただきたいと思います。 > しかし、一方のレニングラードを奪取を優先するという戦略は、兵站補給の観点から見れば戦略的に極めて合理的な方針であった。 これには疑問があります。「紺碧の艦隊」だったと思いますが、兵站補給路を海路に頼ることで、対ソ戦が有利に進むという話しがありました。しかし、当時の独の商船団の規模は、独の兵站を賄える規模だったのでしょうか。当時の独の商船団の規模は、英本土侵攻作戦の第一波の派遣さえ、艀から何から総動員しないと賄えない規模だったと覚えています。北方軍集団と中央軍集団の兵站を賄うだけだと言われるかもしれませんが、それでも優に100万人以上の規模になります。本当に独の商船団は、兵站補給を賄えるのでしょうか。 更に、レニングラードからモスクワまでについても、やはり独軍の補給は鉄路を重視せざるを得ません。独の機関車は、ソの機関車に比べて、走行距離が短いものでした。独はソの鉄道を使う際、線路の軌道幅を変更するだけでなく、新規に給水所等を設けざるを得ず、それも独軍の進撃の足を引っ張りました。これも、独軍の兵站補給に不安を覚える要素です。また、レジスタンスにとって、鉄道破壊による補給破壊は困難なものでしょうか。国共内戦で、国民党軍が敗北に至った一因として、国民党軍が鉄道による補給に依存しており、共産党軍が鉄道破壊を行うことに対処するために、大量の兵員を鉄道保護に当てたため、攻撃力を喪失したことがあったと思います。独ソ戦において、レジスタンスの活動はほぼ必至です。私には、とても楽観的な見方はできません。 それから、戦争を終結させるのに、独はソ連の主要部を占領させることで実質的に講和条約を結ぶことなく、戦争を終結させる方法もあるとEdwerdさまはおっしゃられますが、実際にそのような方法で終結した戦争はあるのでしょうか。私には、少なくとも19世紀以降の戦争でそのような方法で終結した戦争を思いつけないのですが。 どうも、知識不足ですいません。 |
山家さん、こんにちは。 山家さんの提示する疑問を以下にまとめたものと解釈して反論したいと思います。 1.レニングラードを補給源にしても、英本土上陸部隊に必要とされた輸送船 の量を考えると、ドイツの海上輸送能力では軍集団規模の兵站を賄うに 不十分なのではないか? 2.ドイツの使用していた輸送列車はソ連のものに比べ性能が劣る、またパル チザンの妨害工作等の影響で補給線は常に不安定な状態に置かれていた。 3.ソ連の主要部を占領させることで実質的に講和条約を結ぶことなく、戦争 を終結させる方法もあるとあるが、その様な例はあるのか? 1について、私は「紺碧の艦隊」なる小説は読んだ事はないので、その作品でどういう説明がなされいていたかは存じませんが、この場合、英本土上陸時に必要とされた輸送量を比較の対象とされるのはちょっと無理があります。英本土侵攻時に必要とされた海上輸送量の大部分は「上陸部隊そのもの」の輸送に必要だったのであり、上陸軍(約1個軍規模)に要する「補給物資の輸送」に必要な海上輸送力「だけ」を確保するのに必要だった、という意味に取り違えているのではと思われます。はしけが必要だったのは、海岸に上陸する為の上陸用船艇が不足していたからであり、また港湾が確保できれば(英国海軍の迎撃の可能性はこの際、無視すれば)輸送船から直接陸揚げできる補給量で侵攻部隊に相当する兵力の「補給物資だけ」を賄うには十分です。 また、私はレニングラードに陸揚げする補給物資だけで北方・中央軍集団の補給を賄うとは言ってませんよ。この都市を策源地とする事で両軍集団の補給状況の悪化をかなりの程度軽減できると述べているのです。なにより陸続きの鉄道補給線の端末駅が9月1日の段階でロスラヴリ(スモレンスク南方約100キロ)まで伸びている程度には補給体勢は整っているのですから、レニングラードを補給源としても両軍集団の主要補給源があくまでもポーランド方面からの陸上補給線にあるのは言うまでもない事です。 また海上輸送と陸上輸送のコストの違いを考えれば、レニングラードにはむしろ消費し切れない程の補給物資を蓄積する事も可能ですが、そこから前線に伸びる鉄道輸送とトラック輸送網の輸送能力に制限を受ける事を考えれば、当初はせいぜい1〜2個軍の補給をここから賄える程度だと思われます。それでもここからの補給を装甲部隊に優先して与える等の方策がとれる事なども考えれば、これだけでもモスクワ攻撃軍の補給状況をかなり改善させる事ができるのは間違いないでしょう。 2に関して、山家さんが挙げられたパルチザンの妨害や輸送機関の能力といった要因も無論、無視できるものではありませんが、パルチザンに関してはそれが戦略的に大きな影響を及ぼす程の大規模かつ組織的な活動ではなかったと考えます。また鉄道機関の能力差に関しては、(それらのマイナス要因の影響を受けた結果として生じた)史実上の補給状況を前提として考察を重ねていますので、あえてこの点は考察の対象には含んでいません。いずれにせよ、数々の要因から影響を受けてもなお、中央軍集団の補給端末駅が10月30日の時点でルジェフ・ヴィヤジマ・ヴリャンスク(モスクワから200〜250キロ圏内)まで伸長させるだけの体勢は維持できていたのですから、これに加え、レニングラードからの補給供給や、クデーリアンの南下に伴ってゴメリまで補給線を伸長させる等の不必要な路線の改修などの無駄を押さえる事、また史実では緊急時に小規模で実施していた航空補給を効果的に活用する等の措置を複合的に実施する事で補給体勢をかなりの程度改善できていたのではと考えるのです。 3に関して、例えば今話題になつている北朝鮮とイラクです。朝鮮戦争では休戦協定が結ばれていますが、南北とも軍事力と国際社会の状況がそれを許すのであったなら、お互いに(特に北が)現状に納得できていたはずも無く戦争は継続されていたはずですが、現実がそれを許しませんでした。この半島では形式的に国際法上では未だ戦争状態にあるという識者もいますが、形式的には中途半端なままでも戦争が実質的に終了している事は間違いないでしよう。 イラクについて言えば、先の湾岸戦争におけるアメリカの戦争目的がクウエートの奪還までと仮定するのなら、イラクが占領されていなくともアメリカは戦争に勝利したと歴史に記される事でしょう(私は父親のブッシュがアメリカ軍をバクダットまで進撃させなかったのは軍事戦略上の致命的なミステイクだと今でも思っていますが)。つまりスターリンの立場をフセインに置き換えてみれば、今回開始されるであろう軍事作戦においてバクダット・バスラ・その他の油田等、主要な重要拠点を占領されてしまえば、フセインが辺境の山岳部に立てこもって「絶対に講和はしない」と粘ったところで、戦争は実質的にアメリカの勝利に終わったも同然で、国際社会もそれを認めざるを得ないでしょうし、支配力を失った政権に代わる新政権が生まれるのも時間の問題であるという事です。 また、私が先の記事で述べた「極端な事を言えば、(上記の如く支配力を失った)その政権に降伏を打診する事さえ必要が無くなる事も考えられ」という意味には、それぐらいの状況も考えられるほどに支配力を失った政権との講和にこだわっても、実質的に戦争を継続できない(散発的なゲリラ活動等を除き、物理的にまともな軍事作戦を継続できない)状況にあっては講和する事にもほとんど意味は無いでしようという、その度合いを理解してもらう為に述べた例であって、必ずそうなるという意味でありません。むしろその様な状況下ではウラルに立てこもった政権は無視されて、ドイツが樹立させた傀儡政権、ないしは軍部の反体制派が中心となった新政権が台頭して来てそれに取って代わる可能性の方が全然高いでしょう。 |
貨車で運べるなら、沿岸&内陸は、はしけも使えます。 平均的な補給必要量は、1日あたり一人10kgとされています(弾薬備蓄や各種装備品も含む)戦況次第では20kgにも達するでしょう。 50〜100万人に必要な補給は、つまり1日5000〜2万トンです。 大型貨車1台は30〜35トンを積載でき、満州国で30両編成ぐらいまでが達成可能だったそうですから、貨物列車は1編成1000トンを運べます。満州や国鉄の事例ですと、幹線を1時間に1編成流せるそうですから、24時間で24000トンの運搬能力を持っています。 勿論、ロシア占領地での速度低下や、整備問題、更には単線等による運行阻害は山のようにあるでしょうから、1万トンも運べないでしょうけどね。 さて、この時代の一般的な貨物船は小柄な日本貨物船で5000総トン前後ですから、積載能力は3000トン前後になります。 お分かりでしょうか、貨物列車が、最高の運行効率で流して2万〜3万トンですが、これを一個船団で賄えます。 占領地での列車運行効率がどの程度かは想像するしかありませんが、仮に1万トン/日程度とした場合(これでもかなり良好に見積もってますが)毎日3隻の輸送船が投入できたならば、同等の輸送力になるという事になります。 あとは、双方の距離等の問題になりますが、仮に航海速度8ノットとした場合、グダニスクーレニングラード間は片道約500浬、つまり往復1,000浬ですから、荷役時間を無視した場合、125時間、約5日、荷役等を考慮しても1隻あたり週1往復が果たせます。つまり毎日3隻をレニングラードに送るには21隻10万総トンあれば足りる訳です。 そしてこれですら1日1万トン、つまり50〜100万人への補給は果たせます。 つまり、この距離ですと、投入総トンx0.1(重量トン)が1日平均補給量と見積もれると思います。 さて、この規模の海運能力を当時のドイツが抽出できないのかどうかが全ての鍵でしょう(言うまでもなく航行速度が変化すると計算は変わります) 私は出来るんじゃないかなとか思いますけどね。 |
追加ね。 一個歩兵連隊を運搬するのに必要な総トンは14,000トン。砲兵連隊ですと24,000トンというのが米国の日本軍部隊に対する見積もりでした。 重装備が喰うのがわかりますね。 10万総トンとは、一個師団を一度に運搬できるかどうかという規模です。 また荷役作業は、設備によっても大きく異なるようで、設備の整った港湾で5,000総トンの戦闘機材を揚陸に72時間。一般貨物は24時間で1500重量トンだそうですので、前記航行効率はもう少し悪化しますね(揚陸に2〜3日として積み込みに同日数とすると往復で10日となり30隻15万総トンが必要) |
一月前の話にレスをつけるのもなんですが、 >それから、戦争を終結させるのに、独はソ連の主要部を占領させることで実質的に講和条約を結ぶことなく、戦争を終結させる方法もあるとEdwerdさまはおっしゃられますが、実際にそのような方法で終結した戦争はあるのでしょうか。私には、少なくとも19世紀以降の戦争でそのような方法で終結した戦争を思いつけないのですが。 この点に関して。 国民党軍が台湾に逃げたことで国共内戦は実質的に終了しました。 大したことではありませんが、ちょっと気がついてうれしかったのでつい書いてしまいました。お許しを。 |
バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略」 私は「軍統帥部内における戦略方針の統一」を実現できていたならば、「ソ連軍の戦力に対する過小評価」、及び「大陸規模の兵站補給体勢の不備」という諸問題から生じるバルバロッサ作戦への影響に対しても、十分に対応する余地があったとしてこれを克服、ないしは相応に対処する事で、この作戦にも一定の条件が伴う事で十分勝算があったという意見を述べましたが、今回はそれを具体的な軍事戦略の観点から考察したいと思います。 1937年11月に執り行われたホスバッハ会議においてヒトラーが示した開戦への意志に対して明確に反対を唱えた事で、時の陸軍総司令官フォン・フリッチュと国防大臣ブロンベルグ陸軍元帥はヒムラーとゲーリングのでっち上げたスキャンダルを理由に罷免される事になったが、この事件をきっかけにしてヒトラーが国防大臣を兼務するに至った事は、ヒトラーが後にOKHの軍事作戦に細かく関与し始めるだけの発言力を増した事に非常に大きな影響力を及ぼした。またこれのみならず、モスクワ攻撃失敗のおりには後任の陸軍総司令官フォン・ブラウヒッチュ元帥を解任した後、この地位をもヒトラー自らが兼務した結果、翌年のブラウ作戦においてヒトラーが行った朝令暮改も甚だしい作戦指導への介入がドイツ軍の作戦へどの様な影響を与えたかは戦史に記されている通りです。 もし、この様な事件が起こる事無く、ヒトラーがOKHに対してある程度の作戦指導に関する独立した統帥権を認め、OKH主導の下に統一された戦略方針が確立されていたならば、資源の無いドイツが採る戦略としてOKHは必然的に初期のバルバロッサ作戦案に近い短期決戦を指向した戦略案に忠実に徹底させた作戦方針を打ち出したであろし、作戦開始後に露見し始めていた先の第2、第3の問題に対しても相応に対処する余地があった。ソ連軍の予備兵力に関する誤算は確かに重大なものでした。しかし1941年当時のソ連軍には、都市に築いた堅固な防御陣地でねばり強い防衛戦を展開する事ぐらいしかできる事はなく、ひとたび野戦による反撃などを企てようものなら、機動力と指揮統制・組織力に優るドイツ軍にたちまち各個撃破されるのが関の山であり、その結果が作戦1年目にして喪失した100〜150万名もの捕虜の数に端的に表れています。つまりドイツ軍には数々の作戦指導上の誤りが無かったとしたら、ソ連軍の潜在的な予備兵力や経済力が戦況に影響を与えるまでに顕在化する前に、ヨーロッパ・ロシアの主要な重要拠点を占領する事で戦争を勝利で終わらせる事が可能であったに違いないと考えます。また、補給体勢に不備に関しても同様に軍事戦略の采配如何によって相応にその影響を軽減する事もできたはずで、如何においてそれを具体的に考察してみます。 北方軍集団戦区においては何よりレニングラードの占領を優先させる。ラインハルトの第41、ならびにマンシュタインの第56装甲軍団はルガ前面の森林地帯での不利な地形での攻撃に振り向けるのではなく、両装甲軍団長が打診していた通りレニングラード南西のフィンランド湾沿いの街道に集中投入してルガ方面のソ連軍を北西から挟撃する事で、史実ではここから撤退したソ連軍兵力がレニングラード防衛の戦力に転用される事を防ぐ。史実ではOKHがモスクワ方面へ何時でも転用できように意識した為か、マンシュタインの軍団にルガの防衛線を東部から迂回させるのに湿地帯の多い地区を無理して進撃させる作戦にこだわった為に、上記に示した様なレニングラード南西から攻勢をかけるまでに時間を浪費していた。だがOKH内で、2個装甲軍団(ないしはOKH予備の第40装甲軍団の一部を増援させても)の一つとして欠ける事無く、戦力を集中してレニングラードを落とした後、これらの戦力をモスクワ方面に振り向けるという方針を統一していれば、このレニングラードへの攻勢は早期に実現していたはずで、マンシュタインの第11軍への転属やレニングラード攻撃途中での1個装甲軍団の引き抜きといった作戦の不徹底も許さずにこの都市を8月中に陥落させる事ができた可能性は高い。 また、こうしてレニングラードを制圧する事で、ドイツは余剰の戦力をレニングラード−モスクワ間の主要街道沿いに展開してソ連軍の戦力を拘束する事ができ、モスクワ攻略作戦においてもより幅広い攻撃正面を得て、その進撃ルートの選択肢をも増やす事ができる。 中央軍集団戦区においては、スモレンスク会戦以後、同地の第2・第3装甲集団を決して他の戦域に振り向ける事はせず、補給体勢と兵力の再編成に努める事に徹する。そして8月後半から史実より1月早いヴィヤジマ・ブリャンスク方面への攻勢を開始して、この方面のソ連軍の捕捉・包囲殲滅を成功させる事で、本来ならモスクワ前面での強化陣地線に配置されるべき多くの予備兵力を喪失させる事に努める。レニングラードからの転進して来る第4装甲集団はそのままモスクワ攻撃軍の北翼を担当させてカリーニン方面にソ連軍の予備兵力を牽制させる。ホトの第3、及びグデーリアンの第2装甲集団は攻撃軍の南翼から並進させ、ツーラ方面からモスクワ南方の比較的森林地帯のまばらな平野部を進撃させ、その機動力を最大限に生かすような戦略を採る。攻撃軍中央部では、それでもまだ強固な陣地線がある事や森林地帯という地形からして、どの道急速な進撃は望めないので、歩兵2個軍による圧力を暫時かけ続ける事でソ連軍主力の拘束に努める。 南方軍集団戦区においては、ここでウクライナ全域の占領を企図する様な方針を採っても、戦線が扇型に拡大して行く中でいたずらに戦力の分散と兵力不足を招く事でその突進力を鈍化させてしまう。この結果、史実の様に中央軍集団戦区との間に間隙部を生じさせて、中央軍集団から装甲部隊を南下させる必要に迫られる可能性が高いので、この戦区はあくまで中央軍集団の側面を掩護するという任務に限定させる。つまり、同軍集団の主攻撃軸はドニエプル河の上・中流域方面に限定してキエフ地区の早期突破を図り、ルーマニア方面からの攻撃もまたこれに同調させるように、オデッサの包囲と南方軍集団主力の南翼の掩護という限定的な任務に従事させるに留めるという方針を採るのである。 クライストの装甲集団は、その兵力の一部がバルカン方面から転進していた途中であった影響で、開戦当初はその戦力が完全に出そろっていなかったが、キエフ攻撃時には3個装甲軍団(9個師団)という第2装甲集団に次ぐ強力な戦力を投入できるはずで、史実の様にドニエプル河下流域沿いにウクライナ奥深くへ戦力を投入するのでなく、キエフ南方の中流域から早期にドニエプル河を渡河してキエフを南方から包囲する様に投入する。仮にキエフ市街での抵抗が強力でも第6軍(ないしは予備の第2軍をも北方から投入して)に同都市の攻囲を任せれば、装甲集団はハリコフ方面のソ連軍を牽制するためにドニエプル河沿いに南東ないしは真っ直ぐ東方へ展開する事ができる。 また、南方軍集団は史実において遠くドニエプル河口のロストフまで進出していた為に、その補給線が中央軍集団以上に伸び切っていたが、この様に南方軍集団にはウクライナ南部を無視させて、ドニエプル河上・中流域からハリコフ方面に進出させる事で、この戦域に割り振られていた鉄道工兵部隊の内、3分の1でも中央軍集団に振り向ける事ができれば、同軍集団の補給状況は更に改善されると思われます。 以上が私の考察する戦略ですが、この他に北極圏の戦域や、戦争2年目への展開の可能性など考察すべき事はまだありますが、また長くなりましたので次回にゆずりたいと思います。 |
レス違いになってしまいますが。SUDOさま、詳しい説明を、どうもありがとうございます。Edwerdさま、いろいろと御発言の趣旨を取り違えていたみたいで、すみません。 この週末を利用して実家に帰省し、積読状態になっている資料をあらためて読み返しました。それで、一夜漬けの勉強を行ってみたのですが。いろいろと疑問を覚えることが出てきました。 まず、独軍のヒトラー介入以前の作戦計画です。幾つか作戦案が立てられましたが、一様にドヴィナ・ドニエプル以西で、ソ連軍の主力が崩壊し、後は残敵掃討で済むという作戦案になっているように、私には思われました。これは裏返せば、ドヴィナ・ドニエプル以東にソ連軍主力が後退し、抵抗を続けたら、ということを考えていなかった、もし、そうなったら、補給が続かず、独の苦戦は必至、と考えていたという傍証にならないでしょうか。相手が自分の都合のいいように動くと考えないと勝てない作戦計画は、大抵破綻します。 それに、独軍は本当にソ連の内情を詳しく調べた上で、対ソ戦を決意したのでしょうか。バルバロッサ作戦発動当時、独軍司令部に渡された最新の地図というのは、WWI時に作られた地図だったそうです。一事から万事を推定するのは危険ですが、独ソ戦開始時、独軍がソ連軍の初期戦力を見誤っていたのは事実です。情報不足のところを、自分に都合のいいように考えて、対ソ戦計画を立案したということはないのでしょうか。 レニングラードやスターリングラードを包囲下におき、モスクワ前面に迫っていた状況でも、ソ連軍の戦力は質はともかく、量は常に上回っていました。独ソ戦開戦前、独はドニエプル等の工業地帯を制圧すれば、ソ連の軍需生産は崩壊すると考えていました。しかし、実際には、ソ連は工場を速やかに疎開させ、ウラル山脈以東で、独を凌ぐ軍需生産を確保し、抗戦しました。 独軍主力を北方・中央、または南方に集中して、それによって勝利という作戦計画ですが、それは本当に史実で達成可能なことなのでしょうか。独軍主力が向けられなかった方面に展開しているソ連軍は、速やかに独軍主力に対処するために移動させられてしまうのではないでしょうか。例えば、独軍中央軍集団の装甲集団を南方旋回させず、モスクワに向けた場合、史実で失われた70万人のソ連軍は、モスクワ救援なり、奪還なりに向けられるのではないでしょうか。 ともかく、ソ連は広いのです。Edwerdさまの言われる方法を取れば、史実より有利になったかもしれません。ソ連軍の1941年の冬季反攻時、独軍前線で冬季装備が大量に不足した事態も改善されたとは思います。しかし、南方軍集団を前進させないということは、史実で発生したドニエプル地帯の工場疎開によるソ連軍の軍需生産の低下も小さくさせ、ソ連軍の軍需生産が史実よりも多くなるということはないのだろうか、と私は疑念を覚えてならないのです。 |
> まず、独軍のヒトラー介入以前の作戦計画です。幾つか作戦案が立てられましたが、一様にドヴィナ・ドニエプル以西で、ソ連軍の主力が崩壊し、後は残敵掃討で済むという作戦案になっているように、私には思われました。これは裏返せば、ドヴィナ・ドニエプル以東にソ連軍主力が後退し、抵抗を続けたら、ということを考えていなかった、もし、そうなったら、補給が続かず、独の苦戦は必至、と考えていたという傍証にならないでしょうか。相手が自分の都合のいいように動くと考えないと勝てない作戦計画は、大抵破綻します。 ドイツ軍が国境付近の包囲殲滅戦によるソ連軍主力の潰滅を企図していた事はその通りです。そしてその敵野戦群主力に整然とした戦略的後退を許してしまい、いたずらに時間と戦力を消費してしまう事で長期戦に陥ってはならないからこそ、電撃戦という用兵思想が確立されたのです。それゆえにドイツ軍はドヴィナ・ドニエプル以東にソ連軍主力を後退させてしまった場合の危険性は十分に承知していたと言えても、ソ連軍が後退を許してしまった事態を全く考えてなかったとは言えないでしょう。考えてはいたけど、その様な状況に陥って敵に堅固な防御持久体勢を取られてしまっては、損害の大きい平面的で力押しに頼る戦術しか採りようが無くなり、ドイツ軍の持つ機動力と言う強みを発揮できない展開を強いられてしまう事を知っていたからこそ、緒戦の国境会戦おいて完全な包囲殲滅戦を成功させてソ連軍主力部隊を潰滅される事を前提条件とした作戦が立案され、またそれを成功させたとも言えます(ただ、その後にその殲滅した主力に匹敵する程の予備兵力をソ連が動員して来たという事が大きな誤算でしたが)。 また、補給体勢に関しては、「もし、そうなったら、補給が続かず、独の苦戦は必至、と考えていた」というよりも、そもそも最初からドイツの兵站補給に対する考えは楽観的な見通しに終始していて(その遠因は先の一番目の「大陸規模における兵站補給体勢の不備」のスレッドにて述べている)、おそらくソ連戦では「フランス戦よりは多少は補給維持が困難になる」程度の危機意識しか持っていなかったのではないのでしょうか(そうでなければもう少し兵站補給組織の整備をしていたはずです)。 > それに、独軍は本当にソ連の内情を詳しく調べた上で、対ソ戦を決意したのでしょうか。バルバロッサ作戦発動当時、独軍司令部に渡された最新の地図というのは、WWI時に作られた地図だったそうです。一事から万事を推定するのは危険ですが、独ソ戦開始時、独軍がソ連軍の初期戦力を見誤っていたのは事実です。情報不足のところを、自分に都合のいいように考えて、対ソ戦計画を立案したということはないのでしょうか。 特にヒトラーはイデオロギー上の偏見を伴った主観に基づき、最初からソ連軍の戦力を冷静に分析はしていなかったでしょう。ただし多くのドイツ軍参謀将校はソ連軍の実力はともかく、ロシアの地形と冬の天候の劣悪さに対して警告を促すだけの冷静で客観的な分析力は持ち合わせていました。ただ、主に情報機関と外交筋からのものが主な情報源であったこの時代の情報戦に関しては、特に秀でていた英米はともかく、独ソに関しては互いの独裁者とも自身の主観に傾倒し過ぎる余り、正確な情報に対して確信が持てずにそれを活かし切れなかった事実からも条件的には五十歩百歩といった感があるでしょう。また、そもそも私は史実における状況に基づいた、バルバロッサ作戦開始後の軍事戦略の展開を前提にしてその可能性について意見を述べてはいますが、作戦前の両国の戦力情報分析能力に関しては論議の対象としていませんのでその旨ご了承頂きたい(事前の情報分析も軍事戦略の重要な要素と言われれば確かにそうですが、それは未来の軍事戦略を考察する上では必須のものと考えられますが、ただ既成の歴史事実の可能性を考察する際に、歴史を振り返って観察している者が既に歴史的事実として知っている情報を、そもそも獲得できたかどうかと言う点にまで派生して考察するのはいささか脱線しすぎているかと思われますが)。 > レニングラードやスターリングラードを包囲下におき、モスクワ前面に迫っていた状況でも、ソ連軍の戦力は質はともかく、量は常に上回っていました。独ソ戦開戦前、独はドニエプル等の工業地帯を制圧すれば、ソ連の軍需生産は崩壊すると考えていました。しかし、実際には、ソ連は工場を速やかに疎開させ、ウラル山脈以東で、独を凌ぐ軍需生産を確保し、抗戦しました。 > ともかく、ソ連は広いのです。Edwerdさまの言われる方法を取れば、史実より有利になったかもしれません。ソ連軍の1941年の冬季反攻時、独軍前線で冬季装備が大量に不足した事態も改善されたとは思います。しかし、南方軍集団を前進させないということは、史実で発生したドニエプル地帯の工場疎開によるソ連軍の軍需生産の低下も小さくさせ、ソ連軍の軍需生産が史実よりも多くなるということはないのだろうか、と私は疑念を覚えてならないのです。 *上の二つ文節は別々の段落にありましたが、同じ様な事を問い掛けていると思われるので一括して返答します。 まず最初の「レニングラードやスターリングラードを包囲下におき、モスクワ前面に迫っていた状況」というのが何時の状況の事を行っているのか良く分かりません。ドイツ軍は41年にはスターリングラードには迫っていませんし、42年にはモスクワ前面からは退けられているので、41年から42年を通してと解釈しますが(例えば41年秋と42年秋とでは状況に大きな差がありますので前提条件を述べる際はせめて何年の前半・後半期ぐらいには絞った方がよろしいのでは)。 ただ、いずれにせよ41年から42年の前半にかけてのソ連軍の兵力的数量というものは、当時のドイツ軍の攻勢を確実に頓挫させ得るに足る程の決定的な意味を持つものとは思えません。特に緒戦で未曾有の損失を受けたソ連軍は、モスクワ戦の時点になると歩兵と小銃かき集めた部隊を維持できてはいても、重要な支援兵力の内、特に決戦兵力となる戦車が決定的に不足していました。そしてドイツが指向する機動戦に対応する際に、例え強固な陣地に立てこもっても迂回されれば意味が無いので、機動力に欠けた歩兵師団(しかも装備に著しく欠ける)が幾らあってもものの役には立たず、概算でもドイツの1個装甲師団に対して、ソ連軍は歩兵7〜8個師団を充ててやっと戦線を持ちこたえる事ができる程度の力しかないと思われます(しかし実際には敵1個師団の担当攻撃区域にそれだけの戦力を効果的に配置する事はできないので、結局は突破を許してしまう事になるが)が、やはり機動戦を主体とする攻勢に対応するには、防御側にも相応の機動兵力が必要となります。 また、ウラル地方に疎開した膨大な量の工場施設による生産が戦況に影響を与え始めるのが42年の春以降であり、特に先に不足とされていた戦車が大量に配備されて、機甲軍団という効果のある纏まった編制でソ連軍によって運用可能となるのがその年の後半からだった事を考えると、これらの要素は私の考察する短期決戦による戦略の対象外に置かれるものと考えます。 > 独軍主力を北方・中央、または南方に集中して、それによって勝利という作戦計画ですが、それは本当に史実で達成可能なことなのでしょうか。独軍主力が向けられなかった方面に展開しているソ連軍は、速やかに独軍主力に対処するために移動させられてしまうのではないでしょうか。例えば、独軍中央軍集団の装甲集団を南方旋回させず、モスクワに向けた場合、史実で失われた70万人のソ連軍は、モスクワ救援なり、奪還なりに向けられるのではないでしょうか。 正確に言えば「プリピャッチ沼沢地北方域からの攻勢を重視する戦略」ですが、先のスレッドに挙げた戦略ではキエフ周辺のソ連軍は第1装甲集団による捕捉後に第17軍及び第2軍で包囲して対処する事になってます。またよしんばキエフ地区のソ連軍の一部が両歩兵軍による捕捉をかわして包囲網を脱出したとしても、組織的行動のとれない当時のソ連軍にドイツ軍の様に整然としかも長距離に及ぶ戦術的後退ができるとは思えず、他の多くの国境会戦で生じたのた同様、一度混乱状態で退却を始めたソ連軍の後退がたちまち壊走に変化してしまうのは目に見えているかと思われます。 また既述の戦略ではモスクワ攻撃以外にレニングラードからモスクワへ向かう街道沿いもの(歩兵2個軍程度)とハリコフ方面への牽制攻撃(第1装甲集団)に関して挙げているのですが、仮にソ連軍がこれらの攻勢に十分に拘束されなくとも、それら戦域から離脱して中央軍集団への側面攻撃を掛けるだけの機動力は、歩兵師団主体の当時のソ連軍には発揮できないものと考えます。一方で、天候が良好ならばドイツ装甲部隊は歩兵主体のソ連軍の4〜5倍の速度で戦線の間を展開する事ができます。いずれにせよ好天時のモスクワ攻撃おいて、戦線の1ヶ所ないしは2ヶ所(実際にはもっと多いと思われるが)で突破口が開いたら、ソ連軍にはその穴を塞ぐだけの「機動力を持つ」まとまった予備兵力は既に残されていないでしょうし、また、そもそもそれだけの機動防御戦術を採れるだけの組織的行動を取る能力も無いかと思われます。 |
> 正確に言えば「プリピャッチ沼沢地北方域からの攻勢を重視する戦略」ですが、先のスレッドに挙げた戦略ではキエフ周辺のソ連軍は第1装甲集団による捕捉後に第17軍及び第2軍で包囲して対処する事になってます。またよしんばキエフ地区のソ連軍の一部が両歩兵軍による捕捉をかわして包囲網を脱出したとしても、組織的行動のとれない当時のソ連軍にドイツ軍の様に整然としかも長距離に及ぶ戦術的後退ができるとは思えず、他の多くの国境会戦で生じたのた同様、一度混乱状態で退却を始めたソ連軍の後退がたちまち壊走に変化してしまうのは目に見えているかと思われます。 まったまった。 整然では無い後退をしたソ連軍ってのが想像できませんが? キエフポケット等は、ソ連軍が後退を許可されなかったから起こった事であり、その反省に基く以降の作戦におけるソ連軍の後退はドイツ軍なんかより数段素早く整然としています(っていうかドイツ軍の前進は遅いし・・・) 戦術レベルの機動においてはドイツ軍が優勢と見ても良いと思いますが、作戦レベル以上では明らかにソ連軍の方が優位です。 ましてや自国領域で後退する側と敵地を前進する側で速度は比較になるはずもありません。 ソ連軍の作戦レベル以上での機動力はドイツ軍を明らかに上回るのです。 そして、それはソ連軍の決断の早さと、自国であることから齎されるアドバンテージであると言えるでしょう。 よって、いつ如何なる時でも突破包囲殲滅が成立すると考えるのは非常に危険でしょう(この問題を理解していなかったのは当のドイツ軍ですが)それこそ、ブラウ作戦の頓挫は、ソ連軍の後退を敗走と誤認したドイツ側のボーンヘッドもあったのではないでしょうか。 そしてスターリングラードという名前に拘った結果、キエフのソ連軍と同じ事をやってしまった訳です。 よって、双方の戦術機動力は独側優位としても(怪しいもんですがね)作戦レベル以上ではソ連側にアドバンテージがあり、そのアドバンテージを発動させないようにするには、ソ連軍が後退できないような政治的な何かを使わざるを得ないと判断します。 モスクワ、レニングラード等の高名な都市はそういう餌にはなるかもしれませんが、絶対にそうであると確信できるわけでもないでしょう。 そして、このレベルになると、ヒトラーやスターリンの心情という要素も関わるのですから、それこそ想像すら困難です。 よって、もっと簡単に、物理的にどうであるのかを中心に考えてみるべきではないでしょうか。 双方の質的な差異はやや独優位という程度であり、その優位を戦略的優位に独側が持ち込むには、何が必要なのか、それだけで良いんではないでしょうか。 その戦略優位獲得が僅かであったならば、ソ連は屈服しないかも知れませんが、それは勝利条件がVP50なのか200なのかという世界の話で(ぉぃぉぃ、ここで考えるべきは、その勝利条件の設定ではなく、VPをより沢山確保する方策に留めるべきではないでしょうか。 |
> まったまった。 整然では無い後退をしたソ連軍ってのが想像できませんが? キエフポケット等は、ソ連軍が後退を許可されなかったから起こった事であり、その反省に基く以降の作戦におけるソ連軍の後退はドイツ軍なんかより数段素早く整然としています(っていうかドイツ軍の前進は遅いし・・・)。 戦術レベルの機動においてはドイツ軍が優勢と見ても良いと思いますが、作戦レベル以上では明らかにソ連軍の方が優位です。ましてや自国領域で後退する側と敵地を前進する側で速度は比較になるはずもありません。ソ連軍の作戦レベル以上での機動力はドイツ軍を明らかに上回るのです。そして、それはソ連軍の決断の早さと、自国であることから齎されるアドバンテージであると言えるでしょう。 SUDOさんとはほぼ全般にわたって意見が真っ向から対立するようですね。 [あらかじめ補足しておきますが、先のスレッドで私が言及した「戦術的後退」とは、戦線後背地において敵兵力と会敵ないしは接敵していない状況下における、鉄道移動による「戦略的移動」や、歩兵戦力の強行軍、機甲戦力の機動による予備兵力の「戦略的規模の展開」等が位置するレベルにおける後退を指しているのではなく、一戦域における会戦の各局面においてなされる予備兵力の転進・側面迂回、又は戦闘中の地域からの戦線離脱・後退といった作戦レベルに近いレベルものを意味してます(戦略・戦術的後退と規定する事はあっても、「作戦的後退」という言葉はあまり使われませんので)] 上記を踏まえた上で、おそらくドイツ軍の悪天候・悪路による行軍の停滞、補給状況の回復を待つ為の停止、及び敵兵力に拘束されてない状態でのソ連軍の「戦略的後退」を含めた、独ソ戦の全般的な戦局の推移を指して「ソ連軍は整然と退却している」と述べているのであろうSUDOさんの意見は、私の述べた意見とは争点が噛み合わないと思います。しかし、そうではなく、私の指す戦術的後退のレベルにおいてそう述べているという意味であるなら、それに対する反論を以下に述べます。 古来から、敵兵力に拘束さている最中の部隊が、体勢を崩す事なく軽微の損害で後退して戦力を保持する事は、軍事作戦の中で最も困難を極める戦術行動であるとされています。その上、各種の支援兵種、補給品その他において、非常に装備のかさばる近代以降の軍隊にとって、指揮統制力を正常に維持しつつ、複雑な補給網が交錯するルートを通って戦闘部隊を後方に送り込むなどという事は殆ど不可能といって良い程の至難の業であり、特にそれが交戦状態にある場合は尚更で、無理に強行しようとすれば後退を試みる軍隊はたちまち言語を絶するひどい交通渋滞を引き起こして身動きが取れなくなってしまう。その意味で近代の軍隊は背後から攻撃されればもう敗北したも同然で、これは当時の(そして現代においてはなお更に)どの国の軍隊にも等しくあてはまる事ですが、その程度はその軍隊の持つ錬度・装備・通信連絡及び指揮統制能力等の質的要素に左右され、数量的優位はむしろその様な状況下において混乱に拍車をかけるばかりのマイナス要因となります。 だが当時のドイツ軍は奇襲の成功・航空優勢・戦術用兵の優位という良好な条件下での事とは言え、開戦初頭から小規模な反撃と包囲の危機に見舞われた際にも、包囲下からの迅速な反撃と戦闘区域からの離脱、戦闘態勢の建て直しという卓越した組織的行動力を発揮していた(北方軍集団・第56装甲軍団のルガ戦区におけるものなど、またより大規模な例では、航空優勢を喪失した状況にある44年のウクライナ戦線にて、完全に全周を包囲された状況の第1装甲軍の23個師団が、マンシュタインの指揮の下に包囲されたそのままの状態で西方への突囲攻撃を3週間継続し、約150キロの移動を経たの後に包囲脱出を果した作戦が挙げられる)。ただ、個々の部隊のレベルでは41年当時のソ連軍を遥かに凌駕していたドイツ軍でさえも、この様な困難な状況下において相応の損害は免れる事はできなかった。そしてそのドイツ軍に比して錬度・通信及び指揮統制能力・戦術と用兵上の優劣などの要素において遥かに劣っていた41年当時のソ連軍が、組織的な「戦術的」後退などという用兵の妙を発揮するだけの能力を持ち得ず、返ってその退却行動が壊走状態を生み出した事が包囲下から脱出・退却する部隊の統制を崩壊させ、自ら自壊作用を促す結果を演じてしまった事は当然の帰結でした(或いはその様な結果を効率的に引き出す事こそが「電撃戦」の目的であり、その衝撃力が最も顕著な形で現れたのがフランス戦であったと言えます)。その結果はバルト戦区のクールラント、白ロシアのブリャンスク・スモレンスク、ウクライナのキエフ・ウマン、更にその後にモスクワ前面のヴィヤジマ・ヴリャンスクにおいて再びキエフ・ポケットに匹敵する包囲殲滅を受ける失敗を繰り返して、概算で150万を超える人員を喪失した戦況に如実に現れています。 これら包囲された諸部隊が、それぞれ短期間の内に大量の捕虜を伴って掃討されてしまったのは、なにも補給が途絶した為だけとは言えません。補給供給の減少だけが個々の部隊の降伏の要因となるのなら、特に大包囲下にある敵部隊を完全に降伏するにはもっと時間を要するはずです。しかし、包囲下にある敵部隊がそこから脱出しようとあがく事で、返って部隊の統制を乱して混乱と士気の低下を招き、各部隊を組織的行動など取りえ様も無い烏合の衆と化してしまう事の方が大きな要因となり得る得るのです。 > よって、双方の戦術機動力は独側優位としても(怪しいもんですがね)作戦レベル以上ではソ連側にアドバンテージがあり、そのアドバンテージを発動させないようにするには、ソ連軍が後退できないような政治的な何かを使わざるを得ないと判断します。モスクワ、レニングラード等の高名な都市はそういう餌にはなるかもしれませんが、絶対にそうであると確信できるわけでもないでしょう。そして、このレベルになると、ヒトラーやスターリンの心情という要素も関わるのですから、それこそ想像すら困難です。 私が現時点で提起している意見は41年〜42年前半を前提としていますが、その時点においてソ連軍が作戦レベルで機動性の優位を得ていたとは到底思えません。理由は先に説明したものにも多々含まれていますが、作戦レベルで機動性の優位を得ていた側が、どうして短期間にあれだけの包囲殲滅戦による損害を繰り返し受けるのでしょうか?全般的に観て、独ソ戦初頭の戦況はソ連軍が後から後から繰り出してくる予備軍を、中途半端な反撃に逐次投入する端から撃破されて行き、急遽後方に構築する防衛陣地も(機動戦の余地のない場所を除いて)、ドイツ軍が「敵の防衛戦の最も弱い部分を集中攻撃する」という戦力集中の原則をその機動力によって達成する事で、たちまち突破の憂い目に合っています。また逆に言えば、モスクワ攻撃時に至るまで多くの突破包囲戦術を成功させる事ができたのも、ドイツ軍の基幹兵力である装甲部隊の機動力を駆使する事で、ソ連軍に対する作戦・戦術レベルでの機動力の優位を得て、それを活用する事でドイツ軍の個々の攻勢作戦に柔軟性と奇襲性を付加させる事ができたからと言えます。またそれ無くしては、(数量的に)圧倒的な兵力差を持っていたソ連軍に対し、史実にある所まで攻勢を持続する事は極めて困難であったはずです。 尚、言うまでも無いですが、ソ連の膨大な鉄道輸送量を利用した鉄道移動による「戦略的移動力」は畏怖すべきものではありますが、それは方面軍間における兵力の配置・転換等の戦略的行動に多大な効果は及ぼしても、個々の会戦における戦況に対応して短日時に実施されるべき(作戦行動・戦闘中の)作戦的・戦術的移動において、直ちに影響を及ぼせるだけの迅速性を持ちようが無いので、「機動力の優位」という争点の対象外とします。 また次の節では、モスクワ・レニングラードをスターリングラードを放棄する可能性を示唆しているものと鑑みますが、スターリンの政治的立場を考察すればするほどそれは自殺行為に近い行動と考えます。また両独裁者の心情とは政治的・イデオロギー的見地から観た心情と推察しますが、そうであれば尚更かと思われますし、またその様な両独裁者の思惑というものもこれまでの歴史文献からも色々と所説ある所でもありますが、またそれを(真相の是非はともかく)想像する事ぐらいはできると思いますが。 >よって、もっと簡単に、物理的にどうであるのかを中心に考えてみるべきではないでしょうか。 双方の質的な差異はやや独優位という程度であり、その優位を戦略的優位に独側が持ち込むには、何が必要なのか、それだけで良いんではないでしょうか。 その戦略優位獲得が僅かであったならば、ソ連は屈服しないかも知れませんが、それは勝利条件がVP50なのか200なのかという世界の話で(ぉぃぉぃ、ここで考えるべきは、その勝利条件の設定ではなく、VPをより沢山確保する方策に留めるべきではないでしょうか。 全般的な戦略的優位性がソ連にあるという見解には、時間が経つに連れて、飛躍的な速度で顕在化し始めた時に、それが決定的なものとなるという意味で同意します。ただしそれは、ソ連が広大な国土を持ち、その各地に重要拠点が点在しており、気候や悪辣な交通路線などの地形的要因による地政学的な優位性を持っているから成り立つものであり、「双方の質的な差異*」によるものだとは思いません。 (*この「双方の質的な差異」というのが「純粋に軍事力のみの差」の事を言っているのか、「全般的な諸条件を含めた総合的な差」の事を言っているのか判別できませんが、「質的」という言葉と、貴兄が(機動力等の)純粋な軍事力に関してしか未だ言及していない事から考えて、前者の事を言っているものと解釈して反論します) 端的に言って、ドイツにとって時間と戦場の地勢は不利な要素以外の何物でもなく、41年の状況において唯一ソ連軍を圧倒しているのが、機動力と通信・指揮統制能力を根幹に置いた、軍事力の「質的な差異」なのであり、それが「やや独優位という程度」という程度のものでしかなかったとしたら、41年において、数量的に優るソ連軍を相手にしてモスクワ・ロストフに到達する事など到底できなかったでしょう。 **また、細かい事ですが、前回のスレッドで「キエフ周辺のソ連軍は第1装甲集団による捕捉後に第17軍及び第2軍で包囲して対処する…」の「第17軍」は「第6軍」の誤りである事を補足させて頂きます(第1装甲集団の北両翼にある歩兵軍の名称を取り違えました)。 |
だからさ、何処が優位なんですか? ドイツ軍は果たして本当にソ連軍に優位を持っていましたか? 後退を見てみましょうよ。 後退しようとしてアジャパーになった43年44年のドイツ軍は存在しなかった事になるのですか? ポケットの損害なんてどっちもどっちですよね? そこに双方に明確な質的差異はあるのですか? ご自身で述べられてるように近代軍隊においては、後方に回られたらアウトな訳で、この部分でソ連軍がドイツ軍に明らかに劣るという事例を私は知りません。 44年夏の中央軍集団の殲滅どころか、後退戦であるだけのクルスク後半(後背に回られた訳ではない)における南方軍集団の消耗、そして後退が許されずに消えたスターリングラードの第六軍。 果たして、これらとソ連軍の緒戦のポケットは違うのですか? 私には本質的に同レベルにしか思えませんが? はたまた大戦末期の幾つかの救援作戦はどうでしょうか? コルスンで助かった部隊は装備残してましたかね? そして、救援作戦が間に合わなかった事例が無かったとでも? 東部戦線の前半と後半で、双方のやった事とやられた事って実は同種の事なんですよ(ややソ連側が上手とすら言えるけど、これは戦力差と地元という効果かもしれませんが) また独軍における柔軟性と奇襲性というのは、城砦作戦では全然見受けられないのですが、どういう事でしょうかね? つまり、○○作戦と言われるようなレベルより上で、明らかにドイツ軍は下手糞です。勿論これはビジターである事と国力差にも多くを求めるべきですが、結果として宜しくない事になったのは事実です。 恐らくEdwardさんの認識は、開戦前後のドイツ軍の認識と同レベルなんですよ。 ロスケは馬鹿だから楽勝じゃん、怖いのは距離だけさってノリのね。それが史実でどういう事になったのかは言うまでも無い事です。 ああ、勿論「電撃戦」なる言葉は判ってるつもりです。 ですが、電撃戦は包囲してポケット作って大戦果ってのが本質じゃないんですよ。 ドイツ軍はいつか何処かで補充能力で負ける。 補充能力が追いつかなくなる前に、敵に手を上げさせるには、もしくは敵の補充能力を奪取するには? それが電撃戦の本質なんです。 そして、それは、つまりソ連には通用しない訳です。 敵主力の撃破は、つまり、好き勝手にアチコチを占領する事が出来るという事です。結果敵の抗戦能力と意思を奪うわけです。 この延長にあるのが電撃戦であると言っても良いでしょう「駄目だ勝てない。負けちゃった」と敵に認識させるのが電撃戦の本質であり。それは主力の撃滅に続いて主要部を占領する事が「可能である」から成立する話です。 これと同じでして、独が戦果を上げても、ソ連の枢要部を占領できると「ソ連側」に理解させないと駄目なんです。 独軍は確かに大戦果を上げました。ですがソ連の枢要部には、双方の戦力よりも主として独側の能力不足で果たせないのです。 此処で、個々の戦闘の結果が如何であるかとかは実は無意味なのです。 独側の攻勢限界点を、ソ連枢要部に届かせないようにすれば、ソ連の勝利なんです。 これは恐ろしく明白です。 足を止める為に、適当に部隊を当てて消耗を誘うというのも立派な手立てです。となると、独側が思ってる「分散して迎撃してくる無駄な使い方」は戦術的な勝利を独に齎す代わりに、時間と補給を奪っていると言う点を忘れない方が良いでしょう。 ソ連側は徹頭徹尾失策ばかりで間抜けであると断じるのは、その後のシーソーと反撃の流れを見誤るでしょう。 確かに独軍は強いんです。ですが、ソ連軍も侮れないのです。 少なくとも、赤軍の指導部が私より間抜けだとは思えません。であるならば、彼らは我々が思うよりも少し先を見ているはずです。 また練度と仰いますが、赤軍の教科書を読んだ事がありますか? 赤い星は? そしてある意味公平な、独ソではない国家が分析したものは? 日本や米国軍が分析したものをご覧になってみると宜しいかと思います。恵比寿や靖国神社で見られますよ。 私も数年前まで、質のドイツに量だけで間抜けなソ連と思ってました。 ですが、最近はロシア圏からの資料も多くが出てきています。この趣味長くやったおかげで、防衛庁戦史室や靖国神社に眠る宝のような研究文書を読む機会も得られました。 世間に出回る判りやすい物は、一面としては事実ですが、それだけが全てではなく、零戦や日本軍がそうであったように、そんなに簡単でも単純でもないんです。 勿論、最終的に「ドイツ側の優位は大であると」判断するのも結構です。 評価なんて人それぞれですからね。 単に私は、ドイツ軍が優位だとされてるものとは、果たして本当にそうなのか?と疑念を覚えるようになってしまっただけの捻くれものですから(笑) |
> だからさ、何処が優位なんですか? > ドイツ軍は果たして本当にソ連軍に優位を持っていましたか? > 後退を見てみましょうよ。 > 後退しようとしてアジャパーになった43年44年のドイツ軍は存在しなかった事になるのですか? > ポケットの損害なんてどっちもどっちですよね? > そこに双方に明確な質的差異はあるのですか? > ご自身で述べられてるように近代軍隊においては、後方に回られたらアウトな訳で、この部分でソ連軍がドイツ軍に明らかに劣るという事例を私は知りません。 > 44年夏の中央軍集団の殲滅どころか、後退戦であるだけのクルスク後半(後背に回られた訳ではない)における南方軍集団の消耗、そして後退が許されずに消えたスターリングラードの第六軍。 > 果たして、これらとソ連軍の緒戦のポケットは違うのですか? > 私には本質的に同レベルにしか思えませんが? > > はたまた大戦末期の幾つかの救援作戦はどうでしょうか? > コルスンで助かった部隊は装備残してましたかね? > そして、救援作戦が間に合わなかった事例が無かったとでも? > 東部戦線の前半と後半で、双方のやった事とやられた事って実は同種の事なんですよ(ややソ連側が上手とすら言えるけど、これは戦力差と地元という効果かもしれませんが) 「独ソ戦初期におけるソ連軍と後半におけるドイツ軍の包囲殲滅戦による損害には、その双方に明確な差異は無く、本質的に同レベルである」と言う事ですが、本質的に同レベルどころか、その双方には「数量的な差異」が介在する事で、「質の差」を判断する上での前提条件に大きな差異が生じてしまいます。 ここでの争点は「ドイツ軍の質的な優位」の論拠を独ソ戦初期のソ連軍の大敗に置く事は、ドイツもその後半戦において同様な敗北を喫した事からそれは成り立たない」という事だと思います。しかし、質的要素というものを比較評価するには、当然のことながら比較対象となる双方の量的要素を同一の基準に統一させる事が前提となり、その上で同種・同規模の対象が持つ質的価値を評価する必要があります。つまりこれを裏返せば、同様な結果を引き出している双方のケースの量的要素の前提条件が大きく違えば、自ずからその双方の結果が意味する所も違ったものとなります。先の包囲殲滅戦というケースで具体的に説明すると、ドイツ軍とソ連軍がもたらした結果が同じでも、それぞれのケースにおいてそれぞれが対面していた敵兵力のとの(数量的な)戦力比に大きな差があれば、両軍の個々の部隊の質的要素を図る上でその前提条件に「大きな差異がある」事になるのです。 より解り易く言えば、41年に自軍より2倍も3倍も(数量的な)兵力が上回る敵を相手にして数々の包囲殲滅戦を成し得たドイツ軍と、43、44年に、逆に敵兵力を圧倒的に凌駕する程の大差を付けるだけの(数量的な)兵力を準備できて、始めて先のドイツ軍と同様の結果を引き出すだけの軍事力を獲得できたソ連軍との間に「質的な差が無い」訳が無いのです。 つまり、ドイツ軍の質的な優位の根拠としてドイツ軍の戦果を挙げる事は、ソ連軍も同様に結果を得ている事からその根拠となり得ないと主張する事は、双方がほぼ同じ条件で同様な結果を出していれば成り立ちますが、その同様とされる戦果を挙げる為にソ連軍は敵を圧倒的大差を付けた兵力でもって試み、逆にドイツ軍は常に敵より少ない兵力でもって試みているという前提条件の違いがある以上、「双方に差異はない」とは到底言えないのです。 > また独軍における柔軟性と奇襲性というのは、城砦作戦では全然見受けられないのですが、どういう事でしょうかね? 「ティタデル作戦」に関しては、およそ長期戦を強いられた事で生じる数々のマイナス要因が起因していた事から、電撃戦による突破・包囲戦術を駆使して成功させるのに必要な柔軟性と奇襲性を発揮する余地が既に無かったと認識しています。また先の文節でも独ソ戦後半の作戦例を色々と挙げておられますが、何度か折に触れている様に、私が論じている見解は41年時における彼我の戦力状況を前提としていますので、機動性や先に触れた前提によって比較・評価される個々の部隊の質的優位などのドイツ軍の持つ軍事力の性質もこの時点で発揮できていたものを対象としています。 よって、戦争後半においてソ連の軍需生産がその軍事力に決定的な影響を及ぼし、ドイツの戦略的状況が不利に傾いている時点での作戦を例に挙げて、41年に彼我の戦力が採り得る行動の可能性と、その戦力の性質を考察するのは論議の争点から外れていると思われます。 > つまり、○○作戦と言われるようなレベルより上で、明らかにドイツ軍は下手糞です。勿論これはビジターである事と国力差にも多くを求めるべきですが、結果として宜しくない事になったのは事実です。 ドイツ軍の「戦略的采配」が芳しいものではなかった事は当然認識してます。それゆえに敗北したからこそ、この「…その軍事戦略」という名の考察において、ドイツの戦略方針が統一・徹底され、史実とはまた違った戦略が採られていた場合のドイツが勝利を得る可能性を探っているのです。 > 恐らくEdwardさんの認識は、開戦前後のドイツ軍の認識と同レベルなんですよ。 > ロスケは馬鹿だから楽勝じゃん、怖いのは距離だけさってノリのね。それが史実でどういう事になったのかは言うまでも無い事です。 私は別に上記にある様な軽薄なノリで自身の見解を述べている訳では無いし、またそれが誰のものであろうと、史実を後から俯瞰して考察する事ができる現代人の目から観た認識と言う物が、その時代のドイツ軍の認識と同レベルである訳が無いのは言うまでも無い事です。特に高尚な研究をしている訳でもありませんが、私は41年時点での史実上の戦果を基に、強いて言えば演繹法に近い方法で前提を積み重ねていく形で考察を試みています。 > ああ、勿論「電撃戦」なる言葉は判ってるつもりです。 > ですが、電撃戦は包囲してポケット作って大戦果ってのが本質じゃないんですよ。 > > ドイツ軍はいつか何処かで補充能力で負ける。 > 補充能力が追いつかなくなる前に、敵に手を上げさせるには、もしくは敵の補充能力を奪取するには? > それが電撃戦の本質なんです。 > そして、それは、つまりソ連には通用しない訳です。 > 敵主力の撃破は、つまり、好き勝手にアチコチを占領する事が出来るという事です。結果敵の抗戦能力と意思を奪うわけです。 > この延長にあるのが電撃戦であると言っても良いでしょう「駄目だ勝てない。負けちゃった」と敵に認識させるのが電撃戦の本質であり。それは主力の撃滅に続いて主要部を占領する事が「可能である」から成立する話です。 > これと同じでして、独が戦果を上げても、ソ連の枢要部を占領できると「ソ連側」に理解させないと駄目なんです。 > 独軍は確かに大戦果を上げました。ですがソ連の枢要部には、双方の戦力よりも主として独側の能力不足で果たせないのです。 > 此処で、個々の戦闘の結果が如何であるかとかは実は無意味なのです。 > 独側の攻勢限界点を、ソ連枢要部に届かせないようにすれば、ソ連の勝利なんです。 > これは恐ろしく明白です。 > 足を止める為に、適当に部隊を当てて消耗を誘うというのも立派な手立てです。となると、独側が思ってる「分散して迎撃してくる無駄な使い方」は戦術的な勝利を独に齎す代わりに、時間と補給を奪っていると言う点を忘れない方が良いでしょう。 私が理解する所の電撃戦の本質とは、「敵戦線の後方奥深くまで切り込んだ機動兵力が、敵の通信及び兵站連絡網を遮断する事で、敵の自壊作用を促してその組織的抵抗力を瓦解させる事」であり、突破包囲戦術はその手段に過ぎす、敵戦力の殲滅、都市の占領もまた、その結果よって必然的に得られる副産物に過ぎない」と言っておきます。また次の節の貴兄の見解にも異論があるところではありますが、「その軍事戦略その2」において考察する予定の争点でもありますので、その時に述べたいと思います。 また、独ソ戦初期における決定的ではないが執拗なソ連軍の抵抗の数々が、ドイツ軍にジワジワと出血と時間の浪費を強いてその体力を消耗させ、その積み重ねがモスクワ会戦における悪天候と補給欠乏という悪条件とあいまった時点で致命的な傷となって顕在化したという意味で、ソ連軍の採った戦術も決して無駄では無かったと認識しております。 > ソ連側は徹頭徹尾失策ばかりで間抜けであると断じるのは、その後のシーソーと反撃の流れを見誤るでしょう。 > 確かに独軍は強いんです。ですが、ソ連軍も侮れないのです。 > 少なくとも、赤軍の指導部が私より間抜けだとは思えません。であるならば、彼らは我々が思うよりも少し先を見ているはずです。 > また練度と仰いますが、赤軍の教科書を読んだ事がありますか? > 赤い星は? > そしてある意味公平な、独ソではない国家が分析したものは? > 日本や米国軍が分析したものをご覧になってみると宜しいかと思います。恵比寿や靖国神社で見られますよ。 > > 私も数年前まで、質のドイツに量だけで間抜けなソ連と思ってました。 > ですが、最近はロシア圏からの資料も多くが出てきています。この趣味長くやったおかげで、防衛庁戦史室や靖国神社に眠る宝のような研究文書を読む機会も得られました。 > 世間に出回る判りやすい物は、一面としては事実ですが、それだけが全てではなく、零戦や日本軍がそうであったように、そんなに簡単でも単純でもないんです。 「『ソ連側は間抜けである』と断じている」のは貴兄のようであって、私は自身の発言で一言もその様に述べた覚えはありません。「ソ連軍の機動力や質的能力に関してドイツ軍に比べて劣っている」という事がそれに値している、と言うのであれば、貴兄の理論だとドイツ軍より劣っているとされる全ての軍隊もそうであるという事にはならないでしょうか? また、参考文献云々とありますが、「それだけが全てではなく」と貴兄が述べている事は、旧ソ連から公開された資料においてもまた同様なのですから、もとよりどの国の資料が一番正確かという事など誰にも断定できない以上、そうした論拠の提示は水掛論にしかならないと思います。 > 勿論、最終的に「ドイツ側の優位は大であると」判断するのも結構です。 > 評価なんて人それぞれですからね。 > 単に私は、ドイツ軍が優位だとされてるものとは、果たして本当にそうなのか?と疑念を覚えるようになってしまっただけの捻くれものですから(笑) 御もっともな事だと思います。しかし私はべつに、自身の見解のみならず他の方々がその見解を決定するにあたって、他の異論を持つ方から了解を得る必要はないと思いますし、そのつもりもありません。それと私のハンドル・ネームは「Edward(最も一般的だが)」ではなく、「(プリンス・エドワード島の)Edwerd」ですので。あしからず。 |
> 「独ソ戦初期におけるソ連軍と後半におけるドイツ軍の包囲殲滅戦による損害には、その双方に明確な差異は無く、本質的に同レベルである」と言う事ですが、本質的に同レベルどころか、その双方には「数量的な差異」が介在する事で、「質の差」を判断する上での前提条件に大きな差異が生じてしまいます。 > ここでの争点は「ドイツ軍の質的な優位」の論拠を独ソ戦初期のソ連軍の大敗に置く事は、ドイツもその後半戦において同様な敗北を喫した事からそれは成り立たない」という事だと思います。しかし、質的要素というものを比較評価するには、当然のことながら比較対象となる双方の量的要素を同一の基準に統一させる事が前提となり、その上で同種・同規模の対象が持つ質的価値を評価する必要があります。つまりこれを裏返せば、同様な結果を引き出している双方のケースの量的要素の前提条件が大きく違えば、自ずからその双方の結果が意味する所も違ったものとなります。先の包囲殲滅戦というケースで具体的に説明すると、ドイツ軍とソ連軍がもたらした結果が同じでも、それぞれのケースにおいてそれぞれが対面していた敵兵力のとの(数量的な)戦力比に大きな差があれば、両軍の個々の部隊の質的要素を図る上でその前提条件に「大きな差異がある」事になるのです。 > より解り易く言えば、41年に自軍より2倍も3倍も(数量的な)兵力が上回る敵を相手にして数々の包囲殲滅戦を成し得たドイツ軍と、43、44年に、逆に敵兵力を圧倒的に凌駕する程の大差を付けるだけの(数量的な)兵力を準備できて、始めて先のドイツ軍と同様の結果を引き出すだけの軍事力を獲得できたソ連軍との間に「質的な差が無い」訳が無いのです。 要するに、ドイツ軍は常に自己に数倍するソ連軍と相対していたわけですよね。 戦争1〜2年目のソ連軍はその数倍する兵力でもおっつかない程度に質が劣っていたからドイツ軍に対する有効な反撃を為し得なかった、3年目からは質的に多少向上してきたので、その兵力差を生かすだけの戦術を使えるようになった、ということでしょうか? あまり根拠のある話でもないのですが、どっちかというと、ソ連野戦軍の質とか技量が向上したというよりも、スタフカが戦慣れしてきたんじゃないかな、というのがわたしの持つ印象です。また、もしかするとソ連戦勝に与るところはジューコフよりもヴァシリエフスキーの方が大きいのかもしれないとか思ったり。 41年の段階でもソ連野戦軍は局所局所ではかなり善戦しており、初動の立ち上がりの遅れやドイツ軍が過去二度にわたる大作戦を既に経験済みであることを考えれば上出来と言っていいと思います。 つまり、前線で戦っている部隊の能力そのものには懸隔と言えるだけの差はないと。 その局所での善戦を無効にすることができたのはドイツ軍の機動力なわけですが、つまりその機動力は何故発揮できたのか、その機動に対抗することができなかったのは何故かを考えると、ソ連軍上級司令部の無能さに行き着くと思うんです。 実際、ソ連野戦軍の質は、装備兵器の進歩を別にすれば、年々低下していっていると言ってもいいように思います。 兵員の質という点からすれば、開戦時がベストコンディションだったのであって、それから先は訓練未熟の補充兵やら、言葉もろくに通じないようなシベリア兵や中央アジアの兵を次から次へと注ぎ込むことでようやく持ちこたえていたわけですから。 とくに2年目のドイツ軍の優位というのは精鋭野戦軍を41年に捕捉撃滅することができていたことが大きかったのではないでしょうか。 やはり相当効き目はあったんだと思います。 ソ連赤軍の用兵思想なり訓練内容なりというのは、結局のところ戦前の1930年代中ごろから変わっていませんよね。 指揮官を得れば(というのはつまりスタフカに対して発言力があり、進退の自由を確保できる人物)いつでもその能力は発揮できる性質のものです。 これはジューコフとシュテルンを得られたノモンハンで実例を見ることもできますし、イェレメンコを得たスターリングラード外周での作戦にも見ることができるでしょう。 しかし、冬戦争でのソ連軍の戦いぶりはノモンハンのわずか数ヵ月後とも思えないほど無様ですし、また確かに、バルバロッサ作戦を迎え撃った時点での歩・砲・戦(及び航空)協調がバラバラだったという事実はあります。 スペイン戦争の戦訓に基いたパヴロフの新理論によって戦車用兵の体系はやや混乱しており、集団使用はしようとしませんでした。 臨戦準備の状態も酷いものでしたし、Edwerdさんの主張も戦争1年目に的を絞った主張であるならば大いに頷けるものがあります。 つまり、ソ連軍にとって死活問題なのは適切に手綱をとることができるかどうかという点にあるのだと考えます。 戦争後半になってソ連軍が調子付いてきたというのは、勝ちに乗ってスターリンが寛容になり指揮官の自由裁量の幅を増やした、また指揮官達は実績によって発言権を増大していったからなのではないかと考えます。 自由裁量を失えば、第三次ハリコフ戦のように手痛い敗北を喰います。 また、41年にソ連軍が各所で包囲を食ったのが43年〜44年のドイツ軍と大差がないというSUDOさんの主張にも、この点で同意できる部分があります。 即ち、ソ連軍が包囲を喰ったのは機動の自由、進退の自由を持っていなかったからだと。 悪名高いヒトラーの「確地」命令ですが、41年当時はソ連軍がこれに縛られていたのです。 > つまり、ドイツ軍の質的な優位の根拠としてドイツ軍の戦果を挙げる事は、ソ連軍も同様に結果を得ている事からその根拠となり得ないと主張する事は、双方がほぼ同じ条件で同様な結果を出していれば成り立ちますが、その同様とされる戦果を挙げる為にソ連軍は敵を圧倒的大差を付けた兵力でもって試み、逆にドイツ軍は常に敵より少ない兵力でもって試みているという前提条件の違いがある以上、「双方に差異はない」とは到底言えないのです。 可能な限りの量的圧倒というのは最初から教科書に書いてあることで、ソ連軍はいつでもどこでも方面軍単位の段階からあらゆる場面でそうしようと努力しますから、これはソ連軍のひとつの特色として「質」に織り込むべきものと考えます。 量で質を補うのではなく、量を集めようとする性質を顕著に有するという作戦的戦術的な「質」なのではないでしょうか。 |
> 要するに、ドイツ軍は常に自己に数倍するソ連軍と相対していたわけですよね。 > 戦争1〜2年目のソ連軍はその数倍する兵力でもおっつかない程度に質が劣っていたからドイツ軍に対する有効な反撃を為し得なかった、3年目からは質的に多少向上してきたので、その兵力差を生かすだけの戦術を使えるようになった、ということでしょうか? > その通りです。戦争開始の初年度せでさえ、ドイツ軍は常に自軍より一段上にあたるぐらいの規模のソ連軍兵力と相対しながら(軍団規模で的1、2個軍規模に対する等)、それでも尚、攻勢を継続していました。ソ連軍に関しては、軌道に乗った軍需生産がその軍事力に影響を与えて、圧倒的兵力差という段階に至るだけの物量を確保した時点で、その量がソ連軍個々の質的向上を効果のあるものに変化させる事が出来た、という意味で、「量は質に優る」という言葉にも肯けるものがあります。 > 41年の段階でもソ連野戦軍は局所局所ではかなり善戦しており、初動の立ち上がりの遅れやドイツ軍が過去二度にわたる大作戦を既に経験済みであることを考えれば上出来と言っていいと思います。 > つまり、前線で戦っている部隊の能力そのものには懸隔と言えるだけの差はないと。 > その局所での善戦を無効にすることができたのはドイツ軍の機動力なわけですが、つまりその機動力は何故発揮できたのか、その機動に対抗することができなかったのは何故かを考えると、ソ連軍上級司令部の無能さに行き着くと思うんです。 > また私は、戦術的機動力の欠如に関して、特に初期のソ連軍機械化軍団のそれは、部隊の装備する車輌の直接的な能力(航続距離・路外走行能力等)にその原因があるのではなく、戦闘部隊レベルの指揮・統制能力、特に無電装備の充実という点でドイツ軍の装甲部隊との間に差があったからと認識しています。 > 実際、ソ連野戦軍の質は、装備兵器の進歩を別にすれば、年々低下していっていると言ってもいいように思います。 > 兵員の質という点からすれば、開戦時がベストコンディションだったのであって、それから先は訓練未熟の補充兵やら、言葉もろくに通じないようなシベリア兵や中央アジアの兵を次から次へと注ぎ込むことでようやく持ちこたえていたわけですから。 > とくに2年目のドイツ軍の優位というのは精鋭野戦軍を41年に捕捉撃滅することができていたことが大きかったのではないでしょうか。 > やはり相当効き目はあったんだと思います。 戦争2年目において全ドイツ軍の6割程度でしか攻勢作戦に使用できない状態であり、南方戦区に攻勢を限定したとは言え、それでも尚、ブラウ作戦を実行して曲がりなりにもまだあれだけの進撃を可能だった事からも、肯ける事です。 > ソ連赤軍の用兵思想なり訓練内容なりというのは、結局のところ戦前の1930年代中ごろから変わっていませんよね。 > 指揮官を得れば(というのはつまりスタフカに対して発言力があり、進退の自由を確保できる人物)いつでもその能力は発揮できる性質のものです。 > これはジューコフとシュテルンを得られたノモンハンで実例を見ることもできますし、イェレメンコを得たスターリングラード外周での作戦にも見ることができるでしょう。 > トハチェフスキー将軍の粛正に始まるソ連将校群の大量喪失の影響は大きいですね。ただそれが指導力のある指揮官の台頭を助けたという逆説的な影響もあったと思います。 > しかし、冬戦争でのソ連軍の戦いぶりはノモンハンのわずか数ヵ月後とも思えないほど無様ですし、また確かに、バルバロッサ作戦を迎え撃った時点での歩・砲・戦(及び航空)協調がバラバラだったという事実はあります。 > スペイン戦争の戦訓に基いたパヴロフの新理論によって戦車用兵の体系はやや混乱しており、集団使用はしようとしませんでした。 > 臨戦準備の状態も酷いものでしたし、Edwerdさんの主張も戦争1年目に的を絞った主張であるならば大いに頷けるものがあります。 ソ連軍の機動戦術が確立できた背景に、大物量がその質を効果のあるものに変化させるだけのレベルに至った時点で、初めてドイツの機動戦術を効果的に模倣する事が可能になったと認識しています。 > つまり、ソ連軍にとって死活問題なのは適切に手綱をとることができるかどうかという点にあるのだと考えます。 > 戦争後半になってソ連軍が調子付いてきたというのは、勝ちに乗ってスターリンが寛容になり指揮官の自由裁量の幅を増やした、また指揮官達は実績によって発言権を増大していったからなのではないかと考えます。 > 自由裁量を失えば、第三次ハリコフ戦のように手痛い敗北を喰います。 高級指揮官が政治委員の制約を受けない軍事的自由裁量権を取り戻した事で、作戦レベルでの能力が向上したのは肯けます。ただ下士官レベルの臨機応変な判断力と状況の変化に柔軟に対応する指揮能力と言う点では、共和国軍時代から維持して培って来たドイツ国防軍のレベルには及ばないでしよう。 > また、41年にソ連軍が各所で包囲を食ったのが43年〜44年のドイツ軍と大差がないというSUDOさんの主張にも、この点で同意できる部分があります。 > 即ち、ソ連軍が包囲を喰ったのは機動の自由、進退の自由を持っていなかったからだと。 > 悪名高いヒトラーの「確地」命令ですが、41年当時はソ連軍がこれに縛られていたのです。 > キエフでのソ連軍の敗北とこれと比較的近い時期における第6軍の敗北を比較した場合、結果は同じでも、ドイツ軍の方が遥かに粘り強く攻囲に絶えたという内容の点で双方が同じとは言えず、この点にもこの時期におけるドイツ軍の質的な優位性を観る事ができると考えます。 > 可能な限りの量的圧倒というのは最初から教科書に書いてあることで、ソ連軍はいつでもどこでも方面軍単位の段階からあらゆる場面でそうしようと努力しますから、これはソ連軍のひとつの特色として「質」に織り込むべきものと考えます。 > 量で質を補うのではなく、量を集めようとする性質を顕著に有するという作戦的戦術的な「質」なのではないでしょうか。 ソ連軍の軍事ドクトリンの性質という意味で理解できます。ただソ連軍とドイツ軍を対等の兵力数で比較して評価できる能力の質とはまた別のものです。裏返せば大兵力で攻勢をかけるという戦法を採れる段階に至って始めてソ連軍事力の発露が観られるとも言えますが、何れにしてもそれを発揮させる前に勝負を決するという点にドイツ軍の勝機がある訳です。 |
先ほど頑張って数えてみたんですが。 http://www.battlefield.ru/library/battles/index.html バルバロッサ時、前線にあったソ連軍は165個師団。 その後ろに有ったのは57個師団。 スタフカ予備45個師団。 バルバロッサで独軍が動員したのは135個師団と聞きます。 これにはソ連軍の旅団・連隊等を含みませんので、ソ連軍の総数はもうちっと増えますが、平均的にソ連軍の師団の人数はドイツ軍のそれよりもかなり小柄であるという事も含めると、果たして2倍以上の戦力差とは何処に有ったのでしょうか。 意外にも思えますが、バルバロッサ時の両軍前線戦力は独ソで同レベルかドイツ軍優位であったのです。 ドイツ軍は優れた戦術機動力を持つ装甲部隊と、準備を整えていた事、ある種の奇襲であった事等から大きな前進を果たし、幾つものポケットを生成し、大戦果を上げましたが、これは双方の優劣ではなく、そういう状況が成立しえたからであると言っても良いでしょう。 双方のもっていた自由度が異なっただけのことであり、結局のところ、まなかじさんが述べられた進退の自由を持ちえたのか否かが一番大きいところではないでしょうか? バルバロッサは、双方の質的優劣ではなく、双方の置かれていた条件の差異に、その多くを求められるのではないでしょうか? |
上記師団数には、防空師団も外してます>21個師団ありました。 これも師団総数にカウントするならば、前線で186個師団、独立連隊も含めれば200個師団相当になると思います(後方になると、連隊・防空部隊はずっと減りますので、総戦力では300個師団分にならないと思いますが、ここらは各部隊の充足率等も関わりますので何とも言えません) 軽く検索したのですが、独軍はバルバロッサに300〜500万人を投入したと言うような事が書かれてるようですが(この辺りは同盟軍や、定数、どこまでを投入と見なすかとかで変わるんでしょうな)ソ連軍の戦力はどうだったのでしょうか? 調べれば調べるほど判らなくなるんで、どなたか知っていたらお願いします。 |
世の中には私と同じようなことを思った人がいるんですね。 http://www.shortway.to/1941/ ★:レニングラード戦区:21.5個師団 426,230人 +:独+フィンランド軍:21.5個師団 407,440人 ★:ソ連北西方面軍:24個師団 375,863人 +:独北方軍集団:29個師団 787,500人 ★:ソ連西方面軍、第11軍:54個師団 791,445人 +:独中央軍集団:51.5個師団 1455,900人 ★:キエフ、オデッサ戦区:91.5個師団 1412,136人 +:独南方軍集団:61.5個師団 1508,500人 合計すると 赤軍:191個師団、3005,674人 独軍:163.5個師団、4159,340人 中央軍集団と北方軍集団は総戦力で2倍、赤軍は後方にかけて分散されている。よって前線レベルでは3倍も可能。2倍3倍の戦力を発揮してるのはどっちだったんでしょうか・・・。 |
http://www.feldgrau.com/stats.html に、ドイツ軍の年間、月間損失数が記されています。ドイツ軍の総戦力は1941年に500万、42年は580万だそうですね。 開戦は6/22ですので、41年7月からの1年間の消耗をカウントすると、KIA-479,200、MIA-50,753、合計529,953人、月間平均44,163人。損失も補充も全てが東部戦線でもないのですが、月間平均補充は11万人と考えられます。(年間130万増加の損失50万で+80万)負傷者等のカウントもあるので実戦力は微増と言ったところでしょうか。 さて、赤軍は前線戦力が300万ちょっとでしたから、キエフでの損失等もあって、41年末には、元からあった戦力は200万を切っていると考えられます。 先に述べたように、独軍は実数として大した変動は無く、増えていると言っても良いでしょうから、戦力比は当初の400万:300万ではなく、400万:200万といった状況でしょう。 タイフーン作戦前の双方の全般状況としては、ドイツ側は実働戦力として優位、赤軍はシベリア軍の投入と寒波の到来だけが頼りという寒い状況です。 面白いですね、ドイツ軍は41年中は恐らく確実に数の優位を持っていたのです。言い換えると彼らが数の優位を持てなくなった時にシーソーは覆る訳です。 総戦力で400万対300万と100万勝る事、その100万の優位を任意の戦域に投入する事で大きな前進を果たしたのがバルバロッサのドイツ軍であったとも言えるでしょう。 中央と北方の前進は装甲集団の数量のみならず、全般戦力でも優越していたから成立したものであり、南方軍集団の序盤の前進の鈍さは地形や装甲数のみならず戦力で勝っていなかったというのも一つの理由ではないかと愚考しますがこの辺りは如何でしょうか? バルバロッサのドイツ軍の前進は数的優位が背景にあったのです。であるから、タイフーンが頓挫したのは、補給や気候だけではなく、数的優位が貧弱であった事も原因だったのです。 実際、冬季戦でもドイツ軍は数的優位さえあったら優勢に戦闘しています。双方ともに数的優位が背景にあった戦争(攻勢)を行っているのです。 その数的優位を確保するのに、バルバロッサのドイツ軍は奇襲(双方の戦争準備度合いも含む)と効果的な装甲集団の活用による任意の戦場への集結によって果たし、ソ連軍は多数の兵力動員で果たしたに過ぎないのです。どっちも「戦場における数的優位」が行動指針であり指標であったのです。 そして双方の、数的優位を作り出す能力は、41冬〜42冬においてはあまり大きなものでは無いですね。 ソ連軍は前年の消耗から補充が追いつかず(ここで重要なのは、赤軍の生産力だけではなく、元々赤軍の方が戦力が少なかったという事です)ドイツ軍は戦力そのものは優位ですが遠距離侵攻ゆえに補給が追いつかなくなりつつあり、これは機動力に溢れる代わりに潤沢な補給を要求する装甲軍の活用に足枷となります。 結果として42年春季〜は、赤軍は消耗を抑えるという観点からも決戦を避けて後退を選択し、ドイツ軍はそれを追ってスターリングラードまで進出し、最終的にそこでドイツ軍は敗北した訳です。多少は整った赤軍の補充と、あまりにも長大になった補給路からドイツ軍の機動力低下等の要因がこの結果を生み出したとも言えるでしょう。 この時点で、双方の戦力(実数)比率と消耗数は、実はよく相関しており、やはり質的差異が見られるとは思えません。 43年夏季、クルスクで失敗したのは、つまりドイツ軍の補充に時間がかかっただけではなく、その時間でソ連軍の補充が多かったという事が大きな影響を齎してますが、つまりこの辺りから、独ソの前線戦力対等乃至逆転したのです。 今までも戦力優位を背景に勝利してきたドイツ軍が、数的優位が怪しくなったのですから負けるわけです。そこに何か特別な謎はありません。数です。 またイメージされやすい圧倒的な大戦力のT−34というそれですが、T−34の月間生産数は1,000ちょっとで、これってば、実はドイツの戦車・突撃砲・駆逐戦車・対戦車自走砲の生産ピークよりも少ないんです。 T-34の生産総量は42年いっぱいで15,300。これはこの時点までのドイツ軍の戦車等生産(41&42年)の10,148よりは多いですが、1.5倍でしかありません。つまり、恐らく42年後半にならないと実効力のある数的優位は無いのです。 43年の双方の生産は15,000と10,000ぐらいで、41〜43の双方の生産総量は30,000と20,000で、ここでT−34は数的優位を確実にしたといえます(ただし損失数等は計算に無い) 44年いっぱいの生産は、14,000と17,000でドイツが逆転しますが、これはT-34/85へと生産が切り替わった事や戦況もあるのでしょう。総数は44,000と37,000でドイツ側も大きく改善してます(まあ、西部戦線始まるんですが) ここで判るのは、ドイツ側は戦車戦力でも圧倒的不利だったとは言い難いという事です。3号、4号、5号、突撃砲の総生産が30,000程に達した事を思えば、総生産55,000、44年いっぱいまでで44,000のT-34にそう無茶苦茶に戦力差がある筈無いですよね。 ましてや、独軍に質の優位があるならば、T-34と独戦車の交換比率は独優位になるのですから、数倍の戦車戦力なんてのをソ連側が作るのも困難でしょう(序盤の旧式戦車の大量損失はソ連側の戦車優位を大きく揺らがせたでしょう) 全般戦況は、結局のところ、双方の優位劣位は事実上ないものと考える方がスムーズに理解できませんか? ドイツ軍には優秀な指揮官が居るのは事実ですが、まなかじさんが述べられた様に赤軍も優秀な指揮官を得れば、見事な働きを成し遂げるし、ヒトラーが要らない事言えばスターリングラードになる訳です。 戦術レベルのドイツ軍の強さを否定するものではありませんが、何と言うか、そういう次元を超えたところで、双方は大して違わないんじゃないかという印象をもちます。 |
色々と資料を検討されたようで、提示したサイトを私も拝見しましたが、その努力には正直敬服しました。以下に私の持つ資料・文献から得た情報によって認識しているデータを記します。 ソ連軍の独ソ戦開始時の兵力 ヨーロッパ・ロシアに配備された総数:245個師団 前線の軍管区:170個師団 戦略予備・内陸部の軍管区:75個師団 41年7月までの動員・増援:124個師団 41年8〜12月までの動員・増援;169個師団 これは狙撃兵・戦車・騎兵・民兵師団を含んだ数ですが、SUDOさんのデータ同様、多くの独立戦車旅団・砲兵・空挺・その他の旅団は含まれていません。 また増援兵力の2割程度は非包囲下で撃破された師団の敗残兵を吸収したものとして考慮する必要があるかもしれません。 ドイツ軍の前線の師団数はSUDOさんのデータとそれほどの違いはないです。またソ連軍の前線の軍管区内の一部の部隊が軍管区内後方に展開していたのは私も認める所ですので、開戦劈頭の国境会戦においてはソ連軍の兵力がドイツの2、3倍でないのは明らかな様です。 ただ緒戦で突破・急進した各装甲集団が、リガ・スモレンスク・ウマン地区等で、後続する各歩兵軍を後方に残したまま単独で、内陸部の軍管区(モスクワ・ハリコフ・オリョール・北コーカサス等)から増援された戦略予備軍と相対した事を考えば、局地的にはドイツ軍が兵力的に優勢なソ連軍とわたり合ったと私は認識しています。 また肝心な事ですが、師団の編制内容に関して指摘しておきますと、 ソ連軍の師団兵員数が少ないのは、ソ連軍の師団の多くが砲兵・対戦車砲などの多くの支援部隊を欠いているからで、 ドイツ軍の師団(歩兵で17,000人)には偵察・工兵・通信・対空・砲兵大隊等の支援部隊が充足しており、各連隊に属する戦闘要員は2〜3,000であった事を述べておきます。 双方のデータで大体合致するのは前線の初期戦力ぐらいで、上記以外では細かな面でもかなりの食い違いが見受けられます。そして当然の事ながら、双方のデータのどちらが正しいのかなどという事は神のみぞ知るとしか言いようがないと思う次第です。また双方がそれぞれ根拠とするデータが差異がこれだけあると、もはや議論にならないと思うので、私は自身で納得できるデータを前提に考察を進めたいと思います。 |
> 色々と資料を検討されたようで、提示したサイトを私も拝見しましたが、その努力には正直敬服しました。以下に私の持つ資料・文献から得た情報によって認識しているデータを記します。 いや、こんなのブックマークからリンク一回飛ぶだけのことで、別に大したコトはしてません。 > ただ緒戦で突破・急進した各装甲集団が、リガ・スモレンスク・ウマン地区等で、後続する各歩兵軍を後方に残したまま単独で、内陸部の軍管区(モスクワ・ハリコフ・オリョール・北コーカサス等)から増援された戦略予備軍と相対した事を考えば、局地的にはドイツ軍が兵力的に優勢なソ連軍とわたり合ったと私は認識しています。 であるから、その時点で装甲部隊は停止したとも言えますよね? 後続する歩兵部隊を待ったのは、戦力優位に対して懸念があったからでは?(これは補給も含めて考えれば、当然の判断であったと考えます。勿論前線の部隊の気分が「まだいける」であっても手綱を誰かが取ろうとするのはシステムとして自然でしょう) > また肝心な事ですが、師団の編制内容に関して指摘しておきますと、 > ソ連軍の師団兵員数が少ないのは、ソ連軍の師団の多くが砲兵・対戦車砲などの多くの支援部隊を欠いているからで、 であるから、師団数のみならず、兵力数を併記した次第です。 >赤軍:191個師団、3005,674人 >独軍:163.5個師団、4159,340人 これから読み取れるのは、赤軍の方面軍規模(支援部隊を加えたものがおかれている)で、一個師団+支援部隊平均は15000人ぐらい。ドイツ軍は25000人ぐらいというカウントになります。 ドイツ軍で診断平均人員に+8000前後でしょうか、これが双方が持つ独立旅団や各種支援部隊の平均的員数と見ても良いかと思います。 師団数から、その方面に於ける、総兵力数を類推するには、一つの目安になるのではないでしょうか? 勿論、この時期のソ連軍は充足に苦しんでいますから、急遽動員された兵力では(それこそ支援用部隊の手配が無かったり)一個師団+支援部隊のセットにおける平均兵員数は低下していると考えられますが、このあたりは資料を持たないので何ともいえません。 さて、ここでは便宜上、ソ連軍一個師団の動員は、必要と思われる支援戦力も勘案して平均して15,000人と見ます。 7月まで動員124個とは、つまり整った状態で180〜200万人。12月までの169個とは250万というのが、開戦時の精鋭部隊と同レベルの充足をしていたと見積もった場合の兵員数です。 この内の2割は敗残兵だとするなら、完全編成は230〜240個師団、350万人程度。残りを便宜上半数編成として45万。総計400万ぐらいが最大限で見積もれます(8月以降が230万、7月中が170万ぐらい)実際のソ連軍の充足率次第で数字は大きく上下しますが。 ここらになると、判らないとしかいいようが無いというのが実体ではないでしょうか。 さて、開戦時300万あった赤軍は100〜200万を喪失していますね。捕虜数だけでも100万超えますから、戦死者はどのぐらいだったのか、ちょっとわかりませんが、総損失は(負傷者もあるでしょうし)200万近いと考えても良いかも知れません(スモレンスク戦では11万のうち7万が捕虜、他は・・・これから逆算するとMIA/KIAの合計は160万、死者と同数以上のWIAが普通ですから負傷は60〜200万つまり損失は最悪で350万、少なく見積もって250万) 補充戦力を最大に見積もって、170万+230万、損失を最低に見て-250万、初期戦力300万。よって初期動員が入った時点で赤軍前線戦力は300+170-250で220万、12月末で(その間の被害が無いとして)450万まで回復するのが、極普通に、もっとも損害が無く、もっとも補充が潤沢であった場合の数値です。 これらをそれぞれ最悪に見積もると、補充は充足60%ぐらいとして100+150ぐらい、損失-350はちょっとどうかとも思いますが、数字ということで採用するとして(言うまでもなく初期戦力より多い)300+100-350で、50万、12月末では200万。 この最良と最悪の中間が現実とするならば(勿論根拠は無いです)秋に180万、冬350万が、まあ、良いところと言えるのではないでしょうか。 先に述べたとおり、ドイツ軍のこの年の戦力はプラスコースですから、占領地警備や輜重に手間を取られたとしても、前線戦力は400万前後はあると考えられます。 よって、秋季後半までは、最善コースでも赤軍は全般状況としては数的劣位を維持していると考えられます。 ここで興味深いのは、キエフの約100万の損失です(下手すると150万) 最悪コース計算でも、キエフが無いと200万+、最良コースなら400万の戦力が、この時期の赤軍にあったことになります。 なるほど、固守を選択して、敵を誘引し時間を稼ぎつつ、後方で動員しつつある反撃戦力の来援を期待しようというのは、中々理に叶った判断だったのかも知れません(そしてそれが間違いであると赤軍が気づくのはキエフが落ちた時だったのでしょう) これはスタフカの失策でもありますが、どちらかと言うと、ドイツ軍の習性を学んでいなかったというのが大きいところでしょう。 またキエフ等の早期降伏ですが、このキエフ戦でドイツが喪失したのは10万人とも言われてますから、かなりの激戦であったのは事実で(これはフランス戦全ての戦死者の倍を越えます)またこの時期、ドイツ軍とソ連軍はお互いに、まだ強度の憎しみを持った戦闘をしてません。実際にドイツ軍捕虜もそこそこ出ているわけで、この時期、まだ双方の兵員は絶滅戦争であると認識していたのでしょうか? 私は、この認識を持ったのかどうかは無視出来ないなにかがあると考えます。 スターリングラードでは包囲された赤軍は降伏せず、逆に最終的に逆包囲したわけですが、キエフでそれが果たされていないのは、また色々とメンタルな何かがあるようにも感じますが、どうでしょうか? つまりそれぞれの情景には、それぞれに特有の理由もあるでしょうし、それが最終的な結果にどの程度の影響を齎していたのかも考察してみると面白いと思います。 私は、そういった理由は意外と無視出来ないというか支配的にすらなりかねない何かであると思いますし、そういった条件を無視して、優劣を論じても、恐らく適切な考察にはならないかと思います。 初年度の赤軍は、真面目に世間的で一般的な戦争をしており、それぞれの行動や判断には理由も推定できるところが多く、赤軍の劣位というよりは、様々なレベルの準備認識の不測ゆえの齟齬が、破滅的な影響を齎していたのでは無いかと思います。 そして、双方の部隊レベルでの優劣を意図的に無視しても、実は東部戦線の全般的な戦況は説明できてしまうと言う点にも留意が必要でしょう。 数倍の戦力に果敢に立ち向かうドイツ軍という情景は、半ば幻想で最初の年には基本的にありそうもないものだったのです。 勿論、質的優劣がないと判断するには、全ての情景を説明できません。 これらには、まなかじさんが述べられたようにソ連軍とドイツ軍の言うならば特性の違いとも言えるシステム差異が齎す、一般に大隊・連隊規模前後(戦隊レベルも含むかな)におけるドイツ軍の柔軟な構造が齎した影響と言えるでしょうね。 であるから、戦術レベルでは多少ドイツ軍優位であると私も述べておりますし、それに関しては基本的に同意していただけるものと思います。 そして、それより高位のレベルで、ソ連軍とドイツ軍で明確な優劣を見ることは出来ますか? また後退戦闘におけるドイツ軍の柔軟かつ優れた戦闘とは、43年クルスクでは個人的には見受けられませんし、44年中央軍集団にも見られません。 確かに42年冬季における行動はドイツ軍が上位にも思えますが、これらを思うと、42末〜43あたりで、ドイツ軍の戦術後退技量を否定とはいかなくても効力を大きく減じるだけの能力を赤軍が持ちえたと言っても良く、そしてそれは赤軍の増大した戦力リソースが果たしたものであると考えても良いでしょう。 これはこうした戦術後退機動に対する移動妨害射撃に関する教本と、ドイツ側の戦記や報告からも読み取れます。 赤軍が上手になったと言うよりは、元々教本に記されている行動を果たせるだけの戦力が手当てされたと見るべきでしょう>この行動には152mm榴弾砲や122mm加濃といった火砲が支配的な役割をするとされており、これらの火砲が序盤の消耗で一時的に不足となったのは良く知られているところです。 また序盤に於いてはドイツ軍はさほど激烈な戦術的後退を強いられる事が少なかったという点にも注意すべきです。また序盤戦では急遽動員された部隊には、こうした火砲の手配が少なかったであろうと想像できます。赤軍には後退するドイツ軍を足止めして追撃するためのシステムは元々備わっており、それらは44年になるまで基本的に変わるところが無かったのです(これは赤軍が大体どの戦場でも同じ戦い方をするという形でドイツ側の記録にも散見できます)単にシステムはあっても、それに充当できる戦力が無かっただけでしょう(勿論、こういう戦力をその場で抽出する事ができないという辺りは独ソの明白な差異ではあります) となると、赤軍の後退の下手さ(これはあるでしょう)と、ドイツ側の後退の上手さとそれを打ち消せるだけのソ連側システムの存在から、双方が戦術的後退を選択したときに受ける打撃や混乱といった問題は、先にも述べた「ドイツ側の戦術機動力の多少の優位」の中に埋没しうる程度ではなかろうかと考えます。 (勿論、この評価が適切であるか否かは、それぞれの判断基準や知りえた情報によっても変化するものです) 様々なレベルで考えても、独ソ両軍の特性の差異はあったにしても、優劣はやはり無いかあっても些細なレベルではなかろうかと感じます。 1万人の戦力で殴りあったらドイツ軍は優位でしょう。 10万人だったら似たようなもんで、100万だったらソ連側がミスしなければソ連側が優位ではなかろうか(でもミスしやすいのもソ連側)というのが、此処数年の私の印象です。 |
> > ただ緒戦で突破・急進した各装甲集団が、リガ・スモレンスク・ウマン地区等で、後続する各歩兵軍を後方に残したまま単独で、内陸部の軍管区(モスクワ・ハリコフ・オリョール・北コーカサス等)から増援された戦略予備軍と相対した事を考えば、局地的にはドイツ軍が兵力的に優勢なソ連軍とわたり合ったと私は認識しています。 > であるから、その時点で装甲部隊は停止したとも言えますよね? > 後続する歩兵部隊を待ったのは、戦力優位に対して懸念があったからでは?(これは補給も含めて考えれば、当然の判断であったと考えます。勿論前線の部隊の気分が「まだいける」であっても手綱を誰かが取ろうとするのはシステムとして自然でしょう) 私が言及している「局地的にはドイツ軍が兵力的に優勢なソ連軍と『わたり合った』」というのは、「装甲部隊が停止して歩兵部隊の到着を待っている」という状態を指しているのではありません。その時点の既存の兵力で敵を撃破しているか、その反撃を撃退しているという意味です。 スモレンスク会戦では、ドイツ軍の2個装甲集団(若干の歩兵師団を含め約20個師団)が後続の歩兵軍の到着を待つ事無く、ソ連軍の約50個師団弱の兵力と相対しながらもスモレンスクを占領しました。 北方軍集団ではイリメニ湖南方にて、第56装甲軍団の第8装甲師団が、ソ連軍の第21戦車師団・第3戦車師団の一部・第220自動車化狙撃兵師団・第180狙撃兵師団に半包囲されながら反撃を受けましたが、これを押し留めて包囲網を脱出しました。 スモレンスク占領以後、長期間の停止を強いられたのは、部隊の再編成が必要だった事もありますが、主に兵站補給上の攻撃限界線に達していたからであり、ソ連軍の兵力が優越していたからではありません。例えば莫大な航空補給能力がその時点で可能であったなら、ドイツ軍はそれほど時を経ずして進撃を再開していた事でしょう。 そして、41年当時のソ連軍がこの時点のドイツ軍の立場にあったとしても、ドイツ軍と同じ事ができたとは到底思えません。何故なら、まなかじさんとの意見の同意を得た様に、ソ連軍は「圧倒的」な兵力的優位を確保して初めてその軍事力を発揮した攻勢が採れるからです。43〜44年になったら同じ事ができるとおっしゃるかもしれませんが、41年ではその企図する軍事ドクトリンが完成していないのですから、争点のもとになっている41年次の軍事戦略に対する反論とする事はできないでしょう。 > > また肝心な事ですが、師団の編制内容に関して指摘しておきますと、 > > ソ連軍の師団兵員数が少ないのは、ソ連軍の師団の多くが砲兵・対戦車砲などの多くの支援部隊を欠いているからで、 > > であるから、師団数のみならず、兵力数を併記した次第です。 > >赤軍:191個師団、3005,674人 > >独軍:163.5個師団、4159,340人 > これから読み取れるのは、赤軍の方面軍規模(支援部隊を加えたものがおかれている)で、一個師団+支援部隊平均は15000人ぐらい。ドイツ軍は25000人ぐらいというカウントになります。 > ドイツ軍で診断平均人員に+8000前後でしょうか、これが双方が持つ独立旅団や各種支援部隊の平均的員数と見ても良いかと思います。 私が指摘した師団編制の違いを計算に加味されていないようです。 貴兄が提示した様にソ連軍の序列には戦車・砲兵等の多数の独立旅団が含まれておらず、更に私はソ連軍の師団には支援部隊がほとんど含まれていないと指摘しました。よって >赤軍:191個師団、3005,674人 >独軍:163.5個師団、4159,340人 から算出するソ連軍1個師団の兵員数は [(約300万)÷(約200個師団)=(1個師団約15000人)]であり、 「一個師団+支援部隊平均は15000人ぐらい」とはならず、 この15000人という兵員数は、支援部隊を除いた戦闘部隊がほぼ8,9割方占める兵員数だと申しているのです。 一方、ドイツ軍の師団には各種支援部隊を完備して「17000人」であり、 [17000−([各連隊の戦闘要員3000]×3)=(支援要員8000)] という内分けの中で、実際の連隊の戦闘要員は約9000人前後であって、 「独軍:163.5個師団、4159,340人」から逆算した、 「ドイツ軍は25000人ぐらい(17000人+8000人)」という意味ではないのです。 おおざっぱではありますが、(他の国もそうですが)ドイツ軍師団の兵員の半数近くが後方支援要員であり、実際の連隊所属の戦闘要員の概算兵員数で、 ドイツ軍9000人、ソ連軍15000人 という開きがあるのは、ソ連軍の歩兵大隊が6個中隊編制(他の国は大体4個中隊編制)であった事を考えれば肯ける数字です。 つまり、支援部隊を除く戦闘要員の兵員数で比較するのであれば、 「独軍:163.5個師団」の直接戦闘要員は概算で、 [(163個師団)×(9000人)=(146万人)」であり、 「赤軍:191個師団」の直接戦闘要員は、概算で [(300万人)÷(200個師団)=(1個師団約15000人)] という計算が成り立つ事からから、そのまま300万を適用すると、 ドイツ 約150万:ソ連 約300万 という構成比となります。 この兵員数の比較を各種支援部隊を含めた、完全編制状態のドイツ軍師団の兵員数(17000人)の基準に合わせて行った場合、 ドイツ軍:[(17000人)×(163.5個師団)=(約278万人)] となりますが、 ソ連軍の方は、その歩兵師団のほとんどが直接戦闘要員で占められている事を考慮すれば、これに戦車旅団や砲兵旅団等の各種の独立支援部隊を加味して、ドイツ軍師団と同等の基準に合わせなければならない事になりますが、これは算出不可能と考えます。 しかし、ソ連軍の序列を外観するに、その多くの独立旅団等の兵力を構成比の総数に単純に加えるとしたら(当初のソ連機械化軍団は戦車師団で編制されていましたが、モスクワ戦の頃になると編制が変更された多くの「戦車旅団」が参加しています)、300万人に3〜4割増しの兵員数を加味して400万前後と考えられるのではないでしょうか(多くの文献では、400万から500万とばらつきがありますが、これは後方の予備軍を計算に入れるかどうかで違ってくると考えられるのでは)。 つまり私の試算では、 各種支援部隊を除く、直接戦闘要員のみを対象にした場合でも、 ソ連軍:約300万人 ドイツ軍:約150万人 となり、ドイツ軍の完全編制の師団を基準にして比較する際に、(おおざっぱではあるが)ソ連軍の兵員数を(独立旅団等を師団直轄の支援部隊の代わりに計算に加味すると仮定して)3〜4割増して計算した兵員数を対象にしても、 ソ連軍:約400万人 ドイツ軍:約278万人 となり、いずれの場合でも兵員数でドイツ軍がソ連軍に優っていた訳ではないと考えます。 そして私の[完全編制状態の師団を基準にした]試算での、 ドイツ軍:約278万人という数値は(軍・軍団直轄の支援部隊を含めたとして、俗に言われる約300万人という数値に置き換えても)、貴兄のデータの 独軍:163.5個師団、4159,340人 と明らかな食い違いが見られますが、この100万の違いが何処から来ているのか分かりません。 何れにせよ貴兄の提示するソ連側の兵員数(300万)にも、(そのままでは基準が合わないので)独立旅団等のプラスアルファを加味した(400万になるのか500万になるのか定かではないが)数値になる事から、開戦時にドイツ軍が兵員数で優っていたとは言えないと思いますが、如何でしょうか? |
ああ、えっとご存じなかったのだったとしたら謝罪します。 ソ連軍の狙撃兵師団の人員定数は約9,000〜10,000人です。 赤軍の狙撃兵師団は3個歩兵連隊+1〜2個砲兵連隊で構成されて、これで9,000人です。 歩兵連隊は2〜4個大隊と約100人の指揮人員・支援火器(連隊砲等) 歩兵大隊は3個中隊と約50人の指揮人員・各種支援火器(機関銃、対戦車銃、対戦車砲、迫撃砲) 平均して一個連隊は9個中隊と300人程の支援火器と各級指揮人員からなり、一個中隊は総数200人弱でした。つまり、一個連隊は2,000人弱です。 また師団には偵察大隊があり、これには戦車や装甲車が置かれるとされています 砲兵連隊は76mm3個大隊12門、122mm2個大隊8門、152mm1個大隊8門というのが、あるべき充実した姿の一例だそうです。 連隊砲として76mm乃至120mm迫が6門ありますので、師団全体では76mmが30門、他大口径16門と言え、対戦車砲は歩兵連隊と大隊がそれぞれ2門程度を持つようですので師団全部で24門程度となってます。 これらの火力は兵員規模から見ると独軍師団ともそう遜色は無いでしょう。 つまり、歩兵連隊9000人に8000の支援を与える独軍ですが(偵察大隊や工兵大隊は歩兵戦力にもなりますので、11,000+6,000とも言えます)、6000+3000のソ連軍は、単に規模の違いと特殊技能・装備を持った部隊を抱えていないだけで(それが問題ではありますが)歩兵と各種支援兵力比では、やはり特別に大きく違う訳でも無いのです。独軍の管理部門の充実度(病院や郵便局もありますよね)を思えば、納得できる差異です。 また、そういった支援部門は、軍団直轄としてソ連軍も抱えています(つまりそれが別の問題を生むのですが)軍団司令部には偵察大隊が編成として組み込まれていますし、他に各種通信部門等もこのレベルには揃っています。 そして、てこ入れとして投入される各種独立旅団・連隊の存在が、+5000の正体であり、これはドイツ軍でも同様ですね。 であるから、総合的に赤軍一個師団と、平均的に各種サポートする戦力を加味すると15,000ぐらいになるし、ドイツ軍も軍団・軍レベルで直轄戦力や大規模な兵站部門等を抱えており、それらが(侵攻戦であり、また部隊平均規模故に)師団定数17000とは別個に8000人(これは師団の定数マイナス歩兵連隊人員とは何の関係も無い数字です)ぐらいが有形無形直接間接に関与しているとはじき出した数字です。 > 何れにせよ貴兄の提示するソ連側の兵員数(300万)にも、(そのままでは基準が合わないので)独立旅団等のプラスアルファを加味した(400万になるのか500万になるのか定かではないが)数値になる事から、開戦時にドイツ軍が兵員数で優っていたとは言えないと思いますが、如何でしょうか? という訳で、赤軍の狙撃兵師団の定数を知ってるものとして、敢えて記さなかった私の落ち度です。申し訳ありません。 確かに双方の独立部隊や警察機構の戦力をカウントするのは非常に困難な上、赤軍の場合はそもそも数字が怪しい場合があります。 よって、開戦時の員数からはみ出ていた分を「概ね平均的に想像される戦力」とした次第です。 また、あるところにはあるもので http://www.skalman.nu/worldwar2/su-losses.htm に、赤軍の損害(KIA/MIA/POW数)が記されてました。 第三四半期で200万+、第四四半期で100万+、総計3.137.673人だそうです。 WIAを推定すると、先にあげた400万ぐらいが消えたという計算はそのまま通りそうです。 |
> ああ、えっとご存じなかったのだったとしたら謝罪します。 > > ソ連軍の狙撃兵師団の人員定数は約9,000〜10,000人です。 > > 赤軍の狙撃兵師団は3個歩兵連隊+1〜2個砲兵連隊で構成されて、これで9,000人です。 > > 歩兵連隊は2〜4個大隊と約100人の指揮人員・支援火器(連隊砲等) > 歩兵大隊は3個中隊と約50人の指揮人員・各種支援火器(機関銃、対戦車銃、対戦車砲、迫撃砲) > 平均して一個連隊は9個中隊と300人程の支援火器と各級指揮人員からなり、一個中隊は総数200人弱でした。つまり、一個連隊は2,000人弱です。 > また師団には偵察大隊があり、これには戦車や装甲車が置かれるとされています 砲兵連隊は76mm3個大隊12門、122mm2個大隊8門、152mm1個大隊8門というのが、あるべき充実した姿の一例だそうです。 > 連隊砲として76mm乃至120mm迫が6門ありますので、師団全体では76mmが30門、他大口径16門と言え、対戦車砲は歩兵連隊と大隊がそれぞれ2門程度を持つようですので師団全部で24門程度となってます。 > これらの火力は兵員規模から見ると独軍師団ともそう遜色は無いでしょう。 > 貴兄の提示したサイトのリンクを辿って見ると、以下にも興味深いデータを観る事ができました。 http://www.geocities.com/Area51/Cavern/2941/organization.htm http://www.euronet.nl/users/wilfried/ww2/ww2.htm 前者には41年当時のソ連軍狙撃兵師団の平均的編制とされる図があり、 これによるとその兵員数は18800名、また他国より充実した砲兵はもとより、各種支援部隊もそれなりにあるようです。 後者にはバルバロッサ作戦開始時の双方の師団・旅団数と兵員数が記されており、ソ連軍の兵員数は470万人とここでも400万のラインを超えています。 別にこのデータが正しいと主張するつもりはありませんが、こうして見るとドイツ側のデータは概ねどの資料でも比較的近い値で一致しますが、ソ連側のデータとは貴兄がおっしゃる様に、また昔から良く言われる様に各資料で大きくばらつきがあって信頼性に欠ける部分があるようです。 > つまり、歩兵連隊9000人に8000の支援を与える独軍ですが(偵察大隊や工兵大隊は歩兵戦力にもなりますので、11,000+6,000とも言えます)、6000+3000のソ連軍は、単に規模の違いと特殊技能・装備を持った部隊を抱えていないだけで(それが問題ではありますが)歩兵と各種支援兵力比では、やはり特別に大きく違う訳でも無いのです。独軍の管理部門の充実度(病院や郵便局もありますよね)を思えば、納得できる差異です。 > また、そういった支援部門は、軍団直轄としてソ連軍も抱えています(つまりそれが別の問題を生むのですが)軍団司令部には偵察大隊が編成として組み込まれていますし、他に各種通信部門等もこのレベルには揃っています。 > そして、てこ入れとして投入される各種独立旅団・連隊の存在が、+5000の正体であり、これはドイツ軍でも同様ですね。 > > であるから、総合的に赤軍一個師団と、平均的に各種サポートする戦力を加味すると15,000ぐらいになるし、ドイツ軍も軍団・軍レベルで直轄戦力や大規模な兵站部門等を抱えており、それらが(侵攻戦であり、また部隊平均規模故に)師団定数17000とは別個に8000人(これは師団の定数マイナス歩兵連隊人員とは何の関係も無い数字です)ぐらいが有形無形直接間接に関与しているとはじき出した数字です。 > この+5000と、+8000というのは、貴兄が1サイトから得た総兵力のデータを、また別のサイトから得た前線の師団数から算出した数値と比較して生じた誤差値を、そのまま独立旅団・連隊等の各種支援部隊・後方部隊の数値と見なして結論づけたものと見受けられます。しかし私の計算方方法にもある種の偏見と独断があった事を認めざるを得ないように、この様な大まかな計算をしても、貴兄がおっしゃる通りお互いに信頼性の高いデータで考察しているとは言えず、余り意味が無いようです。 また、ソ連軍狙撃兵師団の編制ですが、かなり以前に聞き及んだ1個大隊・6個中隊編制というデータをソ連軍師団の平均的編制と独断した事は誤りであると思いますが、私としては局地的には一部にその様な編制をとった部隊が一時的にはあったのであろうと推察するに留める事にします。 > > 何れにせよ貴兄の提示するソ連側の兵員数(300万)にも、(そのままでは基準が合わないので)独立旅団等のプラスアルファを加味した(400万になるのか500万になるのか定かではないが)数値になる事から、開戦時にドイツ軍が兵員数で優っていたとは言えないと思いますが、如何でしょうか? > > という訳で、赤軍の狙撃兵師団の定数を知ってるものとして、敢えて記さなかった私の落ち度です。申し訳ありません。 > > 確かに双方の独立部隊や警察機構の戦力をカウントするのは非常に困難な上、赤軍の場合はそもそも数字が怪しい場合があります。 > よって、開戦時の員数からはみ出ていた分を「概ね平均的に想像される戦力」とした次第です。 > > > また、あるところにはあるもので > http://www.skalman.nu/worldwar2/su-losses.htm > に、赤軍の損害(KIA/MIA/POW数)が記されてました。 > 第三四半期で200万+、第四四半期で100万+、総計3.137.673人だそうです。 > WIAを推定すると、先にあげた400万ぐらいが消えたという計算はそのまま通りそうです。 考えてみれば、この損失兵員数から逆算する方法は、各四半期当初の前線の師団数が判れるのであれば、最も効率的な試算方法かと思われます。 |
> 前者には41年当時のソ連軍狙撃兵師団の平均的編制とされる図があり、 > これによるとその兵員数は18800名、また他国より充実した砲兵はもとより、各種支援部隊もそれなりにあるようです。 そうなんです。 それに自動車化とか新鋭とかになるとまた異なる訳で、カテゴリー次第なのかもしれませんが「師団」で戦力を推定するのが非常に困難ですね(特にバルバロッサの時は充足状態のばらつきも大きい) > この+5000と、+8000というのは、貴兄が1サイトから得た総兵力のデータを、また別のサイトから得た前線の師団数から算出した数値と比較して生じた誤差値を、そのまま独立旅団・連隊等の各種支援部隊・後方部隊の数値と見なして結論づけたものと見受けられます。しかし私の計算方方法にもある種の偏見と独断があった事を認めざるを得ないように、この様な大まかな計算をしても、貴兄がおっしゃる通りお互いに信頼性の高いデータで考察しているとは言えず、余り意味が無いようです。 いえ、これは一つのサイトに記された数字だけを用いています。 http://www.shortway.to/1941/ の各方面軍単位で師団と総数が記されており、それから計算したのみです。 Edwerdさんが仰るように、他から持ってきたら混乱するのみですからね。 計算が大まかである事は事実ですが、ソースは記しておりますので、疑念が生じたのでしたら、どうぞ検算してみてください。 |
> また私は、戦術的機動力の欠如に関して、特に初期のソ連軍機械化軍団のそれは、部隊の装備する車輌の直接的な能力(航続距離・路外走行能力等)にその原因があるのではなく、戦闘部隊レベルの指揮・統制能力、特に無電装備の充実という点でドイツ軍の装甲部隊との間に差があったからと認識しています。 これはまったくその通りだと思います。 ソ連軍戦車部隊のネックは、上下の連絡が中隊本部に於いてパンクしてしまうところにあったと思います。 これによって、戦車中隊は動きが取れなくなる、より正確には何をどうすればいいのかわからなくなってしまう。 > トハチェフスキー将軍の粛正に始まるソ連将校群の大量喪失の影響は大きいですね。ただそれが指導力のある指揮官の台頭を助けたという逆説的な影響もあったと思います。 これは、実のところは言われているほどの影響はなかったのではないかと思っています。 というのは、ソ連軍の指揮系統というのは列国にも増して極めて上意下達の性質が強いものだからです。 赤軍の指揮系統というのは完全に放射状に出来上がっていて、横の連絡というものがまったくといって良いほどありません。 同一師団内であっても隣接連隊との通信は師団司令部を通す回線しか設けられませんし、もちろん同一連隊内でも隣接大隊との通信回線は連隊本部を通さなければなりません。 これは各部隊長の独断専行を実質的に不可能とします。 独断専行が有効に機能するには、各部隊が臨機応変に状況に対応することが求められますが、それには横の連絡線というものがどうしても必要だからです。 これをうまく機能させるには、つまり放射状に広がる指揮系統の頭脳部分、戦闘を演出すべき軍司令部なり方面軍司令部なりがどれだけうまくタクトを振れるか、またその演奏をこなすためにどれだけ緻密な準備をするか、あらゆる事態を想定して対応策を用意しておくかというところにかかってきます。 実際、冬戦争がうまくいかなかったのは実戦部隊の戦闘能力に問題があったのではなく、事態を甘く見たスタフカとメレツコフ(と代わったティモシェンコ)の司令部が作戦とその準備を怠ったためだと思うのです。 バルバロッサにおいても、西方面軍の戦線が早期に崩壊したのと南西方面軍がかなり善戦したのとは、相対するドイツ軍兵力、とくに機甲戦力の量に差があったことも大きいとは思いますが、ティモシェンコとブジョンヌイの差(個人的能力はともかく、総司令部幕僚の配慮の差)もかなりの要素を占めていたと考えます。 1942〜43年の南部戦区冬季攻勢でも、ヴァトゥーチンとゴリコフの間でこの関係は見られるように思います。 > ソ連軍の機動戦術が確立できた背景に、大物量がその質を効果のあるものに変化させるだけのレベルに至った時点で、初めてドイツの機動戦術を効果的に模倣する事が可能になったと認識しています。 うーん、これはですね、ソ連軍はもともと機動戦を指向した軍隊であって、その戦術は戦前に既に出来上がっていたもので、ドイツ軍の真似をしたというわけではないように思うんです。 というか、ドイツ流の機動戦術をやることは、既に述べたような指揮系統上の理由によって、赤軍の体質としてたぶん不可能だったと思います。 ドイツ軍の機動戦術は、なにしろ部隊の柔軟な自主的判断に委ねられている部分が非常に大きいと思います。 ソ連軍とドイツ軍の作戦機動は、結果としてその軌跡が類似していたとしても、質的にはまったく異なるものだと言うことができると思います。 > 高級指揮官が政治委員の制約を受けない軍事的自由裁量権を取り戻した事で、作戦レベルでの能力が向上したのは肯けます。ただ下士官レベルの臨機応変な判断力と状況の変化に柔軟に対応する指揮能力と言う点では、共和国軍時代から維持して培って来たドイツ国防軍のレベルには及ばないでしよう。 そう、まさにこの点です。 ソ連赤軍の場合、下士官も徴兵で、成績優等者を下士官として別コースで訓練するという方法で下士官を養成します。 従って、本人が軍に残ると「志願」しない限り、徴兵期間が過ぎると下士官も予備役として民間へ戻ることになります。 つまり、職業下士官というものが非常に少ない、連隊で15人もいなかったのではないでしょうか。 これはつまり小隊〜中隊レベルで下士官、士官ともに経験不足で実力不足であるという状態を引き起こします。 > > 可能な限りの量的圧倒というのは最初から教科書に書いてあることで、ソ連軍はいつでもどこでも方面軍単位の段階からあらゆる場面でそうしようと努力しますから、これはソ連軍のひとつの特色として「質」に織り込むべきものと考えます。 > > 量で質を補うのではなく、量を集めようとする性質を顕著に有するという作戦的戦術的な「質」なのではないでしょうか。 > > ソ連軍の軍事ドクトリンの性質という意味で理解できます。ただソ連軍とドイツ軍を対等の兵力数で比較して評価できる能力の質とはまた別のものです。裏返せば大兵力で攻勢をかけるという戦法を採れる段階に至って始めてソ連軍事力の発露が観られるとも言えますが、何れにしてもそれを発揮させる前に勝負を決するという点にドイツ軍の勝機がある訳です。 先にも述べたように、赤軍は指揮統率のシステムとしてもともと硬直気味のところがあります。 しかし、これには利点もあります。 即ち、軍に練度を期待できない場合でもこのシステムならば指揮ができる、というより、やはり既に述べたようにその徴兵編成のシステムからして赤軍は軍や兵に対して「練度」というものをそもそも期待できないわけです。 ソ連軍の教科書はこれを織込み済みで作成されているようです。 一例をあげれば、ある広さの野戦築城線を突破しようとする場合に使用しなくてはならない砲数と弾薬量が具体的な数字として規定されています。もちろん、永久築城の場合、軽易な防御線の場合にも別に規定があります。 また、その数は日本陸軍の兵站参謀であれば目眩を起こして倒れるようなものです。 この手のことをいちいち操典に書いて遵守させるというのは、ドイツ軍ではまず考えられません。 このくらいは「前線の将校が自主的に判断する」べきものだからです。 むしろ、前線将校の判断を阻害するものとして排撃されるであろうことは明らかです。ドイツの操典は「可能な限り柔軟であれ」というものですからね。 ソ連軍はその「前線の将校が自主的に判断する」結果を信用していないのです。 モノのわかっている(であろう)、できるだけ高位の司令部に判断をさせるように指揮系統を組んであるのですね。 これが第一に「指揮系統の放射状化」を生み、素養の低い、あるいは経験が不足な中級・下級指揮官の負担を軽減するようになっています。 第二に「可能な限りの量的圧倒」として現われ、やはり練度が低い部隊でも勝ち抜けるように組上げられています。 この量的圧倒が得られないうちは、攻勢防御を除き攻勢をとってはならないとされています。 「とるべきでない」でなくて「とってはならない」です。 つまり、練度に劣ることと柔軟性を欠くことはソ連軍として最初から了解済みの事柄であり、それをドイツ軍と比べられてもなあ、と赤軍将校は思うかもしれません。 逆にいえば、ドイツ軍から将校と兵の練度を取り上げてしまえば、ドイツ軍はまるっきりの弱軍になります。ドイツ軍の極度に柔軟性を強調したドクトリンはそれを基礎にして組み立てられているものだからです。 そして、これはまさに大戦後半の東部戦線のドイツ軍について言えることでしょう。 ソ連軍は、練度に足りない軍を前提として、それで勝てるように柔軟でないドクトリンを組み立てています。 これはもう、優劣というよりも性格の違いとしか言うことができないんじゃないでしょうか? |
> これは、実のところは言われているほどの影響はなかったのではないかと思っています。 > というのは、ソ連軍の指揮系統というのは列国にも増して極めて上意下達の性質が強いものだからです。 > 赤軍の指揮系統というのは完全に放射状に出来上がっていて、横の連絡というものがまったくといって良いほどありません。 > 同一師団内であっても隣接連隊との通信は師団司令部を通す回線しか設けられませんし、もちろん同一連隊内でも隣接大隊との通信回線は連隊本部を通さなければなりません。 > これは各部隊長の独断専行を実質的に不可能とします。 > 独断専行が有効に機能するには、各部隊が臨機応変に状況に対応することが求められますが、それには横の連絡線というものがどうしても必要だからです。 > > これをうまく機能させるには、つまり放射状に広がる指揮系統の頭脳部分、戦闘を演出すべき軍司令部なり方面軍司令部なりがどれだけうまくタクトを振れるか、またその演奏をこなすためにどれだけ緻密な準備をするか、あらゆる事態を想定して対応策を用意しておくかというところにかかってきます。 > 実際、冬戦争がうまくいかなかったのは実戦部隊の戦闘能力に問題があったのではなく、事態を甘く見たスタフカとメレツコフ(と代わったティモシェンコ)の司令部が作戦とその準備を怠ったためだと思うのです。 > バルバロッサにおいても、西方面軍の戦線が早期に崩壊したのと南西方面軍がかなり善戦したのとは、相対するドイツ軍兵力、とくに機甲戦力の量に差があったことも大きいとは思いますが、ティモシェンコとブジョンヌイの差(個人的能力はともかく、総司令部幕僚の配慮の差)もかなりの要素を占めていたと考えます。 > 1942〜43年の南部戦区冬季攻勢でも、ヴァトゥーチンとゴリコフの間でこの関係は見られるように思います。 > 思慮に満ちたご意見ありがとうこざいます。 つまり大量に粛正された高級指揮官達が存在していたとしても、ソ連軍のピラミッド型の指揮系統の中にあっては、上層部又は大本営から降りてきた命令を(程度の差はありますが)そのまま下位に下達するだけであるゆえに、その中間に位置する指揮官の能力不足によって作戦指導上に大きな影響があったとは言えないという事と理解します。 > うーん、これはですね、ソ連軍はもともと機動戦を指向した軍隊であって、その戦術は戦前に既に出来上がっていたもので、ドイツ軍の真似をしたというわけではないように思うんです。 > というか、ドイツ流の機動戦術をやることは、既に述べたような指揮系統上の理由によって、赤軍の体質としてたぶん不可能だったと思います。 > ドイツ軍の機動戦術は、なにしろ部隊の柔軟な自主的判断に委ねられている部分が非常に大きいと思います。 > ソ連軍とドイツ軍の作戦機動は、結果としてその軌跡が類似していたとしても、質的にはまったく異なるものだと言うことができると思います。 > ソ連軍の機動戦術はドイツ軍のそれを模倣している様でいて、質的には異なるものとの見解を理解しました。例えが悪いかもしれませんが、ソ連軍のそれは直球的(実際に直線的にしか進めないという意味ではないです)でドイツ軍のそれは変化球に富んでいるものと言えるのでは。 > そう、まさにこの点です。 > ソ連赤軍の場合、下士官も徴兵で、成績優等者を下士官として別コースで訓練するという方法で下士官を養成します。 > 従って、本人が軍に残ると「志願」しない限り、徴兵期間が過ぎると下士官も予備役として民間へ戻ることになります。 > つまり、職業下士官というものが非常に少ない、連隊で15人もいなかったのではないでしょうか。 > これはつまり小隊〜中隊レベルで下士官、士官ともに経験不足で実力不足であるという状態を引き起こします。 > 「軍隊の錬度は下士官の善し悪しで決まる」という様な言葉を裏書きする事実だと思います。またどの時点の話かは覚えてませんが、下士官が不足した際、ソ連軍では各部隊の兵士の投票によって小隊長・中隊長を選任していたという様な事も聞き及んでいますが、どうなのでしょう。 > 先にも述べたように、赤軍は指揮統率のシステムとしてもともと硬直気味のところがあります。 > しかし、これには利点もあります。 > 即ち、軍に練度を期待できない場合でもこのシステムならば指揮ができる、というより、やはり既に述べたようにその徴兵編成のシステムからして赤軍は軍や兵に対して「練度」というものをそもそも期待できないわけです。 > ソ連軍の教科書はこれを織込み済みで作成されているようです。 > 一例をあげれば、ある広さの野戦築城線を突破しようとする場合に使用しなくてはならない砲数と弾薬量が具体的な数字として規定されています。もちろん、永久築城の場合、軽易な防御線の場合にも別に規定があります。 > また、その数は日本陸軍の兵站参謀であれば目眩を起こして倒れるようなものです。 > この手のことをいちいち操典に書いて遵守させるというのは、ドイツ軍ではまず考えられません。 > このくらいは「前線の将校が自主的に判断する」べきものだからです。 > むしろ、前線将校の判断を阻害するものとして排撃されるであろうことは明らかです。ドイツの操典は「可能な限り柔軟であれ」というものですからね。 > ソ連軍はその「前線の将校が自主的に判断する」結果を信用していないのです。 > モノのわかっている(であろう)、できるだけ高位の司令部に判断をさせるように指揮系統を組んであるのですね。 > これが第一に「指揮系統の放射状化」を生み、素養の低い、あるいは経験が不足な中級・下級指揮官の負担を軽減するようになっています。 > 第二に「可能な限りの量的圧倒」として現われ、やはり練度が低い部隊でも勝ち抜けるように組上げられています。 > この量的圧倒が得られないうちは、攻勢防御を除き攻勢をとってはならないとされています。 > 「とるべきでない」でなくて「とってはならない」です。 > つまり、練度に劣ることと柔軟性を欠くことはソ連軍として最初から了解済みの事柄であり、それをドイツ軍と比べられてもなあ、と赤軍将校は思うかもしれません。 > 逆にいえば、ドイツ軍から将校と兵の練度を取り上げてしまえば、ドイツ軍はまるっきりの弱軍になります。ドイツ軍の極度に柔軟性を強調したドクトリンはそれを基礎にして組み立てられているものだからです。 > そして、これはまさに大戦後半の東部戦線のドイツ軍について言えることでしょう。 > ソ連軍は、練度に足りない軍を前提として、それで勝てるように柔軟でないドクトリンを組み立てています。 > > これはもう、優劣というよりも性格の違いとしか言うことができないんじゃないでしょうか? 卓見したご意見に痛み入ります。 ソ連軍はその下士官の経験・錬度不足を初めから考慮した上、それを補うために、硬直した指揮系統を生むデメリットを覚悟で、前線指揮官の独断を許さない上意下達を徹底し、数量的な圧倒的優位を確保して始めて攻勢にでるドクトリンをしたためたと理解しました。 つまり双方の軍事力の構築というものに対する方法論が相違しているわけですから、ソ連軍のそれが未完成の段階で比較しても意味がない。逆に言うと、圧倒的な数量的優位を確保してそれが完成している44年の段階においても、もともと双方の軍事力の性質が違う訳ですから簡単に「質の優位」を云々する事などできないという事と承りました。 つまり41年の段階では、その軍事ドクトリンを達成するに足るだけの数量的圧倒的優位を確保できていない以上、その本来企図するところの実力を発揮できない未完成の軍事力では、ドイツ軍に史実の如く圧倒されたのも至極当然と認識します。 また「軍事力の質的優劣」という言葉に語弊があり適切でないとすれば、私としてはこれを「(その時点におけるソ連軍の)能力不足」といい返るに異存はないと致します。いずれにしても本来私の述べたかった事であるところの、上記にある様々な要因から「41年当時のソ連軍にはドイツ軍の様な戦術的状況の変化に対応して柔軟な機動力を発揮する能力は無かった」という見解に妥当性を見出せると認識します。 SUDOさんとの議論では、争点が「機動力」から「質的優位」へといつのまにか変化してしまいましたが、私としては視野狭窄に陥ってしまい、高所から全体像を俯瞰する事を忘れてしまったとして反省する次第であり、貴兄の助言には感謝したいと思います。 |
> SUDOさんとの議論では、争点が「機動力」から「質的優位」へといつのまにか変化してしまいましたが、私としては視野狭窄に陥ってしまい、高所から全体像を俯瞰する事を忘れてしまったとして反省する次第であり、貴兄の助言には感謝したいと思います。 で、ここで戻ってくるんだ。 機動力は果たして赤軍に無かったのでしょうか? 双方が持つ物理的な物は同レベルですから、双方の持つ、進退を含む機動能力は、指揮官の判断の有無と妥当性に求められるところと言えますよね? さて、ではドイツ軍と赤軍で異なるのは何処でしょうか? そして、それが機動力という形であらわれるのは何処でしょうか? ここで恐ろしく単純かつ乱暴に述べるならば、機動力の発揮とは、戦力の集中を齎し、火力・戦力の優越を生み出す為の手段の一つであると結論できると思います。 ある攻撃をする場合、ドイツ軍の場合は、機動力で多数の戦力をかき集め、それを入念な偵察情報によって判明した枢要地点に集中させて効果を最大発揮させるという形に進むのが一般的です。 手持ちの戦力を最大活用する、言うならば効率の良い使い方の一例ですね。 ソ連軍の場合、戦力の優越を主としてかき集めた戦力・兵員の数量に委ねていますが、代わりに彼らは鉄道網の活用や道路網の活用で、この必要たる戦力を持ってきています。実は赤軍もちゃんと機動してるんです(作戦レベル、戦略レベルの機動力の発揮ですね) 他でも述べておりますが、41年中においては赤軍の総戦力数は独軍に比して不利から精々対等というレベルです。 まなかじさんが述べられたように、兵力で優越していない状況で攻撃を仕掛ける軍隊ではないのですから、41年の彼等の冬季攻勢は、局所的にせよ戦力で優越していた訳です。機動力を発揮して、局所的に戦力の優位を作り上げているのです。 やってるのが戦場近辺か、もうすこし広い次元なのかの違いであり、ソ連軍は機動力を発揮しています。 勿論自国領域ゆえのアドバンテージ(鉄道網はこれですね)が大きいのですが、こういう次元での機動力発揮を成し遂げるように組まれたシステムを赤軍は持ってるのです。 これは道路網活用に於いても同様で、例えば有名な赤軍のカチューシャ搭載トラックですが、同種のロケット自走砲をドイツ軍はハーフトラックに載せており、赤軍よりも不整地行動に適していますね。 これは、ドイツ軍のそれが、機動力で優越していると言う証拠なのでしょうか? 実はこれも一つの赤軍の特徴でして、重砲に類する物は道路網による移動と道路近辺での布陣を前提とし、道路網から外れる事を「禁止」してます。 これは細かく戦場の実体に合致させるには足枷となる規定ですが、砲兵の移動と配置における速度では非常に有効な手段とも言えます。道路網から外れなくても砲が必要な場所を狙えるならそれで構わない訳で、赤軍はそれを砲の数と射程で賄ってる訳です。 このように赤軍は赤軍で、異なった観点で機動力を持っているのです。 小規模の部隊が取りうる戦術オプションの多彩さ(機動力はこの中の一例に過ぎない)ではドイツ軍は優位でしょう。 ですが、軍団・軍・方面軍単位に於けるオプションというか任意の時間内になしうる作業・指令では、その効率的な指揮システムから、赤軍が優位と言えます。この中には部隊の再配置・展開命令も含まれます。 ですから、最終的に求められるのは、双方の持つ特性の差異であり、質の優劣でも機動力の優劣でもないのです。 ま、赤軍のシステムで動かすと大雑把なんですよね(笑) 細かい穴埋めにおいては効率悪い事この上なしですが、それは○○作戦といった規模では別に大して不都合はなく、つまり実体として大きくは変わらないのです。 勿論、一個連隊・戦闘団規模の部隊の活躍により、一時的に戦況を好転させる事も期待できると言う点に於いて、ドイツ軍は有利ですが、それが一時的な物にしかならず、全般戦況を好転させるものにならないのは、実際の戦例でも明らかでしょう。全般戦況を規定するのは双方の戦略環境に求められるのですから。 全体的に見て、ドイツ軍の持つ優位は、SLGで言うなら、賽の目+1ぐらいであり、戦力比シフトをするようなものではないのです。 2:1で膠着か後退かという戦闘をするなら、無視し得ない影響もありますが、4:1で戦闘したら、大した意味は無いです(ああ、ここらは作戦級な話なんで適当に読み飛ばしても結構です(汗)) |
いやいやSUDOち、ここでの問題は1941の夏に限定なんでつってば。 なにしろ「オペラツィオン・バルバロッサ」限定なわけで。 スタフカの不慣れとスターリンの見栄と意地から、ソ連軍の機動力の発揮は大幅に阻害されてるんです。 機動力とは決断力であるわけですから、決断を誤っているとか決断が遅れてしまうというのはすなわち機動力発揮の能力が無いのと同義だと。 とくに赤軍がドイツ軍に優っているはずの戦略機動レベルでの有利さを自己放棄し、更に作戦機動レベルでの同等さも捨てているのも同然なのですから、戦術機動で次から次へとドイツ軍に喰われてしまうのも仕方が無いというのが、史実でもあった状況なんだろうと。 本来、赤軍の教科書どおりであれば、そうですな、ドビナ河〜ドニェプル河を防衛線とする方向で後退と再編成を一般方針として、レニングラード方面軍戦区はレニングラードまでの縦深が足りないので死守としても、ウクライナの半分とベラルーシのほぼ全域をいったん諦め、国境会戦は捨てて遅滞戦闘を繰り返しながら北西方面軍戦区、西方面軍戦区、南西方面軍戦区は急速な全面撤退をするのが正しい作戦計画というものじゃないかと。 もしかすると、一応そのつもりでいたのかもしれない。 けれども、結果的に奇襲を喰ったのは事実なわけで、準備未了で鉄道の手当てとか車輌の整備とか燃料の手当てが全然なってなくて、動くに動けず、そうしているうちにドイツ軍が速攻で現れちゃうので、止むを得ず各師団は駐屯地近辺で各個に反撃ってのが実態だったんじゃないのかな。 バラバラに反撃もなにも、連繋すること自体ができなかったんだろうし、半ば自衛戦闘みたいなもんだったんじゃないかと。 必死でそれでも動いて集結したはいいけど、それまでの被害が大きすぎて反撃には移れない。 もちろん、ここで集結しないという選択は赤軍的には有り得ない。赤軍は遊撃戦闘ができる組織では絶対にないし、分散したままでは何もできないのと同じ。それではドイツ軍に敵わないからというよりも、それでは軍として動かせないから集結させざるを得ない。 で、局所優位も作れないのでは、赤軍的には反撃のしようがないやね。教科書ではそういうときに攻撃するのは「禁止」だと書いてある。 こういうときには機動的な防衛戦闘で、距離を時間に変換するのが教科書のセオリーだったよね。 けど、スターリンが撤退の許可を出さない。ミンスクもキエフも捨てられない。 もっとも、多少の時間では間に合わないというのもあったはずだけれども。 後方の部隊をかき集めて新たに防衛線を築くだけの兵力は1941の赤軍には無かったわけだから、より長い時間をより長い距離に変換する必要が出てきて、それには国が耐えられないとスターリンは思ったのかもしれない。鉄道も道路もある、けどそこを通る部隊そのものがないんじゃどうしようもないから。 ともかく、こうなったら守地を死守するしかソ連軍指揮官には選択の余地が無い。攻撃も禁止、後退も禁止だから。 下手に集結したのが仇になって、各所で巨大ポケット連発。 1941〜42の冬のドイツ軍は、その高い柔軟性と自主性で似たような状況を何とか切り抜けたけれど、赤軍のシステムではこの状況をうまく捌くには荷が重かったんだろう。 距離を引き換えにせずに時間を稼ぐにはソヴィエト人民の力だけではダメで、ラスプティッツア将軍とマローズ将軍の助けが必要だったわけだ。 つまり、ドイツが1941で勝つにはだ、何をどうやっても結局1941時点でのソ連軍は蹴飛ばせるんだから、泥と寒気を何とかせにゃならぬ。 ソ連に必要なのはただひたすらに時間であり、突きつめればバルバロッサ作戦は何よりも時間との戦い、ソ連に如何に時間を与えないかという戦いになるんだと思う。 泥と寒気に邪魔されないうちに、秋口までに戦争を何とかするか、泥と寒気を克服し得る何かを持つかだね。 で、ドイツとしては秋口までに何とかするのが一般方針なわけだから、結局ソ連野戦軍の包囲撃滅なんかやってる場合じゃないのかもしれない。 だからといって、モスクワ・レニングラードを落とせば戦争は終わるかといえば終わらないだろうし。 ああ、結局ソ連の「重心」てのはどこにあるんだろう?? |
> つまり、ドイツが1941で勝つにはだ、何をどうやっても結局1941時点でのソ連軍は蹴飛ばせるんだから、泥と寒気を何とかせにゃならぬ。 > ソ連に必要なのはただひたすらに時間であり、突きつめればバルバロッサ作戦は何よりも時間との戦い、ソ連に如何に時間を与えないかという戦いになるんだと思う。 > 泥と寒気に邪魔されないうちに、秋口までに戦争を何とかするか、泥と寒気を克服し得る何かを持つかだね。 > で、ドイツとしては秋口までに何とかするのが一般方針なわけだから、結局ソ連野戦軍の包囲撃滅なんかやってる場合じゃないのかもしれない。 > だからといって、モスクワ・レニングラードを落とせば戦争は終わるかといえば終わらないだろうし。 > > ああ、結局ソ連の「重心」てのはどこにあるんだろう?? ほぼ全般的に同意できます。バルバロッサ作戦(注:41年の戦役の事を指す)の概要をほぼ私の認識する通りに判りやすく説明していると思います。 「突きつめればバルバロッサ作戦は何よりも時間との戦い」、「ソ連野戦軍の殲滅にこだわるべきじゃない(ただそのバランスが難しいと思うが)」との見解もその通りだと思います。 「ソ連の『重心』は何処か」という点は、それこそソ連攻略のキー・ポイントそのものである要素と思われますが、その点も含めて「その軍事戦略2」で論じたいと思います。 |
> いやいやSUDOち、ここでの問題は1941の夏に限定なんでつってば。 > なにしろ「オペラツィオン・バルバロッサ」限定なわけで。 おおう、言われて見りゃそうでした(^^;; 大変に恥ずかしい事をしたと反省してます。 > バラバラに反撃もなにも、連繋すること自体ができなかったんだろうし、半ば自衛戦闘みたいなもんだったんじゃないかと。 > 必死でそれでも動いて集結したはいいけど、それまでの被害が大きすぎて反撃には移れない。 > けど、スターリンが撤退の許可を出さない。ミンスクもキエフも捨てられない。 いや、それなんだけどさ。 キエフは、赤軍のボーンヘッドなのだろうか? あの時点で、装甲の南方旋回ってのは「普通するか?」と言う話で、あれはスタフカに問題があったとかそういう話じゃないべさ? いや、予想できて然るべきと言う話も無きにしも非ずと言うか、モスクワで泣きそうな顔して覚悟決めてた連中にとっては、肩透かしだったかも・・・。 まあ、それこそがドイツ軍の機動力発揮の最高例とも言えるんだが。 > で、ドイツとしては秋口までに何とかするのが一般方針なわけだから、結局ソ連野戦軍の包囲撃滅なんかやってる場合じゃないのかもしれない。 でだ。キエフに行かなかったら、モスクワは落とせると思うんだが・・・。 その頃には、キエフに篭ってる100万だか150万がそれなりの行動力を発揮しないとも限らない。 っていうかそうなったら、物資備蓄が多少は進んだとしたら、包囲しても中々陥落もしないだろうし・・・。 かといって、こんな大兵力を放置できない(南方軍集団と同規模だぜ) > だからといって、モスクワ・レニングラードを落とせば戦争は終わるかといえば終わらないだろうし。 そうなんだ。 「モスクワ落としました。でもキエフの100〜150万が元気です」では42年は史実の一年前倒しになる。 となると、ドイツ軍は最初から失敗していたのではなかろうか(ぉ あの時、東進するか南旋するかという岐路に立った時点で、どっちかしか出来ず、どっちをやっても戦争は終わらない訳で、つまり駄目だったんだーな。 となるとだ、二年目を考えておくべきか? レニングラードを速攻で落して、モスクワというのは成立しうるのだが・・・。 ソ連軍がキエフなんぞ捨ててくれれば(マテ それで、ソ連軍が「こりゃいかんモスクワがアブナイっす」とかって下がってきた部隊をモスクワにかき集めてくれて、その上で一網打尽にすれば(それは虫が良すぎ) こう言っても良いね、赤軍の偉大なるキエフ死守方針は100万の犠牲でソ連をすくったのだ(それはあまりにも豪快に面の皮が厚いです) > ああ、結局ソ連の「重心」てのはどこにあるんだろう?? 共産主義を愛する心だとか書いてみる。 もしもだ、各部隊で政治将校への敬意が失われたとしたら? 同様に共産党への敬意も失われたら? 人民統治システムも部隊掌握システムも崩壊する訳だ。 となると、狙うべきはスターリンと共産党の権威を失墜させるような宣伝ではあるんだが・・・・。ナチスに出来るかどうか・・・。 |
> いや、それなんだけどさ。 > キエフは、赤軍のボーンヘッドなのだろうか? > あの時点で、装甲の南方旋回ってのは「普通するか?」と言う話で、あれはスタフカに問題があったとかそういう話じゃないべさ? > いや、予想できて然るべきと言う話も無きにしも非ずと言うか、モスクワで泣きそうな顔して覚悟決めてた連中にとっては、肩透かしだったかも・・・。 > まあ、それこそがドイツ軍の機動力発揮の最高例とも言えるんだが。 いやまあ、あの中央軍集団の南方旋回はまったくとんでもないんだけれども。 まだチャンスはあったんですよ。 グデーリアンの第二機甲集団がデスナ河を渡ったのが8月25日、これでブジョンヌイはやばいと思ったんだろうね。 もう、8月末の時点でいったんキエフのポケットからは戦力の抽出が始まっているんですよ。クライストの第1機甲集団のアッパーカットをもかわして(実際、クライストがクレメンチュクでドニェプルを渡ったのは9月10日)、ドニェプル河東岸を下流に向けてドネツに転進、それと同時にドニェプロペトロフスク・ハリコフ・ベルゴロドの線に防衛線を構築するように命令してる。 悪くない作戦でしょ。 その上で、もう手をつけちゃってますから追認してよねというカンジで、9月9日にブジョンヌイは撤退しましょうってスタフカに訓令仰いでる。 なにしろ寸秒を争う手当てだから、このくらいにならないと後方へ通信なんかしてる暇も無かったのかもしれない。 したら、スターリンはかんかんさ。 改めて9月11日に死守命令を出して転進した部隊を逆戻りさせ、そのドニェプル沿いの回廊を通して増援を送り、ポケット内の5個軍(第5・第21・第26・第33・第37)と東側面にいる第13軍と第40軍とで南進するドイツ第2機甲集団を迎撃し、第21軍と第13軍の間隙に於いてその延びている側面を突けと。 これも案としてはそう悪くは無い。第2機甲集団はデスナ河の対岸から200km以上もの狭い回廊に突出をしていて、確かに間違いなく戦線は延びきっていたし。 ただ、時間が無さ過ぎた。 赤軍が攻勢作戦をとるには準備が必要で、準備には時間がかかる。 ドイツ軍は結果的には9月14日には包囲環を閉じちゃってる。たった2日で赤軍が大作戦の準備を終えて作戦発動なんてできるわけがないやね。 また、この案の欠点は第1機甲集団を食い止めるのと第2機甲集団の左側面を突くのとのふたつの重大任務を、既に疲れ切ったポケット内の部隊が、ドニェプル西岸から押してくるドイツ第2軍・第6軍・第17軍に応対しつつ、こなさないといけないことで。 結局、クライストには蹴散らされ、グデーリアンの側面は突けず、第13軍との連繋もならず、第13軍の攻撃自体も「準備不足」で重点と迫力とを欠き、第40軍の攻撃は包囲環が閉じて2日してからという有様で。 |
> > SUDOさんとの議論では、争点が「機動力」から「質的優位」へといつのまにか変化してしまいましたが、私としては視野狭窄に陥ってしまい、高所から全体像を俯瞰する事を忘れてしまったとして反省する次第であり、貴兄の助言には感謝したいと思います。 > > で、ここで戻ってくるんだ。 どういう意味ですか?大体想像はつきますが、真面目に議論する際にこの様に人を揶揄するような言葉を使うのはどうかと思います。 今回に限らず、SUDOさんの文章には議論の争点に直接関係のない軽薄ともとれる言葉が目に付きますが、私は親しい友人の間で使う様ななれなれしい言葉や表現を投げかけられても、(コミュニケーションの一貫として使用したつもりで悪気が無かったにせよ)決して良い気分にはなりません。 その様なノリで問題なく議論している間柄の投稿者に対してその様な言葉を使うのは構わないでしょうが、節度ある社会人なら親しい友人と初対面の人(または面識の薄い人)との間で交わす言葉をきちんと使い分ける事を知っているのと同様、この様な場でも、意見を述べる相手に応じて(相手の文章を読めば自ずと判る事です)言葉には気を遣ってしかるべきだと思います。 また少なくとも、投稿する前に自分のしたためた文章をもう一度良く読み帰して見る事をお勧めします(SUDOさんの文章は、争点毎に良くまとめられているとも思えず、慣用句の使い方にも疑問が多く、変換ミスも目立ちます)。 議論とは関係ない事で、私もこの様な事を述べたくはないので今まで黙っていたのですが、この際、ハッキリと指摘する必要があると思いましたので、本文の意見を前に一言述べさしてもらった次第です。 > 機動力は果たして赤軍に無かったのでしょうか?双方が持つ物理的な物は同レベルですから、双方の持つ、進退を含む機動能力は、指揮官の判断の有無と妥当性に求められるところと言えますよね? 「物理的な物」という言葉は抽象的です。想像は出来ますが、これは「兵員数」とか「数量的兵力」等の言葉の代名詞として使うには具体性に欠けており、誤解を生むもとだと思います。 また「妥当性」というのも言葉足らずで、「機動力が…(何に対する)妥当性に求められる」のか説明不足で理解できません。 > 手持ちの戦力を最大活用する、言うならば効率の良い使い方の一例ですね。 > ソ連軍の場合、戦力の優越を主としてかき集めた戦力・兵員の数量に委ねていますが、代わりに彼らは鉄道網の活用や道路網の活用で、この必要たる戦力を持ってきています。実は赤軍もちゃんと機動してるんです(作戦レベル、戦略レベルの機動力の発揮ですね) 私は最初から戦術レベルでの話をしています。そもそもSUDOが最初に意義を唱えてきた対象は、私の想定した「キエフ周辺における戦闘離脱時において強いられるであろう「戦術的後退」を、(戦術的)機動力の無いソ連軍は行えないであろう」という軍事戦略の戦況に対するものなのですから、争点となる機動力とは(作戦・戦略的なものを含む)包括的なものとしてではなく、戦術レベルのものを対象として成されるべきであって、無用に争点を拡大するのは自身の発言に対する正当性を擁護せんが為の自己満足でしかないでしょう。 拡大した争点が、本来の争点における主張に十分な相関関係を持ち得るならそれも構いませんが、鉄道移動や道路を用いた「戦略・作戦レベルの機動力」が、「戦闘離脱時の戦術的後退」の様な「戦術レベルの問題」と深い関係が無いのは明らかです。何故なら、本来主要な幹線の要地に設けられるであろう防衛拠点を迂回し、むしろ主要な幹線から外れて不整地を移動し、守備兵力の薄い地点を求めて側面攻撃するのがドイツ軍の攻撃の常道であり、その際に求められるのは(ロシアの国土の殆どを占めるであろう)道路の無い地勢での機動力だからです。 > 他でも述べておりますが、41年中においては赤軍の総戦力数は独軍に比して不利から精々対等というレベルです。 これも「開戦劈頭の国境会戦時における前線レベルで」という言葉が足りません(しかしそれでも私には合意できるレベルではないですが)。「41年の赤軍の総戦力数」というと、議論の内容からして、「ヨーロッパ・ロシア全域における」ものと捉えられる事になり、その場合、SUDOさんの序列でも戦略予備軍や内陸軍管区内の兵力を除外している事から、明らかにソ連軍の兵力の方が上回っています。 > まなかじさんが述べられたように、兵力で優越していない状況で攻撃を仕掛ける軍隊ではないのですから、41年の彼等の冬季攻勢は、局所的にせよ戦力で優越していた訳です。機動力を発揮して、局所的に戦力の優位を作り上げているのです。やってるのが戦場近辺か、もうすこし広い次元なのかの違いであり、ソ連軍は機動力を発揮しています。勿論自国領域ゆえのアドバンテージ(鉄道網はこれですね)が大きいのですが、こういう次元での機動力発揮を成し遂げるように組まれたシステムを赤軍は持ってるのです。 ここでも戦略的な機動(鉄道移動等)に言及していますが、「戦略的機動」と「戦略的・戦術的機動」は決して同義では無いので争点からずれています。 > これは道路網活用に於いても同様で、例えば有名な赤軍のカチューシャ搭載トラックですが、同種のロケット自走砲をドイツ軍はハーフトラックに載せており、赤軍よりも不整地行動に適していますね。これは、ドイツ軍のそれが、機動力で優越していると言う証拠なのでしょうか? ロケット自走砲という兵種は、ドイツ軍の場合、多くの砲兵部隊の極一部に過ぎず、全般的に双方の機動力を比較して論じる際の争点に持ち上げるには不適当かと思います。 > 実はこれも一つの赤軍の特徴でして、重砲に類する物は道路網による移動と道路近辺での布陣を前提とし、道路網から外れる事を「禁止」してます。 > これは細かく戦場の実体に合致させるには足枷となる規定ですが、砲兵の移動と配置における速度では非常に有効な手段とも言えます。道路網から外れなくても砲が必要な場所を狙えるならそれで構わない訳で、赤軍はそれを砲の数と射程で賄ってる訳です。このように赤軍は赤軍で、異なった観点で機動力を持っているのです。 道路網から外れる事のできない「機動力」なるものは、「戦略的移動」と、又は大都市周辺部の様に比較的道路網の密度が高い地点でなら「作戦的機動」と呼べるかも知れませんが、それ以外の地勢で道路から外れて有効な側面攻撃を実施する際に発揮できる「作戦的機動」とは呼べませんし、なにより「戦術レベルでの機動」の争点に成り得ないでしよう。 また、鉄道・主要幹線道路等による「戦略的機動」の速度が高いのは当然の事です。問題はただでさえ道路事情の悪いロシア領内における作戦において、幹線から外れた不整地における「作戦・戦術的機動」を如何に克服するかにあります。特に自動車化砲兵は半装軌化されていたとしても路外走行力を制限されがちで、戦争前半におけるこの様な砲兵の支援力不足をドイツ軍は航空支援で補いました。 > 小規模の部隊が取りうる戦術オプションの多彩さ(機動力はこの中の一例に過ぎない)ではドイツ軍は優位でしょう。 小規模であれ、大規模であれ、軍事作戦における戦闘能力の基礎となり、その最大要因となるのが機動力です。近代以降の軍隊にとってスピードが命であり、足の遅い軍隊は全てに後手を踏む事になりその実力を発揮できません。ナポレオンのフランス軍が精強だったのは、騎兵が充実していたのもさる事ながら何より他の連合軍に比して遥かに早い速度で歩兵が行軍したからです。つまり幾ら高い火力を持つ部隊を多数持っていても、戦場における決勝地点となるべき重要なポイントに戦力を迅速に集中できなければ意味がないからで、ドイツ軍が大戦前半であれだけの戦果を挙げた最大要員は、物量でも、火力でも旧知の戦術でもなく、一にも二にもその機動性を最大限に活かしていたからです。それゆえ(機動力はこの中の一例に過ぎない)どころか、機動力こそドイツ軍の命であり、最大の強みでもあったはずです。 > ですが、軍団・軍・方面軍単位に於けるオプションというか任意の時間内になしうる作業・指令では、その効率的な指揮システムから、赤軍が優位と言えます。この中には部隊の再配置・展開命令も含まれます。ですから、最終的に求められるのは、双方の持つ特性の差異であり、質の優劣でも機動力の優劣でもないのです。 > ま、赤軍のシステムで動かすと大雑把なんですよね(笑)細かい穴埋めにおいては効率悪い事この上なしですが、それは○○作戦といった規模では別に大して不都合はなく、つまり実体として大きくは変わらないのです。 「細かい点で大雑把」、「効率悪い事この上なし」という指揮系統が、作戦レベルでは「大して不都合はなく」、戦略レベルでは「効率的」という事ですが、 軍事作戦というものは戦術レベルの戦闘の結果が積み重なって作戦レベルの結果に反映されてくるのですから、実際に戦闘に従事する部隊の動きが「細かい点で大雑把」、「効率悪い事この上なし」である事が、作戦レベルで「大して不都合はなく」どころかその影響は大きかったはずですし、作戦が上手くなければ、その企図した「戦略」においても狂いが生じます。 まあ、それでも44年において大勝利を得た事は、損害を考慮する事無く強行できるだけの圧倒的物量の成せる技だったと言うべきでしょう。 > 勿論、一個連隊・戦闘団規模の部隊の活躍により、一時的に戦況を好転させる事も期待できると言う点に於いて、ドイツ軍は有利ですが、それが一時的な物にしかならず、全般戦況を好転させるものにならないのは、実際の戦例でも明らかでしょう。全般戦況を規定するのは双方の戦略環境に求められるのですから。 指揮統制の問題は、一部の部隊にのみ好・不都合が生じるレベルの問題ではないと思いますが。その程度にしか影響を及ぼさないのであったら、まなかじさんも争点としてあげる程の価値を見出していないはずです。また最後の文章の「全般戦況」は「戦況全般」に、「を規定する」は「を決定する」と言う言葉の方が一般的です。 > 全体的に見て、ドイツ軍の持つ優位は、SLGで言うなら、賽の目+1ぐらいであり、戦力比シフトをするようなものではないのです。 > 2:1で膠着か後退かという戦闘をするなら、無視し得ない影響もありますが、4:1で戦闘したら、大した意味は無いです(ああ、ここらは作戦級な話なんで適当に読み飛ばしても結構です(汗)) 私も昔は良くやりましたが、ドイツ軍とソ連軍の戦闘に「サイの目+1」もの効果をただで受けられるのであれば、逆に大きな影響力があると言えるはずですが(その様なゲームにはついぞお目にかかった事がありませんが、タイトルを教えてもらいたいです)。何故なら低い戦闘比での戦闘にこそ、その効果が高いのですから、ドイツ側は主攻撃以外の戦闘にも、結果が期待できる小規模戦闘を数多く仕掛ける事ができるからです。 GDW「バルバロッサ作戦」ではドイツ軍歩兵が平均7〜8戦力の所、ソ連軍のそれは平均は4です。移動力は一緒ですがZOC内の追加移動力に両軍に差が付けられいるので、実質的にドイツ軍歩兵はソ連軍歩兵より移動力が高くなります。また、機動兵力を比べるとドイツ装甲ユニットは1ターンに2回できても、ソ連軍戦車ユニットは実質的に1回しかできません。 そしてユニットの総合価値が[戦闘力×移動力]として算出できるとすれば、歩兵同士では4:3、機動兵力では5:3ぐらいでドイツ軍ユニットが優っています。 この程度は未だましな方で、「War in the Europe」となると[戦闘力・移動力]がドイツ軍歩兵「6・5」で、41年時のソ連軍歩兵のほとんどが[1・4]というレーティグです(さすがにこれはやり過ぎだなと感じますが、ドイツ軍の補給ルールをもう少し緩和する代わりに、ソ連軍の戦闘力を2ぐらいにするのが妥当かと分析しましたが)。 またターン・スケールの大きい戦略級(「1ターン=3ヶ月」の「Third Reich(第三帝国」など)ですとその差は縮まりますが、それでも41年当時では歩兵ユニットの戦闘力の差は3:2ぐらいでドイツ側が優っています。 |
> > 機動力は果たして赤軍に無かったのでしょうか?双方が持つ物理的な物は同レベルですから、双方の持つ、進退を含む機動能力は、指揮官の判断の有無と妥当性に求められるところと言えますよね? > > 「物理的な物」という言葉は抽象的です。想像は出来ますが、これは「兵員数」とか「数量的兵力」等の言葉の代名詞として使うには具体性に欠けており、誤解を生むもとだと思います。 これは単純にハードウェアのことでしょう。 > また「妥当性」というのも言葉足らずで、「機動力が…(何に対する)妥当性に求められる」のか説明不足で理解できません。 機動力とは指揮官の判断力です。 時速40kmの戦車であっても、指揮官が動かさないと決めたら機動力を持ちません。 また、戦機の判断がずれていれば、機動の決断自体をしないことも有り得ます。 なので、「判断の有無及びその戦況に応ずる妥当性」が機動力の本質であるとSUDOさんは言ってるのだと思います。 > 私は最初から戦術レベルでの話をしています。そもそもSUDOが最初に意義を唱えてきた対象は、私の想定した「キエフ周辺における戦闘離脱時において強いられるであろう「戦術的後退」を、(戦術的)機動力の無いソ連軍は行えないであろう」という軍事戦略の戦況に対するものなのですから、争点となる機動力とは(作戦・戦略的なものを含む)包括的なものとしてではなく、戦術レベルのものを対象として成されるべきであって、無用に争点を拡大するのは自身の発言に対する正当性を擁護せんが為の自己満足でしかないでしょう。 > 拡大した争点が、本来の争点における主張に十分な相関関係を持ち得るならそれも構いませんが、鉄道移動や道路を用いた「戦略・作戦レベルの機動力」が、「戦闘離脱時の戦術的後退」の様な「戦術レベルの問題」と深い関係が無いのは明らかです。何故なら、本来主要な幹線の要地に設けられるであろう防衛拠点を迂回し、むしろ主要な幹線から外れて不整地を移動し、守備兵力の薄い地点を求めて側面攻撃するのがドイツ軍の攻撃の常道であり、その際に求められるのは(ロシアの国土の殆どを占めるであろう)道路の無い地勢での機動力だからです。 舗装道路はないかもしれませんが「道路」はたくさんあります。 路外機動はほとんど要求されません。 そんな未開の原野を突き進んだら、走っていくだけでドイツの戦車は全滅してしまうでしょうし、補給部隊の馬車は絶対に進撃についていけません。 未開の平原に幹線道路が走っている、アメリカ西南部の州間高速道路のような様子を思い浮かべておられるなら、それは誤りです。 ヨーロッパロシアの平地は多くが農地と牧地になっており、未舗装農道がかなりの密度で入っています。森林も薪取りやきのこ採集のための林道が必ずあります。 もちろん、これらは晩春〜夏しか用いないものですから、秋になって雨が降れば泥濘と化し、雪が降れば埋まり、雪が溶ければまた泥濘となる代物ですが。 > 道路網から外れる事のできない「機動力」なるものは、「戦略的移動」と、又は大都市周辺部の様に比較的道路網の密度が高い地点でなら「作戦的機動」と呼べるかも知れませんが、それ以外の地勢で道路から外れて有効な側面攻撃を実施する際に発揮できる「作戦的機動」とは呼べませんし、なにより「戦術レベルでの機動」の争点に成り得ないでしよう。 先にも述べたように、道路はあります。 何より、自国に道路が無いのにそんな編成をしてそんな規定を作っても仕方が無いじゃありませんか。 実際、ドイツ軍機甲部隊であっても補給部隊とそんなに長く離れているわけにはいきませんから、道路から外れて戦うというのはごく一時的に10数kmの範囲で側方迂回をする程度だったと聞きます。なにしろ、戦車の燃料弾薬は道路を通らないといけないのですから。 これならば、ソ連軍砲兵は配置が良く、観測所の位置も良ければその射程内に敵を捉えることもできるでしょう。 どのみち、牽引砲兵は敵を待ち構えるかたちでなければ有効な働きは期待できませんし。 > また、鉄道・主要幹線道路等による「戦略的機動」の速度が高いのは当然の事です。問題はただでさえ道路事情の悪いロシア領内における作戦において、幹線から外れた不整地における「作戦・戦術的機動」を如何に克服するかにあります。特に自動車化砲兵は半装軌化されていたとしても路外走行力を制限されがちで、戦争前半におけるこの様な砲兵の支援力不足をドイツ軍は航空支援で補いました。 ドイツ軍の航空支援は貧弱です。 バルバロッサ作戦〜ブラウ作戦を通じて、地上部隊と連繋しつつ直接航空支援任務を実施できる技術と技量を持っていたのは第VIII航空軍団だけで、この部隊があちこちの戦場を移動しながら一生懸命直接支援をやっていただけでして、他の戦場ではドイツ空軍は戦場阻止(インターディクション)と制空権保持を主任務に、味方地上軍からは見えない、戦線より向こう側での作戦をもっぱらとしています。 詳しいところは、既に絶版でちょっと入手が難しいかもしれませんが、朝日ソノラマ文庫版新戦史シリーズ・75『東部戦線の独空軍』を一読されることをお薦めします。 > > 小規模の部隊が取りうる戦術オプションの多彩さ(機動力はこの中の一例に過ぎない)ではドイツ軍は優位でしょう。 > > 小規模であれ、大規模であれ、軍事作戦における戦闘能力の基礎となり、その最大要因となるのが機動力です。近代以降の軍隊にとってスピードが命であり、足の遅い軍隊は全てに後手を踏む事になりその実力を発揮できません。ナポレオンのフランス軍が精強だったのは、騎兵が充実していたのもさる事ながら何より他の連合軍に比して遥かに早い速度で歩兵が行軍したからです。つまり幾ら高い火力を持つ部隊を多数持っていても、戦場における決勝地点となるべき重要なポイントに戦力を迅速に集中できなければ意味がないからで、ドイツ軍が大戦前半であれだけの戦果を挙げた最大要員は、物量でも、火力でも旧知の戦術でもなく、一にも二にもその機動性を最大限に活かしていたからです。それゆえ(機動力はこの中の一例に過ぎない)どころか、機動力こそドイツ軍の命であり、最大の強みでもあったはずです。 実際に動き回る能力では、ドイツ軍の持つハードウェアはソ連軍の持つハードウェア(生身の兵も含みます)と同等かそれより劣るものです。 ドイツ軍の機動力というのは適時適切な決心によって時間を節約し、またそこらへんにいる部隊同士が良好に連繋することで相手に対して先手を取ることにその本質があるわけで、速度それ自体はそれほど大きいものではないと思います。 この適時適切な決心と良好な連繋、つまりドイツ軍の基礎を為す「柔軟性」が多彩なオプションを生むわけで、ドイツ軍に於ける機動力というのはその結果のひとつの顕れにすぎないという見方はできないでしょうか。 ただ、これはドイツ軍自身も誤解していた節があり、ソ連軍と本気でスピードを競う場面になってボロを出している例がいくつかあります。 額面上の「機動力」はソ連軍の方が大きいのです。 ドイツ軍はそれを決断力で補っているわけです。 > 「細かい点で大雑把」、「効率悪い事この上なし」という指揮系統が、作戦レベルでは「大して不都合はなく」、戦略レベルでは「効率的」という事ですが、 > 軍事作戦というものは戦術レベルの戦闘の結果が積み重なって作戦レベルの結果に反映されてくるのですから、実際に戦闘に従事する部隊の動きが「細かい点で大雑把」、「効率悪い事この上なし」である事が、作戦レベルで「大して不都合はなく」どころかその影響は大きかったはずですし、作戦が上手くなければ、その企図した「戦略」においても狂いが生じます。 > まあ、それでも44年において大勝利を得た事は、損害を考慮する事無く強行できるだけの圧倒的物量の成せる技だったと言うべきでしょう。 ちょっとひっかかります。 ソ連軍が物量を用意するのは、細かいところの手数の不足を、母数を大きくすることで切り抜けようとするからです。 一単位あたりの効率の悪さを、それを上回る数を投入することで必要なだけの水準の効率を維持しようという掛け算の発想です。 ドイツ軍の効率を以ってすれば1個師団で間に合うところを、1個軍団から重点区域であれば1個軍を集中投入することでドイツ軍の効率を数で撃砕しよう、つまり効率に於いて辻褄を合わせよう、掛け算で「≧」を作ろうというのがソ連軍のやり方です。 被害に対する予備ではありません。 これに対して大被害を与えることができるドイツ軍の効率というのも凄まじいものがありますが。 また、であるからにはソ連軍の戦闘組織というのは作戦が先に立つものであり、戦術的成果を積み重ねるものではなく、予め立てた目標を当初予定通りに何が何でも達成するという方向で行われるものになります。 なにしろ軍に柔軟性が期待できないのですから、そのモーメントはひたすらに直線的です。曲線的だとしたら、それは当初計画が曲線的なのであって、その実施要領は直線的なものなのです。 > > 勿論、一個連隊・戦闘団規模の部隊の活躍により、一時的に戦況を好転させる事も期待できると言う点に於いて、ドイツ軍は有利ですが、それが一時的な物にしかならず、全般戦況を好転させるものにならないのは、実際の戦例でも明らかでしょう。全般戦況を規定するのは双方の戦略環境に求められるのですから。 > > 指揮統制の問題は、一部の部隊にのみ好・不都合が生じるレベルの問題ではないと思いますが。その程度にしか影響を及ぼさないのであったら、まなかじさんも争点としてあげる程の価値を見出していないはずです。また最後の文章の「全般戦況」は「戦況全般」に、「を規定する」は「を決定する」と言う言葉の方が一般的です。 この程度の小規模部隊でもドイツ軍の発揮し得る「効率」は巨大なものになり得るというだけの文だと思いますが如何? ただ、その効率は物量に裏付されないので長続きしないし、ソ連軍の数による「面」の展開で覆るものだと。 |
たいした知識があるわけではないのですが、 学研M文庫のバロッサ作戦か焦土作戦の中に、 独方が、地図上に太い線が引いてあるので、どんな立派な道路かと期待すると、 実際には貧相な未舗装の道でびっくりしただかあきれただかの話が載っておりました。 道路というモノにたいする認識が、独ソでは違っていたのではないでしょうか。 |
> > > 機動力は果たして赤軍に無かったのでしょうか?双方が持つ物理的な物は同レベルですから、双方の持つ、進退を含む機動能力は、指揮官の判断の有無と妥当性に求められるところと言えますよね? > > > > 「物理的な物」という言葉は抽象的です。想像は出来ますが、これは「兵員数」とか「数量的兵力」等の言葉の代名詞として使うには具体性に欠けており、誤解を生むもとだと思います。 > これは単純にハードウェアのことでしょう。 理解しました。 > > また「妥当性」というのも言葉足らずで、「機動力が…(何に対する)妥当性に求められる」のか説明不足で理解できません。 > 機動力とは指揮官の判断力です。時速40kmの戦車であっても、指揮官が動かさないと決めたら機動力を持ちません。また、戦機の判断がずれていれば、機動の決断自体をしないことも有り得ます。なので、「判断の有無及びその戦況に応ずる妥当性」が機動力の本質であるとSUDOさんは言ってるのだと思います。 これも(文章の意図をという意味で)理解しました。 > > 拡大した争点が、本来の争点における主張に十分な相関関係を持ち得るならそれも構いませんが、鉄道移動や道路を用いた「戦略・作戦レベルの機動力」が、「戦闘離脱時の戦術的後退」の様な「戦術レベルの問題」と深い関係が無いのは明らかです。何故なら、本来主要な幹線の要地に設けられるであろう防衛拠点を迂回し、むしろ主要な幹線から外れて不整地を移動し、守備兵力の薄い地点を求めて側面攻撃するのがドイツ軍の攻撃の常道であり、その際に求められるのは(ロシアの国土の殆どを占めるであろう)道路の無い地勢での機動力だからです。 > 舗装道路はないかもしれませんが「道路」はたくさんあります。 > 路外機動はほとんど要求されません。 > そんな未開の原野を突き進んだら、走っていくだけでドイツの戦車は全滅してしまうでしょうし、補給部隊の馬車は絶対に進撃についていけません。 > 未開の平原に幹線道路が走っている、アメリカ西南部の州間高速道路のような様子を思い浮かべておられるなら、それは誤りです。 > ヨーロッパロシアの平地は多くが農地と牧地になっており、未舗装農道がかなりの密度で入っています。>森林も薪取りやきのこ採集のための林道が必ずあります。 > もちろん、これらは晩春〜夏しか用いないものですから、秋になって雨が降れば泥濘と化し、雪が降れば埋まり、雪が溶ければまた泥濘となる代物ですが。 おっしゃる通りだと思いますし、また指摘する様な誤ったイメージを持っている訳でもありません。しかし人の文章の正確さを指摘しておきながら、自身のそれにおいても誤解されても仕方のない程度に言葉に正確さを欠き、説明不足の点については反省します。ここでの文意を申し上げれば、かような「戦術レベル」における機動に対する争点に対し、歩兵部隊等と同レベルの迅速かつ融通の利く戦術的移動を行えない野戦砲兵等の兵種を例に挙げるのは、余り適切でないと言う事です。 > > 道路網から外れる事のできない「機動力」なるものは、「戦略的移動」と、又は大都市周辺部の様に比較的道路網の密度が高い地点でなら「作戦的機動」と呼べるかも知れませんが、それ以外の地勢で道路から外れて有効な側面攻撃を実施する際に発揮できる「作戦的機動」とは呼べませんし、なにより「戦術レベルでの機動」の争点に成り得ないでしよう。 > 先にも述べたように、道路はあります。 > 何より、自国に道路が無いのにそんな編成をしてそんな規定を作っても仕方が無いじゃありませんか。 > 実際、ドイツ軍機甲部隊であっても補給部隊とそんなに長く離れているわけにはいきませんから、道路から外れて戦うというのはごく一時的に10数kmの範囲で側方迂回をする程度だったと聞きます。なにしろ、戦車の燃料弾薬は道路を通らないといけないのですから。 > これならば、ソ連軍砲兵は配置が良く、観測所の位置も良ければその射程内に敵を捉えることもできるでしょう。 > どのみち、牽引砲兵は敵を待ち構えるかたちでなければ有効な働きは期待できませんし。 先の問答とも関連してますが、「作戦的レベル」については、自身の表現が誇大に過ぎたものとして訂正させて頂きます。 > > また、鉄道・主要幹線道路等による「戦略的機動」の速度が高いのは当然の事です。問題はただでさえ道路事情の悪いロシア領内における作戦において、幹線から外れた不整地における「作戦・戦術的機動」を如何に克服するかにあります。特に自動車化砲兵は半装軌化されていたとしても路外走行力を制限されがちで、戦争前半におけるこの様な砲兵の支援力不足をドイツ軍は航空支援で補いました。 > ドイツ軍の航空支援は貧弱です。バルバロッサ作戦〜ブラウ作戦を通じて、地上部隊と連繋しつつ直接航空支援任務を実施できる技術と技量を持っていたのは第VIII航空軍団だけで、この部隊があちこちの戦場を移動しながら一生懸命直接支援をやっていただけでして、他の戦場ではドイツ空軍は戦場阻止(インターディクション)と制空権保持を主任務に、味方地上軍からは見えない、戦線より向こう側での作戦をもっぱらとしています。詳しいところは、既に絶版でちょっと入手が難しいかもしれませんが、朝日ソノラマ文庫版新戦史シリーズ・75『東部戦線の独空軍』を一読されることをお薦めします。 航空支援の程度の大小はどうあれ(それを議論するつもりはありませんが)、主文の趣旨は、争点は「戦術レベルにある」という事です。 > > > 小規模の部隊が取りうる戦術オプションの多彩さ(機動力はこの中の一例に過ぎない)ではドイツ軍は優位でしょう。 > > > > 小規模であれ、大規模であれ、軍事作戦における戦闘能力の基礎となり、その最大要因となるのが機動力です。近代以降の軍隊にとってスピードが命であり、足の遅い軍隊は全てに後手を踏む事になりその実力を発揮できません。ナポレオンのフランス軍が精強だったのは、騎兵が充実していたのもさる事ながら何より他の連合軍に比して遥かに早い速度で歩兵が行軍したからです。つまり幾ら高い火力を持つ部隊を多数持っていても、戦場における決勝地点となるべき重要なポイントに戦力を迅速に集中できなければ意味がないからで、ドイツ軍が大戦前半であれだけの戦果を挙げた最大要因は、物量でも、火力でも旧知の戦術でもなく、一にも二にもその機動性を最大限に活かしていたからです。それゆえ(機動力はこの中の一例に過ぎない)どころか、機動力こそドイツ軍の命であり、最大の強みでもあったはずです。 > 実際に動き回る能力では、ドイツ軍の持つハードウェアはソ連軍の持つハードウェア(生身の兵も含みます)と同等かそれより劣るものです。 > ドイツ軍の機動力というのは適時適切な決心によって時間を節約し、またそこらへんにいる部隊同士が良好に連繋することで相手に対して先手を取ることにその本質があるわけで、速度それ自体はそれほど大きいものではないと思います。 > この適時適切な決心と良好な連繋、つまりドイツ軍の基礎を為す「柔軟性」が多彩なオプションを生むわけで、ドイツ軍に於ける機動力というのはその結果のひとつの顕れにすぎないという見方はできないでしょうか。 > ただ、これはドイツ軍自身も誤解していた節があり、ソ連軍と本気でスピードを競う場面になってボロを出している例がいくつかあります。 > 額面上の「機動力」はソ連軍の方が大きいのです。 > ドイツ軍はそれを決断力で補っているわけです。 最初の文にあるハードウェアに関して言及されていますが、私としても当然、それその物を否定するつもりはなく、額面上の性能面でドイツ軍の装甲車輌等が必ずしも優位を持っていなかった事は存じています。ただ41年当時は、ドイツ軍が戦術と用兵思想の相違によってそれを補っていたのに対し、ソ連軍は(貴兄のおっしゃる如く)その軍事ドクトリンに沿った実力を発揮するだけの条件を未だ獲得していなかった故に、結果的にその(機動力等の)ハードウェアの能力を活かせておらず、41年当時において実際に発揮している能力と、その結果として得られる戦果を相対的に評価して観た点において、この当時のドイツ軍とっての機動力とは、「『機動力はこの中の一例に過ぎない』」という程度のウェートしか持たない要因とは言えない」と言いたかったのです。 |
> > 「細かい点で大雑把」、「効率悪い事この上なし」という指揮系統が、作戦レベルでは「大して不都合はなく」、戦略レベルでは「効率的」という事ですが、軍事作戦というものは戦術レベルの戦闘の結果が積み重なって作戦レベルの結果に反映されてくるのですから、実際に戦闘に従事する部隊の動きが「細かい点で大雑把」、「効率悪い事この上なし」である事が、作戦レベルで「大して不都合はなく」どころかその影響は大きかったはずですし、作戦が上手くなければ、その企図した「戦略」においても狂いが生じます。 > > まあ、それでも44年において大勝利を得た事は、損害を考慮する事無く強行できるだけの圧倒的物量の成せる技だったと言うべきでしょう。 > ちょっとひっかかります。 > ソ連軍が物量を用意するのは、細かいところの手数の不足を、母数を大きくすることで切り抜けようとするからです。 > 一単位あたりの効率の悪さを、それを上回る数を投入することで必要なだけの水準の効率を維持しようという掛け算の発想です。 > ドイツ軍の効率を以ってすれば1個師団で間に合うところを、1個軍団から重点区域であれば1個軍を集>中投入することでドイツ軍の効率を数で撃砕しよう、つまり効率に於いて辻褄を合わせよう、掛け算で「≧」を作ろうというのがソ連軍のやり方です。 > 被害に対する予備ではありません。 > これに対して大被害を与えることができるドイツ軍の効率というのも凄まじいものがありますが。 > また、であるからにはソ連軍の戦闘組織というのは作戦が先に立つものであり、戦術的成果を積み重ねるものではなく、予め立てた目標を当初予定通りに何が何でも達成するという方向で行われるものになります。 > なにしろ軍に柔軟性が期待できないのですから、そのモーメントはひたすらに直線的です。曲線的だとしたら、それは当初計画が曲線的なのであって、その実施要領は直線的なものなのです。 最後の文章はが、独ソ戦全般における、(ソ連の軍事ドクトリンに則った)その総合的な軍事力を厳密に表現するに不適切であったという意味において、またその本質を理解していないと誤解を与える表現であった事は慎んでお詫び申し上げます。ただ(ソ連軍兵力の蓄積が、その軍事ドクトリンに則った真の実力を発揮するに足るまでに至っていなかった)41年の状況を前提とした場合に、SUDOさんが用いた表現は過大に過ぎるのではないかという意味で、それ以前の自身の文章を否定するものではありません。 > > > 勿論、一個連隊・戦闘団規模の部隊の活躍により、一時的に戦況を好転させる事も期待できると言う点に於いて、ドイツ軍は有利ですが、それが一時的な物にしかならず、全般戦況を好転させるものにならないのは、実際の戦例でも明らかでしょう。全般戦況を規定するのは双方の戦略環境に求められるのですから。 > > > > 指揮統制の問題は、一部の部隊にのみ好・不都合が生じるレベルの問題ではないと思いますが。その程度にしか影響を及ぼさないのであったら、まなかじさんも争点としてあげる程の価値を見出していないはずです。また最後の文章の「全般戦況」は「戦況全般」に、「を規定する」は「を決定する」と言う言葉の方が一般的です。 > この程度の小規模部隊でもドイツ軍の発揮し得る「効率」は巨大なものになり得るというだけの文だと思いますが如何? > ただ、その効率は物量に裏付されないので長続きしないし、ソ連軍の数による「面」の展開で覆るものだと。 SUDOさんとの白熱した論議故か、「『一個』連隊・戦闘団規模」の部隊の活躍により、」の部分から、その文意を「指揮統制の影響が、局地的な範囲にしか及ぼされない」という意味に、また、文章全般から、「ドイツ軍の指揮統制能力が戦術・作戦・戦略各レベルに及ぼす影響が、あたかも各レベル間における僅少な相互作用しか及ぼさない」という意味に捉えていました。 それに対して私の言いたかった事は「戦況全般なるものも、煎じ詰めれば戦術レベルにおける個々の諸部隊の戦闘の結果が積み重なって作戦レベルでの戦果として表れているのであり、また同様の結果により戦略レベルにおいて位置づける状況が存在している」のであって、つまり「戦略計画においては始めに戦略ありきであっても、それを達成するための戦果を決定づける「ドイツ軍事力の」根底にあるのは、(特に戦術・作戦レベルの) 通信・指揮統制能力等の効率・柔軟性であるはずだ」という事です。 文意を湾曲した形でとった点、また以上にある(その)反論としての自身の意見をも記述していない事で誤解を招いた事はお詫び致します。 |
> > で、ここで戻ってくるんだ。 > どういう意味ですか?大体想像はつきますが、真面目に議論する際にこの様に人を揶揄するような言葉を使うのはどうかと思います。 これは失礼しました。 今後は、推敲を重ねた上で投稿するように致します。 ちなみに、私のハンドルは全角大文字ですが、別に気になさらないで結構です。 また呼び捨てされても一向に構いません。 以上はEdwredさんの記載に対する追認と理解して下さって結構です。 また、下段に対するものは、まなかじさんが補足してくださったので、私からは述べるところはありません。 ゲームに関しては、押入れから引っ張り出すのが苦痛なので、割愛しますが、私の判断は、+1ぐらいだろうというところでしかなく、ゲームデザイン&ディベロップした方の判断や評価を否定も肯定もする立場ではありません。 |
なかなか読み応えのある論説で、口を挟みにくいのですが、ちょっとだけ。 Edwerd様の論点が、よく見えなくなっているのですが。 「ソ連が間抜けだった」「いやそうではなく、ドイツに比して劣っていただけど言っているのです!それも同一基準で比べないと断定はできない」・・・といった、あまりに厳密な議論を追尾するのが面倒で。 「ドイツとソ連を、質的に比較する」のが興味深いのはよくわかりますが、 それって、「日本軍は質では勝っていたが物量に負けた」的な話であって、 戦争は質×量の積で表すべきと思うのです。 質を問うのは、量と積算する場合のパラメータとしては意味があるのですが、それ単独でほとんど意味を成さないのではないでしょうか。 結局のところ、作戦がヘタで損害が出ても(攻撃、防御、撤退共に)それを補えるだけの生産力と動員力があれば、大勢には影響ないんじゃないでしょうか。 76ミリ野砲なんておびただしい数を拿捕されても、今度は「楽にサッサと逃げられるように(?)」76ミリ自走砲を万の単位で配備できるし、分捕った野砲でも撃破困難な正面装甲を持った戦車を揃えられるのですから。 牽引砲を拿捕した側が、かえって機動力がなくなるわ、各種口径の弾薬を用意せねばならないわ、各形式のマルダーを少数作って手がかかるわ・・・というのが皮肉なところです。 1回失敗したらもう後が無い貧乏ギャンブラーと、いくら損しても勝負が続けられる金持ちギャンブラーの勝負は、長引けば金持ちの勝ちでしょう。(勝つまでやめない、という手が使えるから) で、とりあえず、Edwerd様に補足質問させてください。 (1)ドイツ側の「電撃戦」に関して、Edwerd様はどのように評価・判断されているのでしょうか? 私はドイツは旧時代的な包囲殲滅戦を繰り返しただけで、電撃戦に失敗していると思いますが。(失敗というか、実は戦略的な電撃戦は実行していない?) (2)ソ連軍の後退戦術の巧・稚が論じられていますが、結局のところEdwerd様はどう評価されているのですか? (2−1)初期はともかく、中盤以降は、後退戦術がうまくなければそもそも焦土作戦などできないと思いますが、いかがでしょうか? (2−2)また、「敵戦力に捕捉されている状態では撤退は困難」なのは当然ですが、ドイツ軍の機動力は撤退するソ連軍を拘束できるほどだったのでしょうか?戦場を越えて追う側と、まだ幾分整った道を逃げて後を破壊していく側では、機動速度に格段の差があり、「敵に拘束された状態」を脱するのに手間はかからなかったと思いますが。(戦術レベルの話をしているわけではないです) 「撤退時の大損害」というドクトリンは、追撃側に能力があって初めて有効になるものと思いますが、いかがでしょう? |
> 「ドイツとソ連を、質的に比較する」のが興味深いのはよくわかりますが、 > それって、「日本軍は質では勝っていたが物量に負けた」的な話であって、 > 戦争は質×量の積で表すべきと思うのです。 > 質を問うのは、量と積算する場合のパラメータとしては意味があるのですが、それ単独でほとんど意味を成さないのではないでしょうか。 > 結局のところ、作戦がヘタで損害が出ても(攻撃、防御、撤退共に)それを補えるだけの生産力と動員力があれば、大勢には影響ないんじゃないでしょうか。 > おっしゃる通りに戦略全般の可能性を考察するのに必要となるのは、その時点で持ち得たであろう総合力としての軍事力であるのに違いありません。ただその分析の基礎となるファクターの一つである、(同規模の戦闘単位に基準を置いた上での)部隊の質的能力において、双方で完全に逆の見解を持っているのでは、そこから導き出される予想も全然かけ離れたものにしかならず、一つとして意見が噛み合わずに平行線を辿るばかりで議論にならない事でしょう。それ故に私の提示する本来の争点から少し逸脱するかもしれないが、あえてその点に固執してしまった訳です。 ただ御分かりではあると思いますが、「質的優位」の争点を論議する事が本来の戦略全般を考察する議論から多少逸脱する事があったとしても、それとは別に「質的優位」をメインの争点として議論する事自体は無意味ではないと思います。 > で、とりあえず、Edwerd様に補足質問させてください。 > > (1)ドイツ側の「電撃戦」に関して、Edwerd様はどのように評価・判断されているのでしょうか? > 私はドイツは旧時代的な包囲殲滅戦を繰り返しただけで、電撃戦に失敗していると思いますが。(失敗というか、実は戦略的な電撃戦は実行していない?) > 前のスレッドにも書きましたが、私は大戦中のドイツ軍が志向した電撃戦の本質は「敵戦線の後方奥深くまで切り込んだ機動兵力が、敵の通信及び兵站連絡網を遮断する事で、敵の自壊作用を促してその組織的抵抗力を瓦解させる事であり、突破包囲戦術はその手段に過ぎす、敵戦力の殲滅、都市の占領もまた、その結果よって必然的に得られる副産物に過ぎない」と言う点にあり、電撃戦とはその結果としてもたらされる敵国の短日時の崩壊を企図する「戦略的側面」を持つ用兵思想であると認識しています。 そしてこの意図するところそのままの結果を経て、真に戦略的な電撃戦を成功裏に終えた例は、後にも先にも一大国を6週間で崩壊させたフランス作戦における成功のみと言えます。 ただ、急降下爆撃機の対地攻撃や、装甲部隊による突破と包囲、そして敵地奥深くへの急速な前進等の戦術は表面的な手段に過ぎませんが、その概観はこれらの戦術を駆使する部隊に見られる「作戦・戦術レベル」の行動として認識できる事は確かであり、そしてドイツ軍が電撃戦を試みた何れのケースにおいても、それを達成するための戦術を用いる装甲部隊という兵種がドイツ軍の兵力のごく一部にしか過ぎず、その大多数の兵力が徒歩で移動し、馬引補給に頼る歩兵部隊である事から、局地的に概観すればそれらが「旧時代的な包囲殲滅戦」と呼ばれる戦闘様式そのままであるというのは当たっているでしょう。 ポーランド作戦では、グデーリアンの装甲部隊の東プロイセンからワルシャワ東方への急進撃にこそ電撃戦の片鱗を窺わせていたものの、終局的には首都ワルシャワでの市街戦による戦車戦力の損耗や、攻囲体勢を続けて降伏を促す戦略等、本来の電撃戦とはかけ離れた形で結末を迎えており、この時点では未だその成熟過程にあったと言えます。 ソ連への電撃戦に関しては、史実ではその緒戦からモスクワ前面に至る数々の会戦で華々しい戦術的勝利を得たものの、それを戦略的勝利に結びつける事ができずに迅速な勝利を得る事ができなかった故に、貴兄のおっしゃる通りに、史実のバルバロッサ作戦においては真に戦略的な電撃戦は存在しなかったと言えるでしょう。 > (2)ソ連軍の後退戦術の巧・稚が論じられていますが、結局のところEdwerd様はどう評価されているのですか? 「後退戦術」と言うと各レベルにおける全般的な後退戦術という様に捉えてしまうのですが、私としては後退戦術全般を論じているつもりは無く、戦闘離脱時に強いられる「戦術的後退」を包囲下において当時のソ連軍が成功させる事が困難であると反論していただけなのです。 しかしその区分けを定義するためにも、(2-2)の回答として、その前半に戦術的レベルにおける後退戦術を、中盤にて作戦的レベルでのそれに対する認識を説明させてもらいました。 > (2−1)初期はともかく、中盤以降は、後退戦術がうまくなければそもそも焦土作戦などできないと思いますが、いかがでしょうか? これが作戦的レベルでの後退戦術の事を行っているのであれば、史実の様にそれは可能であった言えます。私の認識するところの戦術的、作戦的後退の定義は先に述べた様に、(2−2)の回答部分で述べさせてもらっています。 > (2−2)また、「敵戦力に捕捉されている状態では撤退は困難」なのは当然ですが、ドイツ軍の機動力は撤退するソ連軍を拘束できるほどだったのでしょうか?戦場を越えて追う側と、まだ幾分整った道を逃げて後を破壊していく側では、機動速度に格段の差があり、「敵に拘束された状態」を脱するのに手間はかからなかったと思いますが。(戦術レベルの話をしているわけではないです) > 「撤退時の大損害」というドクトリンは、追撃側に能力があって初めて有効になるものと思いますが、いかがでしょう? SUDOさんとの議論で争点が持ち上がるきっかけとなった私の戦略の部分を更に詳しく説明しますと、「キエフを南方から攻撃している第1装甲集団が、中央群集団のモスクワ攻撃に合わせてハリコフ方面への牽制攻撃に出る代わりに、第6軍と第2軍で攻囲を続行する。この時、仮にキエフのソ連軍の一部が包囲網を脱出して、中央軍集団側面やキエフ南方でドニエプルガ河中流域を渡河する第17軍等を牽制する行動を採ろうとしても、機動力のないソ連軍は混乱の中で統制を喪失して壊走状態になってしまうだろう」という事になります。 この時に争点とした「機動力」とは、「敵に接触しておらず、前線からある程度の距離にある部隊が整然と行軍体形を取って行うところの作戦的移動」では無く、「今正に(キエフ周辺で)敵との戦闘行動の真っ只中にあった部隊が、一部の後衛部隊を残して、敵を何とかして振り切って包囲網の脱出を試みている」という状況で行う戦術的後退の事と私は認識しています。 そして、私が「包囲された部隊が体勢を整えつつ撤退する事の困難さ」を例に挙げて言いたかった事は、「かように後退戦というものが軍事作戦で最も困難を極めるものである上に、戦闘中の、半ば包囲された部隊がこれを整然と防御的体勢を維持しながら(装備を遺棄し、また脱落する部隊もそれほど出す事無く)成し遂げる事が不可能に近いのは何処の軍隊でも変わりはない」という前提の下に、これが機甲集団というまとまった形の機動兵力によって試みられるのであれば別ですが、柔軟な機動力を発揮できなかった当時の機械化軍団を付随していたとしても、歩兵軍を主体としていたキエフ周辺のソ連軍には尚更の事それを成し得なかったであろうという事なのです。 しかし(2-2)の質問では「戦術的後退の事ではないと」とされているので、これを「敵に接触しておらず、前線からある程度の距離にある部隊が整然と行軍体形を取って行うところの作戦的移動」と位置づける「作戦的な機動」と解釈してお答えしますと、貴兄がこの節の冒頭に述べている通り、自国の勢力圏内を後退する側を、敵国の領土内を行軍しなければならない側が追撃して捕捉する事は難しいでしょう。例えば、行軍距離にして1日かけて到達できる位置の敵が、最初からまともに戦闘する意志を持たずに計画的に後退を実施していれば、当時の英米軍とは違い、自動車輌の充足率が低いソ連軍やドイツ軍の歩兵師団が補足を試みるのなら尚更の事です。ただし先の「戦術的後退」の部分で述べた様に、これが機動力の低い歩兵部隊同士の場合でなく、歩兵部隊に対して機械化された部隊が迂回して包囲行動とっている等の状況においては必ずしも当てはまらないのは言うまでもありません。 ただ『「敵に拘束された状態」を脱するのに手間はかからなかったと思いますが。』の部分は、この節の冒頭の『「敵戦力に捕捉されている状態では撤退は困難」なのは当然ですが、』と矛盾している様で良く分かりません。「戦術的後退の事ではないと」とはありますが、私が認識する所、「敵に拘束された状態」というのは「敵戦力に捕捉されている状態」よりも更に強い度合いで敵部隊との戦闘を強いられている状態である故に、十分に「戦術レベルの問題」となります。思うに戦術・作戦レベルでの機動という位置づけが人によってかなりズレがあるからだとは思いますが。 『「撤退時の大損害」というドクトリンは、追撃側に能力があって初めて有効になるもの』に関しても、私が争点にしている事が、戦術的後退の事でありますのでそのレベルでお答えします。開戦劈頭の北方軍集団や特に中央軍集団の国境会戦を例に挙げると、強力な装甲集団に両翼から包囲されようとしている状況でのソ連軍の状態は、「一部で執拗に抵抗する部隊もある中で、包囲網を脱出しようとする部隊は前面から敵の攻撃受けつつも、徐々に抵抗線を後方にさげつつ退却のタイミングを計り、全面的な後退運動を開始しようとするが、足のない歩兵部隊などは幾度の敵の追撃を受ける中で混乱を来し、統制を失った部隊は個々に散り散りとなって壊走状態に陥ってしまう」となりますが、この点において確かに「追撃側に能力があって初めて有効になるもの」との見解と符合します。 ただ私は「撤退時の大損害」というものは、必ずしも強力な追撃部隊がなければ成り立たないとは限らないと認識しています。先の様な状況において、退却時には後衛部隊と後退する部隊のローテイションとそのタイミングが大事であり、実際の敵の追撃の有無に関わらず、部隊は常に敵の追撃戦に巻き込まれる事を予想した複雑な軍事行動を強いられます。更に退却の際に攻撃を受ける軍隊は、通常に比べて大きな損害を受けやすい。これは普通だったら遺棄する事など考えもしない重火器等の貴重な支援火器や装備を、物理的にも心理的にも切迫した状況下でいとも簡単に放棄してしまう傾向あるからで、誰しも早く後退しなければ包囲されてしまうという状況下で故障した車輌などを落ち着いて修理する事などできないからです。まして最初から後退する事を想定して、この様な退却の訓練を実施している軍隊は恐らく何処の国にも無いか、又は軽視しているのが常であるからして、包囲下に陥る事が決定的となった状況では、大抵場合、部隊の士気は急速に低下し、統制は乱れ、追撃や敵の空襲を度々受けるうちに終には単なる退却であったものが敗走へ、そして一旦敗走が始まればそれが壊走へと雪崩の様に変化してしまう傾向があります。この様な状況では、極端な事を言ってしまえば、追撃部隊が手を下さずほっておいても勝手に自滅してしまうと言っても良い程にそれらの部隊は非常にもろい状態にあると言えます。 北方軍集団戦区の一部の地区、また特に中央軍集団戦区において、包囲下に陥った(一部に1月近く抵抗を続けた部隊もあるが) ソ連軍の4個軍が急速に掃討されてしまったのは、まさに上記のような状況が起きたからだと私は認識しています。 |
> 御もっともな事だと思います。しかし私はべつに、自身の見解のみならず他の方々がその見解を決定するにあたって、他の異論を持つ方から了解を得る必要はないと思いますし、そのつもりもありません。それと私のハンドル・ネームは「Edward(最も一般的だが)」ではなく、「(プリンス・エドワード島の)Edwerd」ですので。あしからず。 ああ、これは申し訳ありません。失礼しました。 |
http://www.gov.pe.ca/ まあ、バリエーションとして Edwerd というつづりは確かに存在するので、変なHNだとは思いません。ただその根拠は?と思ったもので。 |
グデーリアンによって包囲されていないキェフから部隊を引き抜いて北転させるのに、戦術能力は関係ないと思いますが。7月末にウマーニから、というなら別ですが。 |
バルバロッサ作戦に勝算あり 「その軍事戦略2」 前回の様な過程を経て、北方軍集団によるレニングラード攻略、そして史実より1月早く開始される中央軍集団によるブリャンスク方面の掃討作戦を9月一杯までに終わらせ、10月には3個装甲軍と3個歩兵軍によるモスクワ直接攻撃(史実によるタイフーン作戦の第二段階)を開始できる体勢が整っているものとして話を進めます。以下はその時点における最大進出線と、その担当正面にあるバルバロッサ作戦参加諸部隊です。 レニングラード−ノブゴロド: フィンランド第1、第4軍 ノブゴロド−イリメニ湖東方−バルダイ丘陵: 第16軍 バルダイ丘陵: 第18軍 モスクワ正面(カリーニン−モジャイスク): 第9軍 モスクワ正面(モジャイスク−ツーラ): 第4軍 ツーラ−オリョール: 第3装甲軍 オリョール−クルスク: 第2装甲軍・第4装甲軍 クルスク−ハリコフ: 第2軍・第1装甲集団 ハリコフ− クレメンチェク: 第17軍 クレメンチェク−オデッサ: ルーマニア第3軍 オデッサ: ルーマニア第4軍 モスクワ攻撃軍に加えられる部隊を北から配備される順に述べると、まずカリーニン正面に北方軍集団に所属していた第18軍が位置し、同都市の北方からこれを制圧すべく前進する。その南のモスクワ前面の陣地線を攻撃する第4,第9軍はそれほど劇的な前進は望めないものの、史実より早めの攻勢においてソ連軍の防衛線の強化が不十分な箇所を突いて、表面的には突破を企図した激しい攻勢をかける。特にモスクワ正面に位置する第4軍にはOKH予備の第40装甲軍団を割いて、これをドイツ軍の主攻勢に見せかける為に攻撃に参加させると共に、ソ連軍各戦車旅団に対する備えとする。そしてその南、ツーラからクルスク に至るラインに第3,第2,第4装甲軍の順に3個の装甲軍を配備する(前記事で第4装甲軍はカリーニンへの牽制攻撃に使用するとあったが、より積極的な戦略に変更したい)。 これらは強力な装甲軍集団としてツーラ南のソ連軍防衛線を集中攻撃、これを突破後、第3装甲集団の一部はツーラの背後を絶って第9軍による攻撃を支援する他、残りの主力部隊は(史実で第2装甲集団が採ったルートと同じく)そのままモスクワを南方から攻め上がる形でモスクワ方面からのソ連軍予備兵力を迎撃する。そのルートはオカ河を右腕でかすめる様に採り、この河自身を装甲軍右翼のある程度の側面掩護に役立てつつ進撃し、リャザニ占領後にコロムナでオカ河を渡河する。 装甲軍集団南翼の第4装甲集団は、モスクワ南方の比較的森林部がまばらな平原地帯を突っ切って、イェレツ−ヴォロネジ間の幹線道路の鉄道と、コスロフにてリャザニ−ブォロネジ間の鉄道線を遮断し、軍集団の中央を走る第2装甲軍の南側面を掩護し、かつ南方からのソ連軍予備部隊の反撃に備える。 そして装甲軍集団の中央を走る最も強力なグデーリアンの第2装甲軍はそのまま西進を続け、リャザニ南方にてオカ河を渡河後、これも北東に伸びてゴーリキーに至るオカ河を右手に見つつ、それにそって真っ直ぐゴーリキまで直進、その内の1個装甲軍団が途中で北方に進路をとってゴーリキー−モスクワ間の幹線道路を遮断する。 モスクワへの背後からの直接攻撃は、ゴーリキーの占領後、その主力の到着と共に第2・第3装甲軍が共同して実施する。この時にドイツ軍の背後からの攻撃に対応して、ソ連軍がモスクワ前面から兵力の転出を行うタイミングに合せて、モスクワ前面から攻撃している第9,第4軍が全力攻撃に転じるのは言うまでもない。 突出する装甲軍集団の内、特にその奥深くゴーリキーまで進出する第2装甲軍対する補給が懸念されるが、これに対応するために空軍の保有するJu52輸送機全機を投入し、燃料・弾薬を優先して補給物資の空輸・低空からの投下を実施する。また、輸送機の不足分にはハインケルHe111輸送機に改装させて流用する(当時、この機体は爆撃機としては既に旧式化していたが、輸送機としては十二分な性能を発揮できた)。 北方戦区に関しては、フインランドの2個軍に協力してもらって、レニングラード前面の防衛ラインを担当してもらい、その南に位置する第16軍はレニングラード方面へのソ連軍の圧力を側面から牽制させる程度に前進させる。この時にフィンランドを率いていたのは、冬戦争当時にソ連軍に善戦したマンネルへイム大統領であったが、そのバルバロッサ作戦に対する協力姿勢は当初から消極的なものだった。フインランド軍は最初からレニングラードに入城する意志は持っておらず、その参戦目的も戦前の領土を回復される程度に留めるという限定的なものであったと言うが、レニングラード陥落の後にモスクワを総攻撃するという状況で、相応の見返りをもって交渉にあたるのであれば、フィンランドとてレニングラードからそう離れていない戦域を担当する程度の協力は惜しまないであろう。 また北極圏の戦線においては、史実における様なムルマンスクに対する山越えの直接攻撃という愚を冒さず、カングラダシャに戦力を集中する妥当な戦略を採って、これを占領する事で間接的にムルマンスクの存在を無力化させる事に務める。 南方軍集団戦区に展開する各軍は、これも各ソ連軍兵力を拘束しつつ、そのモスクワ方面への転出を防ぐ程度の限定した地域での局地的攻勢に留める方針を採る。キエフのソ連軍兵力は当初、第1装甲軍・第2・第6軍によって包囲攻撃し、第1装甲軍が中央軍集団によるモスクワ攻撃に合わせてハリコフ方面に進出する際にも残り2個軍をもって引き続き掃討作戦を継続する。ただ、その殲滅には時間がかかる為、これら2個軍の内、1個軍は10月のモスクワ攻撃時において予定どおりに上記の配置につけないかもしれないが、その際は第1装甲軍と一部の兵力で限定的攻勢を開始する事になるだろう。そしてこれも、モスクワ攻撃に応じて幾つかのソ連軍兵力が抽出された機に乗じて、最終的にはハリコフを奪取すべく強力な攻撃をかけるものとする。 この作戦の骨子は、ソ連軍の戦線に対して小規模な突破口を数多く得るのではなく、装甲軍を集中する事で大規模な突破口を穿ち、ここからまとまった兵力の機動戦力を一気にモスクワの背後に突進させて、その防衛線を骨抜きにする事にある。この時点でのソ連軍はこのドイツ軍の機動に対処するだけの迅速な対応は取れないだろうし、また仮に一部の兵力を転出する事ができたとしても、これだけの大兵力を迎撃してそれを押し留めるだけの戦力を展開・集中するだけの時間もない。 こうして11月中にモスクワが陥落し、レニングラード、ゴーリキー、モスクワとその周辺都市、及びその野戦軍主力をその初年度に一気に喪失してしまうと、ソ連は政治・経済及び軍事的に致命的な損失を被る事になる。スターリンの政治的支配力は地に落ち、経済の大動脈たる鉄道線の中枢、その心臓部とも言える首都を喪失する事による経済効率低下のソ連経済への影響は大きい。また軍事的に観ても、最重要の鉄道ターミナルであるモスクワの喪失より、ヨーロッパ・ロシアを南北に分断されたソ連は、反撃の為の効率的な兵力の展開はおろか、全戦線で統一された軍事行動を採る事も不可能になるであろう。 この様な状況下でドイツによる諜報・宣伝工作等が伴えば、ウラル山脈の彼方へ退いたスターリンに反旗を翻した軍事クーデターや、それによる新政権の樹立、又、ドイツ側の傀儡政権と言えどもそれに従って戦争終結を望む気運が高まる可能性は高く、停戦、講和、ないしはソ連の降伏に至る確率は7割方ぐらいあるのではないだろうか? また、この状況で南方のソ連残存兵力の抵抗を終息させる事が出来ない場合も、この様な有利な態勢で翌年の春を迎えた際に、ドイツ軍がクリミア半島、ロストフ、そしてスターリングラード方面へ向けた最後の大攻勢を行い、ボルガ河とドン河の海上交通路を麻痺させてソ連の継戦能力を奪うのも難しい事ではないのではなかろうか? |
モスクワを落とさないと、モスクワ-ゴーリキーの鉄道線の活用はできないのですから、第二装甲集団への補給は無理ではないでしょうか? なぜなら、リャザニを落しても、そこからゴーリキーへの直通幹線と鉄道は存在しません。これは第二装甲集団の前進にも補給にも大きな妨げになるでしょう。 1942年に、スターリングラードの第六軍に対して空輸が成立しなかった事を思うと、より潤沢な補給を要求するであろう第二装甲集団の進撃に空輸はそれほどの助けになるでしょうか? 積極攻勢ですから、一人一日あたり20kgを持ち込むとしたら、いったいどれだけの輸送機が必要でしょうか。私は当時のドイツ軍にどれだけのJu52と輸送機転用可能な爆撃機があったのか存じませんが、約20万人の一個軍に必要な、約4,000トン/日をどれだけ賄えるでしょうか。 これはツーラからリャザニへのルートも同じです。 勿論、これらの都市間にも幹線ではない規模の鉄道線はあるものと考えられますが、アメリカ軍の評価によると、支線では一編成あたりの貨車数は幹線の6割、また一日辺り流せる本数は半分程度だそうですから、支線の輸送能力は幹線の3割程度と見積もれます。 これは幹線が50万人の積極攻勢を支えられるのに対して、支線は最大で15万人しか支えられないという事を意味します(占領直後にそのような最大効率を発揮できると考えるのも無理です) よって支線は、一個軍を支えるにも足りません。これは、幹線ルートから離れた行動は、それぞれ軍団程度が限度という事を意味します。 こうした補給能力の制限と、道路・鉄道の貧弱さは、モスクワを迂回してゴーリキー等の後方地帯へ大兵力を送り込む事を事実上否定します。 リャザニからコーリキーへの距離は約400kmもあるのです。進撃するだけで20日近くかかるでしょう(一日20kmという途方も無い速度で、です) 折角タイフーンを前倒しにしたのに、ゴーリキーを攻略したあたりで(それが出来たとして)降雪等で以降の行動は大きく制限されるでしょうし、恐らく補給が届かなくなります。 モスクワを落とさない限り、ゴーリキーを落とした第二装甲集団は、餓える事になるでしょう。 そして、第二装甲集団を欠いた状態でモスクワを落とせるかとなると、これはモスクワに配置された赤軍戦力次第ですが、非常に難しいのではないでしょうか。 またモスクワは大都市です。人口も多いわけで、それらの市民がスターリングラード戦のように民兵として参加した場合、その規模も相当な物になるでしょう。 これらを思うと、ゴーリキーからモスクワへのラインを切断するのは必須の事ではありますが、装甲集団はモスクワへの各幹線を遮断する事を優先し、モスクワの早期完全包囲を優先したほうが安全ではないでしょうか? 1941年の各作戦は、ドイツ側の補給補充能力の制限が最も大きな足枷であろうと考えます。 南旋をしない事で短縮した時間と距離は、ゴーリキまで進出する事を保証するとは思えません。 それよりは、確実にモスクワを落とすべきではないでしょうか。 |
この作戦において第2装甲軍が必要とされる補給量と供給できる航空補給量とを概算してみました。 まず第2装甲軍(編制は初期の装甲集団と同一のものとする)の兵員数ですが、麾下の部隊のうちで実際にモスクワ後方奥深くへの進撃に参加できるのは機械化されている装甲・自動車化歩兵の10個師団ですから、これに師団定数の14000名を掛けて概ね150,000名ぐらいと概算し、これにSUDOさんの1日一人あたり40キロの補給量というデータを基礎として想定したとしても、装甲軍が1日に必要な補給量は3000tが妥当かと思います。 ただ、私の手元にある資料によると、ドイツの装甲師団が必要とした糧秣補給量は、精肉・製パン中隊が整備されていた事もあって1日あたり60tとされており、燃料を満載にして40t、砲・機関銃弾等の弾薬も満載にして62tとされています。ただ燃料・弾薬等は、状況にもよるでしょうが2、3日に一度ぐらいに補給を受ければ済むはずです。むしろ一旦進撃に加速がつけば、弾薬よりも燃料の方が必要になってくるはずで、これは想定が難しい事から、上記の燃料・弾薬を1日の必要量と大目に仮定してしまいますが、それでも1個装甲師団に必要な総補給量は1日で約160t、第2装甲軍の10個師団分でも1600tです。 次に空輸能力に関してですが、ドイツは1942年1月の段階でJu52を主体として平均970機の輸送機を保有していました。ただ41年の秋以降、ドイツ空軍の全機種平均の稼動率が50〜60%にまで低下している事を考えて、この内の500機(各2tを輸送可能)を作戦に使用可能なものと想定します。更にこの時期の東部戦線で稼動していた300機のハインケルHe111の内から200機(各1.5tを輸送可能)、そしてグライダー200機(各1tを輸送可能)をJu52に曳航させると想定したとしても、合計して1回の空輸で1500tを空輸可能と考えます。 概算でSUDOさんのデータによる3000tの必要量でも1日2回(私のデータを基礎にすれば1回程度)の空輸で装甲軍の補給を賄えます。また航空補給は天候に大きく左右されますが、空輸量が低下する日があっても、直線距離で最大で300〜400キロという距離なら、逆に晴天時で1日3回の空輸を実施できる日もあると思います。 また、装甲軍への補給を全面的に航空補給だけに頼る訳ではなく、他の装甲軍からも適度に抽出して、補給トラックによる陸上補給も可能な限り実施しているものと想定しており、突破後の進撃行程の前半までは全補給の半分はこのトラック輸送で賄えるものと推察します。 ただ第2装甲軍がゴーリキへ向けて戦線後背奥深く進撃すれば、それだけ空輸に要する航続距離が増大する事も確かで、その点では補給供給量が不安定になる可能性もあります。よって(実際、私もこの時点での兵力配分に迷った事も事実なのですが)SUDOさんがおっしゃる様な戦術的な問題からも、第2装甲軍の主力をウラジミールに向かわせて直ちにモスクワへ向けて転進させ、ゴーリキーには一部の兵力を牽制攻撃に向かわせると言う方針にその戦略を変更する事にします。 |
楽しく拝見しております。 空輸についてですが、一日2回の過荷重長距離飛行を連続で行ったら、500機の輸送機群はたとえ全て新造機で構成されていたとしても約一ヶ月でほぼ消滅してしまうでしょう。往復800kmの長距離出撃を一日2回、30日間行った場合、48000kmの飛行距離、平均速度200km/hとして飛行時間が240時間ですから、ただ漫然と飛んでいるだけで重整備が必要になってきます。まして戦地でもあり、野戦飛行場での事故率上昇も見込まねばならず、何よりも供用中の機体ですから使用限界に達する機体はより早く現れるでしょう。敵空軍の妨害を考慮しなくとも相当厳しい作戦であると言えます。 |
> 楽しく拝見しております。 > > 空輸についてですが、一日2回の過荷重長距離飛行を連続で行ったら、500機の輸送機群はたとえ全て新造機で構成されていたとしても約一ヶ月でほぼ消滅してしまうでしょう。往復800kmの長距離出撃を一日2回、30日間行った場合、48000kmの飛行距離、平均速度200km/hとして飛行時間が240時間ですから、ただ漫然と飛んでいるだけで重整備が必要になってきます。まして戦地でもあり、野戦飛行場での事故率上昇も見込まねばならず、何よりも供用中の機体ですから使用限界に達する機体はより早く現れるでしょう。敵空軍の妨害を考慮しなくとも相当厳しい作戦であると言えます。 「Ju52を主体とした輸送機500機が作戦可能と想定している」数量とは、その時点でのドイツ空軍の保有する機体数に、作戦行動中や事故などの要因による損耗の影響を受けての稼動率50〜60%を考慮した数量ですので、指摘された機体減耗分もある程度考慮に入れられているものと解釈して下さい。 また、先の記事に挙げた「1日2〜3回の輸送飛行」というのは、私が過大に概算した1日の必要補給量でも物理的に空輸可能と説明する為に、比較参照する参考例として挙げたまでで、実際にはそのレベルの空輸給作戦を毎日実施する訳ではありません。先の記事にも在る様に、弾薬・燃料ともその満載分を毎日必要とすると大幅に見積もった上で先の輸送力を必要と述べていますが、実際には両側面を第3・第4装甲軍に掩護されて進撃する第2装甲軍はほとんど敵の抵抗らしい抵抗には遭わず、それほど煩雑に戦闘を行う訳ではないので、せいぜい2,3日に一回という程度で済むものと推察します。 また、戦線突破後のモスクワ後背地への転進過程においても、その前半程度まではブリャンスク等からの補給端末駅からのトラック輸送を利用できる訳で、第2装甲軍の全作戦行程における補給を全て航空補給に依存している訳でもありません。往復800キロの飛行距離も、装甲軍がウラジミール・ゴーリキー近辺に至る時点で強いられるかもしれませんが、装甲軍が西へ転進してモスクワに肉迫し、側面の第3装甲軍がモスクワ南方からリャザニ−セルプホフ間のオカ川のラインに進出する頃には、返って航空・地上何れの補給線も短縮されると思われます。 |
スターリングラード空輸作戦における輸送機数は、1943/1/13で帳簿上Ju52/He111/He177/Ju290/Fw200等の各機種合計519機、また他戦線からJu52/He111が合計して306機が転出途中でしたが、当日の作戦可能な稼働機数は47機ですよ…。この時期の稼働率は30%代が最高で、下手をすれば上記のように10%を切ります。よりドイツ空軍の耐寒装備・経験が乏しい1941年冬期に長期間の空輸作戦を行った場合、大型機の稼働率がこれより良くなったとは思えません。実際デミヤンスク戦時における輸送機の稼働率は精々20〜30%代ですね。 あとデミヤンスク戦時の空輸距離は240km、スターリングラード戦の際空輸距離は250kmでしたが、400km離れた地点であれば飛行時間・ターンアラウンドの時間、また長時間飛行に伴う悪天候による飛行作業中断の可能性等を含めて考えれば、スターリングラード戦時より輸送効率が低下する事は容易に想像できます。スターリングラード戦で輸送機が同日に複数回作戦飛行が出来た日が数えるほどしか無い事は、冬期の悪天候下において、より遠い地点に対して行なう同日複数回の輸送がより困難である事を示しているように思えます。 スターリングラード戦で目標輸送量に達したことは135機が着陸して366トンを運んだ1942/12/7(当日稼働機134機)と158機が着陸して310トンを運んだ12/31(稼働機数85機)の二度のみ、というのを良く考えたほうが良いでしょう…。 |
> スターリングラード空輸作戦における輸送機数は、1943/1/13で帳簿上Ju52/He111/He177/Ju290/Fw200等の各機種合計519機、また他戦線からJu52/He111が合計して306機が転出途中でしたが、当日の作戦可能な稼働機数は47機ですよ…。この時期の稼働率は30%代が最高で、下手をすれば上記のように10%を切ります。よりドイツ空軍の耐寒装備・経験が乏しい1941年冬期に長期間の空輸作戦を行った場合、大型機の稼働率がこれより良くなったとは思えません。実際デミヤンスク戦時における輸送機の稼働率は精々20〜30%代ですね。 > あとデミヤンスク戦時の空輸距離は240km、スターリングラード戦の際空輸距離は250kmでしたが、400km離れた地点であれば飛行時間・ターンアラウンドの時間、また長時間飛行に伴う悪天候による飛行作業中断の可能性等を含めて考えれば、スターリングラード戦時より輸送効率が低下する事は容易に想像できます。スターリングラード戦で輸送機が同日に複数回作戦飛行が出来た日が数えるほどしか無い事は、冬期の悪天候下において、より遠い地点に対して行なう同日複数回の輸送がより困難である事を示しているように思えます。 > > スターリングラード戦で目標輸送量に達したことは135機が着陸して366トンを運んだ1942/12/7(当日稼働機134機)と158機が着陸して310トンを運んだ12/31(稼働機数85機)の二度のみ、というのを良く考えたほうが良いでしょう…。 スターリングラードでの空輸作戦を例として挙げられておりますが、私としては「その戦略2」におけるドイツ空軍の空輸作戦時の全般的状況がスターリングラード時より悪いとは思えません。スターリングラードでの空輸作戦時における機体の稼働率が10〜30%、デミャンスク戦も同程度であるが、41年10月にはそれ以下の状況下にあると述べている様ですが、乗員の錬度に関しては、本来、先の2作戦において損耗されてしまうはずの人材を投入できるはずですし、むしろ年代が進むほど経験を積んだ兵員の損耗で部隊の稼働率が低下する事を、先の作戦の状況が物語っていると思われますが。 また、他の記事でも述べましたが、先の事例と私の想定した状況とでは根本的に状況が異なります。先の2作戦は完全な冬季において実施されましたが、私の想定した状況は10〜11月です。前者の2作戦は完全に包囲下に陥った部隊に対する補給作戦ですが、後者では部隊は包囲下にある訳でなく、空輸作戦はあくまで地上の補給供給を補うもので、空輸による補給に完全に依存しているものではなく、少なくとも作戦の前半部分まではトラックによる地上輸送との兼用が可能と想定しています。そして私の想定した戦況では、鉄道線の補給端末駅はブリャンスクまで伸長されているものと見込んでおり、補給体勢も先の2作戦に比べ遥かに整った状況を想定しています。 また稼働率に関しては、私の手元の資料を前提とする限り41年10月の全機種平均のそれは54%ですが、戦闘機・爆撃機等の器材に比べて使用頻度が少ない輸送機のそれはもう少し高いものと想定し、記事にある投入機数はそれを反映したものと想定しています。何れにしても私の想定では、別の記事に在る様に補給物資の輸送コストにおいてもかなり大きな見積りを設定しており、ドイツ軍が事前に準備を整えておき、その可能な限り温存させておいた輸送機を惜しまずに投入する意志をもって事にあたれば、その効果は十分に発揮できであろうと思います。 |
…デミヤンスク補給作戦に参加した輸送飛行隊のうち、1個航空団を除く16個飛行隊がこの作戦のため本土の訓練部隊から機材と教官クラスの搭乗員を抽出した飛行隊ですので、消耗していたとは言えないでしょう。あとデミヤンスクの状況は物資集積・輸送機の発進基地が固定出来ているだけスターリングラードよりマシですし、主要作戦期間が42/3〜5なので後半は春季作戦となっていますが、それでも稼働率はあの程度です。 スターリングラードも12月上旬に集まった飛行隊22個のうち13個が本国からの転出で、機材の数から行けば転出組が約7割を占めます。しかして稼働率はあの通りなんですが。 まあ600機のJu52/He111がコンスタントに飛べたと仮定しましょうか。400km(Ju52の最大行動半径)を往復するのにJu52は約1.8トン、He111は約1.4tの燃料を必要とします。平均して1機当たり1.6トンの燃料を必要とする事にしますが、一出撃で960トンの燃料、二回出撃すれば1,920トンの燃料が必要になります。さて一日一回出撃としても一週間で6,720トンの航空燃料が必要になります。これに加えて空輸する補給物資(一機平均1.7tとしますか)が一週間で7,140トン。燃料と補給物資を合わせただけで、一週間で約13,900トンばかりの物資を輸送機が発進する各飛行場に送り込む必要がある勘定になります。これに加えて輸送機部隊自体への補給(輸送機が必要とする滑油やパーツ、兵隊さんが食べる食料や調理用の燃料他)が要るわけです。クレタ島侵攻作戦の際に、第九航空兵団に割当てる約2650トンの航空燃料を輸送・集積する時ですらかなり手間取ってますから、燃料・補給物資輸送、輸送機部隊に対する補給面から見ても大空輸作戦の実施は実に困難であると言えるでしょう。 次に飛行機は補給先の飛行場に降りるわけですが、飛行場の数は足りるでしょうか?デミヤンスクの場合、受け入れ飛行場が二箇所で一日当て100〜150機の発着を捌いたそうですから、150機の場合10時間稼働で8分に1機を捌いた勘定になりますので、これを元にしましょうか。(1時間当たりに飛び立つのもそのくらいの数だったとしている資料もありますからね)。 さて600機の輸送機が飛び立った場合、受け入れ先の各飛行場が10時間稼働したとして8分ごとに降りてくるとすれば、8箇所あれば全機の着陸が捌ける勘定になります。同日に輸送機が二回発着すれば1200機が補給先の各飛行場に押し寄せますが、この場合16箇所に分散させる必要があります。この場合各飛行場に約130トンの補給物資が運び込まれますが、さて各飛行場にどうやって荷卸し・集積・管理をする人員と、飛行場から前線に物資を運ぶトラック、加えてそのトラックが必要とする燃料を配備・補給しましょうか(笑)。 なお、輸送機の発着機数1200というのはベルリン大空輸作戦における冬期の平均的な数値ですが、これは全天候で使用可能かつ各種航空管制設備及び荷卸し・配送施設の整った主要飛行場であるテンペルホフ・ガトウ・ティーグルの三飛行場が、二四時間体勢を敷いた上で、約三分間隔での輸送機受け入れを行って可能となった数字です(当然悪天候等によって主要飛行場が閉鎖された場合、代替として使用する予備飛行場は他にありますが)。 前線飛行場を使用した場合、二四時間稼働は不可能ですし、独ソ戦の当時この機数を短時間に各目的地に捌くだけの航空管制や荷卸し後の輸送態勢を充分に整えることが可能でしょうか?私には無理だと思えます。 蛇足: …私個人としては、20万の兵員で攻勢作戦を行うのであれば、一日の補給量は4,000トンでも少ないと思いますけどね(1944年10月の比島作戦時における米軍の補給量から行けば、米軍20万の兵員に対して必要な補給量は1日当て約11,000トンに達する)。 |
> > スターリングラードでの空輸作戦を例として挙げられておりますが、私としては「その戦略2」におけるドイツ空軍の空輸作戦時の全般的状況がスターリングラード時より悪いとは思えません。スターリングラードでの空輸作戦時における機体の稼働率が10〜30%、デミャンスク戦も同程度であるが、41年10月にはそれ以下の状況下にあると述べている様ですが、乗員の錬度に関しては、本来、先の2作戦において損耗されてしまうはずの人材を投入できるはずですし、むしろ年代が進むほど経験を積んだ兵員の損耗で部隊の稼働率が低下する事を、先の作戦の状況が物語っていると思われますが。 > …デミヤンスク補給作戦に参加した輸送飛行隊のうち、1個航空団を除く16個飛行隊がこの作戦のため本土の訓練部隊から機材と教官クラスの搭乗員を抽出した飛行隊ですので、消耗していたとは言えないでしょう。あとデミヤンスクの状況は物資集積・輸送機の発進基地が固定出来ているだけスターリングラードよりマシですし、主要作戦期間が42/3〜5なので後半は春季作戦となっていますが、それでも稼働率はあの程度です。 > スターリングラードも12月上旬に集まった飛行隊22個のうち13個が本国からの転出で、機材の数から行けば転出組が約7割を占めます。しかして稼働率はあの通りなんですが。 > 私が「乗員の錬度に関しては、本来、先の2作戦において損耗されてしまうはずの人材を投入できるはずですし、」という文で言わんとした事は、『その「本土の訓練部隊から機材と教官クラスの搭乗員を抽出した飛行隊」の、本来デミャンスクとそれ以降の作戦で損耗していたはずの人材を、それより早い時機に実施するモスクワの作戦においては(戦線の既存兵力に加えて)使用できたはず』という意味であり、デミャンスクで使用された兵力が最初から「消耗していた」という意味ではありません。 また、こうして機材と兵員の損耗を重ねて行けば、当然、補充が難しいヴェテラン兵の部隊全体における在籍比率は低下し、新兵の比率の高い部隊の錬度は低下して着陸事故等の機材の戦闘外損傷率は上昇し、部隊は益々を機体の修理部品の欠如や整備の困難さを増し、それがなければドイツ空軍が確保できていたはずの兵力が絶対的喪失数に代わられる事で、潜在的に維持できる稼働率も下降線もたどる事になるのは至極当然な結果です。よって想定した時期より1年後の、しかも冬季に入って悪天候下の状況で実施されたスターリングラードへの補給作戦の稼働率が低いのは当然だと思われます。 ちなみに私の資料によると、スターリングラードでの冬季補給作戦時の平均稼働率はおおむね30〜40%を推移し、デミャンスクでのそれは作戦参加機数337機と1日あたりの平均輸送量276tだけで単純に試算しても約41%、これ以外に4月20日に包囲網を打破するまでの期間に燃料500万ガロンと15,446名が送られたとされますからこの数値もわずかにではあるが更に高くなります。 > まあ600機のJu52/He111がコンスタントに飛べたと仮定しましょうか。400km(Ju52の最大行動半径)を往復するのにJu52は約1.8トン、He111は約1.4tの燃料を必要とします。平均して1機当たり1.6トンの燃料を必要とする事にしますが、一出撃で960トンの燃料、二回出撃すれば1,920トンの燃料が必要になります。さて一日一回出撃としても一週間で6,720トンの航空燃料が必要になります。これに加えて空輸する補給物資(一機平均1.7tとしますか)が一週間で7,140トン。燃料と補給物資を合わせただけで、一週間で約13,900トンばかりの物資を輸送機が発進する各飛行場に送り込む必要がある勘定になります。これに加えて輸送機部隊自体への補給(輸送機が必要とする滑油やパーツ、兵隊さんが食べる食料や調理用の燃料他)が要るわけです。クレタ島侵攻作戦の際に、第九航空兵団に割当てる約2650トンの航空燃料を輸送・集積する時ですらかなり手間取ってますから、燃料・補給物資輸送、輸送機部隊に対する補給面から見ても大空輸作戦の実施は実に困難であると言えるでしょう。 > 私の試算する航空輸送力は「 Ju52(各2t搭載)500機・He111(各1.5t搭載)200機・曳航グライダー(各1t搭載)200機」で合計1500tを1回で空輸できるものとしていますが、ただ別のスレッドにもある様に、この時に述べた「一日1回ないしは2回の出撃」という形容は、SUDOさんの挙げた「兵員1人あたりに換算した一日の必要補給量・20キロから試算できる装甲軍全体の必要補給量3,000t(150,000人×20キロ)でも、私がかなり大目に概算した補給量1300t(1個機械化師団の1日の必要補給量・130t×10個師団)の試算でも、そして陸上補給の供給が全く無いと想定してもそれぞれ、1日2回・1回の空輸でカバーできると説明したい際に、便宜上で提起した物に過ぎず、それを作戦の全期間を通して平均して継続しなければならないと言っている訳ではないのです。 そして他のスレッドに記した部隊の必要補給量も、更に厳密に試算したとすれば以下の様になります。1個機甲師団の1日あたりに必要とする食料が60t、燃料・弾薬を満載にしてそれぞれ39.2tと61.6tだが、これは全車輌がフル稼動を継続すると燃料は1日半、弾薬は2日しかもたないそうなので、この場合、1日あたりの必要量を燃料が約26t、弾薬を約30tと試算する。合計して1日あたりの1個機甲師団の必要補給量を約120t、10個師団だ1200tと見積もれる。ただ燃料・食料はともかく、弾薬は戦闘が発生する頻度によって更に必要量は低下するだろうし、この数字の空輸補給量を一度に丸まる必要とする期間は極限られるはずです。天候や航空部隊の稼動状況を考慮して、当初は可能な限り陸上補給で賄い、空輸物資は3日に一度、4日に一度の比較的負担のないペースで前線までの途上に空輸・集積しておき、逆に補給端末駅からの陸上補給のペースが鈍れば、今度はこれらの集積所から前線へ供給する物資の配分に重点を置くという手段を取る事もできます。 またクレタ島における補給物資の備蓄準備に時間を要したのは、山岳部が大部分を占めるバルカン半島の地勢にあって、ペロポネソス半島までのルートで物資輸送に利用できる鉄道・道路網が貧弱であった要因が祟っていたからで、前提条件が違うこの事例を比較の対象に挙げるのは適当でないと思われます。 > 次に飛行機は補給先の飛行場に降りるわけですが、飛行場の数は足りるでしょうか?デミヤンスクの場合、受け入れ飛行場が二箇所で一日当て100〜150機の発着を捌いたそうですから、150機の場合10時間稼働で8分に1機を捌いた勘定になりますので、これを元にしましょうか。(1時間当たりに飛び立つのもそのくらいの数だったとしている資料もありますからね)。 > さて600機の輸送機が飛び立った場合、受け入れ先の各飛行場が10時間稼働したとして8分ごとに降りてくるとすれば、8箇所あれば全機の着陸が捌ける勘定になります。同日に輸送機が二回発着すれば1200機が補給先の各飛行場に押し寄せますが、この場合16箇所に分散させる必要があります。この場合各飛行場に約130トンの補給物資が運び込まれますが、さて各飛行場にどうやって荷卸し・集積・管理をする人員と、飛行場から前線に物資を運ぶトラック、加えてそのトラックが必要とする燃料を配備・補給しましょうか(笑)。 > 私はこの空輸作戦を地上からの補給と併用して実施していると想定している旨を他のスレッドでも何度か述べており、装甲軍の補給を完全に空輸作戦に依存している状況を想定はしていません。トラックによる陸上補給が機能して部隊の戦闘能力を相応に維持する事のできる攻撃限界線は、その補給端末駅からおおむね300〜350キロ前後の範囲とされていますが、装甲軍が戦線奥深く進撃した時点でもこれらの陸上補給からの供給が全く途絶してしまう訳でも無く、その影響は前線部隊への供給頻度が低下するという形で現れるに過ぎません。 整備された前線飛行場の不足は、まなかじさんのスレッドで挙げられている先例にも在る様に、平坦地への強行着陸や急造した仮設飛行場への着陸、輸送機からの補給物資の投下という方法を併用する事で補う事もできます。そして必要なトラックは当然、各機械化師団が保有する補給部隊が使用できますし、これらは補給集積所から前線へ向かう途上、又はその帰途に、暫時、飛行場や空輸物資の投下地点へ向かって陸上輸送分の物資の代わりに空輸物資を運び事になります。そして、輸送する燃料とその他の補給物資、又は空輸物資と陸上輸送物資の輸送配分量の比率なども空輸物資供給ペースの波に合わせて実施するよう事前に計画を立てて実行すれば良いのです。 また、議論の内容とは関係無い事ですが、絵文字等を使った相手を揶揄するようなものともとれる文章を使用するのはご遠慮願います。悪気がなくともこの様な討論の場ではいらぬ誤解の元になり易い事はどなたも理解できるはずです。また、例え自身の意見にどれだけの自信があったとしても、或いは相手の意見がその人には陳腐に感じられるものに思えても、人の意見は意見として尊重し、不必要に感情を吐露する言葉を慎むという事は議論の内容以前の問題でしょう。 > 蛇足: > …私個人としては、20万の兵員で攻勢作戦を行うのであれば、一日の補給量は4,000トンでも少ないと思いますけどね(1944年10月の比島作戦時における米軍の補給量から行けば、米軍20万の兵員に対して必要な補給量は1日当て約11,000トンに達する)。 おそらく列国に比して潤沢な補給供給を受けているレベルに入るアメリカ軍の補給量の事例を挙げられても、私としては各国における適正な補給量に対する基準やその認識の差異、また装備・兵装・用兵ドクトリンのそれから生じている規定の格差というものも考慮に入れるべきではないかと思う次第です。 |
数値の間違いが在りましたので訂正しようとしたのですが、パスワードによるが削除が何故かできないので、ここで訂正箇所を指摘させて頂きます。 「私がかなり大目に概算した補給量1300t(1個機械化師団の1日の必要補給量・130t×10個師団)の試算でも、」 の「1300t」「130t」はそれぞれ「1500t」と「150t」の間違いです。 失礼致しました。 もし大塚好古さんが御覧になっていたら、最初の「Re:思いつくまま適当に空輸の話」ではなく、三番目のものを御覧になって下さい。 |
> > スターリングラードでの空輸作戦を例として挙げられておりますが、私としては「その戦略2」におけるドイツ空軍の空輸作戦時の全般的状況がスターリングラード時より悪いとは思えません。スターリングラードでの空輸作戦時における機体の稼働率が10〜30%、デミャンスク戦も同程度であるが、41年10月にはそれ以下の状況下にあると述べている様ですが、乗員の錬度に関しては、本来、先の2作戦において損耗されてしまうはずの人材を投入できるはずですし、むしろ年代が進むほど経験を積んだ兵員の損耗で部隊の稼働率が低下する事を、先の作戦の状況が物語っていると思われますが。 > …デミヤンスク補給作戦に参加した輸送飛行隊のうち、1個航空団を除く16個飛行隊がこの作戦のため本土の訓練部隊から機材と教官クラスの搭乗員を抽出した飛行隊ですので、消耗していたとは言えないでしょう。あとデミヤンスクの状況は物資集積・輸送機の発進基地が固定出来ているだけスターリングラードよりマシですし、主要作戦期間が42/3〜5なので後半は春季作戦となっていますが、それでも稼働率はあの程度です。 > スターリングラードも12月上旬に集まった飛行隊22個のうち13個が本国からの転出で、機材の数から行けば転出組が約7割を占めます。しかして稼働率はあの通りなんですが。 > 私が「乗員の錬度に関しては、本来、先の2作戦において損耗されてしまうはずの人材を投入できるはずですし、」という文で言わんとした事は、『その「本土の訓練部隊から機材と教官クラスの搭乗員を抽出した飛行隊」の、本来デミャンスクとそれ以降の作戦で損耗していたはずの人材を、それより早い時機に実施するモスクワの作戦においては(戦線の既存兵力に加えて)使用できたはず』という意味であり、デミャンスクで使用された兵力が最初から「消耗していた」という意味ではありません。 また、こうして機材と兵員の損耗を重ねて行けば、当然、補充が難しいヴェテラン兵の部隊全体における在籍比率は低下し、新兵の比率の高い部隊の錬度は低下して着陸事故等の機材の戦闘外損傷率は上昇し、部隊は益々を機体の修理部品の欠如や整備の困難さを増し、それがなければドイツ空軍が確保できていたはずの兵力が絶対的喪失数に代わられる事で、潜在的に維持できる稼働率も下降線もたどる事になるのは至極当然な結果です。よって想定した時期より1年後の、しかも冬季に入って悪天候下の状況で実施されたスターリングラードへの補給作戦の稼働率が低いのは当然だと思われます。 ちなみに私の資料によると、スターリングラードでの冬季補給作戦時の平均稼働率はおおむね30〜40%を推移し、デミャンスクでのそれは作戦参加機数337機と1日あたりの平均輸送量276tだけで単純に試算しても約41%、これ以外に4月20日に包囲網を打破するまでの期間に燃料500万ガロンと15,446名が送られたとされますからこの数値もわずかにではあるが更に高くなります。 > まあ600機のJu52/He111がコンスタントに飛べたと仮定しましょうか。400km(Ju52の最大行動半径)を往復するのにJu52は約1.8トン、He111は約1.4tの燃料を必要とします。平均して1機当たり1.6トンの燃料を必要とする事にしますが、一出撃で960トンの燃料、二回出撃すれば1,920トンの燃料が必要になります。さて一日一回出撃としても一週間で6,720トンの航空燃料が必要になります。これに加えて空輸する補給物資(一機平均1.7tとしますか)が一週間で7,140トン。燃料と補給物資を合わせただけで、一週間で約13,900トンばかりの物資を輸送機が発進する各飛行場に送り込む必要がある勘定になります。これに加えて輸送機部隊自体への補給(輸送機が必要とする滑油やパーツ、兵隊さんが食べる食料や調理用の燃料他)が要るわけです。クレタ島侵攻作戦の際に、第九航空兵団に割当てる約2650トンの航空燃料を輸送・集積する時ですらかなり手間取ってますから、燃料・補給物資輸送、輸送機部隊に対する補給面から見ても大空輸作戦の実施は実に困難であると言えるでしょう。 > 私の試算する航空輸送力は「 Ju52(各2t搭載)500機・He111(各1.5t搭載)200機・曳航グライダー(各1t搭載)200機」で合計1500tを1回で空輸できるものとしていますが、ただ別のスレッドにもある様に、この時に述べた「一日1回ないしは2回の出撃」という形容は、SUDOさんの挙げた「兵員1人あたりに換算した一日の必要補給量・20キロから試算できる装甲軍全体の必要補給量3,000t(150,000人×20キロ)でも、私がかなり大目に概算した補給量1500t(1個機械化師団の1日の必要補給量・150t×10個師団)の試算でも、そして陸上補給の供給が全く無いと想定してもそれぞれ、1日2回・1回の空輸でカバーできると説明したい際に、便宜上で提起した物に過ぎず、それを作戦の全期間を通して平均して継続しなければならないと言っている訳ではないのです。 そして他のスレッドに記した部隊の必要補給量も、更に厳密に試算したとすれば以下の様になります。1個機甲師団の1日あたりに必要とする食料が60t、燃料・弾薬を満載にしてそれぞれ39.2tと61.6tだが、これは全車輌がフル稼動を継続すると燃料は1日半、弾薬は2日しかもたないそうなので、この場合、1日あたりの必要量を燃料が約26t、弾薬を約30tと試算する。合計して1日あたりの1個機甲師団の必要補給量を約120t、10個師団で1200tと見積もれる。ただ燃料・食料はともかく、弾薬は戦闘が発生する頻度によって更に必要量は低下するだろうし、この数字の空輸補給量を一度に丸まる必要とする期間は極限られるはずです。天候や航空部隊の稼動状況を考慮して、当初は可能な限り陸上補給で賄い、空輸物資は3日に一度、4日に一度の比較的負担のないペースで前線までの途上に空輸・集積しておき、逆に補給端末駅からの陸上補給のペースが鈍れば、今度はこれらの集積所から前線へ供給する物資の配分に重点を置くという手段を取る事もできます。 またクレタ島における補給物資の備蓄準備に時間を要したのは、山岳部が大部分を占めるバルカン半島の地勢にあって、ペロポネソス半島までのルートで物資輸送に利用できる鉄道・道路網が貧弱であった要因が祟っていたからで、前提条件が違うこの事例を比較の対象に挙げるのは適当でないと思われます。 > 次に飛行機は補給先の飛行場に降りるわけですが、飛行場の数は足りるでしょうか?デミヤンスクの場合、受け入れ飛行場が二箇所で一日当て100〜150機の発着を捌いたそうですから、150機の場合10時間稼働で8分に1機を捌いた勘定になりますので、これを元にしましょうか。(1時間当たりに飛び立つのもそのくらいの数だったとしている資料もありますからね)。 > さて600機の輸送機が飛び立った場合、受け入れ先の各飛行場が10時間稼働したとして8分ごとに降りてくるとすれば、8箇所あれば全機の着陸が捌ける勘定になります。同日に輸送機が二回発着すれば1200機が補給先の各飛行場に押し寄せますが、この場合16箇所に分散させる必要があります。この場合各飛行場に約130トンの補給物資が運び込まれますが、さて各飛行場にどうやって荷卸し・集積・管理をする人員と、飛行場から前線に物資を運ぶトラック、加えてそのトラックが必要とする燃料を配備・補給しましょうか(笑)。 > 私はこの空輸作戦を地上からの補給と併用して実施していると想定している旨を他のスレッドでも何度か述べており、装甲軍の補給を完全に空輸作戦に依存している状況を想定はしていません。トラックによる陸上補給が機能して部隊の戦闘能力を相応に維持する事のできる攻撃限界線は、その補給端末駅からおおむね300〜350キロ前後の範囲とされていますが、装甲軍が戦線奥深く進撃した時点でもこれらの陸上補給からの供給が全く途絶してしまう訳でも無く、その影響は前線部隊への供給頻度が低下するという形で現れるに過ぎません。 整備された前線飛行場の不足は、まなかじさんのスレッドで挙げられている先例にも在る様に、平坦地への強行着陸や急造した仮設飛行場への着陸、輸送機からの補給物資の投下という方法を併用する事で補う事もできます。そして必要なトラックは当然、各機械化師団が保有する補給部隊が使用できますし、これらは補給集積所から前線へ向かう途上、又はその帰途に、暫時、飛行場や空輸物資の投下地点へ向かって陸上輸送分の物資の代わりに空輸物資を運び事になります。そして、輸送する燃料とその他の補給物資、又は空輸物資と陸上輸送物資の輸送配分量の比率なども空輸物資供給ペースの波に合わせて実施するよう事前に計画を立てて実行すれば良いのです。 また、議論の内容とは関係無い事ですが、絵文字等を使った相手を揶揄するようなものともとれる文章を使用するのはご遠慮願います。悪気がなくともこの様な討論の場ではいらぬ誤解の元になり易い事はどなたも理解できるはずです。また、例え自身の意見にどれだけの自信があったとしても、或いは相手の意見がその人には陳腐に感じられるものに思えても、人の意見は意見として尊重し、不必要に感情を吐露する言葉を慎むという事は議論の内容以前の問題でしょう。 > 蛇足: > …私個人としては、20万の兵員で攻勢作戦を行うのであれば、一日の補給量は4,000トンでも少ないと思いますけどね(1944年10月の比島作戦時における米軍の補給量から行けば、米軍20万の兵員に対して必要な補給量は1日当て約11,000トンに達する)。 おそらく列国に比して潤沢な補給供給を受けているレベルに入るアメリカ軍の補給量の事例を挙げられても、私としては各国における適正な補給量に対する基準やその認識の差異、また装備・兵装・用兵ドクトリンのそれから生じている規定の格差というものも考慮に入れるべきではないかと思う次第です。 |
> スターリングラードでの空輸作戦を例として挙げられておりますが、私としては「その戦略2」におけるドイツ空軍の空輸作戦時の全般的状況がスターリングラード時より悪いとは思えません。スターリングラードでの空輸作戦時における機体の稼働率が10〜30%、デミャンスク戦も同程度であるが、41年10月にはそれ以下の状況下にあると述べている様ですが、乗員の錬度に関しては、本来、先の2作戦において損耗されてしまうはずの人材を投入できるはずですし、むしろ年代が進むほど経験を積んだ兵員の損耗で部隊の稼働率が低下する事を、先の作戦の状況が物語っていると思われますが。 ああ、Edwerdさんともあろうお方が(笑 バルバロッサ作戦の直前に、ドイツ空軍の輸送機部隊は壊滅的と言って良い損害を出しています。 そうです、メルクールです。 このときの被害は被撃墜こそ少ないものの、Ju52は本国の教育部隊やノルウェー方面での補給に必要な機を除く、使用可能なほぼ全力である493機が投入され、そのうちの174機を失っています。35%を超えています。つまり部隊としては全滅に等しい。 つまり、バルバロッサ作戦の実施されつつある時期は、ドイツ輸送機部隊としては再建中という状態なわけです。 バルバロッサ作戦開始日の空軍輸送飛行隊で使用可能だったのはたったの238機、在籍Ju52のすべてをかき集めても350機に達しません。 作戦開始後の酷使を反映して、8月には前線での可動機は200機を割り込んでいます。 本国の飛行学校教官こそ失ってはいませんが、スターリングラード直後よりもJu52部隊としては悪い状況ですよ? まあ、ここが底で、この後、9月からは1942年1月まで上向きカーブを描きますが、1941年を通じてのJu52の生産数はこれまたたったの502機でしかありません。 10月〜11月に可動のJu52を500機揃えることは史実でもできていませんし、おそらくできないでしょう。 > また、他の記事でも述べましたが、先の事例と私の想定した状況とでは根本的に状況が異なります。先の2作戦は完全な冬季において実施されましたが、私の想定した状況は10〜11月です。前者の2作戦は完全に包囲下に陥った部隊に対する補給作戦ですが、後者では部隊は包囲下にある訳でなく、空輸作戦はあくまで地上の補給供給を補うもので、空輸による補給に完全に依存しているものではなく、少なくとも作戦の前半部分まではトラックによる地上輸送との兼用が可能と想定しています。そして私の想定した戦況では、鉄道線の補給端末駅はブリャンスクまで伸長されているものと見込んでおり、補給体勢も先の2作戦に比べ遥かに整った状況を想定しています。 その想定に近いものが1942年7月上旬〜8月下旬の第6軍(及び第4装甲軍)への作戦補給になると思われます。 このとき、第4航空軍は空軍保有の輸送機部隊の大半(ブラウ作戦のために集中配備を受けている)と、爆撃機部隊の一部を割いて2ヶ月弱の間に9232トンをこの両軍に送り届けていますが、これは日割りにすれば180トン程度にしかなりません。 この期間中の輸送部隊の平均しての稼働率は7割近くという、戦闘状態にあっては理想的ともいえる状態です。 > また稼働率に関しては、私の手元の資料を前提とする限り41年10月の全機種平均のそれは54%ですが、戦闘機・爆撃機等の器材に比べて使用頻度が少ない輸送機のそれはもう少し高いものと想定し、記事にある投入機数はそれを反映したものと想定しています。何れにしても私の想定では、別の記事に在る様に補給物資の輸送コストにおいてもかなり大きな見積りを設定しており、ドイツ軍が事前に準備を整えておき、その可能な限り温存させておいた輸送機を惜しまずに投入する意志をもって事にあたれば、その効果は十分に発揮できであろうと思います。 戦闘機や爆撃機に比べて使用頻度が低い? とんでもない話です。 ドイツ空軍は陸軍への補給や患者輸送しかやっていないとでも? もう少しOKH的な見方から離れて、OKLの立場からも見て、OKWとしての方針を打ち出して見てもいいように思います。 空軍の輸送機は空軍自身の為の作戦輸送で一杯なのであり、毎日酷使され続けています。 この意味では空軍の輸送機戦力は満足な状態にあったことは大戦を通じてありません。 500機あっても足りないのです。 1939年から見ても、戦力が戻ってきたと思ったところで大被害を受けるということの繰り返しです。 先のブラウ作戦における作戦補給も、陸軍部隊が補給でピンチになったときに限って集中的に飛ぶので、日割りにするとそのくらいにしかならないわけです。 Edwerdさんの作戦計画では補給量の半分近くを空軍に負担させよう、しかもそのために輸送機隊を温存しようというわけですから、空軍の作戦基地への補給飛行はほとんどできなくなる勘定です。 戦闘機隊や爆撃機隊の1941年秋の稼働率というのは、こうした輸送機部隊の臨機応変の補給飛行によって何とか成り立っている数値であって、冬になって稼働率が低下するのは、寒気によって整備に困難さを増すという状態が輸送機隊にも降掛かるために、作戦部隊の稼働率が累進的累増的に低下していくというのが実態です。 となれば、作戦部隊の稼働率はガタ落ちを通り越して半身不随となる恐れがあり、南部戦区や北方戦区はおろか、シュヴェアプンクトたる第2装甲集団に対する直接支援ですらもままならない状況になるでしょう。 予定しているような急進撃には1941年のドイツ軍砲兵はとても追随できませんが、ここで更に空軍の傘なしにこの進撃速度は達成できるものでしょうか。 しかも、戦線後方でのソ連軍の戦略機動を妨害阻止すべき長距離爆撃機部隊(ドイツ空軍的には)をも抽出して恒常的に補給任務に貼り付けようというわけですよね。 本当に大丈夫ですか? |
> ああ、Edwerdさんともあろうお方が(笑 > バルバロッサ作戦の直前に、ドイツ空軍の輸送機部隊は壊滅的と言って良い損害を出しています。 > そうです、メルクールです。 > このときの被害は被撃墜こそ少ないものの、Ju52は本国の教育部隊やノルウェー方面での補給に必要な機を除く、使用可能なほぼ全力である493機が投入され、そのうちの174機を失っています。35%を超えています。つまり部隊としては全滅に等しい。 > つまり、バルバロッサ作戦の実施されつつある時期は、ドイツ輸送機部隊としては再建中という状態なわけです。 > バルバロッサ作戦開始日の空軍輸送飛行隊で使用可能だったのはたったの238機、在籍Ju52のすべてをかき集めても350機に達しません。 > 作戦開始後の酷使を反映して、8月には前線での可動機は200機を割り込んでいます。 > 本国の飛行学校教官こそ失ってはいませんが、スターリングラード直後よりもJu52部隊としては悪い状況ですよ? > まあ、ここが底で、この後、9月からは1942年1月まで上向きカーブを描きますが、1941年を通じてのJu52の生産数はこれまたたったの502機でしかありません。 > 10月〜11月に可動のJu52を500機揃えることは史実でもできていませんし、おそらくできないでしょう。 > 先の如く指摘されるまでもなく、私とてクレタ島への降下作戦でドイツ空軍の輸送機部隊が潰滅的打撃を被った経緯は承知しております。この為、41年初頭のドイツ空軍の保有する輸送機数に対するその年の損耗率は75%(41年1月の在籍機数444機に対して損失機数314機)と高率を記録しましたが、ただし42年1月には新規生産、後送・現地修理可能な損傷器材の回復を含めて、その平均在籍機数は970機に達しています。41年の損傷機数213機(要後送機数63機・現地修理可能機数150機)を計算に含めて概算すると、ドイツは41年に620機余りを新規に生産(月産平均50機)していると試算できますが、クレタ島での戦闘で全損破棄された146機の損失分は、装甲集団の突破作戦を開始する10月初頭には新規生産分で回復するものと思われます。 また、バルバロッサ作戦開始時の稼働率を考慮に入れた実動機数を例に挙げられていますが、史実のバルバロッサ作戦開始時点において実際に東部戦線に配備されていた機数はどうあれ、「その戦略2」や他のスレッドでも申し上げているように、私の提示した戦略は、ドイツ空軍が限定した期間にその全航空輸送力を投入するという大胆な手段に打って出る事を前提としており、先のスレッドの輸送機500機という数値も、先のドイツ空軍の全保有機数(10月現在で推定770機)に41年10月の全機種平均稼働率を加算して算出した数値である事を再度申し上げておきます。 > > また、他の記事でも述べましたが、先の事例と私の想定した状況とでは根本的に状況が異なります。先の2作戦は完全な冬季において実施されましたが、私の想定した状況は10〜11月です。前者の2作戦は完全に包囲下に陥った部隊に対する補給作戦ですが、後者では部隊は包囲下にある訳でなく、空輸作戦はあくまで地上の補給供給を補うもので、空輸による補給に完全に依存しているものではなく、少なくとも作戦の前半部分まではトラックによる地上輸送との兼用が可能と想定しています。そして私の想定した戦況では、鉄道線の補給端末駅はブリャンスクまで伸長されているものと見込んでおり、補給体勢も先の2作戦に比べ遥かに整った状況を想定しています。 > > その想定に近いものが1942年7月上旬〜8月下旬の第6軍(及び第4装甲軍)への作戦補給になると思われます。 > このとき、第4航空軍は空軍保有の輸送機部隊の大半(ブラウ作戦のために集中配備を受けている)と、爆撃機部隊の一部を割いて2ヶ月弱の間に9232トンをこの両軍に送り届けていますが、これは日割りにすれば180トン程度にしかなりません。 > この期間中の輸送部隊の平均しての稼働率は7割近くという、戦闘状態にあっては理想的ともいえる状態です。 > 「空軍保有の輸送機部隊の大半」という兵力数がちょっとあいまいで、せめて大まかな概算数でも提示して頂かなければ、「日割りで180t」と指摘する数値がどの程度の輸送効率を指しているのか釈然とせず、このままでは比較の対象として提示する例としては適切ではないように思います。おそらくはドイツ空軍の保有する全空輸能力を結集してもこの程度であると、漠然とではあるが例に挙げたものと思いますが、しかしそれだけでは、「それは42年次の攻勢においてドイツ軍がコーカサス方面を指向した事で、その飛躍的に拡大した戦線における航空支援体勢を維持するためにドイツ空軍の兵站・整備体勢が更に過酷な損耗を強いられた故である」という反論一つを提示した場合にも、それを説明するに十分なものであるとは思えません。 > > また稼働率に関しては、私の手元の資料を前提とする限り41年10月の全機種平均のそれは54%ですが、戦闘機・爆撃機等の器材に比べて使用頻度が少ない輸送機のそれはもう少し高いものと想定し、記事にある投入機数はそれを反映したものと想定しています。何れにしても私の想定では、別の記事に在る様に補給物資の輸送コストにおいてもかなり大きな見積りを設定しており、ドイツ軍が事前に準備を整えておき、その可能な限り温存させておいた輸送機を惜しまずに投入する意志をもって事にあたれば、その効果は十分に発揮できであろうと思います。 > > 戦闘機や爆撃機に比べて使用頻度が低い? > とんでもない話です。 > ドイツ空軍は陸軍への補給や患者輸送しかやっていないとでも? > もう少しOKH的な見方から離れて、OKLの立場からも見て、OKWとしての方針を打ち出して見てもいいように思います。 > > 空軍の輸送機は空軍自身の為の作戦輸送で一杯なのであり、毎日酷使され続けています。 > この意味では空軍の輸送機戦力は満足な状態にあったことは大戦を通じてありません。 > 500機あっても足りないのです。 > 1939年から見ても、戦力が戻ってきたと思ったところで大被害を受けるということの繰り返しです。 > 先のブラウ作戦における作戦補給も、陸軍部隊が補給でピンチになったときに限って集中的に飛ぶので、日割りにするとそのくらいにしかならないわけです。 > 「ドイツ空軍は陸軍への補給や患者輸送しかやっていない」と思っている訳ではありません。私とてドイツ空軍がその戦線の移動に伴い、次々と前線に移動する前進飛行場に機材を移送して、その航空任務を継続する事を可能なら占めたのは、輸送機による空輸によってその兵站・整備体勢が支えられていたからである事は承知しています。ただその認識の程度に関して隔絶した相違を生みかねない語弊があった様ならば、それを単純に「稼働率の差異」と改めるにやぶさかではありません。ただそれも42年の戦闘機・爆撃機・輸送機の(戦闘以外での損失による)除籍機の比率がそれぞれ55%・36%・26%であった事から、輸送機の稼働率は全機種平均を若干上回るものと想定するとした次第です。 > Edwerdさんの作戦計画では補給量の半分近くを空軍に負担させよう、しかもそのために輸送機隊を温存しようというわけですから、空軍の作戦基地への補給飛行はほとんどできなくなる勘定です。 > 戦闘機隊や爆撃機隊の1941年秋の稼働率というのは、こうした輸送機部隊の臨機応変の補給飛行によって何とか成り立っている数値であって、冬になって稼働率が低下するのは、寒気によって整備に困難さを増すという状態が輸送機隊にも降掛かるために、作戦部隊の稼働率が累進的累増的に低下していくというのが実態です。 > となれば、作戦部隊の稼働率はガタ落ちを通り越して半身不随となる恐れがあり、南部戦区や北方戦区はおろか、シュヴェアプンクトたる第2装甲集団に対する直接支援ですらもままならない状況になるでしょう。 > 予定しているような急進撃には1941年のドイツ軍砲兵はとても追随できませんが、ここで更に空軍の傘なしにこの進撃速度は達成できるものでしょうか。 航空部隊自体の兵站補給に対する輸送機部隊の必要性を考慮に入れていない訳ではない事は先にも述べましたが、確かにこの様な装甲軍に対する空輸作戦への輸送機の転用は、通常に考えれば航空諸部隊に対する兵站補給体勢と稼働率の効率低下を招く事になります。ただ私の提起する作戦では、南進策を採らずにモスクワへ直行する事で10月にはブリヤンスクに補給端末駅を伸長しており、先の42年夏の補給作戦時の様に後方の補給端末駅であるスターリノから最短で300〜400キロの距離があるという状況とは相違して、北へ旋回して進撃する第2装甲軍が向かうウラジミール方面にはヴィヤジマ・ルジェフ両補給端末駅方面からもより最短距離で空輸作戦を展開できるという優位性があります。また、鉄道工兵連隊の配備変更、更にレニングラードを確保している事で本来なら北方軍集団にまわしている筈の鉄道輸送力を中央に振り向けている等の要因を想定しており、これらを考慮すれば作戦開始時、そして実際に空輸の必要性が高まってくる第2装甲軍主力のウラジーミル至近への進撃に際して、限定的期間におけるこの様な大規模な空輸作戦を成し得るのは決して不可能な事ではないと推察します。 > しかも、戦線後方でのソ連軍の戦略機動を妨害阻止すべき長距離爆撃機部隊(ドイツ空軍的には)をも抽出して恒常的に補給任務に貼り付けようというわけですよね。 > 上記の様な主旨の意見を述べた覚えはないのですが、誤解を与える様な意味の文章があったならそうではない事を申し上げて置きます。私としては、想定した様な状況でこの様な大規模な突破口が現出した際、他方面から短日時に無傷で予備兵力を抽出・展開させ、速やかにドイツ軍の側面を衝く様な効果的な作戦を41年当時のソ連軍が採れるとは思えない故に、一旦、モスクワ南方の戦線を突破したが最後、特に両側面を掩護されて突破ルートの中央を進撃する第2装甲軍にとり、その進撃路ではまともな抵抗を受ける事もないであろうと想定していますので、そもそも(輸送機に転用したHe111以外の)長距離爆撃機による大規模な航空阻止攻撃を行う必要さえ生じないであろうと考えています。 > 本当に大丈夫ですか? 差し出がましい事かもしれませんが、冒頭の絵文字付きの文章や、上記の様な形容句の少ない口語的な文章を、段落を変えて単文で使用するのは、人によっては意味を取り違えて無用な誤解を生む元になり兼ねない(私は好意的に採っていますが)ので、なるべく差し控えた方が宜しいかと思います。 |
> 先の如く指摘されるまでもなく、私とてクレタ島への降下作戦でドイツ空軍の輸送機部隊が潰滅的打撃を被った経緯は承知しております。この為、41年初頭のドイツ空軍の保有する輸送機数に対するその年の損耗率は75%(41年1月の在籍機数444機に対して損失機数314機)と高率を記録しましたが、ただし42年1月には新規生産、後送・現地修理可能な損傷器材の回復を含めて、その平均在籍機数は970機に達しています。41年の損傷機数213機(要後送機数63機・現地修理可能機数150機)を計算に含めて概算すると、ドイツは41年に620機余りを新規に生産(月産平均50機)していると試算できますが、クレタ島での戦闘で全損破棄された146機の損失分は、装甲集団の突破作戦を開始する10月初頭には新規生産分で回復するものと思われます。 1941年のJu52の生産数は504機ですから、120機たらずが計算に合いません。 また、8月時点での可動機は190機あまりに落ち込んでいます。 更には史実よりも速いペースでの攻撃前進なのですから、空軍にかかる負担も史実より小さくはならないでしょう。 > また、バルバロッサ作戦開始時の稼働率を考慮に入れた実動機数を例に挙げられていますが、史実のバルバロッサ作戦開始時点において実際に東部戦線に配備されていた機数はどうあれ、「その戦略2」や他のスレッドでも申し上げているように、私の提示した戦略は、ドイツ空軍が限定した期間にその全航空輸送力を投入するという大胆な手段に打って出る事を前提としており、先のスレッドの輸送機500機という数値も、先のドイツ空軍の全保有機数(10月現在で推定770機)に41年10月の全機種平均稼働率を加算して算出した数値である事を再度申し上げておきます。 要するに、Ju52は代表格として出しているわけであって、西部方面の輸送グルッペで使用中だったフランスからの捕獲爆撃機とか初期型He111、Do17、Ju86といった「二線級」輸送機も投入すると。 爆撃機転用の輸送機は機内容積からいってあまり効率はよろしくありませんし、フランスものは稼働率も良くありません(東部戦線に持ってくれば更に低下すると思われます)が、贅沢は言っていられませんな。 > 「空軍保有の輸送機部隊の大半」という兵力数がちょっとあいまいで、せめて大まかな概算数でも提示して頂かなければ、「日割りで180t」と指摘する数値がどの程度の輸送効率を指しているのか釈然とせず、このままでは比較の対象として提示する例としては適切ではないように思います。おそらくはドイツ空軍の保有する全空輸能力を結集してもこの程度であると、漠然とではあるが例に挙げたものと思いますが、しかしそれだけでは、「それは42年次の攻勢においてドイツ軍がコーカサス方面を指向した事で、その飛躍的に拡大した戦線における航空支援体勢を維持するためにドイツ空軍の兵站・整備体勢が更に過酷な損耗を強いられた故である」という反論一つを提示した場合にも、それを説明するに十分なものであるとは思えません。 「日割りで180t」というのは、つまり毎日飛んでいるわけではないということを指しています。 輸送効率の問題ではなく、陸軍の補給輸送に対して空軍はピンチヒッターとしての役割しかやらないし、やれないであろうという主張です。 空軍は自分の作戦で忙しいのだと。 ドイツ空軍の攻勢作戦は徹底して重点集中なので、戦線の拡大はあまり問題にならないでしょう。 均等に満遍なくばらまくことはしませんから、戦闘機、駆逐機、急降下爆撃機はそのときの最重要地点に集中投入され、爆撃機は独自に後方の要点に対してやはりいちどきにひとつずつの目標に集中投入です。 > 航空部隊自体の兵站補給に対する輸送機部隊の必要性を考慮に入れていない訳ではない事は先にも述べましたが、確かにこの様な装甲軍に対する空輸作戦への輸送機の転用は、通常に考えれば航空諸部隊に対する兵站補給体勢と稼働率の効率低下を招く事になります。ただ私の提起する作戦では、南進策を採らずにモスクワへ直行する事で10月にはブリヤンスクに補給端末駅を伸長しており、先の42年夏の補給作戦時の様に後方の補給端末駅であるスターリノから最短で300〜400キロの距離があるという状況とは相違して、北へ旋回して進撃する第2装甲軍が向かうウラジミール方面にはヴィヤジマ・ルジェフ両補給端末駅方面からもより最短距離で空輸作戦を展開できるという優位性があります。また、鉄道工兵連隊の配備変更、更にレニングラードを確保している事で本来なら北方軍集団にまわしている筈の鉄道輸送力を中央に振り向けている等の要因を想定しており、これらを考慮すれば作戦開始時、そして実際に空輸の必要性が高まってくる第2装甲軍主力のウラジーミル至近への進撃に際して、限定的期間におけるこの様な大規模な空輸作戦を成し得るのは決して不可能な事ではないと推察します。 空輸作戦が可能かどうかといえば可能でしょう。可動機数の面でかなり苦しいでしょうが、やってやれないことはないと思います。 その点に関してはわたしも問題にしようとは思いません。 ただ、空輸作戦と作戦飛行部隊の稼働率維持はドイツ空軍の能力では両立しないから、陸軍は空軍からは補給を受けるのみで、あとは自力でこの長距離急速進撃をやってのける必要があるでしょうねという確認です。 で、この速度で進攻するからには砲兵の戦力はほぼアテにできないでしょうね、と。 ソ連空軍も大被害を受けてはいますが壊滅しているわけではなく、史実でも10月半ば頃から11月にかけて、ドイツ空軍の動きが泥将軍影響下に鈍りだすのと反比例して活発な活動を見せ始めています。 護衛戦闘機も整備補給の不足で十分に飛べない状況下に、モスクワ近郊のソ連でも最も設備の良い飛行場群の近くで大規模な輸送機部隊を運用するのはかなりリスクが大きいように見えますが。 また、レニングラードはまだ補給拠点として機能しないのではないでしょうか。 フィンランド湾は機雷の巣ですし、レニングラードも港湾機能を回復していないでしょう。 掃海と港湾修理を終えなければ、いくら船腹を注ぎ込んでも北方軍集団に実際に渡る物資の量は増加しないような気がしますが。 > 上記の様な主旨の意見を述べた覚えはないのですが、誤解を与える様な意味の文章があったならそうではない事を申し上げて置きます。私としては、想定した様な状況でこの様な大規模な突破口が現出した際、他方面から短日時に無傷で予備兵力を抽出・展開させ、速やかにドイツ軍の側面を衝く様な効果的な作戦を41年当時のソ連軍が採れるとは思えない故に、一旦、モスクワ南方の戦線を突破したが最後、特に両側面を掩護されて突破ルートの中央を進撃する第2装甲軍にとり、その進撃路ではまともな抵抗を受ける事もないであろうと想定していますので、そもそも(輸送機に転用したHe111以外の)長距離爆撃機による大規模な航空阻止攻撃を行う必要さえ生じないであろうと考えています。 大規模な航空阻止攻撃あってはじめてバルバロッサやファル・ブラウのような大戦果も期待できるように思えますが。 1941年夏秋のソ連軍の戦略機動がままならないのは、自軍に制空権なくドイツ空軍にいいように後方を叩かれていたという要素があるのは無視できません。 スターリンが何かの拍子で「やる」つもりになれば、1941年のソ連軍といえどもかなりの動きをすることは可能のはずです。 史実のキエフ戦でも、方針が二転三転したために反撃準備期間が取れなくなって失敗しましたが、作戦計画そのものは健全なものであって、ソ連軍の無能を示しているわけではないと思えます。 また、この問題は立案側のドイツがこの計画を通すかどうかにもあるような気がします。 つまり、この作戦計画はソ連側が無策でいるというのが大前提にあって、言うならば保険が全く掛かっていないものです。 実際にソ連軍がどのくらいの対抗策を採れるものなのかを見通す神の目を持たない当事者としての視点で見て、このような大胆不敵を通り越したような作戦計画を採用できるものなのかどうか。 ハルダーにしろブラウヒッチュにしろ、というかカイテルやヨードル、なにより総統閣下がこの作戦案に不安を抱かないでしょうか。 |
> 1941年のJu52の生産数は504機ですから、120機たらずが計算に合いません。 > また、8月時点での可動機は190機あまりに落ち込んでいます。 > 更には史実よりも速いペースでの攻撃前進なのですから、空軍にかかる負担も史実より小さくはならないでしょう。 41年の新規生産数は推定620機という私の試算の基になっている42年1月の平均在籍機数970機というデータは輸送機全般を指しているものなので、貴兄の資料によるJu52の新規生産数504機という数字と120機の誤差が生じるのは、貴兄が先に述べた様に捕獲機や二線機が含まれている故かもしれませんし、単に基にしているデータに差異があるのかもしれません。いずれにしてもデータの信頼性云々という点まで争点にする気はありませんが、仮に私が試算した10月時点での稼動機500機の内の120機はJu52以外の機体だとして、その為に想定した輸送力より低下するとしても、大名死亡さんへの返答で説明した様に、陸上補給の不足分を補う為に単発的な大規模空輸を時間をおいて数回実施するという状況において大きな問題が生じる程の誤差ではないでしょう。 また、8月で稼動機が190機という指摘ですが、少なくとも私は史実においてこの時期に実施していなかった大規模な空輸作戦を、その時点でのドイツ空軍の全空輸能力を短期間に集中して使用するという前提で想定しています。ご存知の様に、ドイツ空軍はそのリソースの不足から、空輸・空挺作戦専用に使用できる大規模な独立した輸送航空組織を常時持っていた訳ではなく、デミャンスクやスターリングラードへの空輸の様な緊急時には、本土の訓練機構から爆撃機訓練に使用されていた輸送機や教官・訓練生を引き抜いて間に合わせていました。当然、私の想定する空輸作戦もそれと同様な措置をとって輸送力を確保する事になりますが、その様な大規模空輸作戦を実施していなかった史実における8月の稼動機数を反証に挙げられても、私の想定する稼動機数に対する論拠にならないと思います。 > 「日割りで180t」というのは、つまり毎日飛んでいるわけではないということを指しています。輸送効率の問題ではなく、陸軍の補給輸送に対して空軍はピンチヒッターとしての役割しかやらないし、やれないであろうという主張です。空軍は自分の作戦で忙しいのだと。 私の想定する作戦では、デミャンスクやスターリングラードにおいて発揮した、正にそのピンチヒッター的と呼ばれる様な能力を一時的に要求するものですが、前提条件が異なる41年においては、事前に計画を立てていれば更に大きな能力を発揮できると推察します。 > ドイツ空軍の攻勢作戦は徹底して重点集中なので、戦線の拡大はあまり問題にならないでしょう。均等に満遍なくばらまくことはしませんから、戦闘機、駆逐機、急降下爆撃機はそのときの最重要地点に集中投入され、爆撃機は独自に後方の要点に対してやはりいちどきにひとつずつの目標に集中投入です。 戦力をばらまくにしろ集中しているにしろ、戦線がロストフ−ハリコフのラインから、北はスターリングラードから南はコーカサスの奥深く拡大すれば、大きく突出した戦線の延べ距離数は途方もないものとなり、ドイツ空軍がカバーしなくてはならない範囲、飛行を強いられる距離、後方の兵站連絡線の距離は確実に増加します。 > 空輸作戦が可能かどうかといえば可能でしょう。可動機数の面でかなり苦しいでしょうが、やってやれないことはないと思います。その点に関してはわたしも問題にしようとは思いません。ただ、空輸作戦と作戦飛行部隊の稼働率維持はドイツ空軍の能力では両立しないから、陸軍は空軍からは補給を受けるのみで、あとは自力でこの長距離急速進撃をやってのける必要があるでしょうねという確認です。で、この速度で進攻するからには砲兵の戦力はほぼアテにできないでしょうね、と。 この点に関しては以後に同様の争点を挙げられてますから、そこで一括して述べます。 > ソ連空軍も大被害を受けてはいますが壊滅しているわけではなく、史実でも10月半ば頃から11月にかけて、ドイツ空軍の動きが泥将軍影響下に鈍りだすのと反比例して活発な活動を見せ始めています。護衛戦闘機も整備補給の不足で十分に飛べない状況下に、モスクワ近郊のソ連でも最も設備の良い飛行場群の近くで大規模な輸送機部隊を運用するのはかなりリスクが大きいように見えますが。 おっしゃる様にソ連空軍の活発な活動に伴い、史実における11月の段階でドイツ空軍が絶対的な制空権を掌握していなかった事は認めます。しかし想定した様に戦局が推移し、ウラジミール西方付近にて反転した第2装甲軍がモスクワの背後を襲う段階に至る頃には、モスクワはその全周から攻撃を受け、その一部は外郭防衛線を突破して市街戦に突入しているでしょう。私としては、史実において11月15日から開始されたタイフーン作戦の第2段階の20日間の戦闘においてドイツ軍が達成した最大進出線までの経過から判断するに、それよりも早期に開始し、モスクワの背後を襲う作戦で先の様な戦局を実現する事に難しい事ではないと想定します。そしてその様な状況下では、既に放棄せざるを得ない航空基地も少なくはないでしょうし、ドイツ空軍が何時、どのルートで実施するか判然としない空輸作戦を捉えるに足る哨戒活動を継続している余裕もないと思われます。 > また、レニングラードはまだ補給拠点として機能しないのではないでしょうか。フィンランド湾は機雷の巣ですし、レニングラードも港湾機能を回復していないでしょう。掃海と港湾修理を終えなければ、いくら船腹を注ぎ込んでも北方軍集団に実際に渡る物資の量は増加しないような気がしますが。 私の知る限り、ソ連バルト艦隊はドイツ空軍の攻撃で損害を受けた後にクロンシュタットに立てこもっており、この週辺海域以外のフィンランド湾とバルト海は、むしろドイツ側の機雷敷設とUボート艦隊の活動によってソ連艦隊の活動が制約されていたと思います。 また如何にソ連軍が焦土戦術を採っていたといっても、必ずしもレニングラードの諸港湾がほとんどその機能を喪失するほどに破壊し尽くされてしまうと考えるのも早計では。例えばネヴァ河より南に位置するグトゥイエフスキー島南部の大港湾などは、装甲集団が想定した様な史実より早い時機にレニングラード外郭部を突破してナルヴィスキー大通りをオブドヌイ運河に肉迫すれば、比較的容易にその制圧圏下に置く事ができる位置にあります。仮に同市の港湾機能が半減しても、私はそれでもまだ2個軍程度を賄うに足る能力は残されていると推察します。 そしてこの様な港湾の破壊工作がドイツ軍の急接近に応じて急遽実施されたとしても、それが港湾揚陸施設の破壊等の規模のものであれば、それに要したのと同等の人手を投じて一月もかければ、50%程度は回復させられるのでは。おそらく港湾の機能を長期にわたって使用不可能にする様な徹底した破壊工作を行う方法は、大名死亡さんが言及されていた様に港湾内に艦艇を自沈させてしまう事でしょうが、バルト艦隊はクロンシュタット軍港でそのほとんど全ての主要艦艇が大なり小なりの損傷を受けるほどの航空攻撃を受けており、航行できる艦艇がレニングラードに向けてクロンシュタットの防空圏外に出た途端に撃沈されかねない状況下で、バルト艦隊がそれほどの決意と決断力をもってそれを実行できたのか疑問に思います。それを決断するにしても、恐らくそれはレニングラードの陥落がもはや時間の問題と判断するギリギリの状況に至ってから以後の事であろうし、その場合でもドイツ軍の確保した同市の大半の港湾の一部分的に対してだけではないかと推察します。 また、レニングラードの港湾機能が低下したとしても、フインランド本土からの補給を含め、少なくとも私の想定するフインランド2個軍とドイツの1個軍の牽制攻撃に必要な補給量を港湾に維持できれば良い訳で、本来は北方軍集団に向けていた本土からの鉄道輸送量を中央軍集団戦区に振り向けるられるという形で、間接的にその補給状況の改善に寄与する事ができます。 > 大規模な航空阻止攻撃あってはじめてバルバロッサやファル・ブラウのような大戦果も期待できるように思えますが。1941年夏秋のソ連軍の戦略機動がままならないのは、自軍に制空権なくドイツ空軍にいいように後方を叩かれていたという要素があるのは無視できません。スターリンが何かの拍子で「やる」つもりになれば、1941年のソ連軍といえどもかなりの動きをすることは可能のはずです。史実のキエフ戦でも、方針が二転三転したために反撃準備期間が取れなくなって失敗しましたが、作戦計画そのものは健全なものであって、ソ連軍の無能を示しているわけではないと思えます。 ソ連軍が戦線の後背に控える国土を、潜在的にその戦略的機動の場として使用できる緒戦以降の戦況においては、当然、上記の要素も必須である事は間違いないでしょう。しかし想定した戦況において、軍集団規模の装甲集団がモスクワ南方で一旦、大規模な突破口を開いて進撃を開始した状況では、その時点で効果的な反撃を実施でき得るだけの兵力を展開するだけの時間が無いためにそれは当てはまりません。第1装甲軍を中心にした南方軍集団の牽制攻撃に拘束された南方の戦線からなんとか抽出した兵力や、残余の予備兵力を鉄道移動させるにしても、モスクワ南方の鉄道線を遮断する第4装甲軍(第40装甲軍団を含む)を攻撃し、これを突破して第2装甲軍の後方を遮断するには、歩兵戦力だけなら少なくとも5、6個軍は必要でしょうし、時間もかかります。そしてそれを迅速に行うには、経験と能力がある軍規模の独立して作戦できる機動兵力が必要ですが、41年10月の時点のソ連軍にはそれが無かったと私は推察致します。 また突破地域の中央を走る第2装甲軍の頭を直接押さえるにしても、その前方に回り込む位置に装甲軍を押さえるだけのまとまった兵力を鉄道輸送するには、ボルガ河沿いのサラトフ−シズラニを経由するだけ余分に時間がかかります。そしてそこに相応の兵力を展開できたとしても、その時にドイツの装甲軍が予想した位置にいるとは限りません。つまり、ドイツ軍の突破口からの進撃を押さえるには、流動化する戦局に的確に反応できる兵力が必要であるだけに、鉄道輸送の様な戦略移動の手段だけでなく、先の様な作戦的機動力を持った、相応な兵力の独立した機甲兵力が必要かと思われます。 故に、おそらくソ連軍がその様な増援の展開を行うにしても、輸送された兵力単位で各個に行なわれる散発的攻撃の範囲を出るものではなく、相応の兵力による組織的反撃を行う体勢が整う頃には、既にその時期を逸しているであろうという理由で、ドイツ空軍が突破地域前方奥深くへの大規模航空阻止攻撃を実施する必要もないと述べた次第であり、むしろドイツ空軍としては鉄道線の何処かで小規模な阻止攻撃を散発的に行うだけでも、ソ連軍の反撃戦力の集結を完全に阻止する事はできずとも、それを遅らせる事は十分にできるでしょう。 「スターリンが何かの拍子で「やる」つもりになれば…」以降の説明には、ソ連軍の即応能力を考えても余り説得力を感じないのですが、私としては「やらない」というより、この様な突破攻撃が開始されてモスクワの背後が押さえられる様な事態に陥れば、ソ連統帥部はそれだけで判断能力を喪失し、かくあるような対応策を直ちに企図してそれを断行するだけの指揮能力を維持する事はできないだろうと推察します。 |
> おっしゃる様にソ連空軍の活発な活動に伴い、史実における11月の段階でドイツ空軍が絶対的な制空権を掌握していなかった事は認めます。しかし想定した様に戦局が推移し、ウラジミール西方付近にて反転した第2装甲軍がモスクワの背後を襲う段階に至る頃には、モスクワはその全周から攻撃を受け、その一部は外郭防衛線を突破して市街戦に突入しているでしょう。私としては、史実において11月15日から開始されたタイフーン作戦の第2段階の20日間の戦闘においてドイツ軍が達成した最大進出線までの経過から判断するに、それよりも早期に開始し、モスクワの背後を襲う作戦で先の様な戦局を実現する事に難しい事ではないと想定します。そしてその様な状況下では、既に放棄せざるを得ない航空基地も少なくはないでしょうし、ドイツ空軍が何時、どのルートで実施するか判然としない空輸作戦を捉えるに足る哨戒活動を継続している余裕もないと思われます。 ソ連軍の反攻を受けていた1944年のドイツ空軍は哨戒活動を実施しなかったのでしょうか。各SG、JGは飛行場を次々に後退しながら、いつもよりも活発に行動していませんか。 45年になってもベルリン近郊の飛行場からオーデル橋頭堡へかなりの航空攻撃が行われていますね。ただでさえ米英空軍の制空権が及んでいるにもかかわらず。 航空部隊の靭強性をあまりなめては危険です。 特にこの場合はソ連空軍は前線飛行場からの作戦でないこと、ドイツ空軍の戦闘機隊の妨害が少なく、爆撃機隊による飛行場制圧も十分でないことにも注意すべきです。 > 私の知る限り、ソ連バルト艦隊はドイツ空軍の攻撃で損害を受けた後にクロンシュタットに立てこもっており、この週辺海域以外のフィンランド湾とバルト海は、むしろドイツ側の機雷敷設とUボート艦隊の活動によってソ連艦隊の活動が制約されていたと思います。 レニングラードへ船を入れるにはまさにその周辺海域がとても重要なように見えますが。 潜水艦を出撃させるためのごく狭い回廊を除き、十重二十重の機雷堰が設けられています。 > 「スターリンが何かの拍子で「やる」つもりになれば…」以降の説明には、ソ連軍の即応能力を考えても余り説得力を感じないのですが、私としては「やらない」というより、この様な突破攻撃が開始されてモスクワの背後が押さえられる様な事態に陥れば、ソ連統帥部はそれだけで判断能力を喪失し、かくあるような対応策を直ちに企図してそれを断行するだけの指揮能力を維持する事はできないだろうと推察します。 戦争初年度のソ連軍の不手際は統帥部の無能にはなく、スターリン個人の責任のよるところ極めて大です。 ソ連軍の即応能力はキエフ戦でも証明されています。 「キエフ風チキンカツは実に美味」などとふざけた題名のレスをつけていますが、そこで述べたとおり、南西方面軍は数日間のうちにドネツへ6個軍を整然と撤退させる作戦を部署し、後方防衛線の構築を同時に着手しています。 この機動がスターリンの承認を受けられさえすれば、150万がドネツでフリーハンドを得ることになっていたはずです。 これを撃破できないことは全くないと思いますが、どれだけの時間をとられるのかわかったものではありません。 こういう事態を避ける必要性から中央軍集団の南旋も行われたはずです。 Edwerdさんが後世の目で想定したり推察したりするのはかまいません。 が、わたしが問題とするのは、当時のドイツ軍統帥部が『それだけで判断能力を喪失し、かくあるような対応策を直ちに企図してそれを断行するだけの指揮能力を維持する事はできないだろう』と推察できるだけの経験なり情報なりを有していたのか、ということです。 戦前に得ていた情報は何から何までとは言わないまでも、かなり大きく間違っていました。 見たことも聞いたこともない新型戦車はいるし、捕虜の数からすればとっくに全滅しているはずのソ連軍はまだまだ出てくる。 そんな状況下に、その作戦計画はいったいどんな情報に基づき、何を根拠にして立案されるのか。 空軍の打撃戦力、それになにより偵察戦力も常識的に考えればあらゆる努力を払って保持しておくでしょう、当時のドイツ軍はソ連軍があとどれだけ残っているか見当がついていないのですから。 バルバロッサ作戦時に用意してあった戦力を使って、後知恵でこうすれば勝てないことはなかったという検討だとすれば、ソ連側に後知恵が認められないのは不公平というものでしょう。 どのみち、 ナチスの、ヒトラーの政策からすればトドメを刺すはずの宣伝攻勢はかけられないでしょう。それこそ説得力が全くありません。 いや、宣伝攻勢自体は陸空軍の作戦部隊すら動員して、もの凄く熱心に行われていましたね。しかし、それは的を大きく外していて、どうもソヴィエト・ロシアの人民の心に訴えかける力に欠けていたようです。 モスクワ陥落によってソ連人民が動揺するのは確実でしょうが、当然宣伝合戦がここで始まります。ソ連政府とドイツ政府、どっちが勝つか、わたしはソ連側が有利なように思えますね、史実を見る限りでは。 モスクワ市民の混乱ぶりだけを見るわけにはいきません。 鉄道幹線はそれほど多くの物資は輸送できないでしょう。 南方に回す鉄道部隊を中央に回すといっても、補給端末を先に延ばすことはできても幹線自体の輸送力を高めることはできません。 だいいち、その鉄道部隊が使う資材にしてからがその鉄道を通ってやってくるのですから、鉄道部隊の仕事がはかどれば作戦輸送分が減少します。 ドイツ軍の標準ダイヤで重輸送列車を通すには、ロシアの鉄道はレール以外に使えるものはありません。単なる改軌にとどまらず、枕木から敷石までやりなおす必要があり、給水駅も新たにいくつも設けなければなりません。必要とされる資材の量は膨大なものです。 マンパワーを増大させても輸送幹線自体の輸送力は変化しないのですから、補給駅が先に延びるばかりで作戦資材の到着量は却って減るものと思われます。 兵站は距離に比例して効果が逓減するという大原則はここでも有効なのではないでしょうか。 また、ドイツ軍には作戦部隊輸送用のトラックさえないのに兵站に回せるトラックなどありません。というか、既にヨーロッパには存在しません。 南方軍集団はソ連軍を拘束できないでしょう。ソ連軍が動くと決めたら、ドイツ軍はそれに追いつくことはできたためしがありません。 包囲しなければソ連軍が脱け出すことを止めることはドイツ軍にはできない。 1941年にそうした実例がないというのはソ連軍がそうしようとしなかったからですが、この戦況ではソ連南西方面軍は万難を排してハリコフ・クルスク方面へ後退し、モスクワを鉄床としてドイツ中央軍集団の右翼を衝くべしという命令が出るであろうことは容易に予想できます。 南方軍集団は兵站に余裕なく、また航空兵力は中央戦区に集中しているので、これを追撃することも拘束することも妨害することも困難でしょう。 ・・・多少の自虐を込めて言うならば、スターリンがもうすこしでもジューコフやシャポーシニコフの言うことを聞いていたら、というたったひとつのIFを入れるだけで全面瓦解してしまう検討を以って、青筋立てて真剣な討論をしている図というのもかなり滑稽なもののように思えますが(笑 |
> ソ連軍の反攻を受けていた1944年のドイツ空軍は哨戒活動を実施しなかったのでしょうか。各SG、JGは飛行場を次々に後退しながら、いつもよりも活発に行動していませんか。 > 45年になってもベルリン近郊の飛行場からオーデル橋頭堡へかなりの航空攻撃が行われていますね。ただでさえ米英空軍の制空権が及んでいるにもかかわらず。 > 航空部隊の靭強性をあまりなめては危険です。 > 特にこの場合はソ連空軍は前線飛行場からの作戦でないこと、ドイツ空軍の戦闘機隊の妨害が少なく、爆撃機隊による飛行場制圧も十分でないことにも注意すべきです。 モスクワがその全周からドイツ軍に肉迫されて包囲下にある状況下で、せいぜい70〜80キロ四方に残された市街とその外円部に残されたわずかな飛行場群から出撃するソ連空軍には、指呼の間に迫っている敵地上ユニットに対する対地攻撃とその護衛戦闘に兵力を振り向ける事が優先されます。故に、哨戒活動によってその様な空輸作戦の存在を確認したとしても、それに振り向ける余力はないでしょう。 > 戦争初年度のソ連軍の不手際は統帥部の無能にはなく、スターリン個人の責任のよるところ極めて大です。 > ソ連軍の即応能力はキエフ戦でも証明されています。 > 「キエフ風チキンカツは実に美味」などとふざけた題名のレスをつけていますが、そこで述べたとおり、南西方面軍は数日間のうちにドネツへ6個軍を整然と撤退させる作戦を部署し、後方防衛線の構築を同時に着手しています。 > この機動がスターリンの承認を受けられさえすれば、150万がドネツでフリーハンドを得ることになっていたはずです。 > これを撃破できないことは全くないと思いますが、どれだけの時間をとられるのかわかったものではありません。 > こういう事態を避ける必要性から中央軍集団の南旋も行われたはずです。 ヒトラーが戦争の後半期において土地を放棄して戦力の温存と予備部隊を確保するという考えを理解できず、またそれを理解できていたにしろ、その独裁体勢を維持する為にも対外的な敗北という既成事実を受け入れられないという政治的立場に拘束されていた故に後退を容認できなかったという事と同じ理由が、41年のスターリンにもそれ以上に当てはまるという歴史的経緯を考慮して、私は想定した状況においてもソ連軍は史実以上の動きはできなかったと仮定して話をしています。それは不公平だと以下の文でもおっしゃっていますが、それについてそこでお応えします。 > Edwerdさんが後世の目で想定したり推察したりするのはかまいません。 > が、わたしが問題とするのは、当時のドイツ軍統帥部が『それだけで判断能力を喪失し、かくあるような対応策を直ちに企図してそれを断行するだけの指揮能力を維持する事はできないだろう』と推察できるだけの経験なり情報なりを有していたのか、ということです。 独裁体勢というものは見た目以上に脆弱です(むしろ民主国家の政権の方が法的な後ろ盾があるために、一度確立されればその安定度は高い)。力によって統制している権力基盤というものは、その力の後ろ盾を失った時にあっけなく瓦解する可能性を常に秘めており、それを独裁者自身が十分理解しているからこそ、自身の政権の正当性を(主に)対外的な成功で糊塗しようと努めます。それ故に軍事的な敗北というものが独裁者にとってその政権存続に致命的なダメージを与える事を同じ立場にあるヒトラー自身が熟知しており、よって想定した様な絶体絶命の状況下に置かれた場合にソ連政権、すなわちその意志決定のトップの立場に位置するスターリンの思考力が麻痺してしまうであろうとヒトラーが考えるのも想像に難くないものと思われます。 > 戦前に得ていた情報は何から何までとは言わないまでも、かなり大きく間違っていました。 > 見たことも聞いたこともない新型戦車はいるし、捕虜の数からすればとっくに全滅しているはずのソ連軍はまだまだ出てくる。 > そんな状況下に、その作戦計画はいったいどんな情報に基づき、何を根拠にして立案されるのか。 おっしゃる通りに、近代戦における情報というものは甚だ不確実なものでした。実際、ソ連軍は10月を前にしてドイツ軍の攻勢はモスクワ前面で休止すると誤認していた為に、タィフーン第1期作戦でまた潰滅的な打撃を受けました。そしてドイツ軍にしても、敵情に対して限定的で絶対確実とは言えない情報に基づいてしか戦況を把握できていない状況下でも、戦争を開始したからにはでき得る限りの分析を基に作戦を立案し、それを実施して勝利する事に努めなければならず、それゆえに私が想定した状況よりも不利な状況にある史実においてもドイツ軍はモスクワ作戦を強行した訳なのです。それ故に私の想定した史実より有利な状況下においても、ドイツ軍は限定的な情報に基づき、そこから分析された状況を基に判断された勝算を根拠に作戦を決行したであろうと推察します。 > 空軍の打撃戦力、それになにより偵察戦力も常識的に考えればあらゆる努力を払って保持しておくでしょう、当時のドイツ軍はソ連軍があとどれだけ残っているか見当がついていないのですから。 空輸作戦と通常の航空作戦任務は両立させられない、というこれまでのまなかじさんの主張に基づいた意見なのでしようが、私はこれまでに挙げた理由により、一部の長距離爆撃機戦力は除いて相応の航空任務を維持し得る戦力を保持するのは可能だという主張を維持していますので、航空偵察任務においてもそれが考慮に含まれていない訳ではありません。 > バルバロッサ作戦時に用意してあった戦力を使って、後知恵でこうすれば勝てないことはなかったという検討だとすれば、ソ連側に後知恵が認められないのは不公平というものでしょう。 先の段落の件と総括して述べますが、もともと限定した前提に基づく仮定の歴史的考察という物そのものが、そもそも一方的で不公平なものだと言う事を別の記事でも私は述べています。私は「バルバロッサ作戦に勝算はあったか」というスレッドに対して、「こういう前提条件にあったなら勝てた」というドイツ側にのみ許した条件変更を前提とした想定を述べている事は、最初から申し上げているつもりです。その私の想定の根幹にある前提そのものさえ容認できないと言うのであれば、その旨を一言だけ述べた後に、御自身で別のスレッドを立てて、同じ前提条件を容認できる方と討論すれば宜しいのではないですか? 少なくともスターリンの誤算や判断ミス、政治的立場から来る制約等の様々な理由から生じるマイナス要因を除く事による、史実以上の即応力を示す可能性をもたらす条件をソ連側に許すのであれば、私としては、はなからこの様なスレッドを立てる気にもならないでしょう。 > どのみち、ナチスの、ヒトラーの政策からすればトドメを刺すはずの宣伝攻勢はかけられないでしょう。それこそ説得力が全くありません。 > いや、宣伝攻勢自体は陸空軍の作戦部隊すら動員して、もの凄く熱心に行われていましたね。しかし、それは的を大きく外していて、どうもソヴィエト・ロシアの人民の心に訴えかける力に欠けていたようです。 > モスクワ陥落によってソ連人民が動揺するのは確実でしょうが、当然宣伝合戦がここで始まります。ソ連政府とドイツ政府、どっちが勝つか、わたしはソ連側が有利なように思えますね、史実を見る限りでは。 > モスクワ市民の混乱ぶりだけを見るわけにはいきません。 別の方のスレッドでも述べましたが、私はヒトラーの人種・占領政策に関しても前提条件の変更に含めて想定しています。更にいえばヒトラーが指導したとされる過酷な人種政策に関しても戦勝国側の情報操作の関与を疑っており、ちまたに言われる様な一方的な歴史的事実を額面通りに受け取っておりませんが、これに関しては無用な争点の拡大を招くだけですから、ここまでにしておきます。 > 鉄道幹線はそれほど多くの物資は輸送できないでしょう。 > 南方に回す鉄道部隊を中央に回すといっても、補給端末を先に延ばすことはできても幹線自体の輸送力を高めることはできません。 > だいいち、その鉄道部隊が使う資材にしてからがその鉄道を通ってやってくるのですから、鉄道部隊の仕事がはかどれば作戦輸送分が減少します。 > ドイツ軍の標準ダイヤで重輸送列車を通すには、ロシアの鉄道はレール以外に使えるものはありません。単なる改軌にとどまらず、枕木から敷石までやりなおす必要があり、給水駅も新たにいくつも設けなければなりません。必要とされる資材の量は膨大なものです。 > マンパワーを増大させても輸送幹線自体の輸送力は変化しないのですから、補給駅が先に延びるばかりで作戦資材の到着量は却って減るものと思われます。 > 兵站は距離に比例して効果が逓減するという大原則はここでも有効なのではないでしょうか。 北方軍集団に他に振り向けていた鉄道貨車を中央で使用するという意味で、貨車の稼働率は確実に上昇します。また鉄道工兵が史実より早いペースで伸長させた鉄道線改修分に要する資材の増加分の運搬量も、その改修ペースの上昇によって補給端末駅以降の補給ルートの輸送コストが8月末までの段階まで史実より軽減される訳ですから十分相殺されます。 > また、ドイツ軍には作戦部隊輸送用のトラックさえないのに兵站に回せるトラックなどありません。というか、既にヨーロッパには存在しません。 確かにドイツ軍は物資輸送の多くを馬引輸送に頼っていた事実は私も承知していますが、それでも私の知る限り、各軍集団は約20,000tの輸送力を持つ直轄重トラック輸送連隊を保持し、さらに軍直轄の中トラック輸送縦隊、師団段列においては(その全てではないが)軽トラック輸送縦隊が存在していた事を申し上げておきます。 > 南方軍集団はソ連軍を拘束できないでしょう。ソ連軍が動くと決めたら、ドイツ軍はそれに追いつくことはできたためしがありません。 > 包囲しなければソ連軍が脱け出すことを止めることはドイツ軍にはできない。 > 1941年にそうした実例がないというのはソ連軍がそうしようとしなかったからですが、この戦況ではソ連南西方面軍は万難を排してハリコフ・クルスク方面へ後退し、モスクワを鉄床としてドイツ中央軍集団の右翼を衝くべしという命令が出るであろうことは容易に予想できます。 > 南方軍集団は兵站に余裕なく、また航空兵力は中央戦区に集中しているので、> これを追撃することも拘束することも妨害することも困難でしょう。 「ソ連軍が動くと決めたら」とありますが、それができなかったからこそソ連軍は41年にあれだけの喪失を被ったのであり、物理的にそれが可能という事と、総合的に諸要因を考慮して実際にそれが可能であったかという事は別問題であるという事は、まなかじさん自身も別のスレッドで述べていたように思いますが。私としては42年後半以降にソ連軍が形成した軍事力をこの時点で発揮できないという前提の基に想定を述べているのですから、貴兄がおっしゃる想定に対しても先と同様の理由でコメントの仕様がありません。 > ・・・多少の自虐を込めて言うならば、スターリンがもうすこしでもジューコフやシャポーシニコフの言うことを聞いていたら、というたったひとつのIFを入れるだけで全面瓦解してしまう検討を以って、青筋立てて真剣な討論をしている図というのもかなり滑稽なもののように思えますが(笑 先と同様に、私の想定にある前提を踏まえていないという意味で、これもまた別の次元の話と解釈すべきものです。おっしゃるような事が通るなら、どの様な想定も、それに対抗し得る前提条件を容認する事で最初からその想定そのものが成り立たない事になります。 それと滑稽に「思う」のは貴兄の勝手ですが、貴兄の感想を聞くために討論している訳ではありませんから、議論の内容と直接関係の無い個人的感情を吐露する様な文章は差し控えて頂くよう重ねて申し上げます。 |
> 先と同様に、私の想定にある前提を踏まえていないという意味で、これもまた別の次元の話と解釈すべきものです。おっしゃるような事が通るなら、どの様な想定も、それに対抗し得る前提条件を容認する事で最初からその想定そのものが成り立たない事になります。 了解しました。 どうも前提条件が甘すぎるように思われますので、以降コメントは差し控えることに致します。 |
> また、この問題は立案側のドイツがこの計画を通すかどうかにもあるような気がします。 > つまり、この作戦計画はソ連側が無策でいるというのが大前提にあって、言うならば保険が全く掛かっていないものです。 > 実際にソ連軍がどのくらいの対抗策を採れるものなのかを見通す神の目を持たない当事者としての視点で見て、このような大胆不敵を通り越したような作戦計画を採用できるものなのかどうか。 > ハルダーにしろブラウヒッチュにしろ、というかカイテルやヨードル、なにより総統閣下がこの作戦案に不安を抱かないでしょうか。 私は無能とか無策という言葉を用いる程度にソ連軍の抵抗力を評価しているつもりはありませんが、モスクワ会戦におけるソ連軍は同都市に2重3重に張り巡らせた強化陣地による外周防衛線によってドイツ軍の攻撃力をすり減らすという立派な防衛戦略を採っています。私の想定する戦略はその防衛戦略を、戦略的な規模による迂回機動作戦の実施によって効果のないものにする事であって、想定する10月の時点で、ましてやモスクワ前面の強化陣地の完成を急いでいるソ連軍が、その様な状況の急変に十分に対応する体勢をも採れる状況にあるとは思えないと述べているだけです。 ただ、かようなドイツ軍の機動作戦は、ドイツ軍が41年の当該戦役において戦術・作戦的に幾度となく成功させてきた軍事行動を戦略的規模に拡大したものと採れますが、ドイツ軍にそれを実施できる能力がある事がや幾つもの会戦で実証できる一方で、この時点のソ連軍がこの様なドイツ軍の機動作戦を挫折させてその前進を阻むに足る有効な機動防御作戦を展開した実例があまり無い以上、私としては、それを実行できる潜在的・論理的な可能性があったとしても、実質的にはそれを実行できた可能性は低いという程度に、その能力は無かったと推察するものであります。 また、保険の無い軍事行動という指摘ですが、軍事作戦、特に戦局の雌雄を決する段階での攻撃作戦にある程度のリスクが伴うは当然です。ドイツ軍が成功させてきた数々の作戦に関しても相応のリスクは内在しており、潜在的にあったであろう作戦失敗の可能性を追求する事は幾らでもできます。故にそれを実行するかどうかという点における判断基準は、単にその成功率をどの程度見込んでいるかという主観に基づいた勝算にある訳ですから、この点を論拠に挙げるのは適切ではないと思います。 そして私はこの作戦を大胆不敵ではあるが、それを通り越す程の無謀なものとは考えていません。まなかじさんは空輸作戦の是非をもってそう評価なさるのでしょうが、その点について現在、争点にあげて論じているのですから、それを前提として「その様な作戦を計画できるのか?」という論旨を挙げるのは、一段飛躍しているのではないでしょうか。ただ、私の知る限り、ノルウェーでの海上輸送作戦・フランス作戦等、ヒトラーは常に大胆不敵な作戦を好んで採用する傾向にありました。それには自身の作戦指導力に対する自信やOKHに対する反発等、様々な要因がありますが、この辺になるとヒトラーの性格やその実像等の問題にまで争点が波及して行く事になるので、私としてもこの点をこれ以上争点に挙げるのは適切でないと思います。 |
> 私は無能とか無策という言葉を用いる程度にソ連軍の抵抗力を評価しているつもりはありませんが、モスクワ会戦におけるソ連軍は同都市に2重3重に張り巡らせた強化陣地による外周防衛線によってドイツ軍の攻撃力をすり減らすという立派な防衛戦略を採っています。私の想定する戦略はその防衛戦略を、戦略的な規模による迂回機動作戦の実施によって効果のないものにする事であって、想定する10月の時点で、ましてやモスクワ前面の強化陣地の完成を急いでいるソ連軍が、その様な状況の急変に十分に対応する体勢をも採れる状況にあるとは思えないと述べているだけです。 > ただ、かようなドイツ軍の機動作戦は、ドイツ軍が41年の当該戦役において戦術・作戦的に幾度となく成功させてきた軍事行動を戦略的規模に拡大したものと採れますが、ドイツ軍にそれを実施できる能力がある事がや幾つもの会戦で実証できる一方で、この時点のソ連軍がこの様なドイツ軍の機動作戦を挫折させてその前進を阻むに足る有効な機動防御作戦を展開した実例があまり無い以上、私としては、それを実行できる潜在的・論理的な可能性があったとしても、実質的にはそれを実行できた可能性は低いという程度に、その能力は無かったと推察するものであります。 現代の目から見ればそういう見方も成立するかもしれません。 わたしにはそうは思えませんが、結果だけを見てそこから帰納するならば、そうした見方もできるのは理解できます。 > また、保険の無い軍事行動という指摘ですが、軍事作戦、特に戦局の雌雄を決する段階での攻撃作戦にある程度のリスクが伴うは当然です。ドイツ軍が成功させてきた数々の作戦に関しても相応のリスクは内在しており、潜在的にあったであろう作戦失敗の可能性を追求する事は幾らでもできます。故にそれを実行するかどうかという点における判断基準は、単にその成功率をどの程度見込んでいるかという主観に基づいた勝算にある訳ですから、この点を論拠に挙げるのは適切ではないと思います。 そうではなくて、そもそもリスクが計算できないだろうと思えます。 クラウゼヴィッツに「危機を計算し、然る後それを超越せよ」とあります。 予想されるリスクに対して対応策を立てるのですから、予想がつかない場合は最悪コースに対して対応策を準備するのが常識というものです。 たとえば、中央軍集団機甲兵力の南旋というのは、モスクワにおいてソ連軍が投入し得るであろう兵力の算定ができないために実施されたと言っても良いのではないでしょうか。 今モスクワにいる兵力が、該方面で今ソ連軍が使える全兵力であるとの確信をドイツ軍統帥部が持つことができたならば、ためらわずモスクワに向かったのではないでしょうか。 その予想がつかないので、確実に撃破できると見られる南部のソ連軍を撃滅してモスクワ戦への後顧の憂いを断つというのが中央軍集団南旋の意味ではないのですか。 > そして私はこの作戦を大胆不敵ではあるが、それを通り越す程の無謀なものとは考えていません。まなかじさんは空輸作戦の是非をもってそう評価なさるのでしょうが、その点について現在、争点にあげて論じているのですから、それを前提として「その様な作戦を計画できるのか?」という論旨を挙げるのは、一段飛躍しているのではないでしょうか。ただ、私の知る限り、ノルウェーでの海上輸送作戦・フランス作戦等、ヒトラーは常に大胆不敵な作戦を好んで採用する傾向にありました。それには自身の作戦指導力に対する自信やOKHに対する反発等、様々な要因がありますが、この辺になるとヒトラーの性格やその実像等の問題にまで争点が波及して行く事になるので、私としてもこの点をこれ以上争点に挙げるのは適切でないと思います。 空輸作戦だけではありません。 ちょっとどぎつく表現するならば、要するに、いいかげん各論でお話するのが退屈になってきただけです。 まともな議論だとは思っていません。 たいへんに失礼ながら、端的に言えば御説に茶々を入れて面白がっているだけです。 『空輸を過大評価するのは…(1)』のレスでも触れていますが、もっと根本的な点に疑問があります。 わたしが思うに、陸軍部隊の進撃路や使用部隊の部署や区署などどうでもいいのではないでしょうか。 そんな区々たる用兵は、各軍集団や軍、軍団の司令部に任せておけばいいし、またドイツ軍ならばそうするべきです。 ドイツ軍は軍集団から一個分隊に至るまで、正しく作戦目標を設定してやれば、それに最適な方法と進路とタイミングを図って実行してくれる軍隊だからです。 60年後の我々が不十分な資料をもとにああだこうだと作戦を立ててやらなくても、必要な情報さえあれば、世界に冠たる優秀なドイツ軍は当事者として実施可能な最も効率的で最も効果的な作戦を立案して目標達成に突き進むでしょう。 「バルバロッサ作戦に準備した兵力の初期配置を少し変えて、モスクワ一本槍で進めばモスクワは取れるだろう」 この命題を達成させるには、史実に於いてドイツ軍の凡ミスのように見られる兵站補給と中央軍集団機甲兵力の南旋を改善しようというのがEdwerdさんの『作戦目的』と拝察します。 また、だからこそ、それさえ取り除けばよいとの考えから空軍兵力の運用はべつにそのままで良い(陸軍部隊の描写が微に入り細を穿っているわりに、空軍部隊はフリーガーコーアはおろかルフトフロッテですら固有部隊名も部署も区署もまったくなしですから)とのお考えなのでしょう。 しかしながら、それに確固たる理由も説明もなく、それではモスクワを取るには駄目だからといって「やらない」というのでは説得力というものがありません。 いったいどこの誰が「それではモスクワは取れないよ」とドイツ軍統帥部に教えてやれるのでしょうか。 ドイツ軍としては当時ドイツが投入し得る中で、考え得る最良の布陣と最良の計画と最良の実施を以って史実の対ソ侵攻作戦を準備し実行しているというのに。 ドイツが南方戦区に大きい兵力を注ぎ込んだのは何故か、それを覆すには何が必要か。 レニングラードに突入しようとしなかったのは何故か、それを覆すには何が必要か。 中央軍集団機甲兵力をキエフに転用したのは何故か、それを覆すには何が必要か。 当事者としてあのドイツ軍がこうした方策をとったからには、それなりの理由があるはずです。 「もし」「たら」「れば」を積み重ねてモスクワを陥すよりも、先にやることがあるように思えます。 この作戦がまるっきり無謀なものだとはわたしも思ってはいません。 ものすごく危険でソ連軍をなめすぎているように見えますし、作戦部隊以外への考慮が不十分なようにも見えますが、運が良ければ成功するかもしれません。 なにしろドイツ軍ですから、実行上の困難はどうも何とかしてしまいそうな気もします。 しかし、それが当事者として当時のドイツ軍がそう思えるかどうか、ドイツ軍がEdwerd作戦を採用するであろう根拠が全く見えてきません。 更に言えば、モスクワを取ることは対ソ戦の決勝点にはならない、必要条件かもしれないが十分条件ではない、この点は一致していると思いますが、その後の決勝戦となるであろうドイツの宣伝戦略と占領政策についての検討が実に曖昧で且つ現実性も極めて薄弱に感じられます。 要するにドイツ陸軍にモスクワを取らせてやりたいだけなんじゃないのかと邪推してみたくもなります。 また、この時期、ヒトラーは帝国宰相と大統領とを兼ねる総統であるだけです。 確かに大統領は国防軍最高指揮官としての職掌をも有していますが、その鶴の一声だけで作戦が決まるものではありません。 ノルウェーもフランスも、国防軍内部に既にあった計画にゴーサインを与えただけです。 |
相手の言うことが理不尽に思えるなら、反論してはいかがですか。 反論に疲れたのなら、黙っていてもいいのではありませんか。 「お前はこんなこともわかっていないのでは、話すだけ無駄だ」という態度はどうもいただけません。 私は専門家でもなんでもなく、一次史料を読んだことすらありません。でも軍事話はしたいのです。 まなかじさんや、SUDOさんのように「もの知らずにはついていけんわ」というような書き込みが板を埋めてしまうと、私のような素人はとっても書きづらいです。 この掲示板が専門家専用のものならば、それでもいいでしょう。 でも、私はいままで、ここはそういうところではないと思って眺め、読み、書き込んできました。 私の知らないところでルールが変わったのでしょうか。 Ans.Q とは別にこの掲示板がある意義というものをお考えになったことがありますか? 「議論の前提が違う」と文句を言わなくても、Edwerd さんの土俵の上で反論することは可能です。どうしてそれをしないのですか? それは私のような素人にもできるのですが。 もし、そんなことは自分にはできない、とお思いなら、 >「もし」「たら」「れば」を積み重ねてモスクワを陥すよりも、先にやることがあるように思えます。 などという「爾後南京政府を相手にせず」みたいなことは言わずに、黙って見ていればいいじゃありませんか。 これはSUDOさんの > まあ、私とは生きてる世界が違うのでしょうから、ここで落ちます。お疲れ様でした。 という発言にも感じることです。 お二人とも、このサイトのいろいろなところに書き込んでおられる方のようですが、何も全スレッドに書き込まなければいけないなどということはないでしょう? あるひとつの掲示板での流れがいやな感じになっているのなら、別のサイトや自分のサイト、あるいは仲間うちの寄り合いで愚痴を言い合っていればいいのです。私はそうしています。 さらに申し上げれば、 >60年後の我々が不十分な資料をもとにああだこうだと作戦を立ててやらなくても、必要な情報さえあれば、世界に冠たる優秀なドイツ軍は当事者として実施可能な最も効率的で最も効果的な作戦を立案して目標達成に突き進むでしょう。 こんな虚無的な発言は、趣味・道楽としての軍事話の存在を否定するものです。 「反論をする代わりに愚痴を言っている」ような書き込みは迷惑です。せっかくのおもしろいネタのスレッドが終わっちゃうじゃありませんか。もったいない。 私はEdwerd 作戦に修正を迫るべく鋭意思考中だというのに。 |
「Re:空輸を過大評価するのは…(1)」の最初の私の意見にある「その為に想定した輸送力より低下するとしても、大名死亡さんへの返答で説明した様に・・・」のくだりは「大塚好古さんへの返答で説明した様に」とすべき所の間違いですので訂正いたします。 具体的にはその説明とは「Re:思いつくまま適当に空輸の話・Edwerd - 03/3/11(火) 15:15 」のスレッドの私の二番目の意見にある、「天候や航空部隊の稼動状況を考慮して・・・」以降の文章を指します。 |
Edwerdさんに質問があるのですが 1.輸送機部隊はどの地点を基地(中継地点も含む)として空輸を行うのでしょうか? 2.第2装甲集団に対しての補給方法は空中投下でしょうかそれとも、着陸しての受け渡しでしょうか? 3.その輸送機部隊および使用基地に対する、補給がどれくらいの量になるとお考えでしょうか? それぞれの質問の意図は ・1.装甲集団への補給物資の集積場所をどこに想定しているのか、 輸送ルートを通すためにどれだけの航空基地郡が必要と考えているのか ・2.空中投下の場合、低高度から投下できず(低すぎるとパラシュートが開く前に着地する)着地した1500機分の物資を拾い集める手間が発生し、 着陸の場合、野戦飛行場を建設する手間と着陸機体の整備と補修物資燃料の積み立てが必要となるのですがどちらのリスクを許容するのか? ・3.最終的に輸送を行う部隊と各基地に駐屯する支援集団 (機体整備、管制、基地滑走路整備、警備、高射砲部隊、庶務事務、法務、烹炊)に対する 補給をどれだけと見積もっているのか となっています。 |
> ・2.空中投下の場合、低高度から投下できず(低すぎるとパラシュートが開く前に着地する)着地した1500機分の物資を拾い集める手間が発生し、 > 着陸の場合、野戦飛行場を建設する手間と着陸機体の整備と補修物資燃料の積み立てが必要となるのですがどちらのリスクを許容するのか? ブラウ作戦時、主要鉄道線から離れてスターリングラードへと急進する第6軍への補給の一部を第4航空軍が受け持った例があります。 この場合、平坦地を選び、簡単な整地をして発着場とし、輸送機はそこへ着陸して物料を卸下したら、そのまま機内燃料で離陸して基地へ帰投します。 帰投分の燃料を計算しないといけないので進出距離は短くなりますし、貨物のペイロードもその分減りますが、一日数十km単位での急進撃と、運ぶべき物件が燃料弾薬であるという条件に合致させることを考えると止むを得ない措置かと思います。 |
> Edwerdさんに質問があるのですが > > 1.輸送機部隊はどの地点を基地(中継地点も含む)として空輸を行うのでしょうか? > 2.第2装甲集団に対しての補給方法は空中投下でしょうかそれとも、着陸しての受け渡しでしょうか? > 3.その輸送機部隊および使用基地に対する、補給がどれくらいの量になるとお考えでしょうか? > > それぞれの質問の意図は > ・1.装甲集団への補給物資の集積場所をどこに想定しているのか、 > 輸送ルートを通すためにどれだけの航空基地郡が必要と考えているのか 補給物資の集積場所はブリャンスク・カルーガ・オリョール・ツーラの各都市を想定しています。またドイツ空軍は1941年2月にデミャンスクで包囲された第2軍団に対する空輸補給の為、プスコフ周辺の飛行場から330機(約3個航空団規模)の輸送機を運用しましたが、上記の各都市でもそれと同程度の飛行場群が使用できると推察します。また不足分があった場合も、北・南方軍集団からの抽出分も加え、5〜6個の建設工兵連隊を動員すれば、更に2〜3個航空団分の仮設飛行場は用意できると想定しています。 > ・2.空中投下の場合、低高度から投下できず(低すぎるとパラシュートが開く前に着地する)着地した1500機分の物資を拾い集める手間が発生し、着陸の場合、野戦飛行場を建設する手間と着陸機体の整備と補修物資燃料の積み立てが必要となるのですがどちらのリスクを許容するのか? 比較的平坦な場所に急造した仮設の臨時飛行場への着陸と空中投下を併用し、状況に応じて双方の方法を使い分ける必要があると想定しています。また他の記事にも書きましたが、延べ1500機分の補給を毎日投下する訳ではなく、実際の1日あたりの補給物資量もっと少ないと見込んでいます。 > ・3.最終的に輸送を行う部隊と各基地に駐屯する支援集団 > (機体整備、管制、基地滑走路整備、警備、高射砲部隊、庶務事務、法務、烹炊)に対する補給をどれだけと見積もっているのか 私が提示した作戦では10月にはブリャンスクまで補給端末駅が前進していると想定していますが、燃料は別として航空団レベルの飛行基地6〜7個分の整備支援機構を維持するのに概算で歩兵2個軍団規模に対するのと同程度の補給量を見込んでいます。また燃料を含めてもその補給集積所が当初の前線飛行場の至近に位置することから十分供給可能と想定しています。 |
ありがとうございます。 輸送部隊の補給に対する負担で 兵站線がつぶれるのではないかと考えていたのですが・・・ ともかく、Edwerdさんのお考えはわかりました。 それではこれにて。 |
更に間接的にアプローチしてみる ここで問題になるのは、モスクワへ繋がる幹線級鉄道は何本あるのかというところです。 モスクワに繋がるのは以下のものです。 1:アルハンゲリスクから南下してヤロスラブリを抜ける線 2:ウラル工業地帯北部からキーロフを経由してゴーリキーを抜ける線 3:シベリアからウラル工業地帯南部カザンを抜ける線(ゴーリキー経由線とほぼ平行に南を通る) 4:ロストフから真っ直ぐ北上する線、スターリングラード、クイビシェフ等からの線はこれに繋がります。 5:ドネツ工業地帯ハリコフから北上し、オリヨール、ツーラと進む線 6:ミンスク−ゴーメリー-ブリヤンスクというルートを通る線 7:ミンスクを立って東進する線 8:リガを立って東進する線 9:レニングラードをから南東に進む線 以上の9本が「幹線級」つまり世界地図に出るレベルの大規模鉄道で、最大効率で運用された場合、一日30,000トン近い輸送が可能と見積もれます。 さて、こうしてみると、キエフを確保できていない場合、ドイツ軍がモスクワ攻撃に活用できるのは、ミンスクとリガの、#7と#8の線しかありません。 #6の線は起点となるミンスクまでの輸送は幹線が二本入ってるので余裕もありそうですが、ゴーメリーはキエフの北200kmであり、キエフから空襲でもあると寸断の危険性があります。 また、キエフ発の線はブリヤンスクで#6と繋がっており、そしてキエフへはワルシャワ−ブレスト線以外にも、ルーマニアやハンガリー方面からも幹線が入っており、補給起点として魅力的です。 そしてブリヤンスクとオリヨールの間には幹線道路も通っており、キエフの確保は、様々な意味で重要であるというのが読み取れます(#5と#6を使える) 結論としては、赤軍は7本、ドイツ軍は2本を使えるので、赤軍の戦力集中はドイツ軍の3.5倍以上が可能であると考える事が出来ます。つまり時間をかけると赤軍はモスクワに大軍を持ってこれてしまうのです。 完全編成の師団ですら24時間で運んでしまうのが幹線です。赤軍は毎日7個師団相当約10〜15万を集めてしまうのです。 対してドイツ軍は攻略部隊を攻撃発起地点に展開させるだけでも時間がかかりますし、必要な補給や資材を集めるのにも時間がかかります(彼等の確保した2本の鉄道が最大効率を発揮できるとは思えませんので、独ソの輸送能力差は5倍はあるでしょう) ドイツ軍は頑張っても100万人しかこの作戦には投入できず、赤軍は300〜500万までなら、その兵力があるならば、同じ時間にモスクワ周辺に置く事ができるのです。 となると、赤軍にモスクワに兵力を回す意志が無い場合を除いて、赤軍はそこに戦力を送るでしょう。これを妨げるものは赤軍の台所事情以外には無いのです。 よって赤軍が何時モスクワ集中を決意するかという問題になるでしょう。100万でしたら一週間で送り込めます。よって、どうあっても確実にドイツ軍よりも赤軍の投入兵力は優位になります。 さて、都市に篭った自らより多数の敵をドイツ軍は駆逐できるのでしょうか? できるとは思いがたいですが、出来たとしても、投入した戦力は酷い事になるでしょう。 勿論赤軍はEdwerdさんが提示なされた資料によるとまだ百万や二百万の兵力を残してるのですから(キエフ方面にも百万いますね) 冬季攻勢等の結果、モスクワの支配権如何に関わらず、モスクワ攻略軍は全滅するでしょう。 キエフ方面のソ連軍がその気になって冬季攻勢をしたら、#6、#7の線が切断されますので、そうなるとレニングラードの赤軍も頑張った場合は間接的に#8も圧迫されるので、モスクワにドイツ軍が送り込める補給量は10,000トン/日を切るでしょう。 生存に必要な最低量を食料だけとしても(防寒装備は此の際我慢)一人3kgですから(寒いならもっと欲しいですけど)35万人を食わせるのが精一杯という状況になり、飢餓が始まります。 かといって、モスクワに30万しか残さなかった場合、恐らく逆襲されて奪還されます。 モスクワ攻略は、ドイツ軍がモスクワに送り込める補給の問題から否定されます。 キエフを確保していた場合、#6の線が最大活用できるのみならず、#5の線も途中から奪え活用できるのです。 またレニングラードを確保していれば、港から揚がる大量の物資を、#9線で短距離で運搬でき、それはモスクワの西を南北で走る線を使う事で、他ルートにも回せるので、非常に大きな効果を発揮します。 よって、この両者のうち片方でも確保していない状況で、2本だけの輸送路でモスクワにアクセスするのは危険を通り越して無謀でしょう。 史実では、キエフの確保をしており、ツーラの攻略にかかってますね。つまりそれは#6の線の完全確保と、#5確保の流れであったのです。 これらに、レニングラードも確保できていたならば、#5の半分活用に、#6〜9の合計4.5本を使えるのです。これならばソ連軍と対等ですね、ならば混乱から立ち直っていない赤軍に勝利してモスクワを落とした上、冬季攻勢を跳ね返して篭城する事は決して難しくは無いでしょう。 となると、キエフ攻略は必須ですね、そして出来ればレニングラードも欲しい(レニングラードが齎す港は大きいです) これらを押さえないでモスクワに進むのは、自滅に等しい行動ではないでしょうか。 つまり、モスクワに行くならば、モスクワを攻めて守りきれる補給ルートの確保が必要でしょう。 そして、その過程でモスクワに篭るかも知れないソ連野戦軍を減勢させ、来るべきモスクワ攻略戦への布石とするのが良いのではないでしょうか? まずはキエフとレニングラードです。 |
> 更に間接的にアプローチしてみる > > ここで問題になるのは、モスクワへ繋がる幹線級鉄道は何本あるのかというところです。 > > モスクワに繋がるのは以下のものです。 > 1:アルハンゲリスクから南下してヤロスラブリを抜ける線 > 2:ウラル工業地帯北部からキーロフを経由してゴーリキーを抜ける線 > 3:シベリアからウラル工業地帯南部カザンを抜ける線(ゴーリキー経由線とほぼ平行に南を通る) > 4:ロストフから真っ直ぐ北上する線、スターリングラード、クイビシェフ等からの線はこれに繋がります。 > 5:ドネツ工業地帯ハリコフから北上し、オリヨール、ツーラと進む線 > 6:ミンスク−ゴーメリー-ブリヤンスクというルートを通る線 > 7:ミンスクを立って東進する線 > 8:リガを立って東進する線 > 9:レニングラードをから南東に進む線 > 以上の9本が「幹線級」つまり世界地図に出るレベルの大規模鉄道で、最大効率で運用された場合、一日30,000トン近い輸送が可能と見積もれます。 > さて、こうしてみると、キエフを確保できていない場合、ドイツ軍がモスクワ攻撃に活用できるのは、ミンスクとリガの、#7と#8の線しかありません。 > #6の線は起点となるミンスクまでの輸送は幹線が二本入ってるので余裕もありそうですが、ゴーメリーはキエフの北200kmであり、キエフから空襲でもあると寸断の危険性があります。 > また、キエフ発の線はブリヤンスクで#6と繋がっており、そしてキエフへはワルシャワ−ブレスト線以外にも、ルーマニアやハンガリー方面からも幹線が入っており、補給起点として魅力的です。 > そしてブリヤンスクとオリヨールの間には幹線道路も通っており、キエフの確保は、様々な意味で重要であるというのが読み取れます(#5と#6を使える) > > 結論としては、赤軍は7本、ドイツ軍は2本を使えるので、赤軍の戦力集中はドイツ軍の3.5倍以上が可能であると考える事が出来ます。つまり時間をかけると赤軍はモスクワに大軍を持ってこれてしまうのです。 > 完全編成の師団ですら24時間で運んでしまうのが幹線です。赤軍は毎日7個師団相当約10〜15万を集めてしまうのです。 > 対してドイツ軍は攻略部隊を攻撃発起地点に展開させるだけでも時間がかかりますし、必要な補給や資材を集めるのにも時間がかかります(彼等の確保した2本の鉄道が最大効率を発揮できるとは思えませんので、独ソの輸送能力差は5倍はあるでしょう) > ドイツ軍は頑張っても100万人しかこの作戦には投入できず、赤軍は300〜500万までなら、その兵力があるならば、同じ時間にモスクワ周辺に置く事ができるのです。 > となると、赤軍にモスクワに兵力を回す意志が無い場合を除いて、赤軍はそこに戦力を送るでしょう。これを妨げるものは赤軍の台所事情以外には無いのです。 > よって赤軍が何時モスクワ集中を決意するかという問題になるでしょう。100万でしたら一週間で送り込めます。よって、どうあっても確実にドイツ軍よりも赤軍の投入兵力は優位になります。 > さて、都市に篭った自らより多数の敵をドイツ軍は駆逐できるのでしょうか? できるとは思いがたいですが、出来たとしても、投入した戦力は酷い事になるでしょう。 > 勿論赤軍はEdwerdさんが提示なされた資料によるとまだ百万や二百万の兵力を残してるのですから(キエフ方面にも百万いますね) > 冬季攻勢等の結果、モスクワの支配権如何に関わらず、モスクワ攻略軍は全滅するでしょう。 > キエフ方面のソ連軍がその気になって冬季攻勢をしたら、#6、#7の線が切断されますので、そうなるとレニングラードの赤軍も頑張った場合は間接的に#8も圧迫されるので、モスクワにドイツ軍が送り込める補給量は10,000トン/日を切るでしょう。 > 生存に必要な最低量を食料だけとしても(防寒装備は此の際我慢)一人3kgですから(寒いならもっと欲しいですけど)35万人を食わせるのが精一杯という状況になり、飢餓が始まります。 > かといって、モスクワに30万しか残さなかった場合、恐らく逆襲されて奪還されます。 > モスクワ攻略は、ドイツ軍がモスクワに送り込める補給の問題から否定されます。 > > キエフを確保していた場合、#6の線が最大活用できるのみならず、#5の線も途中から奪え活用できるのです。 > またレニングラードを確保していれば、港から揚がる大量の物資を、#9線で短距離で運搬でき、それはモスクワの西を南北で走る線を使う事で、他ルートにも回せるので、非常に大きな効果を発揮します。 > > よって、この両者のうち片方でも確保していない状況で、2本だけの輸送路でモスクワにアクセスするのは危険を通り越して無謀でしょう。 > 史実では、キエフの確保をしており、ツーラの攻略にかかってますね。つまりそれは#6の線の完全確保と、#5確保の流れであったのです。 > これらに、レニングラードも確保できていたならば、#5の半分活用に、#6〜9の合計4.5本を使えるのです。これならばソ連軍と対等ですね、ならば混乱から立ち直っていない赤軍に勝利してモスクワを落とした上、冬季攻勢を跳ね返して篭城する事は決して難しくは無いでしょう。 > となると、キエフ攻略は必須ですね、そして出来ればレニングラードも欲しい(レニングラードが齎す港は大きいです) > これらを押さえないでモスクワに進むのは、自滅に等しい行動ではないでしょうか。 > > つまり、モスクワに行くならば、モスクワを攻めて守りきれる補給ルートの確保が必要でしょう。 > そして、その過程でモスクワに篭るかも知れないソ連野戦軍を減勢させ、来るべきモスクワ攻略戦への布石とするのが良いのではないでしょうか? > > まずはキエフとレニングラードです。 鉄道幹線9本による輸送量に関して挙げておらますが、実際には抽出可能な予備兵力はほとんど南方の戦線にあるのですから、これら9本の幹線鉄道全ての輸送力を計算に含めるのは妥当ではないと思います。いずれにしても、理論上は「赤軍は300〜500万までなら、その兵力があるならば、同じ時間にモスクワ周辺に置く事ができる」という事ができたとしても、「その兵力があるならば」と在るように、実際には瞬間的にそれだけの兵力を動員するはできませんし、又、他の戦線を手薄にしてまでそれだけの兵力を抽出する事も軍事戦略的に無理があると思われます。 また、史実におけるタイフーン作戦第1段階開始時の9月30日において、ソ連軍がモスクワ防衛に展開している兵力はドイツ軍77個師団に対して95個師団相当という資料が在りますが、先の戦略における1月早いブリャンスク方面への攻勢により、本来のタイフーン作戦の第1段階で健在だったはずの兵力は先の戦略の10月の段階では既に喪失し、モスクワ前面に展開できる兵力は、せいぜい史実の3分の2程度と想定している事を追記しておきます。 上記の様に、私の仮定の戦略は史実における既成事実として挙げた前提の上に仮定を積み重ねて述べているものですから、ソ連軍の兵力に関しても、史実で実際に展開を成し得ている兵力以下のものとはなっても、それ以上になるものとの可能性を想定して述べたものではありません。 上記にあるSUDOさんの他の意見も総じて観ますと、私の提示している前提条件を踏まえていない事を仮定して述べている様に見えますが、「軍事戦略その3」の戦略では、そこで既に述べられている様に、作戦開始時点でレニングラード・キエフを確保しており、ツーラもまた攻略する事を前提とした上で述べています。 |
一生懸命何度も読み返したのですが、史実で落ちなかったレニングラードを落して、南旋という大きなロスタイムを必要とするキエフ攻略をしながら、史実よりも早期にモスクワ攻撃がどうして可能なのかが理解できません。 中央の装甲が南旋をしなかった場合、キエフ攻略が果たせるとは思えません。勿論時間をかければ落とせるかも知れませんが、タイフーン前に成立するという根拠は私には理解できませんでした。 もしキエフを南方軍集団が攻略できたならば、それは史実よりも赤軍のキエフ方面への投入補充の量が少なかった場合としか考えられません。 またレニングラードをどうして落とせるのかも理解不能です。これも該方面に於ける独ソ両軍の投入戦力にその理由を求める事になると思いますが、これはつまるレニングラードへの赤軍投入戦力が史実よりも少ないという事を意味します(早期攻略すれば、当然赤軍がレニングラードに送り込んだ増援は行き場所はなくなるのです) これは、モスクワに送り込める赤軍の財布事情は、特別な政治的決断をしなくても、史実より多くなる事を意味しますよね? またキエフ攻略が果たせたとしても、史実よりも偉大なポケットは作れるとは思えません。そうなるとキエフで得た100万の戦果は無いので、その数割でもモスクワに戻ってきたら? 私には無理に思えます。 また「居ないであろう」から大丈夫。「史実ではそうだったから大丈夫」というのは非現実的な見積もりではないでしょうか? まあ、私とは生きてる世界が違うのでしょうから、ここで落ちます。お疲れ様でした。 |
> 一生懸命何度も読み返したのですが、史実で落ちなかったレニングラードを落して、南旋という大きなロスタイムを必要とするキエフ攻略をしながら、史実よりも早期にモスクワ攻撃がどうして可能なのかが理解できません。 > 中央の装甲が南旋をしなかった場合、キエフ攻略が果たせるとは思えません。勿論時間をかければ落とせるかも知れませんが、タイフーン前に成立するという根拠は私には理解できませんでした。 > もしキエフを南方軍集団が攻略できたならば、それは史実よりも赤軍のキエフ方面への投入補充の量が少なかった場合としか考えられません。 > またレニングラードをどうして落とせるのかも理解不能です。これも該方面に於ける独ソ両軍の投入戦力にその理由を求める事になると思いますが、これはつまるレニングラードへの赤軍投入戦力が史実よりも少ないという事を意味します(早期攻略すれば、当然赤軍がレニングラードに送り込んだ増援は行き場所はなくなるのです) > これは、モスクワに送り込める赤軍の財布事情は、特別な政治的決断をしなくても、史実より多くなる事を意味しますよね? > またキエフ攻略が果たせたとしても、史実よりも偉大なポケットは作れるとは思えません。そうなるとキエフで得た100万の戦果は無いので、その数割でもモスクワに戻ってきたら? > 私には無理に思えます。 > また「居ないであろう」から大丈夫。「史実ではそうだったから大丈夫」というのは非現実的な見積もりではないでしょうか? > > まあ、私とは生きてる世界が違うのでしょうから、ここで落ちます。お疲れ様でした。 私としては上記2件について最初の「その軍事戦略」で説明したつもりだったのですが、説明不足と感じたのであればご容赦下さい。ここで討論を終わりにするという事なので返答を頂かなくとも結構ですが、一応、この件に関してだけ説明させて下さい。 キエフに関しては、南方軍集団が史実の様にドニエプル河に沿ってその下流域奥深く、ドニエプロ・ペトロフスクまで進撃するのではなく、第11軍・ルーマニア第3軍の前進後に史実より早い段階でウマニ付近で西南に進路を変え、直ちにキエフ南方でドニエプル河を渡河してその背後に出ていれば、キエフ攻略にそれほど手間取る事なく、想定したモスクワ戦前に最終的にこれを確保できていると想定しています。 レニングラードにおいては、最初から装甲部隊の機動に適したフィンランド湾沿いの街道にその装甲戦力を集中していれば、史実の様にルガ方面のソ連軍兵力のレニングラード市への退却を許す事無く、ソ連軍の準備が整う前に市街への攻撃が可能だったと想定しています。 また、これらの要件を満たしてモスクワに対する早期攻撃の体勢を整える事は、最も根幹にあった「戦略方針の統一の徹底」という問題を解決していれば、基本的にそれは可能であったと私は推察します。 |
Edwerdさまの計画を読んで、幾つか疑問を覚えました。浅学なので、よく分からないのですが(最近、私如きでは、到底口を挟めないレベルの話が展開されています)。疑問にお答えくだされば幸いです。 まず、レニングラードを独軍が占領した場合、当然レニングラード市民に対する補給(食糧、燃料等)の義務は、独軍に生じると思われます。その補給が、独軍の進撃に悪影響を及ぼすことはないのでしょうか。 レニングラードが占領されてすぐ、モスクワが次に脅威にさらされそうな時点で、南方軍集団に対峙していたソ連軍からかなりの部隊がモスクワ防衛のために抽出されたり、日本軍と対峙している極東方面軍から史実より早めに部隊が抽出されたり、ということはありえないのではないでしょうか。 モスクワは交通の要衝なのはよく存じ上げていますが。それは裏返せば、奪回のための兵力を集中しようとするのも有利ということで、防衛上の問題が生じるということはないのでしょうか。 また、以前別レスで書きましたが、当時、独軍占領地帯では極めて過酷な占領政策が横行しており(冬用ブーツの所持禁止破りを初めとする生きようとするだけで40以上もの発覚すると良くて強制収容所送りな規則違反を犯さないといけない生活だったそうです)、冗談抜きに死んだほうがましな状況でした。本当にそんな状況で、ソ連の人々が講和を望むのでしょうか(リトアニアやラトビアからも、独からの解放を目指して、赤軍に大量の志願者が集まり、2個師団が少なくとも編制されたと思います)。 |
> Edwerdさまの計画を読んで、幾つか疑問を覚えました。浅学なので、よく分からないのですが(最近、私如きでは、到底口を挟めないレベルの話が展開されています)。疑問にお答えくだされば幸いです。 > > まず、レニングラードを独軍が占領した場合、当然レニングラード市民に対する補給(食糧、燃料等)の義務は、独軍に生じると思われます。その補給が、独軍の進撃に悪影響を及ぼすことはないのでしょうか。 占領した都市を統治した事によって、その全市民への補給の必要が生じるというのはちょっと極端ではないでしょうか。確かにレニングラード市はモスクワに次ぐ大都市ですが、長期間にわたる包囲下にあってその都市機能が低下する事はあっても、史実と違う展開で早期に占領を果していれば、その都市が自給自足できる能力は残されているはずです。また仮に一時的にその必要が生じても、フィンランド・バルト海経由からの物資補給で十分に対処できると思います。 > レニングラードが占領されてすぐ、モスクワが次に脅威にさらされそうな時点で、南方軍集団に対峙していたソ連軍からかなりの部隊がモスクワ防衛のために抽出されたり、日本軍と対峙している極東方面軍から史実より早めに部隊が抽出されたり、ということはありえないのではないでしょうか。 理論的にはありえます。ただ私はソ連軍の(政治的その他の理由による)兵力展開の如何・増援等の要素は概ね史実通りのものと想定して仮定の戦略を述べています。またその様に、片方の戦略の変化に応じて他方の戦略の変化を考慮に入れた想定を試み始めたらきりがなくなりますし、この様な仮定の戦略においては前提条件の変更は最小限に留める方が考察し易いという事もあります。ただ、片方にだけ条件の変更を許すのは一方的と言われる方もおられると思いますが、そもそもこの様なIFの仮定そのものが固定的な想定な元に成り立っているものですから、それも至極当然なものとして受け止めています。 > モスクワは交通の要衝なのはよく存じ上げていますが。それは裏返せば、奪回のための兵力を集中しようとするのも有利ということで、防衛上の問題が生じるということはないのでしょうか。 史実の様な補給欠乏、都市における消耗戦による兵力の損耗等の理由で疲労しており、モスクワのみ占領した状態だと奪還される可能性は否定できません。ただモスクワとゴーリキーその他の周辺各都市を広範囲で獲得していれば、内戦の利を得て兵力展開の速度で作戦レベルでの優位を得るのはドイツ軍の方です。ソ連の主要鉄道網がモスクワ周辺に一極集中している事から、ソ連軍はモスクワ東方と南方から反攻攻勢をとろうとしても、双方の地域が分断されていれば、ドイツ軍の兵力展開の変化・戦局の変化に応じてドイツ軍より早く対処する事ができません。もっともまなかじさんの言うソ連軍の軍事ドクトリンの発露はその様な性格の軍事力を最初からソ連軍に求めていないという事ですが、そのソ連軍のドクトリンの本領が発揮されるに足る物量が達成され始めるのも翌年後半からです。そしてドイツ軍がモスクワ前面で挫折した史実における状況でも、ソ連軍の冬季反攻作戦が限定的なものしか成し得なかったを考えれば、この様な状況下でソ連軍が効果的な冬季反攻を成し得た可能性は低いでしょう。 また、翌年春の攻勢が必要になった際も、ドイツ軍はレニングラード・モスクワを押さえている事で、史実の42年次におけるそれよりもウクライナ南部とボルガ河中流域方面への攻勢に戦力を集中できるはずで、ソ連軍としてはまずこれらの防衛の為に戦力を温存しなければならないはずです。 > また、以前別レスで書きましたが、当時、独軍占領地帯では極めて過酷な占領政策が横行しており(冬用ブーツの所持禁止破りを初めとする生きようとするだけで40以上もの発覚すると良くて強制収容所送りな規則違反を犯さないといけない生活だったそうです)、冗談抜きに死んだほうがましな状況でした。本当にそんな状況で、ソ連の人々が講和を望むのでしょうか(リトアニアやラトビアからも、独からの解放を目指して、赤軍に大量の志願者が集まり、2個師団が少なくとも編制されたと思います)。 > 占領政策や人種政策等は、双方の宣伝合戦の妙が多分に影響される問題でもあると思います。上記の例が独ソ戦の期間全般でのどの時期の事を指しているのかは判りませんが、占領政策の度合いも戦争の趨勢が短期間でドイツの優位に至っていればまた違ったものになっていたのでは。 また、ソ連に占領されたバルト三国や、独立意識の高かったウクライナに関してはむしろ反ソ的であり、ウクライナに関しては、ドイツが占領政策の緩和等の措置を取っていれば多くのウクライナ人義勇兵を確保できた可能性を示唆する説も良く聞きます。 いずれにしても戦争の終結に至る必要な要因は、ドイツの占領政策に対する噂を聞き及ぶソ連人民では無く、絶望的となったヨーロッパ・ロシアにおける戦況を考慮せざるを得ないソ連軍指導部、ないしはその時点でヨーロッパ・ロシアに発言力・影響力を有する政権の判断にかかってくると思います。またこれらの可能性も、傀儡政権の樹立、宣布・宣伝工作、ウクライナを初めとする各共和国の独立・自治の容認、ロシア人に対する人種政策の緩和等の実施によってよりドイツに有利に高まるのでは。 |
本当に9月中にキエフが陥ちますか? いずれにせよクライストの渡河点はクレメンチュークです。クレメンチュークで9月第1週(好意的に見て)にドニェプルを渡河し、北に向かいますが、グデーリアンが北から迫っているわけではありませんから、ブジョンヌイは突破先鋒に全力で反撃を行い、開戦当初のような膠着状態となるはずです。 一方第6軍ですが、プリピャチ・ドニェプル・ジェスナの合流点付近には渡河点がないので、北からキェフを包囲するのは不可能です。 さらに北からのキェフ包囲の可能性ですが、9月頭にゴメリが陥ちているかどうかは怪しいものです。おそらくゴメリ付近には小ポケットの中に多数の赤軍部隊がおり、第2軍はその始末に忙殺されてジェスナ川渡河など計画すらできないでしょう。 この状況で、どうやったら赤軍部隊でいっぱいになったキェフを9月中に陥とせるのか、私にはわからないのですが。 |
北方軍集団の戦況については既に考察しましたので、南方軍集団についても同様に考えてみたいと思います。 7月中旬にクライストは赤軍戦線を突破します。そこから装甲部隊は南〜南西へ機動し、8月頭にはウマーニで包囲を完成、赤軍南西方面軍の左翼を撃滅します。 装甲部隊はさらに南下してニコライェフを抑え、11軍の前進を可能にします。そこから北へ取って返し、クレメンチュークでドニェプルに達します(ある程度同時進行ですが)。 第17軍はウマーニの包囲を始末したにのちにチェルカッシ〜クレメンチュークのドニェプル岸へ到達、装甲部隊のための橋頭堡を確保します。ウマーニからここまでどうやってもひと月はかかると思います。 おそらく装甲部隊独力でのドニェプル渡河は不可能でしょう。のちの西側連合軍によるライン渡河のようすを見ても、大河の渡河には重機材の到着が不可欠であると思われます。 第6軍はキェフ前面に展開しますが、常に左翼プリピャチ湿地側に脅威を抱える上、強力な赤軍陣地に正面から接近するのですから、それほど目覚ましい進撃はできないと思います。 こうしてクライストの渡河は史実より多少早い9月第1週に行われます。 史実でもキェフ戦まではクライスト装甲集団はドニェプル下流方面へ進攻していませんから、ドニェプルを渡る戦力はほぼ史実と同様です。 ブジョンヌイはこれに対して全力で反撃を行います。キェフ保持を望むスターリンも、当初は十分な増援を与えるでしょう。 しかしここで中央軍集団はタイフーンを発動します。 さすがにモスクワが3個装甲集団に襲われているというのにキェフにこだわり続けるほどスターリンも愚かではないでしょう。 幸い反撃体制によってブジョンヌイの主力はやや東にシフトしています。そのまま積極防御でクライストを食い止めつつ、キェフ方面の戦線を縮小して、浮いた部隊を片っ端からモスクワへ送ることになります。 ブジョンヌイがクライストを抑えておけるのはおそらく20日程度でしょう。撤退する南西方面軍にとって、9月下旬まではまだ時間があるわけです。 (念のため述べておきますが、先の投稿で「キェフは9月に陥ちない」と書いたのは、こういった撤退戦略を赤軍がとらなかった場合のことです。Edwerd さんはそちらの方が可能性が高いとおっしゃっていましたので。撤退しないのならば、9月末にクライストが戦線突破、そのまま北上、10月半ばに第2軍戦線に達して包囲完成、ポケットの始末と戦線整理が終わるのは11月上旬、となります。) 赤軍はこの間に収容陣地の構築を急ぎ、ポルターヴァ――スーミ――クルスク前面――オリョールの線まで撤退します。ここで10月、雨が降り出します。 一方クライストには二つの選択肢があります。ハリコフへ東進するかオリョールへ北進するかです。 Edwerdさんの作戦では南方軍集団の任務は中央軍集団の翼側支援ということですから、おそらくオリョールへ向かうことでしょう。 スターリンの確地命令を受けたオリョールは死守体勢を取り、陥落するのは10月末。既にモスクワの市街戦が始まっている頃です。 この間に中央軍集団はヴャジマ前面においてポケットを形成(ブリャンスクが含まれないので、史実より多少小ぶりですが)、数十万の赤軍が壊滅します。 仕方なくスターリンはブジョンヌイから予備を根こそぎはぎ取ってモスクワへ。おそらくヴャジマ・ポケットで失った兵力と同等の兵力が転用されるでしょう。 こうして見ると、10月、モスクワへのラストスパートにおいてドイツ軍の最右翼はカルーガあたりであろうということがわかりました。まさに、泥の中での正面からの殴り合いに勝たなければドイツ軍はモスクワへ行けません。勝ってほしいとは思いますが。 ちなみにこの間、第6軍はクルスクを、第17軍はハリコフを力攻めにしていると思います。装甲軍の援助なしにこれらが陥ちるのはおそらく11月でしょう。 第11軍はドニェプロペトロフスク――サポロージェ――メリトポリへの線の前進をOKHへ具申すると思います。前面にほとんど敵がいないのですから。この意見具申に対してはどう返事をするのが適当でしょうか? |
私も今まで、レニングラートを陥とせば北翼の補給は劇的に改善すると思ってました。 しかしよく見ると、レニングラートから延びるモスクワ攻撃のための補給線はヴェリキエ・ルーキまで南下して東に折れるルートとなります。そしてレニングラート――→ヴェリキエ・ルーキ間の距離というのは、リガ――→ヴェリキエ・ルーキ間より少し長いのです。 さらに、8月にレニングラートが陥落した時点で、レニングラートの港湾設備、フィンランド湾の水路はどんな状況でしょうか。 まあ、ニコライェフの例もありますから、必ずしも瓦礫の山ではないかもしれません。しかし、最低でも港内にはバルト海艦隊の艦艇が爆発物を抱いたままごろごろ自沈しているのは間違いありません。 そしてそこから2ヶ月間必死に掃海・復旧をしたところで、補給港としての効果はリガ程度。 結局、そんなに劇的に補給は改善しないのではないでしょうか。 |
ここでついでに、9月タイフーン発動までの北方軍集団のタイムスケジュールを確認してみましょう。 7月第1週までに旧国境に到達。7月10日にレニングラート作戦開始、15日にキンギセップ付近でルガ川を渡河。第3週にレニングラート外周線に到達、8月頭までにレニングラートに強行突入、占領。 この時点でレープの歩兵部隊はルガに達しているかどうか。マンシュタインはレニングラートにいますから、ノヴゴロトの赤軍はルガ付近に堅固な陣を張っているはずです。 仕方がないのでレニングラートに舟艇機動で補給を送り、ルガとノヴゴロトを目指して南北から攻撃をかけます。北からの攻撃に使えるのは実質装甲1個軍団弱でしょうか。泥をかき分けての攻撃です。 死闘の末8月いっぱいをかけてノヴゴロトを占領。ナルヴァは陥ちているでしょうか?ヴェリキエ・ルーキは? 補給が足りませんからヴォルホフは無理でしょう。スタラヤ・ルッサも難しいでしょう。 それはともかく、そこまで済んだらヘープナーは急いで南転し、ブリャンスク戦に参加することになります。不可能ではないでしょうが、時間はぎりぎりです。少なくとも、補給港としてのレニングラートの真価を発揮する、モスクワ――レニングラート鉄道に沿った進撃は無理です。 |
以上をまとめると、9月タイフーンは史実より右翼は狭く、左翼もせいぜい同じ幅で開いた門から、ヘープナー・グデーリアン・ホートがモスクワに正面攻撃をかける、という形になると思います。出撃陣地はウネチャ−ロスラヴリ−イェリニャ−ヤルツェヴォ−ドヴィナ川の間でしょう。 Edwerd さんは中央軍集団の攻勢発起を8月下旬と見込んでおられますが、その時点ではロスラヴリすら確保しておらず、またゴメリが陥ちていない以上大攻勢発起は困難でしょう。そこまではヒトラーの差し出口もなく、ほぼグデーリアンはベストムーヴをやっていますから、これ以上早くなる見込みは薄いと思います。 攻勢を開始する9月上旬の段階ではモスクワ前面の防御施設は薄いですが、兵力は史実と同等またはそれ以上(キェフ方面からの北転部隊を含む)。ノヴゴロトも早めに見切ってモスクワ前面に部隊を回すかもしれません。 さてこれで勝てるか。 やってみないとわからないですね。サイの目がよければ勝てるでしょう。試してみる価値は大いにあるとは思います。 |
Edwerd さんの作戦を見て非常に疑問なのが、グデーリアンがコノトプ方面へ進撃していないのに、出撃陣地としてコノトプ方面を利用していることです。 これは、たとえて言えばマーケットガーデンをやっていないのにナイメーヘンからヴェリタブルができているようなもので、とても不自然です。 右翼がせいぜいウネチャである状況の下で、お説のような南方大旋回作戦をやるものかどうか。 ぜひ解説していただきたいと思います。 |
数多くレスを頂いて有り難うこざいます。以前からの討論の方への返答をしていて、ご返事が遅れて申し訳在りません。貴兄が寄せられたレスの返答にここで一括してお応え致します。 > グデーリアンによって包囲されていないキェフから部隊を引き抜いて北転させるのに、戦術能力は関係ないと思いますが。7月末にウマーニから、というなら別ですが。 この時点での状況は、キエフはその南方から渡河した第1装甲軍によって背後を押さえられてクルスク・ハリコフ方面への後方連絡線を遮断され、前方の対岸からは第6軍の圧力を受けた包囲下にあるものと想定しています。そしてこの様な状況下で敵との激しい交戦状態にある状態で、大きな損害を伴わずにそこから速やかに離脱しつつ包囲を突破して西・南西方面に後退するという軍事行動を実施する事は、この当時のソ連軍には難しい事であろうという「戦術的後退」に関する意見に対して争点が持ち上がったという次第なのです。 また、この点からSUDOさんとの討論が「機動力」や「軍事能力の質的優位」云々という点にまで争点が拡大して行ったのは、私が41年時点での状況に限定しているのに対し、先方が独ソ戦の行なわれた期間全般から観た総合能力を前提していて、双方の前提が初めから相違していたからなのです。 > 本当に9月中にキエフが陥ちますか? > いずれにせよクライストの渡河点はクレメンチュークです。クレメンチュークで9月第1週(好意的に見て)にドニェプルを渡河し、北に向かいますが、グデーリアンが北から迫っているわけではありませんから、ブジョンヌイは突破先鋒に全力で反撃を行い、開戦当初のような膠着状態となるはずです。 > 一方第6軍ですが、プリピャチ・ドニェプル・ジェスナの合流点付近には渡河点がないので、北からキェフを包囲するのは不可能です。 > さらに北からのキェフ包囲の可能性ですが、9月頭にゴメリが陥ちているかどうかは怪しいものです。おそらくゴメリ付近には小ポケットの中に多数の赤軍部隊がおり、第2軍はその始末に忙殺されてジェスナ川渡河など計画すらできないでしょう。 > この状況で、どうやったら赤軍部隊でいっぱいになったキェフを9月中に陥とせるのか、私にはわからないのですが。 史実では8月上旬には第1装甲軍・第17軍・第11軍によるウマーニ攻囲を完成させ、これを殲滅していますが、私の想定では第2装甲軍はこの後、クレメンチェーク・ドニエプロペトロフスク方面を指向してドニエプル河南岸沿いにウクナイナ南東部へ進撃するのではなく、カネフ付近の渡河点(キエフ−チェッルカッシイの中間付近にあり、史実のキエフ包囲戦で第6軍が渡河した。またこの時、同軍はキエフ北方50キロあたり、プリペット河とドニエプル河の合流する地点より南方からも渡河しています)から最短距離でキエフの後方連絡線を遮断するものと想定しています。従ってこの場合の包囲網というものも史実にある様なソ連軍の5個軍を殲滅するという規模のものではなく、第1装甲軍は、第6軍と共に形成する包囲網からのキエフ攻撃を後続する第17軍に任せた後、その東方へ展開して残るソ連各軍を牽制・ないしはこれを各個撃破に努めるものと想定しています。 > 北方軍集団の戦況については既に考察しましたので、南方軍集団についても同様に考えてみたいと思います。 > 7月中旬にクライストは赤軍戦線を突破します。そこから装甲部隊は南〜南西へ機動し、8月頭にはウマーニで包囲を完成、赤軍南西方面軍の左翼を撃滅します。 > 装甲部隊はさらに南下してニコライェフを抑え、11軍の前進を可能にします。そこから北へ取って返し、クレメンチュークでドニェプルに達します(ある程度同時進行ですが)。 ……(以下略) 上記のレスの見解は、先に挙げた様に私の想定と前提条件が異なりますので、以後に述べられている貴兄の想定が私のものと大きく異っている事に関してもコメントは差し控えさせてもらうのが妥当かと思います。 > 私も今まで、レニングラートを陥とせば北翼の補給は劇的に改善すると思ってました。 > しかしよく見ると、レニングラートから延びるモスクワ攻撃のための補給線はヴェリキエ・ルーキまで南下して東に折れるルートとなります。そしてレニングラート――→ヴェリキエ・ルーキ間の距離というのは、リガ――→ヴェリキエ・ルーキ間より少し長いのです。 > さらに、8月にレニングラートが陥落した時点で、レニングラートの港湾設備、フィンランド湾の水路はどんな状況でしょうか。 > まあ、ニコライェフの例もありますから、必ずしも瓦礫の山ではないかもしれません。しかし、最低でも港内にはバルト海艦隊の艦艇が爆発物を抱いたままごろごろ自沈しているのは間違いありません。 > そしてそこから2ヶ月間必死に掃海・復旧をしたところで、補給港としての効果はリガ程度。 > 結局、そんなに劇的に補給は改善しないのではないでしょうか。 レニングラードを補給源とできる事で、少なくともそこから300キロ以内をトラック輸送による通常の補給下を維持した攻撃圏内とする事ができるはずです。ただ、レニングラード−モスクワ間の街道沿いの攻撃に際しての同方面の地形を考慮すれば、その補給ラインもある程度の制約を受けるものと思われますが、この点に関しては私の想定では同方面からの攻勢はモスクワ攻撃を支援する為の牽制攻撃に留めると述べている通りです。 またレニングラードを確保する事の補給上のメリットは、北方軍集団の補給状況が改善されるというよりも(もともとバルト三国内の鉄道線はほとんどロシアン・ゲージの広軌鉄道に改修されていないので、補給端末駅の伸長状況は最も良好な状態にあります)、本来同方面に振り向けている鉄道輸送力を中央軍集団の方面に向けられるという意味で間接的にドイツ軍の補給に寄与できる所にあると想定しています。 > ここでついでに、9月タイフーン発動までの北方軍集団のタイムスケジュールを確認してみましょう。 > 7月第1週までに旧国境に到達。7月10日にレニングラート作戦開始、15日にキンギセップ付近でルガ川を渡河。第3週にレニングラート外周線に到達、> 8月頭までにレニングラートに強行突入、占領。 > この時点でレープの歩兵部隊はルガに達しているかどうか。マンシュタインはレニングラートにいますから、ノヴゴロトの赤軍はルガ付近に堅固な陣を張っているはずです。 > 仕方がないのでレニングラートに舟艇機動で補給を送り、ルガとノヴゴロトを目指して南北から攻撃をかけます。北からの攻撃に使えるのは実質装甲1個軍団弱でしょうか。泥をかき分けての攻撃です。 > 死闘の末8月いっぱいをかけてノヴゴロトを占領。ナルヴァは陥ちているでしょうか?ヴェリキエ・ルーキは? 補給が足りませんからヴォルホフは無理でしょう。スタラヤ・ルッサも難しいでしょう。 > それはともかく、そこまで済んだらヘープナーは急いで南転し、ブリャンスク戦に参加することになります。不可能ではないでしょうが、時間はぎりぎりです。少なくとも、補給港としてのレニングラートの真価を発揮する、モスクワ――レニングラート鉄道に沿った進撃は無理です。 「その軍事戦略」の最初のスレッドでは詳しく説明していませんでしたが、第4装甲軍のレニングラード市への攻撃と、ルガ方面に対する側面への展開は、ある程度同時進行しているものと想定しています。無論、その重点はあくまでレニングラード市へ振り向けられますが、増援の第40装甲軍団の兵力、またルガ−ノブゴロド間の補給連絡線をルガ河の手前で遮断できる事も考慮すれば、第16軍の主力が攻勢をかけるまで同地域のソ連軍を牽制して置く事はできるでしょう。 ノブゴロド−スタラヤ・ルッサのラインは、レニングラードが確保できる前にあえて各都市の確保を急ぐ必要もなく戦線を維持するに留めれば良いし、ヴォルホフ方面に関しても、想定するようなレニングラード市南西・南部方向から史実より早期に攻撃をかける戦略では、同市の東部・ネヴァ河対岸方面からの攻撃は同市の中心部へ進撃するのにネヴァ河を再度渡河しなくてはならず効率が悪く、不必要でもあるという理由で、同様に同方面への進出を急ぐ必要はないでしょう。 また、ナルバ河畔に立てこもったソ連軍は、レニングラードが占領されれば、海上からの連絡線も絶たれて完全に補給途絶状態に陥る事は明白ですから、これもあえて無理攻めする必要も無い。また、第18軍が先のエストニア方面のソ連軍を包囲下に押し止めておくに留めて、その兵力の内の可能な限りを装甲軍の支援に充てる一方、第16軍はレニングラード攻撃の主要な作戦に参加しない事から、ヴェルキ=ルーキに関しても少なくとも史実通りの時期に確保できるものと推察します。 > 以上をまとめると、9月タイフーンは史実より右翼は狭く、左翼もせいぜい同じ幅で開いた門から、ヘープナー・グデーリアン・ホートがモスクワに正面攻撃をかける、という形になると思います。出撃陣地はウネチャ−ロスラヴリ−イェリニャ−ヤルツェヴォ−ドヴィナ川の間でしょう。 > Edwerd さんは中央軍集団の攻勢発起を8月下旬と見込んでおられますが、その時点ではロスラヴリすら確保しておらず、またゴメリが陥ちていない以上大攻勢発起は困難でしょう。そこまではヒトラーの差し出口もなく、ほぼグデーリアンはベストムーヴをやっていますから、これ以上早くなる見込みは薄いと思います。 > 攻勢を開始する9月上旬の段階ではモスクワ前面の防御施設は薄いですが、兵力は史実と同等またはそれ以上(キェフ方面からの北転部隊を含む)。ノヴゴロトも早めに見切ってモスクワ前面に部隊を回すかもしれません。 > さてこれで勝てるか。 > やってみないとわからないですね。サイの目がよければ勝てるでしょう。試してみる価値は大いにあるとは思います。 これも元々の前提条件が相違して来れば、その後の展開の想定に違いが生じるのは当然なので、あまりコメントする余地がないのですが、ただ、私が想定した8月後半からのヴィヤジマ・ヴリャンスク方面への攻勢開始時までにロスラブリとゴメリを確保する事は(この辺から史実と展開が相違してきますが)可能であると推察します(史実では、第2装甲軍はクリチェフ・ロスラブリを確保した後に南方へ旋回してゴメリ東方を抜け、8月25日にはジェスナ河にて橋頭堡を築いています)。 > Edwerd さんの作戦を見て非常に疑問なのが、グデーリアンがコノトプ方面へ進撃していないのに、出撃陣地としてコノトプ方面を利用していることです。 > これは、たとえて言えばマーケットガーデンをやっていないのにナイメーヘンからヴェリタブルができているようなもので、とても不自然です。 > 右翼がせいぜいウネチャである状況の下で、お説のような南方大旋回作戦をやるものかどうか。 > ぜひ解説していただきたいと思います。 私の述べた想定では、中央軍集団はスモレンスク戦後に補給体勢の回復と部隊の再編成の終えた後、史実より1月早い8月後半には、ヴイャジマ・ヴリャンスク方面への攻勢に打って出て、第2装甲軍はそのままトゥーラ−クルスクの線で突破作戦の体勢に入るものとしており、その後方連絡線はスモレンスク−ヴィヤジマ−ヴリャンスクとミンスク−ゴメリ−ブリャンスクの鉄道線に沿っており、同部隊がコノトプ方面を経由して先のライン至った訳ではありません。 |
疑問点1:南西方面軍を包囲しない? それでは南西方面軍の主力は包囲網の外にあるということですか? それならばなおさら、スターリンはキェフ救援作戦を厳命し、カニェフ橋頭堡からクライストを出さないために猛反撃が行われるでしょう。そして、モスクワに危機が迫るや、反撃兵力はそっくりモスクワ前面へ引き抜かれることでしょう。 疑問点2:グデーリアンの助けなしにどこまでできるか? そもそも南方軍集団独力で急速にキェフの背後に出るということ自体が不可能ではないかと思うのです。 史実で、わずか4日でクレメンチュークからルブヌイまで進出できたのは、グデーリアンが北方から迫って来ていたため、その方面へ予備兵力を回していたからでしょう。 そうでない以上、クライストが背後に回るような事態をブジョンヌイがそうやすやすと許すとは思えません。 「赤軍は野戦でドイツ軍に勝てない」というのは確かにお説のとおりですが、それは何もドイツ軍は前進時に抵抗を受けないという意味ではなく、赤軍の猛反撃を受けてもそれに耐え、逆襲して撃破できる、という意味です。 南方軍集団の国境付近の会戦や中央軍集団のイェリニャ付近での攻防を見るに、本気で反撃してくる赤軍を撃破するにはそれなりの時間がかかるであろうことは想像に難くありません。 以上二つを合わせ考えるに、 ・もし小包囲なら赤軍主力を取り逃がす ・大包囲なら赤軍を制限時間内(モスクワに危機が迫り、スターリンが北転命令を出すまで)に包囲し切れない ということになるはずです。 疑問点3:ドニェプル渡河はいつか? カニェフで渡河するためには、カニェフに架橋資材が到着していなければなりません。ベーラヤ・ツェルコフから東に補給線を延ばすのは第6軍の仕事です。クライストがドニェプルに到達した時期だけを見てキェフ包囲作戦を論じるのはルントシュテットも気が早すぎます。 さらに言えば、クレメンチュークを経由せずにカニェフにどれだけの太さの補給路が通せるか、私は多少不安です。私がクレメンチュークを渡河点に選んだのも、クレメンチュークにはウマーニ経由で補給が通るからです。 もうひとつ、ウマーニで包囲を完成したあと、無人の野をクレメンチュークに駆けるのと、敵の防御線を正面から破りつつカニェフへ引き返すのと、どっちが早いかと考えると、私はクレメンチュークへ行く方が早いのではないかと思います。その方が装甲部隊の特性をフルに活用できるよい作戦だと思います。 |
どうも、ドイツ軍の行くところ敵なしのように赤軍部隊が消滅していくようで、腑に落ちない点が少なくありません。 ルガ――ノヴゴロト間の補給連絡線を切断、とおっしゃいますが、マンシュタインをノヴゴロト方面に差し向けてすらできなかったことが、それ以下の兵力でできるとは思えません。 レニングラートから南下すればよい、とお考えかも知れませんが、レニングラート占領時で補給切れの、しかもオラニェンバウム包囲やシュリュッセルブルク攻略、ルガ方面からの補給線警備、さらにはレニングラート北方の赤軍部隊の始末に兵力を吸い取られたヘープナーにそれが可能だとは思えません。 ルガ突破には補給充足状態の装甲1個軍団・歩兵2個軍団で半月かかりました。その上に、史実ではマンシュタインへの反撃に使った兵力もまるまる使えることをお忘れなく。 ちなみに、その兵力がレニングラート奪回を狙って突進し、ヘープナーを逆包囲してしまう事態というのは「起こらない」ということにしてあります。根拠はありませんが。 包囲した赤軍の始末についても、どうもそれにどれだけかかかるかという観点が欠落しておられるようです。外部からの補給がなくてさえ港湾都市の包囲が長くかかるというのは東西どちらの戦線でも見られた傾向です。比較的少数の守備隊で、豊富な物資の蓄積を利用できるからでしょう。この点が野戦におけるポケットと違うところです。 ですから、城兵が力尽きるまでは多少なりとも包囲兵力が必要なのです。第16軍はあちこちにポケットを抱えて、9月いっぱいは進撃どころではないでしょう。 私の示したルガ・ノヴゴロト作戦終了が8月末、というのはそういったことを考慮した上での期日です。 ごちゃごちゃと重箱の隅をつつきましたが、何が言いたいのか、というと、敗北しても部隊は消滅しない、ということです。 レニングラートという重要拠点の戦闘で敗北した赤軍北西戦線は、もちろんそれ以降の敗北も免れないでしょう。しかし、だからと言って、レニングラート陥落と同時に北西戦線全部隊が消滅するわけではなく、それを始末するにはドイツ軍の攻撃が必要なのです。 そして、その攻撃のためには、兵力と時間と補給が必要なのです。その時間と手間を、どうも考慮に入れておられない気がするのです。 いつかは赤軍もノヴゴロトを放棄して撤退するでしょう。しかしそれは自然現象でもなければ魔法の杖の一振りでできることでもなく、それなりの兵力と時間をかけて激戦を繰り広げたあとにはじめて訪れる結果なのです。 レニングラートが陥ちたからといって、赤軍に他の戦場でも負けてやる義理はありません。 一回の敗北で全面崩壊するほど赤軍がやわな軍隊なら、史実でもモスクワは陥ちていたでしょう。 まあ、ここまでむきになって反論することもないのですが。北方に関してはあまり意見の相違もないと思いますので。 9月末の段階で前線がシュリュッセルブルク――ノヴゴロト――スタラヤ・ルッサであろうと、ヴォルホフ――デミャンスクであろうと、本題のモスクワ攻略戦にはそれほど影響しないはずですから。 中央軍集団についてはまだ考えがまとまっていませんので次回の書き込みにて。 |
ちょっと史実を確認していただきたいのですが、ゴメリ陥落が8月20日、ブリャンスク前面の鉄道駅ポチェプが陥ちるのが22日です。 補給線啓開に数日、南〜南西を向いていたグデーリアンがモスクワへ向き直るのに数日かかりますから、どうしてもモスクワ作戦発動は8月末になるのでは。 さらにはヘープナーの南転を待つ時間も必要です。 ヘープナーの南転を待つ数日で後方をより安全にして、攻勢発起は9月頭かな、と考えたのですが、Edwerd さんのタイムスケジュールはどうなっているのですか? 北方その他も含め、一度くわしくお聞かせください。 本物のグデーリアンより早く進める、というのですから、何らかの策をお考えだと思います。 |
前回書き込みに返事をいただいていないのに追加投稿するのは失礼かとも思いましたが、あれから中央軍集団の作戦についてさらに検討しましたので、その考察結果を投稿します。 Edwerd 作戦では、グデーリアン・ヘープナーがウネチャ・ポチェプ間から南へ突破し、ブリャンスク防御線を迂回してトゥーラ方面へ向かうということになっていましたね。 なぜそんなことをするのでしょうか? この段階ではまだコノトプを確保していません。突破戦力はウネチャから南東――東――北東というふうに大回りを強いられ、その右側面は長大なものとなります。 さらに、この攻勢はゴメリ――ブリャンスク間の連絡線に依存するため、守らなければならない側面はさらに長大なものとなっています。 しかも、この側面は攻勢の伸展とともにどんどん延びていくのです。 それを守るべき第2軍の戦線は極限まで延びきり、赤軍は必ずやそのどこかを突いてくるでしょう。赤軍の防御の基本は反撃ですから。 そして、それをおしとどめる兵力は原作戦において全く見当たりません。 この作戦に、その危険を冒すべきどんな利点があるのでしょう。私には見出しえません。 要するに、「史実ではトゥーラ方面へ突破が行われたから、この作戦でも同じようにやる」というだけのことではないのですか? 先の投稿で述べた通り、史実ではコノトプ方面を確保しており、キェフからの補給線も打通されていました。そのため、ジェスナ南岸からのグデーリアンの進撃が有効となるのです。本作戦ではその「前提」が存在していません。この「前提」抜きにはトゥーラへの突破作戦は成立せず、発案される必然性もない、非常に不自然な作戦です。 要は、史実で失敗した作戦の焼き直しに過ぎません。 状況をよく考えるべきです。そして正しい作戦を立てるべきです。 本想定では、レニングラートが早期に陥落しています。8月末にはレニングラート方面の掃蕩も粗々終わり、北方軍集団に攻勢能力が復活してきています。 それなのに、Edwerd 作戦ではそこから主力を引き抜いて南へ回すのです。まだキェフも確保していないのに。 それより、単純に、 「北方で大成功し、南方で停滞している。しからば、北方で攻勢をかけるべきである」 と考える方が自然でしょう。 Edwerd 作戦は、北方での勝利を利用せず、みすみすその成果を地に投げ捨てているも同然です。それより、奇跡的に得た大勝利はその成果をとことん利用し尽くすべきでしょう。 (つづく) |
かくして、9月タイフーンはこうなります。 ・第1段作戦 北方軍集団は赤軍北西方面軍の反撃を撃退後、イリメニ湖の南北から東へ攻撃を行う。目的は、モスクワ――レニングラート鉄道の打通である。 助攻としてヴォルホフ方面へ前進し、レニングラートの側面を安全にする。 中央軍集団の目標はカリーニンとなる。ヴャジマの南北から装甲部隊が突破し、ヴャジマ付近の赤軍大兵力をモスクワから切断、可及的速やかにカリーニンを奪取する。ここまでで9月前半を消費するものと想定する。 カリーニンでモスクワ――レニングラート鉄道を切断したら主攻軸を北西に転じ、北方軍集団と協力して赤軍カリーニン方面軍・北西方面軍を包囲撃破し、レニングラート――カリーニン間の交通路を確保するとともに、当該線を脅かす敵兵力を無力化する。ここまでで9月末に至るものと想定する。 中央軍集団南翼はブリャンスク北方からモスクワへ向かって牽制的に攻撃を行い、モスクワを脅威することによって敵予備戦力の北転を妨害する。可能ならばブリャンスクを包囲し、赤軍ブリャンスク方面軍を無力化したいが、これは高望みか。9月終了時点でカルーガ、困難ならばスヒニチを占領するのが地理的な目標。 ・第2段作戦 多少戦力の移動を行い、ヘープナーとホートによってカリーニン方面から南東へ、モスクワ背後へ向かう攻勢を主軸とし、グデーリアンによってカルーガ方面から東へ向かう攻勢を助攻とする。こうして北からの鉄槌と南の鉄床との間でモスクワをはさみ込み、これを奪取する。 10月半ばの泥濘期までにはモスクワに取り付き、11月いっぱいをかけてこれを占領・確保することになろうか。 ・第3段作戦 熾烈な赤軍の反撃を受けている状況でこれが可能かどうかはわからないが、可能ならばコロムナ・トゥーラを占領してモスクワ川を右翼の防御線として利用できるようにする。 また、北方軍集団と協力してレニングラート――モスクワ間鉄道をもう1本確保できれば非常によい(レニングラートからルイビンスクへ延びている線から途中で南へ折れる二級鉄道だが、これはもしかすると当時はなかったかもしれない)。 この間にクライストはオリョールを強襲してこれを確保し、確保後は右翼の機動予備としてあるべき赤軍の反撃に備える。 結果として冬季戦はモスクワを中心とする半径200km弱の突出部をめぐって行われることになるだろう。これにドイツ軍が耐えられるかどうか。それは皆さんの意見を待ちたい。 私はこう想定しました。楽観的すぎますか?悲観的すぎますか? いずれにしても Edwerd 作戦よりも説得力があると思うのですが、いかがでしょう。 |
なお、この作戦は最初に述べた通りレニングラート電撃奪取がその大前提です。はたしてそれが本当にできるものか、というのももちろん考えねばならないでしょう。 私は、「やったら成功したかもしれないが、やらないのが普通だろう」と思っています。 しかし、史実において、グデーリアンが結構無理をしているのに対しヘープナーはほとんど「賭け」に出ていないように思えます。 それでもレニングラートを陥落寸前まで追い詰めているのですから、ヘープナーがロンメル並みの蛮勇の持ち主だったら強襲を断行して賭けに勝っているかもしれません。 負ければ北方軍集団壊滅の可能性もありますがね。 |
> バルバロッサ作戦(対ソ侵攻)に勝算はあったのでしょうか? おそらく、独軍勝利の可能性はほとんど無かったでしょう。 理由は、1.生産能力の差 2.国力の根本的な違い 3.スパイ網の優劣差 4.多正面作戦と、単正面作戦の差 が主要だと思っています。 まず1.は、皆さんもご存知の通りだと思います。ソ連は、戦争中(史料が手元に無いので具体的な数字を挙げられずに、申し訳無いです)にドイツよりも大量の軍需物資を生産しました。もちろん、英米のレンドリース法による大量のトラックや輸送機関連の供給があってこさできる技ですが。 2.では、1.にも関連するのですが、ソ連の主要工業地帯があれだけ占領されているのにも関わらず、ドイツよりも大量の戦車や航空機、火砲を生産していたのは驚愕すべき事だと思います。また、兵員の数についてもその事は言えます。ソ連軍は、独軍の何倍もの損害を、出していながらも、常に兵員数は独軍をうわまっていました。もし、独軍がソ連軍と同じ損害をだしていたら、ドイツの国力では耐えられないでしょう。 3.に関しては、クルスク戦、ゾルゲ事件等にある通りです。 やはり、4.が一番問題点と言えるのでは無いでしょうか。ソ連軍にただでさえ数で劣っている独軍は、フランスやユーゴスラビア、ソ連領を始めとする占領地帯に兵力を駐屯させ、さらにパルチザンとも戦わなければなりません。また、航空機も、地中海、独本土、ノルウェー等に兵力を分散させています。一方でソ連側は、日本と言う後門の狼を抱えていますが、中立条約もあり、また対ソ戦を展開したら、日本自体が危ないのは明白ですから、ソ連は戦線を東部戦線一本に絞ることが出来ます。 以上が主要な理由だと思います。 もちろん、ソ連に対する勝利をどの位置に置くかによって、バルバロッサ成功の可否も変るわけですが、しかし、ヒトラー自身の『我が闘争』に書かれている対ソ観、あるいは戦争中のヒトラー発言を見る限り、ヒトラーは、ソ連との妥協を認める事は無かったでしょう。ヒトラーの根本的な目的は、東欧、ソ連圏に広大なゲルマン民族の入植地を設立する事にありました。もちろんその場に住んでいるスラブ系の住民は、大半が殺されます。 また、モスクワを占領しても、戦争は終わることは無いと思います。この事は、もちろんあくまでドイツの場合ですが、ドイツが降伏したのは、ベルリンを占領されたからと言うよりも、ヒトラーが自殺し、後任のデーニッツが降伏を選んだからです。もし、ヒトラーが死んでいなければ、あるいは、後任者が戦争を継続していたら、独軍はアルプス山中にこもってでも戦った事でしょう。この事は、ソ連にもあてはまるのではないでしょうか。 ちなみに、英米がドイツと講和して、共同で対ソ戦を展開する事はないと思います。 ご承知の通り、チャーチルは大の共産主義嫌いですが、彼は「世界で二番目に悪い政治体制はボリシェビキである」と言っていますから。もちろん一番は…です。 それと、仮に独軍が驚異的なスピードでモスクワ、レーニングラード、スターリングラードを占領しても、その後が続かないと思います。なにせ、史実の独軍は、コーカサス山脈への補給すら円滑に行うことが出来ませんでしたし。そんな状況の中、さらに東進し、ウラル山脈を越えて、ウラル工業地帯を占領するなんて夢物語でしょう。 ですが、スターリンが戦争初期に死んだら、もしかしたら独軍勝利の可能性があるかも知れません。おそらく、ソビエト内部は混乱するでしょうし。しかし、この点は何とも言えません。 最後に、バルバロッサ作戦の可否を考える際に、私が一番に思うのは、独軍の勝利の可能性を単に、ヒトラーの作戦指導の拙さ、泥将軍、冬将軍、補給のせいに限定して考えてもいいのでしょうか?と言う事です。と言うのは、まずソビエト政権に比べて、ナチス自体の戦争に対する非合理性やナチス政権の貧弱性、また、ソ連軍の優秀さも考慮に入れる必要があるのではないでしょうか。特に、ソ連軍は独軍に対し、兵員や将軍の質では劣っていたかも知れませんが、戦車や航空機では、独軍にひけはとっていないと言えると思います。ですから、数や能力なども考慮に入れたら、ソ連軍は、独軍よりも総合的に勝っていたと言えるのでは無いでしょうか。もちろん、個々の戦闘や、戦術的な作戦では、独軍の方が有利と言えますが、大切な事は、戦争に勝つ事ですから。 以上です。 上述の文章の幾つかは、バルバロッサ作戦のみの可否と言うよりも、第2次世界大戦全体を含めた作戦成功の可否理由になっているかも知れませんので、この議論には適切ではないかもしれません。もしそうだとしたら申し訳ありません。 |
WW2前の1935-1937ころの国力をGNPベースでざっくりみれば、 米国680(億ドル) 英国220(インド除く) フランス100 ドイツ170 イタリア60 日本40 ソ連190. そして、独伊日ソは、GNPの30-40%を軍備に投資していたが、 他は5-10%強程度. 英仏は、植民地帝国+ブロック経済体制の既存勢力(保守派)、 米国は、自由通商体制を望み、英仏植民地帝国を打倒しようという目標を持ち、 独伊日ソは、武力でベルサイユ体制を打破しようとするグループ ともいえる. この時点で、世界のリーダーシップが米国に移っている・ということを理解 しないと、現代よりも国家というものが凶暴だった時代でもあり、自国を安泰 に置くことは難しいだろう. 米国にとって、何が悪夢かといえば、独伊日ソによる4カ国同盟の成立だろう. 成立したら、インドも中国も中東も、これら4カ国組の影響下に置かれかねない. ---ここからは仮定というか推測の域をでないが、米国からみたら、 ヒトラーというものは、その点で利用価値のある存在だ・と考えられないだろうか? 独ソ間で、いろいろな秘密協定が結ばれていたのだが、ドイツの元首がヒトラーで ある限り、いずれ独ソは激突し、悪夢の4カ国同盟は成立しない. かといって、英仏を楽にさせては、米系資本による自由貿易体制はなかなか実現 しない. 加えて、景気低迷に悩んでいた頃でもあり、欧州で紛争が起きることは、米国に とって決してマイナスではない. そう考えれば、ミュンヘン会談あたりで、欧州首脳が勝手なことをわめきあって いることなど、てぐすね引いて待っていたかもしれない. |
自分の質問に自己レスになります(^^; よく言われるハナシで「イタリアが独断でギリシャ侵攻を行い失敗したため、ドイツ軍は急遽バルカン電撃戦を行った。そのため本来は5月スタートだったバルバロッサ作戦発動が約一ヶ月も遅延してしまい、モスクワを攻略できなかった」というのがあります。 そこで「イタリアがヒトラーに無断でギリシャに侵攻せず、ユーゴスラヴィアが反独クーデターを起こさずに、当初の計画通りに5月にバルバロッサ作戦を発動していたら」どうだったんでしょうか? コレならキエフ包囲戦をやってもレニングラード乃至モスクワを攻略可能だったと思いますが。(それで「ソ連が敗北する」かは疑問符が付きますけど) |
1941年の春、東ヨーロッパは記録的な長雨&大雨でした。 そんなわけで、5月中旬の段階でロシアの大地の泥濘はまだ乾ききっていません。 これが何とかなるまでに6月初旬までかかっています。 そして、この状態はドイツ空軍の領空侵犯偵察機(Ju86P装備のロベール航空団)が的確に掴んでいました。 予定通りに作戦発動したら、いきなり初動から泥将軍につかまり、奇襲効果は大幅に減殺され、国境近辺での大包囲戦などできなかったでしょう。 ドイツ軍の大戦果は初動の奇襲効果に因った部分が非常に大きいわけですから。 それこそ、一旦奇襲のショックから立ち直る時間が与えられれば、鉄道が使えるソ連軍の再配置もかなりの速さで進むでしょう。 もちろん、これに対してドイツ空軍はあらん限りの爆撃機で妨害をかけようとするでしょうが、戦線奥地に入れば入るだけソ連空軍の邀撃を受けることになり、ドイツの中型爆撃機やスツーカはI−16やI−153でもやすやすと捕捉できる目標です。 一応既にドイツ戦闘機に落下増槽の配備はありますが、装備可能な機体の数、タンク自体の絶対数ともに十分でなく、航空戦はいきなり消耗戦になってしまうのではないかと。 史実より遥か手前でドイツ軍の進撃は止まるものと思われます。 結局、もしマリタ作戦が発動されなかったとしても、作戦開始は二週間、いや10日ほど早まったくらいなのではないかと思います。 その10日がどのくらい利いてくるものなのかは神のみぞ知るところかと。 ただ、全く10日ずつ早く戦況が推移するものと仮定すれば、モスクワ陥落の目は出てくるとも言えなくもないですね。 中央軍集団の各先鋒部隊はモスクワまで80〜65kmのところで泥将軍につかまっているわけですから、それまでのペースを維持できると仮定し、また補給線自体が悪路で停滞することがなかったとすれば、まさに決定的な10日となり得る可能性はあります。 しかし、モスクワで時間切れ、取ったとしてもそこが最前線になりますから、結局冬季反攻で取り返されてしまうかもしれませんが。 |
まなかじさんほど詳しくありませんが、僕が考えただけでも下の二つの問題が発生すると思います。 1・アフリカ戦線の問題 イタリアがギリシアに侵攻していないということは、北アフリカで戦闘中の英軍からギリシア救援用の部隊が引き抜かれていないということになります。つまりロンメル率いるDAK(ドイツ・アフリカ軍団)は史実を上回る兵力の英軍と戦闘をしなくてはなりません。 しかも英地中海艦隊は史実のギリシア・クレタ戦で与えたダメージがないため、史実以上にDAKの海上補給線を攻撃してくると思います。これでロンメルの快進撃が可能だったとは思えません。恐らく北アフリカ戦線は膠着状態になるでしょう。 2・英軍がバルカンに第二戦線形成 チャーチルはバルカンに第二戦線を形成したがっていました。チャーチルは「ヒトラーを倒すためなら悪魔とでも手を組む」と公言する人物ですから、恐らくバルバロッサ発動中の41年夏〜秋に対ソ支援と称してギリシアに上陸しバルカンに第二戦線を形成してくると思います。(北アフリカ戦線が膠着していればなおさらやるはずです) バルカンに第二戦線が形成されると厄介です。特に英空軍がギリシア本土やクレタからルーマニアのプロエステ油田を爆撃した場合、ドイツ軍にかなりのダメージを与えるはずです。 |