Page 131 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼WWIIにおける日本的ドグマの出発点 伊号 03/1/2(木) 14:10 ┣Re:WWIIにおける日本的ドグマの出発点 アリエフ 03/1/2(木) 16:36 ┃ ┗あれま 伊号 03/1/3(金) 23:35 ┃ ┣Re:あれま アリエフ 03/1/4(土) 10:45 ┃ ┃ ┗Re:あれま 伊号 03/1/5(日) 7:14 ┃ ┃ ┣定義をはっきりしましょうよ。 無頼庵 03/1/5(日) 17:05 ┃ ┃ ┃ ┗補。 無頼庵 03/1/5(日) 17:45 ┃ ┃ ┗たびたび横レス失礼 カンタニャック 03/1/5(日) 21:47 ┃ ┗一寸失礼 カンタニャック 03/1/5(日) 5:51 ┣Re:WWIIにおける日本的ドグマの出発点 モーグリ 03/1/4(土) 1:02 ┃ ┗Re:WWIIにおける日本的ドグマの出発点 sinn 03/1/4(土) 1:58 ┣ちょっと話題をやわらかく・・・ k-mine 03/1/5(日) 16:20 ┣穏やかに行きたいです 伊号 03/1/6(月) 2:13 ┃ ┣Re:穏やかに行きたいです 無頼庵 03/1/6(月) 3:34 ┃ ┣Re:穏やかに行きたいです SUDO 03/1/6(月) 6:09 ┃ ┣道は遠い BUN 03/1/6(月) 6:17 ┃ ┣Re:穏やかに行きたいです sinn 03/1/6(月) 9:37 ┃ ┣おじゃまします 枚方太郎 03/1/6(月) 10:52 ┃ ┣Re:穏やかに行きたいです きっど 03/1/6(月) 12:28 ┃ ┗Re:穏やかに行きたいです カンタニャック 03/1/7(火) 2:14 ┗万歳突撃は理解しがたいか 愛国者 03/1/6(月) 11:46 ┣Re:万歳突撃は理解しがたいか BUN 03/1/6(月) 12:08 ┃ ┣Re:万歳突撃は理解しがたいか 愛国者 03/1/6(月) 18:40 ┃ ┃ ┗Re:万歳突撃は理解しがたいか タカ二飛曹 03/1/7(火) 2:06 ┃ ┗国民国家の軍隊 エラガバルス 03/1/6(月) 21:19 ┃ ┗少し考えて見ました 枚方太郎 03/1/8(水) 13:29 ┣Re:万歳突撃は理解しがたいか 無頼庵 03/1/8(水) 22:58 ┃ ┗Re:万歳突撃は理解しがたいか 無頼庵 03/1/9(木) 23:13 ┃ ┗Re:万歳突撃は理解しがたいか sinn 03/1/10(金) 13:33 ┃ ┗Re:万歳突撃は理解しがたいか 無頼庵 03/1/11(土) 0:49 ┃ ┗Re:万歳突撃は理解しがたいか sinn 03/1/11(土) 15:00 ┃ ┗白襷隊の合理性 無頼庵 03/1/12(日) 1:42 ┃ ┣Re:白襷隊の合理性 BUN 03/1/12(日) 4:43 ┃ ┗Re:白襷隊の合理性 sinn 03/1/12(日) 19:36 ┃ ┗何がソロモンと異なったのか BUN 03/1/12(日) 20:05 ┃ ┗Re:何がソロモンと異なったのか sinn 03/1/12(日) 21:20 ┣Re:万歳突撃は理解しがたいか 山奥の人 03/1/10(金) 19:44 ┃ ┗万歳突撃の理解方法 あるめ 03/1/11(土) 0:31 ┃ ┗Re:万歳突撃の理解方法 山奥の人 03/1/11(土) 20:57 ┃ ┗Re:万歳突撃の理解方法 まなかじ 03/1/12(日) 0:04 ┃ ┗BANZAI ATTACK ささき 03/1/12(日) 8:40 ┗万歳突撃は理解できても評価は枠外のこと あるめ 03/1/12(日) 23:36 ─────────────────────────────────────── ■題名 : WWIIにおける日本的ドグマの出発点 ■名前 : 伊号 ■日付 : 03/1/2(木) 14:10 -------------------------------------------------------------------------
皆様お久しぶりです、又お世話になります。 太平洋戦争の書物を読むにつれ現代を生きる我々には理解し難い「万歳突撃」(その他色々有りますが敢えて割愛致します)等の事象や、現代にも脈々と続いている組織の不透明性など、日本でしかおき得なかった事象や他国のそれに比しても極端な不透明性等、太平洋戦争における日本的ドグマのルーツは何処から生まれたのでしょうか? 皆様の忌憚無い御意見をお願いします。 |
> 太平洋戦争の書物を読むにつれ現代を生きる我々には理解し難い「万歳突撃」(その他色々有りますが敢えて割愛致します)等の事象や、現代にも脈々と続いている組織の不透明性など、日本でしかおき得なかった事象・・ 「銃は三人に1挺だ、銃を持った者が倒れたらその銃を取ってファシストに向かって突撃しろ!」という命令で、ドイツ軍の陣地の前に大量の歩兵の死骸の山を築いたのはどこの軍隊でしたっけ?2年前公開された映画「スターリングラード」にこういうシーンが出て来るんだが。 組織の不透明性なんて言ったらドイツのナチス党の中もそんなものですよ。物資や予算について、権力闘争が絡みついた争奪戦やってるし。 ま、戦争で一応勝利した国の方は、当時の組織運営上の問題点なんて忘れ去られてしまうものなんですがね。 |
> 「銃は三人に1挺だ、銃を持った者が倒れたらその銃を取ってファシストに向かって突撃しろ!」という命令で、ドイツ軍の陣地の前に大量の歩兵の死骸の山を築いたのはどこの軍隊でしたっけ?2年前公開された映画「スターリングラード」にこういうシーンが出て来るんだが。 似たような事例があるなら上記の様な命令が実行できるソビエト軍の背景と旧日本軍における背景を比較して見るのも一興だと思うのですが。 > 組織の不透明性なんて言ったらドイツのナチス党の中もそんなものですよ。物資や予算について、権力闘争が絡みついた争奪戦やってるし。 > ま、戦争で一応勝利した国の方は、当時の組織運営上の問題点なんて忘れ去られてしまうものなんですがね。 同盟国も似たようなもんだった、勝てば官軍で戦勝国の問題点なんて忘れ去れてしまう物だでは思考停止と同義だと思うのですが如何でしょう? |
>> 「銃は三人に1挺だ、銃を持った者が倒れたらその銃を取ってファシストに向かって突撃しろ!」という命令で、ドイツ軍の陣地の前に大量の歩兵の死骸の山を築いたのはどこの軍隊でしたっけ?2年前公開された映画「スターリングラード」にこういうシーンが出て来るんだが。 >似たような事例があるなら上記の様な命令が実行できるソビエト軍の背景と旧日本軍における背景を比較して見るのも一興だと思うのですが。 似たような事例があることをお認めになるのなら、その相違を押えた上で日本的ドグマなるものを定義していただきたいのですけど。「今の我々にとっては理解困難な万歳突撃」をソ連のようにもっと徹底して展開すべきだったと言うお考えですか?全国民を共産党の監視下に置き国家や党に対し忠誠が足りないような人間は強制収容所に送りこむ、「万歳突撃」を合理的な戦術として兵士に教え込ませる、日本はそうした努力が足りなかったと言うことでしょうか? 自分からきちんとした定義もしない、定義しようとする努力もせずに「日本的ドグマ」について論ぜよというのは、実に無責任だと思えるんですけどねえ。 >> 組織の不透明性なんて言ったらドイツのナチス党の中もそんなものですよ。物資や予算について、権力闘争が絡みついた争奪戦やってるし。 ま、戦争で一応勝利した国の方は、当時の組織運営上の問題点なんて忘れ去られてしまうものなんですがね。 >同盟国も似たようなもんだった、勝てば官軍で戦勝国の問題点なんて忘れ去れてしまう物だでは思考停止と同義だと思うのですが如何でしょう? 「戦争で一応勝利した国の方は・・」の所は少しオーバーだったかな。でも勝者の驕りというのはどこの国にもあるものです。現在、日本的経営の問題点が取り沙汰されているが、約20年前にはアメリカで自国企業の経営手法の問題点や国際的競争力の低下が議論されていました。第二次大戦勝利を担い60年代までは揺るぎ無き地位を占めてきたアメリカの経済力への自信が仇となって、70年代から80年代にかけて急速な追い上げをかける日本やECからの工業製品の輸入品に自国製品が対抗できないことが深刻化していたわけですが。 こちらの方も、同盟国についても似たような現象があることを踏まえた上で、それと日本との差を調べて「日本的ドグマ」を明確に定義して頂かないと、その時点で思考停止で言葉が上滑りしているだけということになってしまうんですがね。 |
カドのある言葉で斜に構えて「日本的ドグマを明確に定義しろ」と言われて答えた所でまたカドのある言葉を繰り出し、ループして話は進みますまい。 今私が書き込みをしている時点でアリエフ様を含めて3人の方から書き込みを頂きましたが、アリエフ様のように斜に構えた野暮な物言いをしていては定義付けも何もってな感じです。 太平洋戦争関連の書物や旧日本軍に関する書物見ればドグマのような物は読み取れると思うのですが出来ればそれらを皆様の御意見や見解を通して、何と言うか精製して肥やしにするような感じで話を進めて行きたいのですが如何でしょう? |
門外漢で失礼しますが。 > 太平洋戦争関連の書物や旧日本軍に関する書物見ればドグマのような物は読み取れると思うのですが >出来ればそれらを皆様の御意見や見解を通して、何と言うか精製して肥やしにするような感じで >話を進めて行きたいのですが如何でしょう? 気持ちは解るのですが、 これ、抽象的なイメージを述べ、以心伝心での共通認識を期待してる出題形式自体が、 まさに「日本的ドグマ」そのもので突っ込まれ所満載かな〜と言う気もします。 では、ドシロウトですが3発花火をブチ上げます。 (1)インパールでの牟田口廉也中将が、失敗後、閑職とは言え陸軍内でそれなりの地位にあったこと。 (2)辻政信が、戦後国会議員になったこと。(源田実はまだ解りますが、辻は異様だと思います) (3)今日で「陸軍の独断先行」が話題になっても石原莞爾が「独断先行の元祖」として糾弾される事が少ないこと。 以上3事例ですが、これは日本特有の現象でしょうか?それとも他国にも似たような事例は存在するでしょうか。 |
上記出題の背景を述べます。ここにレスするとまたまた抽象論になるので、レスしないでください。 あくまで参考としてお願いします。 > (1)インパールでの牟田口廉也中将が、失敗後、閑職とは言え陸軍内でそれなりの地位にあったこと。 > > (2)辻政信が、戦後国会議員になったこと。(源田実はまだ解りますが、辻は異様だと思います) > > (3)今日で「陸軍の独断先行」が話題になっても石原莞爾が「独断先行の元祖」として糾弾される事が少ないこと。 年末、学生時代の連中と集まって呑んだくれてたんですが、ま〜外資系から財閥系まで集まって、 よくある会社のぼやきになりまして。 で、出た話題が上記3種。(他にも事例は一杯出ましたが) (1)って、これ、「偉い人の失敗隠し」で往年の年功序列式日本企業で良くあったパターンですよね。 で、最近、どこの会社も「これではイカン!」と年功序列を改め、徐々に成果主義を導入してますけど、 そうすると(3)が増えてきた。 つまり、上司にナイショ、同僚を無視して(つまり独断専行で)「極秘プロジェクト」を立ち上げ、 成功すると大々的に成果をアピール。失敗するとひたすら隠匿。というコソ動きが増えて来た。 (成功事例しか伝わらないので個人の評価が高くなる)。 で、最近の企業は方法論をチェックせず、 成果のみで評価するからますます組織がおかしくなっている。 と。 で、(1)と(3)って根っこは一緒で(2)。つまり日本人は人事的評価が下手なんではなかろうか。と。 以上ヨタです。話がややこしくなるので、コッチには直接レスしないでください。 似たような事例を探す時の参考にお願いします。 |
> 太平洋戦争関連の書物や旧日本軍に関する書物見ればドグマのような物は読み取れると思うのですが出来ればそれらを皆様の御意見や見解を通して、何と言うか精製して肥やしにするような感じで話を進めて行きたいのですが如何でしょう? ええと、いままでのレスをお読みになれば分かると思いますが、皆さんが引っかかっているのは、「世界」と「日本」を比較し、日本の特殊性を強調する「日本特殊論」だと思います。日本特殊論はすべて間違いだと断言する気はありませんが(あらゆる日本特殊論を真面目に検討するなんて能力はありませんおで)、世界中のどの国でも、その国の、歴史、社会体制、自然環境、経済状態、技術水準に応じた違いがあるのが当然で、それをその国の「教義(ドグマ)」という形で提示し理解することにあまり意味はないのではなかろうかというのが、今のところ私の基本的立場です。 もちろん伊号さんご自身もドグマをそのまま認めるのではなく、そのようなドグマが何故成立したのかを考えたいとおっしゃっているのはよく分かっているつもりです。ただし、伊号さんの問題提起だと、第二次大戦当時日本に一定のドグマの存在したことが当然の前提になっていますね。ここも、私にとっては疑問な点で、はたしてどのような「日本的ドグマ」は第二次大戦当時に存在していたのか(=本に書かれている「ドグマ」が戦後の一部の人間による「解釈」にすぎないのではないか?)という点の検証から考える必要があるのではないでしょうか。 そして、こういった問題をきちんと議論するためには、議論の対象を「太平洋戦争関連の書物や旧日本軍に関する書物見れば…読み取れる」事というだけでは、あいまいすぎると思います。旧日本軍に対する評価がどの本でも一致しているとは到底思えません。 くどいようで申し訳ありませんが、伊号さんがこれらの点をふまえて「日本的ドグマ」の内容を、個別的で結構ですから具体的に提示して頂ければ、皆さん有意義かつ楽しい議論ができると思います。 以下は本題と関係のない蛇足。 これまでの一連のレスに対する私の個人的な感想。 こんな見方をする人間もいるというだけのことです。 > カドのある言葉で斜に構えて「日本的ドグマを明確に定義しろ」と言われて答えた所でまたカドのある言葉を繰り出し、ループして話は進みますまい。 伊号さん、先読みして悲観主義になってはいけません。アリエフさんはそんな方ではありません。伊号さんが日本的ドグマについてご自分の考えを示されれば、立場は違っても話は進んでいくと思いますよ。 > 今私が書き込みをしている時点でアリエフ様を含めて3人の方から書き込みを頂 きましたが、アリエフ様のように斜に構えた野暮な物言いをしていては定義付けも何もってな感じです。 ネット上の表現スタイルは様々です。名誉毀損にあたるような表現ならともかく、伊号さんの気に入らないスタイルの表現だから質問に返答しないというのは、議題設定者としてはいささか無責任ではないでしょうか? |
興味深い設題ですが、「日本的ドグマ」の意味をもうすこし具体的に説明していただけないでしょうか。 たとえば、設題者の方は万歳突撃を理解出来ないとおっっしゃってますが、降伏せずに突撃することが理解できないのか、敵にとってよりやっかい持続的な抗戦をおこなわず、あっさり万歳突撃をおこなうことが理解できないのか、あるいは軍事的な効果が疑問な銃剣突撃主義が理解できないのか、ほかにもいろいろな理解の仕方があると思います。 それに設題者は「日本的ドグマ」の存在を自明のこととしてお書きになってますが、まずはその存否かも検討も必要でしょうし、そのためにも「日本的ドグマ」の内容の明示は不可欠です。 投稿者の方がこれらの点を整理し、「日本的ドグマ」の内容を明らかにして頂かないとうまく議論がかみ合っていかないでしょう。 この点、アリエフさんにまったく同感です。 |
> 太平洋戦争における日本的ドグマのルーツは何処から生まれたのでしょうか? 通説としては「日本軍は第1次大戦を経験していなかったため、欧米が第1次大戦の戦訓から火力主義に移行したのに対して日本軍は白兵主義を捨てきれなかった」があります。 しかしこの説ではなぜ日本軍が第1次大戦の戦訓である毒ガス戦や細菌戦の研究を行っていたのかについて説明がつきません。 それに、戦前の日本軍は第一次大戦のドイツの総力戦の失敗を教訓に、本格的な情報統制・宣伝戦や統制経済による総力戦体制(高度国防国家)の確立を計画していました。 http://members.tripod.co.jp/tasato/TS-room/total.html http://members.tripod.co.jp/tasato/TS-room/yamanaka.htm こういう事例から見ると、僕には昭和期の日本軍が巷間言われているように無能で精神主義に凝り固まっていたとは思えないのです。 この問題についてもっと詳しい方の助言をお願いします。 |
> 通説としては「日本軍は第1次大戦を経験していなかったため、欧米が第1次大戦の戦訓から火力主義に移行したのに対して日本軍は白兵主義を捨てきれなかった」があります。 ・・・少なくとも、私にとっては通説ではないのですが、まあそれはいいでしょう。 要は、「イデオロギー」の「魔力」の一例として「件の日本的ドグマ・・」「ソビエト軍の・・・」などが引き合いに出たわけで・・・ 例えば「イデオロギーの功罪」とかの、思想史、文化史的な側面からこそ、ふさわしい議題かとも思えます。(レスになってない?・・申し訳ないデス・・) |
なんだか荒涼とした雰囲気になっていますね。話を難しくせずにいきましょうか。 幕末よりやや少し前、シベリアの流刑地を脱出してきたペニョヴスキーなる人物が脱出行の最中に日本に立ち寄りまして、そこで「ロシアが日本侵攻を計画している」という手紙を残したんですね。これは根も葉もない単なるデタラメ話でなぜ彼がこんな「イタズラ」をしたのか謎ですが(このあたりの話はマンガ「風雲児たち(みなもと太郎・リイド社)」に面白く描かれています)、とにかく、時の幕府にとって衝撃的内容だったこの手紙は結局黙殺されました。また、ペリーの最初の来航のとき「アイルビーバック」と言って帰ったのですが、幕府保守派の意見の大勢は「んなコト言ったってホントに来年くるのかわかったもんじゃないからほっとけ」だったそうです。彼らは翌年本当にペリーが来たときに大いにうろたえたそうです。 ま、そんなわけですので、組織の不透明性というのは別に昭和に始まった話ではなく、少なくとも江戸時代には存在したようです。いや、ちょと待てよ、そういえば足利尊氏が九州から京を目指して進撃していたとき、防衛に不利な京からミカドの避難を訴えた楠正成に対し、公家連中は「ミカドの御威光により侵略者は撃退されるに決まっているからその必要なし(←全く根拠なし)」と却下されたそうですから、少なくとも南北朝時代の頃にはそんなメンタリティは存在したようですね。 ちなみに、万歳突撃は一見理解しがたいように思えますが、中国戦線では万歳突撃をすると上手くいったそうですから、別に無謀な作戦ではなく、それまでの相手には有効な作戦だったので使っていたのだと思います。サッカーでアジア相手では通用した戦術が欧州相手には通用しなかったようなもんだと思いますがいかがか。 |
カンタニャック様、無頼庵様、御意見有難うございます。 もっと明確な定義付けをして行こうと思ったら思わぬ事で機会を逸してしまいました。 突っ込まれ所満載の抽象的表現であった事は私の拙い文書能力による所でありますので自分の思いを腹蔵なく書き上げる形にてご容赦の程を。 大所帯の貧乏所帯であった旧日本軍が不足する物的戦力に辻褄を合わせるのに人的戦力で代替しようとする思想に「ドグマ」があると感じております、日本の台所事情からやむにやまれずそうなったと思いますが例えば「百発百中の一門は百門の砲に勝る」等に代表される物的戦力の不足を人的戦力の練度向上にて補うこの思想は練度向上したそれらが失われた時はどうするのかといった疑問に答えは出ていないように思えます、この疑問がこのお題を書き込む出発点となりました。 そしてこの思想の線上に「万歳突撃」や「特攻」(こっちはあまり出したくなかったのですが)があるように思えるのです。 もう一つのきっかけは旧日本軍の組織に対する疑問です、無頼庵様が挙げていただいた有名なエピソードの数々も勿論ですが私が見た物で航空機用無線機、電探、桜花、回天に関する内容が心に引っかかりました。 無線、電探のエピソードを要約すると「技術サイドがこれは絶対に必要になる物だからとそれらの装置を搭載させようとすると現場サイドが「現場の声」としてこんな物は不要として受け付けない、しかし蓋を開けてみるとやはり「現場の声」としてこれらが要望されている」と言った内容です。 桜花、回天共に、尉官(氏名失念)の意見具申により制式化された兵器ですが、尉官の意見具申だけで制式兵器として採用される物なのか?実際はもっと大掛かりなプロジェクトではなかったのか?共に生還の望みが無い故に「現場」の止むに止まれぬ声を汲んだという形をとったのではないか?と考えております。 組織と現場、ひいては組織と個人と言った所にやはり奇異な物を感じます。 拙い考えではありますが、皆様の御意見を通じて形ある物にしたいと考えておりますのでご教示、ご指導の程宜しくお願い致します。 |
伊号さん。了解しました。とりあえず、意見の併置からはじめましょうか。 > 桜花、回天共に、尉官(氏名失念)の意見具申により制式化された兵器ですが、 >尉官の意見具申だけで制式兵器として採用される物なのか? >実際はもっと大掛かりなプロジェクトではなかったのか?共に生還の望みが無い故に >「現場」の止むに止まれぬ声を汲んだという形をとったのではないか?と考えております。 > ヤバい話題ですが。 桜花に関しては、すでに「定説」らしきヨタ話が流布されてます。 「発案者」と」されている太田特務少尉は、戦後、戸籍を消して別人となり ごく最近、「事実はみんな知っている!」と叫んで死んで言った、と言うとのことです。 ただし、これ、今のところ噂レベルのアンダーグラウンドな話です。あくまで、あくまで!!ヨタ話です!! でも、公表されている資料を辿っても、昭和19年にワルターロケット付きグライダーを意見具申したり (当時、少尉が知ようが無い軍機だったはず) なにゆえ、「特務」だったりと(叩き上げの人が率先すれば、みんな納得しますよね) 太田少尉はスケープゴートだったの?という、疑問点が満載ですが、不謹慎を承知で言えば、 叩き上げで工員から課長になった人が、リストラに率先して応じるようなもので、 今昔とも各国ともにありふれた風景かな、とも思います。 (で、現代では、そういう人には率先して再就職先が予めお膳立てされてるものですが) ただ、桜花に関しては、BBCでは、特集番組が組まれた(太田少尉の戸籍事件も取り上げられた)そうですが、 日本では遺族に配慮して、今だBBCで扱ったという事実は大手マスコミで公表されていません。 僕は、このこと自体が、むしろ桜花そのものより、異様だと思います。 |
> 大所帯の貧乏所帯であった旧日本軍が不足する物的戦力に辻褄を合わせるのに人的戦力で代替しようとする思想に「ドグマ」があると感じております、日本の台所事情からやむにやまれずそうなったと思いますが例えば「百発百中の一門は百門の砲に勝る」等に代表される物的戦力の不足を人的戦力の練度向上にて補うこの思想は練度向上したそれらが失われた時はどうするのかといった疑問に答えは出ていないように思えます、この疑問がこのお題を書き込む出発点となりました。 あのー・・・ 技量・練度・戦技・術力の向上で物的な物を補完しようというのは、何時の時代でも、また何処の国でもやってます。 申し訳ありませんが、ほんのちょっとだけ調べて見ては如何でしょうか。 フルメタルジャケットの訓練シーンでも十分です。つまりはそういうものであって別に不思議でも何でもないわけです。 また物量に頼るなら、その物量が失われた場合にどうするか、お答えいただけますか? 日本軍はあらゆるレベルで物量と技量の、言うならばハードウェアとソフトウェアの両面での向上を常に努力しています。そして、それは他の国でも同様でしょう。そこに特有のドグマがある証拠は何処にもないのです。 特攻もドイツ軍はやってますし、ハリウッド映画でも誰かが犠牲になって以下略というのはお約束みたいなものですから、実際に事例はあったのでしょう。となると、何が日本特有なのか、まずはそこを規定しない事には話にならないのは当然でしょう。まずは、「この事例は日本軍にしかない」というものを提示していただけませんか? |
戦記に書かれた全ての事を何もかもひっくるめて一つの認識を作り上げている為に混乱が生まれているのではないでしょうか。 実際に行われた事実、それが行われた経緯、背景とその事象に関する風聞、逸話とを混同しては見落とすものが多いのではないかと思います。 たとえば、「百発百中の砲・・・」の東郷長官の発言は実戦での低命中率に対して次回の決戦を前に行われた「次回もこうではいけない」との訓示ですし、その後再び東郷訓示が蒸し返されるのは軍縮条約下で「軍艦に制限はあっても訓練に制限は無い」との言葉と共にひとつのスローガンとして利用された際のことです。日本独特の精神主義、精兵主義と言うよりも、このような言葉は各国の海軍史を丹念に調べれば類似のものが幾らでも出て来る性質のものではないでしょうか。軍隊が錬度の向上を目指すのは当然の事ですし、どんな大きな軍隊組織でも何らかの意味で「少数精鋭」を謳うものではないかと思います。「我々は大組織なので錬度が低くて良い」と公言する軍隊は異例の存在でしょう。そして「その精鋭が失われた時にはどうするのか」という疑問は「百発百中」発言に事寄せて非難するよりも、仮にそれが飛行機搭乗員の話でるならその養成計画がどのような年度スケジュールでどのような規模で行われていたのか、を検討しない訳には行きません。それを行うことでこそ風聞、逸話と事実がより分けられるのではないでしょうか。 > 無線、電探のエピソードを要約すると「技術サイドがこれは絶対に必要になる物だからとそれらの装置を搭載させようとすると現場サイドが「現場の声」としてこんな物は不要として受け付けない、しかし蓋を開けてみるとやはり「現場の声」としてこれらが要望されている」と言った内容です。 これもその例だと思います。 技術開発セクションは現場に「これは必要だからその搭載を行え」と命令するものでしょうか。そして現場はそれを本当に拒否したのでしょうか。要望する現場の声とはそれと矛盾したものなのでしょうか。 ある兵器開発が行われる場合、技術者ではない意思決定機関がそれを命じるもので、そこに「将来この兵器が重要になる」との判断と展望が存在しなければ命じられない性質のものです。実施部隊は調子が良かろうが悪かろうがそれを使わなければなりません。しかし、ここでまたよく考えなければならないのは「本当にそうだったか」という事です。本当に飛行機から降ろしてしまったのか。それは誰が誰に命じた事なのか。そしてそれは無線機の調子が悪かったという理由だけなのか。日本的の何のと言う前に、この辺りも実はよく調べなければならない問題なのです。 しかし、伊号さんは、桜花、回天に関して優れた問題意識を持っていらっしゃいます。 > 桜花、回天共に、尉官(氏名失念)の意見具申により制式化された兵器ですが、尉官の意見具申だけで制式兵器として採用される物なのか?実際はもっと大掛かりなプロジェクトではなかったのか?共に生還の望みが無い故に「現場」の止むに止まれぬ声を汲んだという形をとったのではないか?と考えております。 このような形の切り口を見出しているならば、様々な事象を十把一絡げにせず、そして結論を急がず、事実を丁寧に洗い出して考えて行くべきではないでしょうか。そうやって幾つもの事実とその背景が世間に流布するわかりやすい形での風聞や逸話とは別に掴めれば、それが日本独特のものなのか、そうではないかがある程度見えて来るのではないかと思います。逆の場合は「よくわからないもの」を「よくわからないまま」に語る、地に足が着かない空論の傾向を帯びてくるでしょう。 兵器にからむ逸話を繋げて「日本的何か」といった結論を導き出すには、我々はまだまだ勉強不足なのだと思います。 |
> 大所帯の貧乏所帯であった旧日本軍が不足する物的戦力に辻褄を合わせるのに人的戦力で代替しようとする思想に「ドグマ」があると感じております、 > そしてこの思想の線上に「万歳突撃」や「特攻」(こっちはあまり出したくなかったのですが)があるように思えるのです。 > 組織と現場、ひいては組織と個人と言った所にやはり奇異な物を感じます。 > 拙い考えではありますが、皆様の御意見を通じて形ある物にしたいと考えておりますのでご教示、ご指導の程宜しくお願い致します。 実は、単に詰めた?だけでも・・・そのカタチになり難い・・・疑問めいたモノは分りました。というより・・・ >兵器にからむ逸話を繋げて「日本的何か」といった結論を導き出すには、我々はまだまだ勉強不足なのだと思います。 >まずは、「この事例は日本軍にしかない」というものを提示していただけませんか? という上記、両巨匠の意見こそ指針だと思います。 とりあえず、組織と個人といった視点でいえば、 日本では、個人が組織内で発表した「情報・意見」に対して・・・ 組織の全体意思(妙な造語ですが)は、その「情報・意見」そのものの価値を 正確に「値踏み」する能力に乏しいように思えます。 それは、(根源的に)この国が「卓越した個人の技能無くとも、飯は食える」といった風土を持ってきたからだと思います。部族の存亡を賭けた戦いを経験したわけでもなく、在所に帰れば生業が待っている、そうしたクニが日本の原風景だと思えます。 |
僭越ではございますが、世界史の中から例を一つ挙げたいと思います。 19世紀後半のパラグアイについてです。 ソラノ・ロペス大統領の膨張主義のもと、人口50万人強の小国パラグアイは6万4千 もの常備軍をつくり上げ(当時のブラジルは常備軍1万8千とも言われている時代で す)アルゼンチン・ブラジルなど4カ国を相手に戦争を始めます。 ウマイタの野戦で敗れ、南米最強と謳われた常備軍が崩壊し(戦闘に参加したパラ グアイ軍2万のうち1万3千が戦死)首都アスンシオンが陥落した後もソラノ・ロペ スは抵抗を続けます。 そして、1870年3月1日、セロ・コラにて、ソラノ・ロペスは手勢の少年兵(といっ てもほとんどが12歳以下だったといいますから正確には子供です)と共に最後の突 撃を敢行し戦死。43歳の生涯を終えます、 戦争後のパラグアイの人口は22万、うち成人男子はわずか2万8千人余となったとの ことです。 ウマイタの野戦は1866年5月24日ですから、ソラノ・ロペスの抵抗は正規軍崩壊後3 年近く続いたことになります。 首都アスンシオン陥落が1869年1月5日、そこからでも丸1年以上戦争を続けていま す。 大東亜戦争より苛烈とも言える歴史が地球の反対側で、大東亜戦争より70年以上前 にあったことを記しておきます。 |
> 桜花、回天共に、尉官(氏名失念)の意見具申により制式化された兵器ですが、尉官の意見具申だけで制式兵器として採用される物なのか?実際はもっと大掛かりなプロジェクトではなかったのか?共に生還の望みが無い故に「現場」の止むに止まれぬ声を汲んだという形をとったのではないか?と考えております。 > 組織と現場、ひいては組織と個人と言った所にやはり奇異な物を感じます。 尉官だったかはわかりませんが、WW2イギリス軍の珍兵器“パンジャンドラム”も将校の何気ないスケッチが採用されたというモノだったように記憶しているのですが。 もちろん、当時のイギリス軍と日本軍の立場や兵器の目的は違いますが1個人の案が軍組織に兵器として採用された1例として挙げておきます。 この問題で自分が思う事は、危機に迫った組織はトンデモナイ案にも藁にすがるような気で採用してしまうのではないかという事です。 |
話が進むようになれば、私のような素人の出る幕でもないのですが、 いろいろ書いた手前、日本の特異性について昔から疑問に思っていたことを書き込ませていただきます。 万歳突撃の原因の一つとしてしばしば「生きて虜囚の辱を受けず」の戦陣訓(昭和16年)の捕虜否定主義が挙げられますが、日本軍の捕虜否定主義(降伏禁止主義)の根はもっと深く、陸軍刑法(明治41年公布)第四十一条の「司令官野戦ノ時ニ在リテ隊兵ヲ率ヰ(い)敵ニ降リタルトキハ其ノ尽スヘキ所ヲ尽シタル場合ト雖(いえども)六月以下ノ禁錮ニ処ス 」に至ります。「尽スヘキ所ヲ尽シ」ても降伏したら処罰されるのでは、(罰則は比較的軽いにしても)野戦での降伏はどのような場合であれ不名誉な違法行為となります。 これは、近代軍隊としてはかなり特殊ではないかと思えるのですが、いかんせん現代ならともかく20世紀初頭の世界各国の軍法の内容がなかなかつかめず、また陸軍刑法制定時の立法者の考えもよくわからないという状況です。 ぼちぼち調べたいとは思っているもですが、なかなか手がつきません。近代の諸外国でも似たような規定があるのかをはじめ、皆さんのお知恵を拝借できればありがたいのですが。 |
日本国民として生まれ、日本国の文化・自然に愛着を持ち、 今まさに愛すべき物が敵国によって破壊されようとしている時、 「個」を捨て「公」の為に自らの命とひきかえに愛すべき日本国、 そしてそこに暮らす肉親を守ろうという精神は理解しがたいですか? 僕は理解しがたいという考えが理解しがたいです。 そしてこういう事を書くと右翼だとか煽られるのは承知の上ですが、 私自身は純粋に自分が生まれ育った国を愛しているだけです。 |
万歳突撃が愛国的行為かどうかはまた別の話です。 基本的には合理不合理の話になるのですけれども、それは少し置いて、私は万歳突撃を理解するには軍隊という場所で育つ物の考え方、発想というものに一般の人間の理解が及ばない傾向があるという問題もちょっとだけ考えて置くべき事ではないかと思っています。 ただ賛美するのも問題ですし、理解できないと斬って捨てるのもまた困った事でしょう。 微妙な話ですのでわかって貰える自信は無いんですけれども・・・。 |
小生の意見に対してマジレスして頂いてありがとうございます。 >万歳突撃を理解するには軍隊という場所で育つ物の考え方、 >発想というものに一般の人間の理解が及ばない傾向があるという >問題もちょっとだけ考えて置くべき事ではないかと思っています。 一般の人間が何の軍事教育も受けずにいきなり自らの意思で万歳と叫んで 突撃するという事は考えられませんものね。 やはりそこにはBUN氏のおっしゃる軍隊という場所で育つ物の考え方を 研究した上で、先の大戦で行われた悲劇的な作戦を考えるべきでしょう。 私は軍事研究を通して国を愛して守るとはどういう事かを 考えられたら良いなと思いました。 合理不合理を通り越した崇高な精神でお国の為に殉じていかれた英霊に 黙祷。。。 |
> 合理不合理を通り越した崇高な精神でお国の為に殉じていかれた英霊に > 黙祷。。。 黙祷はどうかお近くの慰霊碑の前かご自宅あたりでお願いしたいものです。 ここは黙祷する場所じゃないと思いますので。 ついでですが、あなたは今でも普通に「お国」という表現を使われているのでしょうか? 老婆心ながら、現在は「お国」というと故郷とか田舎とか言う意味で使うことの方が多いようですよ。 老婆心ついでですが「お国の為に殉じていかれた英霊」というのは「国に殉じた英霊」というのが国語的には正しいです。 |
よく「日本的な」戦争の仕方として引き合いに出される万歳突撃、特攻ですが、これは日本的な軍隊の特質と言うよりは、近代の国民国家の軍隊ではどこにでも現われる可能性のある現象なのではないかと思っています。 上のほうでも「日本的」に見える外国の例が挙げられていますが、全部国民国家の軍隊ですよね。日本でも室町時代や戦国時代に似たような現象があったとは思えないんです。 |
> 日本でも室町時代や戦国時代に似たような現象があったとは思えないんです。 私は素人ですので万歳突撃、特攻については分かりませんが、所謂「玉砕」について 少し考えて見ました。 関ヶ原の直前、鳥居元忠を守将とする伏見城が4万余の西軍の攻撃で落城しましたよね。 実際雑兵の逃散がどうだったのか私には分かりませんが、文献によっては戦死 1800余りとなってたりしますので、これは「玉砕」といえるのかもしれませんね。 あと、記憶を頼りに、世界史においてもう少し考えて見ると・・・ フランス革命時にルイ16世を守るべくチュイルリー宮殿を守備していたスイス人傭兵が 全滅してますよね。これも「玉砕」なのかもしれません。 |
> 日本国民として生まれ、日本国の文化・自然に愛着を持ち、 > 今まさに愛すべき物が敵国によって破壊されようとしている時、 > 「個」を捨て「公」の為に自らの命とひきかえに愛すべき日本国、 > そしてそこに暮らす肉親を守ろうという精神は理解しがたいですか? > 僕は理解しがたいという考えが理解しがたいです。 > そしてこういう事を書くと右翼だとか煽られるのは承知の上ですが、 > 私自身は純粋に自分が生まれ育った国を愛しているだけです。 日本国民として生まれ、日本国の文化・自然に愛着を持ち、 > 今まさに愛すべき物が敵国によって破壊されようとしている時、 > 「個」を捨て「公」の為に自らの命とひきかえに愛すべき日本国、 > そしてそこに暮らす肉親を守ろうという精神は理解しがたいですか? > 僕は理解しがたいという考えが理解しがたいです。 > そしてこういう事を書くと右翼だとか煽られるのは承知の上ですが、 > 私自身は純粋に自分が生まれ育った国を愛しているだけです。 愛国者さんの考えはよく解かります。 「身を挺して他人を救う」行為は崇高です。 最近では東海村の事故の例や、電車のホームで韓国人留学生が日本人を救った例もありました。 しかし、万歳突撃の場合、注射や銃殺や手榴弾による「重傷者の処理」が必ずと言って良い程ありました。 また、サイパンや沖縄での万歳突撃では「民間人の処理」もありました。 大平洋戦争当時の「公」は、今日の「公」とは、ほんの少し違っていました。 現在の愛国心と、当時の愛国心では、定義が異なっていたのかも知れません。 民間人の中には、自発的に自決した方もおられたと思いますが、 自分で「自決か、投降か」の意志を決定出来ない幼児は、あきらかに「何らかの為に」殺害されたと考えます。 「個と公」の概念で、昭和初期の一連の戦争を再解釈する動きが盛んです。 でも、現在の「公」の概念で、太平洋戦争の解釈をおこなっても、どこかに無理が出てくる、と思います。 無理の辻褄をあわせるため、歴史の解釈をねじ曲げる。これはよくない行為です。 |
自己フォローです。 > 民間人の中には、自発的に自決した方もおられたと思いますが、 > 自分で「自決か、投降か」の意志を決定出来ない幼児は、あきらかに「何らかの為に」殺害されたと考えます。 当時の兵隊さん(=我々の祖父世代)は、 限られた情報の中、当時の価値観で考えて、 ギリギリの(その時、その場所での最善と考えられる)判断を下したはずですから、 それを簡単に、後世の価値観でどうこう、とは言いたくないです。 価値観は時代と共に進歩します。たまに退化する時もあるようですが、ほとんどの場合、時代と共に進歩します。 白色人種の、有色人種に対する差別意識だって、太平洋戦争当時に比べると凄い進歩です。 ただ、僕は(現代で言うところの)「個と公」という、戦後確立された価値観でもって 我々の祖父世代の行った行為を解釈する行為こそが、軽率だ、と思います。 |
事実関係の検証とは異なる議論ですので、慎重に言葉を吟味するのですが・・・ > 価値観は時代と共に進歩します。たまに退化する時もあるようですが、ほとんどの場合、時代と共に進歩します。 この定義?も、前提条件が不安定だと思います。 とりあえず・・・・ 「価値観は、時代と共に変化します」 「価値観は、時代と共に多様化します」 この2点で以ってこそ、関係レスが有意義かと思えます。 そして、こうした視点でもって > ただ、僕は(現代で言うところの)「個と公」という、戦後確立された価値観でもって > 我々の祖父世代の行った行為を解釈する行為こそが、軽率だ、と思います。 に対して・・・・意味する所も分りますが、それでも、 戦後確立された価値観でもって・・・・解釈する行為も、ひとつの方策であり「軽率」 とまでは言いきれない思います。 おおまかに眺めれば、「降伏しても、いずれ殺される」という刷り込みの中での、自決等 ですから、もちろん今では妙に映る。しかし、その妙に映る事に気付き、理由を考えるのも、当時と?後世?と比較したからであり、その行為は帰納的に「意義ある事」であり、 「軽率」ではない・・・。と。 甚だ難解ではありますが、私の想いです。 |
SINNさん。了解です。意図は解ります。 表現の不備を訂正いただき、有り難うございました。 当方の補足です。 さらに言葉が慎重になりますし、これ以上、確証がありませんので、断言しずらいのですが、 (今日言うところの)公の事を考えての、万歳突撃や自決、までは解るのですが、 自分の子供や、自分の上司を手に掛けて 自決なり、万歳突撃、は、少なくとも、今の「公」の概念に従っての行為とは違うのかも、と思います。 でも、SINNさんのおっしゃる >おおまかに眺めれば、「降伏しても、いずれ殺される」という刷り込みの中での、自決等 >ですから、もちろん今では妙に映る。 も、そうかも知れない、と思います。正直言って、手許に資料がないので、よくわかりません。 おそらく、比率はさておき、両者のケースがあったのでは、と思います。 ただ、一つだけ、主張したいのは、 当時の価値観で、当時の現象を考えるのは、非常に有意義なんですが、 はっきりいって「個」=自分、「公」=みんな、って概念が(建前上で)定着したのって、戦後ですよね。 その、主に戦後に定着した価値観である「個と公」の概念を持って、万歳突撃や、神風特攻隊を 一面的に解析する風潮は、ちょっとまずいかな〜って言うことです。 さらに露骨な表現ですが、万歳突撃って、「お父さん万歳!」や「お母さん万歳!」って 唱えていって、突撃した訳ではないですよね。(本音は別の場合が多々あると思いますが) で、冒頭スレの「愛国者さん」の「万歳突撃=肉親の住んでいる国家を守る」主旨発言に、 もうちょっと、考える余地があるのでは (彼の考えを否定はしませんが)と思った次第です。 まだまだ、説明不足の部分があると思います。ツッコミよろしくお願いします。 |
ツッコミも何も(笑)私自身、機会がなければ、想いを馳せることの無い事象に対し、 書き込むコトによって自問自答してるのだと思います。 こちらこそ、よろしくお願いいたします。 > おそらく、比率はさておき、両者のケースがあったのでは、と思います。 たぶん、複数以上の概念が絡み合ってます。が・・・・今は保留しておきましょう。 > はっきりいって「個」=自分、「公」=みんな、って概念が(建前上で)定着したのって、戦後ですよね。 いえ、混乱しますが・・・戦後定着した(と漠然と記述してしまう)この概念は、 あくまでも「戦後流?」の概念ではないでしょうか? 重すぎるくらい重い「公」を背負ったのが、明治憲法下における日本人であり、 逆に、ふんわりと?軽い「公」しか持たない我々は・・・ 相対的に「個」を主張出来る環境にある。 書けば書くほど混乱しますが、当時の「公」を深く検証しないと、当時の時代感というか・・時代の空気を間違って捕らえるように思います。 > で、冒頭スレの「愛国者さん」の「万歳突撃=肉親の住んでいる国家を守る」主旨発言に、 > もうちょっと、考える余地があるのでは > (彼の考えを否定はしませんが)と思った次第です。 そしてこの意見に対して、私の意識では・・・・ 少なくとも、こうした議論の場では・・・ 「愛国者さん」のこの想いは、区別するべき、別の価値観だと認識しています。 これは、時代によって変化する、いわゆる「公」の意識で見るべきではなく、 もっと、プリミティブ!な・・・・誰でも保持している、 家族が大事>我がムラが大事>あるいは、我が会社>あるいは、我が母校>・・・ の延長線にある、本質的な感情の発露です。 ・・・・問題は、この本然的な意識に乗っかり!? あたかもそれが、逃げようのない「公」だと思わせ、思う「歴史段階」が・・・あった。 あるいは、今でもアル国も(会社も?団体も?)アル。 ・・・という事ではないでしょうか? なんとなく、彼の考えを否定はしませんが??? とか妙に思うのも、その区別と、結果事象を混同しているからだと思います。 |
> 書けば書くほど混乱しますが、当時の「公」を深く検証しないと、当時の時代感というか・・時代の空気を間違って捕らえるように思います。 おっしゃる通りだとおもいます。 僕、個人としては、ウラジオ艦隊を取り逃がしていた上村彦之丞の家に露探」と投石をしていた 明治の頃と昭和初期とは、「公」の概念は、また別だと思います。 ところで、その頃の「万歳突撃」って、「白襷隊」ですけど、あの戦術的合理性については、僕はよくわかりません。 でも「万歳突撃」のルーツは、そこらへんではないでしょうか。 > > で、冒頭スレの「愛国者さん」の「万歳突撃=肉親の住んでいる国家を守る」主旨発言に、 > > もうちょっと、考える余地があるのでは > > (彼の考えを否定はしませんが)と思った次第です。 > そしてこの意見に対して、私の意識では・・・・ > 少なくとも、こうした議論の場では・・・ > 「愛国者さん」のこの想いは、区別するべき、別の価値観だと認識しています。 > これは、時代によって変化する、いわゆる「公」の意識で見るべきではなく、 > もっと、プリミティブ!な・・・・誰でも保持している、 > 家族が大事>我がムラが大事>あるいは、我が会社>あるいは、我が母校>・・・ > の延長線にある、本質的な感情の発露です。 > ・・・・問題は、この本然的な意識に乗っかり!? > あたかもそれが、逃げようのない「公」だと思わせ、思う「歴史段階」が・・・あった。 > あるいは、今でもアル国も(会社も?団体も?)アル。 > ・・・という事ではないでしょうか? 了解しました、納得です。ありがとうございます。 |
そりゃ無茶苦茶ですがな・・・。 乃木大将が直率していればそうとも言えるかもしれませんけれどね。 |
> 僕、個人としては、ウラジオ艦隊を取り逃がしていた上村彦之丞の家に露探」と投石をしていた > 明治の頃と昭和初期とは、「公」の概念は、また別だと思います。 そうですね。この逸話、私は好きでもあり、有名でもありますが・・・・ 今の主題からすれば、見方を絞るべきかもしれません。 理由はともあれ、個人の家に投石するのは、賞賛するべきではありません。よってこれは、いわゆる一部の過激な行動だ、と認識するべきです。その前提で、しかし・・・ 「公僕」の在り方。「軍」といえども、各省庁の役人と同じく「公僕」である。 この見方を、世間は健全に保持していた。・・・であろうと感じます。 ご存知のように、この原則は以後、大きく崩れました。(というか、平穏にも過激にも?主張出来ない世相へ向かいました。) その恨み?が・・・この逸話を語り継がせた理由かとも思います。 ともあれ、「個と公の対比」あるいは「公の概念」を積極的に計る逸話ではなく 国民全体(意識?)と国家(存在価値?)の、関係を(←妙な表現になるのですが・・・) 漠然と示唆するに適当な、題材だと思います。 > でも「万歳突撃」のルーツは、そこらへんではないでしょうか。 下のほうでも、その意味を探る議論があり、参考にもなります・・・ つまり、この語彙を規定(この場の主題に沿って)した上で、題材を提示すべきだという事です。 例えば私が思う「万歳突撃」とは・・・・ ◇勝利の可能性無く・・・(この判断こそ、規定困難ですが・・・) ◇戦線(戦況?)を維持可能な補給無く・・・ ◇退路無く・・・ ◇投降は事実上、不可能・・・・(この、事実上!というのが各種要因ですが・・・) ◇上記状況下での、絶望的な攻撃。 です。いかがでしょうか?その戦例は、絞り込めるかもしれません。 そして、ルーツを探るには必要な過程だと思うのですが・・・・? |
簡単に済ませて申し訳ありませんけれども、常識的な撤退作戦が行われたソロモン諸島の戦闘とアッツ島、ギルバート諸島の戦闘との間にあるものを考えるべきではないでしょうか。戦陣訓などの存在も確かに大きく影響しているのでしょうけれども、そのレベルに話を持って行くと事実よりも発言者の歴史観を語るような傾向に陥るような気がします。 また、私はアッツ島やマキン、タラワの玉砕とサイパン島等の大拠点の玉砕は建て前はともかくその万歳突撃とそれに至る過程にも微妙なニュアンスの違いがあるかもしれないと思っています。 |
> 簡単に済ませて申し訳ありませんけれども、常識的な撤退作戦が行われたソロモン諸島の戦闘とアッツ島、ギルバート諸島の戦闘との間にあるものを考えるべきではないでしょうか。戦陣訓などの存在も確かに大きく影響しているのでしょうけれども、そのレベルに話を持って行くと事実よりも発言者の歴史観を語るような傾向に陥るような気がします。 > また、私はアッツ島やマキン、タラワの玉砕とサイパン島等の大拠点の玉砕は建て前はともかくその万歳突撃とそれに至る過程にも微妙なニュアンスの違いがあるかもしれないと思っています。 慎重過ぎるくらい慎重に駒を進めた結果、確かに私の歴史観が(まず)前面に出たかもしれず、反省しています。 とはいえ、人に語るほど確固とした史観を持つわけでもなく、又冒頭は >太平洋戦争の書物を読むにつれ・・・ からなる議論ですので、BUN様の設定?から進めるのが最善かもしれません。 本来、なんとなく?それぞれは理解しているが、表現には困る?話題かとも思います。 例えば、アッツ島・・・以降の特異点というか、ニュアンスの違いを(内容を)思えば、 軍隊(戦術)としては妙に思うけれど、私はそれを・・・どう観るのが適当か? 答えを出せずにいます。いかがなものでしょうか? |
> 日本国民として生まれ、日本国の文化・自然に愛着を持ち、 > 今まさに愛すべき物が敵国によって破壊されようとしている時、 > 「個」を捨て「公」の為に自らの命とひきかえに愛すべき日本国、 > そしてそこに暮らす肉親を守ろうという精神は理解しがたいですか? > 僕は理解しがたいという考えが理解しがたいです。 > そしてこういう事を書くと右翼だとか煽られるのは承知の上ですが、 > 私自身は純粋に自分が生まれ育った国を愛しているだけです。 或いは愛国者さんの気分を逆撫でするとは思いますが敢えて書きます。 万歳突撃は果たして愛国的行為でしょうか。 万歳突撃は既に戦局は決定的に不利であり、いかにその部隊が敢闘したとしても無意味な時点において実施されています。 つまり万歳突撃そのものは自ら死ぬために実施されるものであり、普通の自殺が日本に貢献しないのと同様、例えその精神性を認めるにしろ、日本にとって全く無意味な行為と考えます。 国のために尽くすというのであれば、例えば最後の一兵になるまで持久したり、捕虜となって敵の後方に負担を加えるという方法も有ります。また捕虜となって生還し戦後の復興に尽くした人も立派に国に貢献しており、万歳突撃に死するよりより愛国的とさえ言えるのではないでしょうか。 私個人としては万歳突撃は、歴史的にも精神的にもきわめていびつな行為だと考えています。 |
その時の状況が、後世から見てヘンな事に見えても、当事者にはヘンなこととは思えていない、と云う点を軸にして、当時の状況を分析していけば、後世から見ている者にとっても理解が及ぶ(あるいはすくなくとも頭では因果関係が分かる)状態になるのではないかと思います。 もし、そのとき萬歳突撃に加わらなかったら、別行動をとる人間はどういうことになるか、を先ず考えてみてはいかがでしょう。 また萬歳突撃の実態の解明も必要かと思います。精密周到な準備をもってなされた白兵隠密夜襲から、覚悟の自殺行為まで、いろいろあったはずです。 |
> もし、そのとき萬歳突撃に加わらなかったら、別行動をとる人間はどういうことになるか、を先ず考えてみてはいかがでしょう。 もちろんその点は理解しています。それに戦死した人をいたずらに貶める気もなかったのですが、或いは書き方が不適切だったのかも知れません。ただ私は万歳突撃で戦死した人=愛国者、捕虜となって生還した人=非国民・卑怯者という図式が我慢ならないのです。 > また萬歳突撃の実態の解明も必要かと思います。て精密周到な準備をもってなされた白兵隠密夜襲から、覚悟の自殺行為まで、いろいろあったはずです。 私の理解する万歳突撃は、戦果を求めるより玉砕を目的とした覚悟の自殺行為なのです。通常の戦術的な突撃をも万歳突撃というのでしょうか。その点についてご教示いただければ幸いです。 |
> 私の理解する万歳突撃は、戦果を求めるより玉砕を目的とした覚悟の自殺行為なのです。通常の戦術的な突撃をも万歳突撃というのでしょうか。その点についてご教示いただければ幸いです。 日本陸軍の用語に万歳突撃という言葉はありません。 アメリカ人が「Banzai Attack」といっているのを、戦後に直訳したものですね。 要するに、米軍がそのときの日本軍部隊の夜襲をどう解釈したかという問題だと思います。 日本側としては十分に準備したつもりであっても、米側の準備がそれを上回って突入失敗という状況と、日本側としては最後の死花を咲かせるためだけに米軍陣地の要点に突入するという状況とは、防衛側のみの視点から見て区別は果たしてできるものでしょうか? 強いて言うなら、山奥の人さんが仰るように、本当の意味で「万歳突撃」と言えるのは、守備隊が訣別電を打って後の「残存全兵力の突撃による総攻撃」だけでしょう。 けれど、それを名づける側はそこまで「気配り」をするでしょうか。 |
> 強いて言うなら、山奥の人さんが仰るように、本当の意味で「万歳突撃」と言えるのは、守備隊が訣別電を打って後の「残存全兵力の突撃による総攻撃」だけでしょう。 > けれど、それを名づける側はそこまで「気配り」をするでしょうか。 米軍の日系442部隊が「失われた大隊」救出作戦時、自発的に猛烈な突撃をかけたそうですが、この時の突撃も「バンザイ・アタック」と呼ばれているようです。アメリカ人にとって、「日本人による猛烈な突撃」は十把ひとからげに「バンザイ・アタック」なのではないでしょうか。 |
米軍から見た日本軍の白兵突撃は、米軍側の兵俗語においてはすべて banzai attack と称されて、非常に怖れられていた様子が、南太平洋の米軍兵士を主人公にした戦記小説によく出てきます。特に白刃をもって音も無く忍び寄ってくる夜襲は、かなりの効果があったと思われます。そのせいで、米軍兵士には神経症にかかるものも多く、私はこの隠密白兵突撃が無駄な戦術とは思えません。夜襲は日露戰争以来の日本軍の伝統的戦術で、静粛を保った歩兵旅團が夜襲により山嶽陣地の露軍を掃討してしまった実績を持っています。これは非常に高い錬度が必要で、國軍の誇りとなっていました。夜襲を採用した指揮官もその成功例が頭にあったのでしょう。 さて、敗軍の司令官が先頭にたって最後の突撃を行うのは、それでまた美学的にはよしとするべき行為ですが(私的にはですよ)、副官も傳令兵も司令部附の要員は、やはり司令官が突撃すると言い出せば、ついていかなければ職務が果たせないので(司令官一人でいけばよいのですが、そうもいかない)、なかなか大変だったのでしょう。厭だと言えば、それで済むのでしょうが、そうもいかない雰囲気があって、頭が突撃の方に固着してしまうわけです。他には何も考えられない状態となり鬼神の如く奮戦するのですが、そういう經驗は、いろんなケースで誰にもあると存じます。もしないとすれば、それはちょっと議論になりませんが、その時に雰囲気の熱に乗ってしまうか、冷静に損得を考えるかは、人それぞれです。最後の玉砕突撃参加者には酔っ払っていた人もおり、また途中で引き返してきた人もあり、奮戦空しく負傷・捕虜となってしまった人もありで、これらを捉えて、後世の人間が評価をくだすのは、生身の人間に対して僭越の極みではないでしょうか。人の生死を、それが馬鹿馬鹿しく見えようと、美しく見えようと、「評価」をすべき類いの事柄ではないと思います。遺族の悲しみを慰めるために賞賛するのは人間としてなすべきことですが、遺族ではない者が萬歳(玉砕)突撃に対して何らかの分析をしようとする時には、それがあるがままの状況を忖度して、死者に思いを馳せるしかありません。私は趣味で戦記など読んでいますが、時折、黙祷せざるを得ないことがあります。 突撃参加者=愛国者、生還者=非国民、の図式は、分析の道具としては使えるかもしれないけれど、それをそのまま信じ込んで評価尺度にしている人がいるとは到底思えません。いるとしたら、そういうフリをしているだけの話ではないでしょうか。状況が変わればクルリと違うことを云いだすのが世の中の常です。私には、息子を戰争でなくしたおばあさんの「ああ、つらかっただろう、しんどかっただろう」と云う言葉だけが、どのような戦病死に対してであれ、存在する真実の評価ではないかと存じます。捕虜になって病死しても、戦場離脱して逃亡中に射殺されても、死者を慰めるのは、そういう言葉だけでないでしょうか。「もう、つらいことは、なにもなくなったのだから、ゆっくり休んでおくれ」としか死者には云えないのです。愛国者だの非国民だのとは関係がない世界に死者は存在するのだと私はいつも感じます。そして特に生者が死者と変ずる境界においては、その取扱は慎重でなければなりません。大雑把にからげては、細かいことが、そしてそのコマカイ事が分析には大事なのですが、何らかの既製の言葉でくくってしまっては、何も理解できなくなります。 |