Page 129 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼日本のWWIIの水上機開発について 山家 02/12/28(土) 20:06 ┣はて? まなかじ 02/12/28(土) 22:01 ┃ ┗まぜ返してるばかりじゃ、アレだ まなかじ 02/12/28(土) 22:50 ┃ ┗主に水上戦闘機について 山家 02/12/30(月) 21:54 ┃ ┗Re:主に水上戦闘機について まなかじ 02/12/31(火) 23:16 ┃ ┗Re:主に水上戦闘機について 山家 03/1/1(水) 21:46 ┣Re:日本のWWIIの水上機開発について sinn 02/12/28(土) 23:17 ┣Re:日本のWWIIの水上機開発について 片 02/12/29(日) 1:31 ┃ ┗そう 片 02/12/29(日) 1:45 ┃ ┗各機種のバックアップについて 山家 02/12/30(月) 22:12 ┃ ┗Re:各機種のバックアップについて 片 02/12/30(月) 23:09 ┃ ┗Re:各機種のバックアップについて 山家 02/12/31(火) 18:02 ┃ ┣ええ、まあ 片 02/12/31(火) 19:50 ┃ ┗設計人員確保の問題・大卒者採用状況 片 03/1/1(水) 12:15 ┃ ┗Re:設計人員確保の問題・大卒者採用状況 山家 03/1/1(水) 21:57 ┃ ┗中島の場合 片 03/1/1(水) 22:56 ┣Re:日本のWWIIの水上機開発について SUDO 02/12/29(日) 21:30 ┣ゴミレス k-mine 02/12/29(日) 22:11 ┣後知恵 中村 02/12/29(日) 22:23 ┗実際の用法例。 無頼庵 02/12/30(月) 22:49 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 日本のWWIIの水上機開発について ■名前 : 山家 ■日付 : 02/12/28(土) 20:06 -------------------------------------------------------------------------
「零戦について」のスレッドを読んで思い出した話ですが。 以前、友人間で、WWII中の日本の水上機について話しをしたことがあります。その際、ある友人は、日本が水上戦闘機の強風や水上爆撃機の晴嵐を開発したのは、大失敗だった。その手間隙を、陸上機や艦上機の開発に費やしていたら、設計陣の負担は少しは軽減され、紫電改が早期に実戦に投入される等のことはあったのではないか、と主張しました。その友人が言うには、水上機は陸上機や艦上機よりもフロート装備等の関係から大幅に性能が劣る存在であり、日本がそのような性能の劣る機種の開発に血道を上げたのは大失敗だったと言いました。それに対し、別の友人は、日本の地理特性やその思想を考えると、日本が水上機開発に血道を上げたのは止むを得ない判断で、強風や晴嵐の開発は当然だったと主張しました。 本当のところ、どちらの主張が妥当なのでしょうか。 |
晴嵐て「水上機」でしたか? あのフロートは魚雷で言えば演習頭部みたいなものなんじゃないかと思えるんですが、気のせいでしょうか。 |
水上戦闘機ですが、これはつまり想定戦場のどこでも使える局戦です。 まず、日本の信託統治領だった南洋の島々への軍事施設の建設が軍縮条約によって禁止されていたことはご存知でしょうか。 1936年いっぱいでロンドン条約の期限が切れるまで、日本はマリアナやらマーシャルやらカロリンやらに航空基地を設定することはできません。 飛行場の急速設定が難しかったことが大戦に入ってからも日本の航空作戦の足を引っぱったことは周知のとおりです。 実際にも1941年12月時点での航空基地網は穴だらけで、足の長い陸攻があってやっと網目を形成している状態でした。 水上戦闘機を敢えて十五試で開発しようというのはこの現実に対処しようというものではなかったでしょうか。 水上機母艦(特設でもかまわない)1隻をある環礁なり湾なりに送り込めば、すぐにそこから作戦できるという水上戦闘機の特性は、当時の日本海軍にとって非常に魅力的で有用だったものと思います。 京風・・・じゃないや強風は単なる穴埋めにとどまらず、水上戦闘機によって当該空域の制空権を保持してしまえる高性能を狙おうという意図から開発が難航して遅れ、戦局の推移から使いどころがなくなってしまいましたが、更にその穴埋めとして登場した二式水戦の活動を追えば、水上戦闘機のレゾンデートルは明らかになるのではないでしょうか。 つまり、強風という戦闘機は、波のない静かな海面さえあれば、どこでも即日局戦の傘をかけられるという機種です。 南洋の各群島のラグーンにとどまらず、またあらゆる艦隊泊地においても、強風とその支援機材と搭乗員と整備員が乗った水上機母艦さえあれば、空母を港外に出して走らせる必要もなければ飛行場を建設する必要もなくエアカバーが手に入るわけですね。 ラグーンといえば日本の信託統治領の島々でラグーンを持たないような島などありませんから、全ての島が水上機基地として使えるという夢のような状態になります。 この有用性あればこそ、米軍もF4Fに下駄をはかせる努力をしていますし、英軍もスピットファイアに下駄をはかそうとしましたし、イタリアも複葉機ではありますが当時の一線機であるCR.42に下駄をはかせようとしています。 というより、そうした有用性というのは複葉機時代に既に十分に知られていることであり、複葉戦闘機の頃には水上戦闘機や戦闘飛行艇というのは珍しい機種ではありませんでした。 それぞれの理由から諸外国での全金属製単葉水上戦闘機はあまり大成しませんでしたが、日本にとっては水戦を重視する理由というのは確固としてあったわけです。 水爆に関しては前に議論ボードで散々やったような気がするので簡単に止めておきますが、要するに空母の艦爆戦力の補完のために巡洋艦搭載機を爆装して攻撃戦力に宛てようというもので、十二試二座から瑞雲へ至るものです。 晴嵐は実戦では下駄ははかず、機体は使い捨てにするもので、機種も「特殊機」のMがついています。 |
まなかじさま、丁寧なレスをどうもありがとうございます。 > この有用性あればこそ、米軍もF4Fに下駄をはかせる努力をしていますし、英軍もスピットファイアに下駄をはかそうとしましたし、イタリアも複葉機ではありますが当時の一線機であるCR.42に下駄をはかせようとしています。 米英伊のように、既存の戦闘機の水上機化を最初から図るというのは、駄目なのでしょうか。確かに、水上戦闘機は有用です。でも、新規に開発するというのは、それだけ手間隙が掛かってしまいます。水上戦闘機の強風から、紫電改が開発されていったのですから、結果的には良かったといえますが、もし、雷電が期待通りの高性能機になっていて、紫電改の開発がなされていなかったら、強風は、二式水戦や雷電の水上機化で充分だったと非難されていたのでは、と私には思われるのですが、やはり駄目なのでしょうか。 > 水爆に関しては前に議論ボードで散々やったような気がするので簡単に止めておきますが、要するに空母の艦爆戦力の補完のために巡洋艦搭載機を爆装して攻撃戦力に宛てようというもので、十二試二座から瑞雲へ至るものです。 そういえば、航空巡洋艦のスレッドで散々やりました。まなかじさまのレスを読んで思い出しました。確かに水上爆撃機は有用です。 > 晴嵐は実戦では下駄ははかず、機体は使い捨てにするもので、機種も「特殊機」のMがついています。 すいませんでした。晴嵐は、下駄ばきのまま、戦場に行くと考えていました。 |
> 米英伊のように、既存の戦闘機の水上機化を最初から図るというのは、駄目なのでしょうか。確かに、水上戦闘機は有用です。でも、新規に開発するというのは、それだけ手間隙が掛かってしまいます。水上戦闘機の強風から、紫電改が開発されていったのですから、結果的には良かったといえますが、もし、雷電が期待通りの高性能機になっていて、紫電改の開発がなされていなかったら、強風は、二式水戦や雷電の水上機化で充分だったと非難されていたのでは、と私には思われるのですが、やはり駄目なのでしょうか。 逆に見れば、全金属製単葉戦闘機を水上機に改造して成功した例というのは、二式水戦しかないわけですが。 F4Fもスピットファイアも、使いようがないというわけではなく、使いものにならないからアカンかったわけですよね。どちらも双フロートだったのがたぶん拙かったのでしょうが、フロートの設計自体は経験を積んだ会社の手になるものです。(F4Fはエド社、スピットファイアはもともと飛行艇・水上機の専門メーカーであるスーパーマリン/ソーンダーズ・ロウ) 飛行性能は悪くなかったICR.42(CR.42水上型)も、抵抗低下のためにフロートを小さくしすぎ、水上安定性が決定的に不足してポシャりました。 ブラックバーン・ロックの水上戦闘機転用案なんてのは、もう笑い話にしかなりません。 如何に中島の技術力が優れていたかということと、零戦という母体が初めから狙っていたわけでもないのに水上機改造への適性を持っていたということが二式水戦の例外的な成功につながっているのです。 このような例外的幸運でもない限り、陸上/艦上戦闘機の水上機転用を本気でやるとするならば、新規開発に近い手間と労力と大改造を必要とし、結果として出来上がってきたものと母体との間の共通性も失われてしまうでしょう。 その逆の例はまさに紫電と強風の間に見ることができ、水上戦闘機として適した設計の機体をお手軽に陸上機に改造してみたところであまり出来の良い飛行機にはなっていません。 つまり、紫電改として高性能戦闘機に大成してみれば、強風との間に共通性をもたせることはできないわけです。 (これも、改めて今度は紫電改母体の誉搭載水上戦闘機案としての強風二一型という方向も紫電改そのものの開発と並行するかたちで存在することは存在したようなのですが) また、雷電にせよ強風にせよ、機体設計そのものの問題というよりも、火星の大馬力と大トルクに悩んだことは共通しています。(雷電にはこれに加えて振動問題もありますが) 雷電がモノになる世界では、強風もモノになるかもしれません。 強風が予定通りにモノになっていれば、日本海軍の迎撃機の二本柱を雷電と分け合って、南洋各群島へ空母機動部隊に依らない、遊撃的な防空戦力を提供できることになっていたかもしれませんね。 確かに強風は最大速度と上昇力の点で米軍のF6FはおろかFM-2に対しても空戦の主導権を獲れるかどうか甚だ怪しい機体ではありますが、それでも『戦闘機がいる』というだけで相手に与えるプレッシャーや制約というのはかなり大きいものになるものです。 |
まなかじさま、たびたびの丁寧なレスをありがとうございます。 > 逆に見れば、全金属製単葉戦闘機を水上機に改造して成功した例というのは、二式水戦しかないわけですが。 > F4Fもスピットファイアも、使いようがないというわけではなく、使いものにならないからアカンかったわけですよね。どちらも双フロートだったのがたぶん拙かったのでしょうが、フロートの設計自体は経験を積んだ会社の手になるものです。(F4Fはエド社、スピットファイアはもともと飛行艇・水上機の専門メーカーであるスーパーマリン/ソーンダーズ・ロウ) 片さまへのレスでも触れましたが。陸上/艦上機を水上機へ転用することがベターでは、と思っていました。また、私の記憶違いから、F4Fやスピットファイアの水上機化は、戦局の推移から試作に止まり、量産化はされなかったものと思っていました。そもそも性能が使い物にならないレベルだったから、量産されなかったのですね。となると、十八水戦の局戦化も困難を極めそうですね。しかし、水上戦闘機は、陸上/艦上機からの転用が難しく、独自開発が必要なここまで苦労する代物だったとは、露、知りませんでした。確かに開発する必要性があることは認めざるを得ないのですが、こんなに手間隙が掛かるのなら、実際には遥かにコストが掛かりそうですが、改造空母を建造し、艦上機を運用したほうが良さそうにさえ、ちょっと思えてしまいます。 |
>水上機は陸上機や艦上機よりもフロート装備等の関係から大幅に性能が劣る存在であり・・・ >日本の地理特性やその思想を考えると・・・強風や晴嵐の開発は当然だったと主張しました。 > 本当のところ、どちらの主張が妥当なのでしょうか。 つまるところ、その主張の立脚点が異なるだけでしょう?例えば、駆逐艦と戦艦を、単純比較する事もなし(例えが不適切かな?)・・・それぞれの存在意義を以って語るべき事柄だと思います。そして、例えば正規戦闘機(?)には及ばないかもしれないが、気軽に進出、展開可能な戦闘機は必要であった。・・・・と思います。 |
> 日本が水上戦闘機の強風や水上爆撃機の晴嵐を開発したのは、大失敗だった。その手間隙を、陸上機や艦上機の開発に費やしていたら、設計陣の負担は少しは軽減され、紫電改が早期に実戦に投入される等のことはあったのではないか、と主張しました。 水上観測機や水上偵察機、飛行艇は他国も持っていますから、日本の特殊事情として発生した、つまり今回のテーマで問題になるのは、せいぜい強風、瑞雲、晴嵐の三機種くらいではないでしょうか。そのうち一機種は紫電改に発展し、ある意味きちんと元を取っています。「設計陣の負担は少しは軽減され」るという考え方もあるかもしれませんが、というようなことからすると、実は全体としてはたいした影響でもなかったのではないでしょうか。 ちなみに、強風から紫電、紫電改への発展は偶然ではなく、強風の次に予定されていた川西十八試水上戦闘機も陸上機化して十九試局地戦闘機とすることが、少なくとも昭和16年度には方針化されています。元は取るべきだ、と考えられていたのです。 |
> 日本が水上戦闘機の強風や水上爆撃機の晴嵐を開発したのは、大失敗だった。その手間隙を、陸上機や艦上機の開発に費やしていたら、設計陣の負担は少しは軽減され、紫電改が早期に実戦に投入される等のことはあったのではないか、と主張しました。 強風を作っていなかったら、紫電改は、早期投入どころか存在すらしていませんでしたね。 日本海軍では十二試くらいまでは競争試作が行われていますが、以降そのエネルギーは各機種ごとの一社特命という形で分散されます。結果として全体のシステムがひじょうに冗長性を欠いていて、一社に任された開発がどこかでコケたらその機種全体がおしまい、という危険な感じさえあります。しかし、実はそれほどのことではなく、相互の機種同士がバックアップし合う様なところもちゃんと残されていました。 水上戦闘機の陸・艦上戦闘機化、という可能性が残されているのは、そういう意味できわめての有効性をもち得ます。結果的に、まさしく紫電改がそのように有効に機能していたのですから。 |
片さま、丁寧なレスをどうもありがとうございます。 > 水上戦闘機の陸・艦上戦闘機化、という可能性が残されているのは、そういう意味できわめての有効性をもち得ます。結果的に、まさしく紫電改がそのように有効に機能していたのですから。 まなかじさまへのレスにも、少し書きましたが。確かに各機種のバックアップという観点から考えれば、強風や18試水上戦闘機の陸・艦上戦闘機化というのは、有効なバックアップになると思われます。ただ、思い切り後知恵と叱られそうですし、結果的にはそう変わらないでしょうが、水上戦闘機は、既存の戦闘機の改造に頼ることにし、例えば14試局戦を三菱と川西の競争試作で行うというのは、どうなのだろうかという思いが、どうしてもしてしまうのです。水上戦闘機は、確かに有用ですが、新規に開発するだけの価値があるのだろうか、と疑問を覚えます。競争試作のほうが、より有効なバックアップということはないのでしょうか。 |
お気持ちは良く分かりますが、実際の歴史は水上戦闘機を開発するという方向で推移しています。現実には十二試頃を最後として競争試作はなくなりますし、各種の水上機へ向かうエネルギーは残されます。その歴史の過程を「取り消す」ことを考えてみたところで生まれるものがあるのだろうか、という疑問に駆られてしまうのです。それよりも、実際に行われてしまったことの「意味」を考えるのが、真正面から向き合うアプローチのように思います。 > 水上戦闘機は、既存の戦闘機の改造に頼ることにし、例えば14試局戦を三菱と川西の競争試作で行うというのは、どうなのだろうかという思いが、どうしてもしてしまうのです。 当時の状況としては、海軍の戦闘機が三菱・中島以外へ発注される状況は難しかったのではないかと思います。各機種の試作開発の担当社は、それまでの履歴の中で積まれたノウハウの量で定められていたように見受けられますから。そういう意味では、川西は水上機の経験を買われて水上戦闘機を任され、水上戦闘機を完成させたことで次に戦闘機作りの経験を積んだと見なされた、ということになります。 一方の中島には、十四〜十六試で戦闘機の試作発注は計画されず、十七試戦爆の開発が予定されていました。さらに、これの完成後に十九試水爆に転用する計画だったようです。 十七試では、艦戦(三菱)、陸戦(川西)、局戦(三菱)、双発局戦(中島)というように複数の機種が平行で開発されようとしていました。「戦闘機」という言葉の意味が膨らみ、様々な方向へ放散されようとしていたのです。様々な戦闘機の用途が理論的に浮かんできたため、それに対する試作計画を当てはめて、逐一埋めようとしているのです。そして、そのいくつもの方向性は、結果的に「紫電改」「震電」といったものに整理されていきます。いったん放散し、収斂してゆく過程には、現実的な経験が必要でした。十八試水戦が実際には着手されなかったように、水上戦闘機は事実上不要であるという結論もそうした末に得られた知恵なのであり、それを対米戦開始の数年前の計画に当てはめようというのは、どうしても後知恵と云うしかなくなってしまうのではないかと思います。 |
片さま、たびたび、ありがとうございます。 > 当時の状況としては、海軍の戦闘機が三菱・中島以外へ発注される状況は難しかったのではないかと思います。各機種の試作開発の担当社は、それまでの履歴の中で積まれたノウハウの量で定められていたように見受けられますから。そういう意味では、川西は水上機の経験を買われて水上戦闘機を任され、水上戦闘機を完成させたことで次に戦闘機作りの経験を積んだと見なされた、ということになります。 その視点を見落としていました。言われてみれば、川西は、十五試水戦以前に本格的な戦闘機を製作したことはありませんでした。 > 一方の中島には、十四〜十六試で戦闘機の試作発注は計画されず、十七試戦爆の開発が予定されていました。さらに、これの完成後に十九試水爆に転用する計画だったようです。 水爆も戦爆からの転用案があったのですね。水爆は、十二試の際に確か開発に失敗していて、九九艦爆等からの転用案も見たことが無く、水爆については、機体の特性上、陸上機や艦上機からの転用はできないのかな、と誤解していました。 > いったん放散し、収斂してゆく過程には、現実的な経験が必要でした。十八試水戦が実際には着手されなかったように、水上戦闘機は事実上不要であるという結論もそうした末に得られた知恵なのであり、それを対米戦開始の数年前の計画に当てはめようというのは、どうしても後知恵と云うしかなくなってしまうのではないかと思います。 おっしゃるとおりだと思います。私が最初に友人間で話しをした際に思ったのは、陸上機や艦上機を、水上機に改造・転用した方がベターだったのでは、ということでした。前にも書きましたが、その方がいいように誤解していました。どうも後知恵が過ぎたようですいません。 |
正直云うと、僕も「なんだこんな水上機作らなけりゃいいのに」と思っちゃうんですが。 日本海軍の飛行機作りの出発点のひとつに「水陸互換性の確保」という命題があり、そこからの思考様式の延長を追っかけた方が良いのかもしれないと思いました。 |
元々零戦などの改造に充てる設計人員の確保、というお話だったので、そういう観点からもういちど資料を読み返してみました。 > 言われてみれば、川西は、十五試水戦以前に本格的な戦闘機を製作したことはありませんでした。 「零戦、一式陸攻という優良な多量生産機をもってしまったがために、その改造設計を延々抱え込むことになってしまった」と、三菱の部内で見解が残されています。 そういう意味では、特定主力機種の設計を一社に集中させること自体に問題があったようで、零戦の次の主力戦闘機はやはり三菱以外の社に回すべきだったのだと思います。そうだとすると、むしろ水上機の設計頻度が薄くなりつつあった川西に戦闘機設計のノウハウを積ませるというのは、意味のあることだったのだと。 もう一点。 三菱の機体設計現場への大卒者採用状況を見てみますと、大正の末から昭和13年頃にかけて、平均すると毎年1.0人を下回る入社数になっています。 山本五十六の肝いりで航空機生産の国内自立に着手され始めた昭和7年以降では、むしろ『採用者なし』の年度が目立ち始めます。これは、昭和6、7年頃に極端に飛行機の生産受注数が低減し、工員は朝出社してすぐ帰宅するというほとんどレイオフに近い状況にあったことの影響だとされています。 結局、積極的に国内技術を育成して航空自立化を図ろうとした山本構想にとって、将来的人材の確保というあたりが盲点になっていたということなのかもしれません。 それが昭和15年頃からの設計現場の作業的圧迫を引き起こしたのではないか、と。 |
> 三菱の機体設計現場への大卒者採用状況を見てみますと、大正の末から昭和13年頃にかけて、平均すると毎年1.0人を下回る入社数になっています。 > 山本五十六の肝いりで航空機生産の国内自立に着手され始めた昭和7年以降では、むしろ『採用者なし』の年度が目立ち始めます。これは、昭和6、7年頃に極端に飛行機の生産受注数が低減し、工員は朝出社してすぐ帰宅するというほとんどレイオフに近い状況にあったことの影響だとされています。 > > 結局、積極的に国内技術を育成して航空自立化を図ろうとした山本構想にとって、将来的人材の確保というあたりが盲点になっていたということなのかもしれません。 > それが昭和15年頃からの設計現場の作業的圧迫を引き起こしたのではないか、と。 昭和7年以降、三菱で「採用者なし」の年度が目立つような状況だったとは、初耳です。三菱でそのような状況なら、他の中島等の航空機メーカーも大同小異の状況だったのではないでしょうか。もし、きちんと採用を続けていたら、昭和15年頃からの、設計現場の作業的圧迫も緩和されていたかもしれませんね。ゴミ話しですが、バブル崩壊直後、そろそろ企業が新卒採用を手控えだした頃、某企業が、将来景気が良くなったときのことを考え、採用を手控えないと広告を打っていたのをふと思い出してしまいました。 |
> 三菱でそのような状況なら、他の中島等の航空機メーカーも大同小異の状況だったのではないでしょうか。 資料が限られていますので、設計技術者だけに絞り込めませんが、 ●昭和10年における、在籍「技術者」数の比較 中島137名 三菱242名 川崎175名 立川 71名 という数字が手元にありました。 ここで技術者と呼ばれているものは、それなりの高等教育を受けて技術部門で中核となり得る人員を指しているものと思われます。 三菱は名古屋航空機製作所(機体)と名古屋発動機製作所(発動機)の分離前、中島は太田(機体)と東京(発動機)を合算してあります。さらに設計部門だけでなく、製造その他の分野も含めての数字ということになります。 三菱・中島両社ともこの後に経営規模の極度の膨張を始めますが、大戦時においてそれなりの経験を積んで使いものになっていた人材の絶対量を考えると、この昭和10年度頃の比較はそれなりに有効なものだと考えられます。 それで云うと、中島は三菱の半分程度でしょうか。三菱が戦時中にぶち当たった壁の大きさを考えると、業界第二位である中島のこの状況には薄ら寒いものがあります。 ただ、どうもこの時期前後からこうした他社は人材育成の必要性を感じて採用の確保を始めたようなのに対し、三菱は「出遅れた」という表現もありました。 |
水上機が陸上機に比して性能面で不利なのは事実です。ですから陸上機・艦上機が用意出来るならそっちの方が有用なのは言うまでも無い事ですね。 ですが、陸上基地も空母も用意するのが結構大変な訳で、最重要方面以外には、そうした手当てをする余裕が無い、もしくはどうしても数量・規模が確保できないという問題が、特に日本軍の場合は避けられません。 極論を言うなら、瑞雲も強風も要りません。代わりに空母や基地が得られるならね。そして、どっちが、あの戦争のスパンで現実的だったのかという事でしょう。 強風に関して言うなら、あれが無かったら紫電改は無かったのだという一点で、完全に元を取ったといえるのではないでしょうか。 瑞雲にしても、もしあれが無かったら、代わりに艦爆でも作ってたでしょうか? 彗星があるのですから、愛知14試艦爆という可能性は無いのです。つまり瑞雲の有無は後の流星にも特に影響していないでしょう。 しかし、99艦爆と瑞雲の性能を見ると、愛知の技術の進歩ってのも凄いなと感心。 |
CS放送のヒストリーチャンネルで「戦闘するデザイン」という番組があり、カタリナ飛行艇をやっておりました。元パイロットの話を聞くとぶっちゃけ凡作機で直進安定性が悪く真っ直ぐ飛ぶだけで苦労したそうです。そんなカタリナ飛行艇も使い勝手が良いのか、わざわざ新製品を作るほどのニーズもないのか、なんと現代の消防隊でも現役だそうです。 で、話はうって変わって民族性の問題なんですが、我々日本人が地球連邦軍のごとくジムだのボールだのという没個性で合理性の塊みたいなモビルスーツをぼんぼん生産するのを好むか、ジオン軍のごとく個性的で魅力的なモビルスーツを野放図に生産するのを好むかそれを考えればむべなるかな、という気がします。(笑 まあ多少設計者をよそに廻したところで開発のスピードとスタッフの人数は必ずしも=とはかぎらないでしょうから、大失敗とおおごとに考えるほどではありますまい、と思います。 |
十五試水戦をやめて、川西に十四試局戦を作らせて、三菱には零戦の改良に全力を注がせる・・・てなことを考えたりもするのですが、戦闘機を作った経験の無い川西に次期主力戦闘機を発注するのは無理でしょうね。 |
レイテ沖海戦での最上から射出された零式水偵が好例だと思います。 最上から射出された6機の零式水偵は、あるものは、レイテ湾経由、またあるものは直行で、 5機がサンホセ水上基地に集合し、セブ島に移動。 無電で最上と連絡をとりながら、機を見て五月雨式にセブ島より発進し、最上の レイテ突入を支援しています。 これは、ある意味、水上機の特性を最大に生かした用法だったのでは、と思います。 |