6月1日、レティモとスファキア周辺に残存していた英連邦軍の守備隊がドイツ軍の降伏勧告に従いに投降した。その数はおよそ5000人余り、いずれも撤退不可能な地域に取り残されたか、撤収の最終便に乗船することの敵わなかった兵士達だった。これが5月20日から、陸海空の全てにわたって繰り広げられたクレタ12日間の戦いの終局である。
クレタの戦いに対する評価はそれから64年の年月を経た今まで、およそ数え切れないほど各国の人々により書き上げられてきた。ここではまず明らかな結果だけを列挙し、次に本来の目的であるクレタ戦が海上の戦いに与えた影響について言及してみたい。
「メルクール」作戦そのものはクレタ島奪取という完璧な形で達成された。ドイツ軍はエーゲ海域も含む全てのバルカン戦域から英連邦軍の全ての正規軍を駆逐し、ヒトラーの悩みのタネであった南辺からの反攻という可能性は当分消滅した。これはドイツがその地上部隊をほぼ全力に近い形で「バルバロッサ」作戦に投入できることを意味し、後顧の憂いを排除したドイツ軍はそれから間も無く開始されたソ連侵攻作戦を空前の規模で発動した。
また、「バトル・オブ・ブリデン」で勝利することができなかったドイツ空軍にとっても、この度のバルカン侵攻では電撃戦の再来という格好の見せ場を確保し、続くクレタ島侵攻作戦では「空からの侵攻」という海上からの侵攻の一時頓挫を都合よく切り捨てた宣伝で全世界に衝撃を与えた。
そして、世界最強のイギリス海軍をドイツ空軍が単独で撃破したという誰の目にも否定することのできない実績は、これと全く同じ時期に戦艦ビスマルクを撃沈されたドイツ海軍とは否が応でも比較され、格好のコントラストとして周囲に意識された。第8航空軍団司令官フォン・リヒトホーフェンは「バトル・オブ・ブリデン」で喪った自己の権威を回復し、この戦功に対して柏葉付き騎士十字章をヒトラー直々から授与されることで、その近接航空支援戦術家としての名声を不動のものとした。
しかし表あれば裏あり。客観的に見れば強引極まりない方法で解決したこの作戦の損害は大きかった。最大の衝撃を与えたのは6580名もの空挺・降下部隊の死傷者の数であった。これはバルカン半島の作戦全体の死傷者が5650名であることを踏まえるなら、半島全体から見ればほんのちっぽけなこの島の攻略にそれより1000名以上もの損害を受けたことを意味する。
加えてドイツ軍には約350機の航空機の損耗をこれに加算しなければいけない。リヒトホーフェンの第8航空軍団の損害は比較的軽微で、作戦全体で戦闘用航空機の被害は約80機に留まった。しかしグライダーの全てと271機のJu52輸送機を失ったことは無視できない損害だった。
使い捨てのグライダーはともかく貴重な輸送機を作戦投入数の半数以上も失ったことは重大な出来事で、この時はまだその重大さは認識されるに至らなかったが、後に東部戦線とアフリカ戦線でデミヤンスク救援戦、スターリングラード包囲戦、チュニジア強行輸送戦を同時に抱えるようになると、クレタで払った被害の数字の大きさがじわじわと思い知らされるようになる。
人員と機材、この両面からの打撃で第11航空軍団は事実上その活動を停止した。衝撃を受けたヒトラーは今後、二度と大規模な降下作戦を行うまいと決意し、以後降下猟兵は輸送機部隊と切り離され、単独で精強な地上部隊として各地の戦線に散発的に投入されることになる。従って結果的に、このクレタ島攻略作戦はドイツ軍の降下猟兵部隊がその本来の用途に大規模に投入された最後の機会となった。
一方のイギリス軍、政府にとってもクレタ島の失陥は大きな打撃であった。ギリシャへの支援を積極的に支援し、一部の軍の反対を押し切ってまで強行したバルカン出兵が完全な形で失敗に終わったことで、チャーチルは政治的に大きな失点を背負うことになった。同時にバルカン半島に対する最後の橋頭堡であるクレタ島を失ったことで、歴史的に継承されてきた英仏の東欧戦略に最後の終止符が打たれたことになる。戦後の政治学者の中には、第2次大戦直後のギリシャ内戦とヨーロッパ東西分断の種はこの時瞬間に撒かれたと指摘する声もあるほどなのだ。
クレタの地上戦でイギリス連邦陸軍は戦死、負傷、捕虜合計1万5743名、そのうち約1万2000名がドイツ軍の捕虜となった。このほかギリシャに引き続いてクレタの輸送された重装備機材を全て失うか、放棄を余儀なくされていた。北アフリカの戦況が重大化している現在の状況下において、円滑な補給が困難な中東でこのような損失を強いられたことは大きな失敗であったといわざるを得ない。このほか島にはギリシャ軍の将兵約1万4000名が残留し、これもドイツ軍の捕虜となった。
島から撤退したのは当初の倍近い約1万7000名、後に潜水艦による救難や自力での脱出など1000名が更にこの島から離脱した。島から脱出したオーストラリア/ニュージーランド軍将兵はこのあとも北アフリカの砂漠でドイツ軍相手の砂漠の戦いを繰り広げていく。
そしてクレタ戦で最大の損害を蒙った立場になるのがイギリス地中海艦隊である。イギリス海軍がクレタ戦期間中失った艦艇は巡洋艦3隻、グロスター、フィジー、カルカッタ。駆逐艦6隻、ジュノー、グレイハウンド、カシミール、ケリー、インペリアル、ヘリワード。クレタ戦期間の以前に損害を受け、クレタ島の放棄によって全損を強いられたのが巡洋艦ヨーク、掃海艇ウィドネス、海軍タンカー、オルナの3隻、述べ合計12隻もの多数に上る。
この数字は先にギリシャからの撤退行動、「デーモン」作戦によって蒙った損害も合計するならより一層その重大さが明らかにされる。イギリス・ギリシャ海軍は4月末から5月末までの一ヶ月間余りの間に、イギリス巡洋艦4隻、ヨーク、グロスター、フィジー、カルカッタ。イギリス駆逐艦8隻、ダイアモンド、ライネック、ジュノー、グレイハウンド、カシミール、ケリー、インペリアル、ヘリワード。ギリシャ駆逐艦4隻、レオン、プサーラ、イードラ、ヴァシレフス・ゲオルギオス(被鹵獲)。ギリシャ水雷艇4隻、ペルガモス、キジコス、キオス、キドニアイ。以上巡洋艦、駆逐艦、水雷艇など戦闘艦艇だけでも実に20隻もの損失が重ねられた。
このほかギリシャ沿岸で撃沈された一般商船、貨物船などは損害が30隻を越え、独伊空軍の攻撃でこれだけの期間に艦船船舶が損害を蒙った状況というのは他に例を見ないことである。イギリス戦闘機が少数しか展開せず、それもドイツ戦闘機隊により事前に駆逐されたことがこの戦果を可能としたのである。
人員の被害も大きく、イギリス海軍の死者・行方不明者は2011名に上り、ローリングス提督の負傷、3人の巡洋艦艦長の戦死など経験を積んだ高級士官を多数喪ったことも大きかった。
イギリス地中海艦隊の痛手は沈没艦の数字ばかりではなかった。沈没を免れても、地中海艦隊の根拠地アレクサンドリアでは修理不可能な損傷により地中海外への後送を余儀なくされた艦艇が続出したのである。他にもクレタが占領され、アレクサンドリアがドイツ空軍の長距離機の攻撃圏内に入ってしまったことにより、すぐ稼動状態にない艦艇をアレクサンドリアの港においておくことも不可能となったのである。※1
クレタ戦で損傷を受けた艦艇は戦闘艦艇だけで下記の多きに渡る。戦艦3、ウォースパイト、ヴァリアント、バーラム。空母1、フォーミダブル。巡洋艦6、オライオン、エイジャックス、パース、ダイドー、ナイアド、カーライル。駆逐艦8、デコイ、ハヴォック、アイレクス、ヌビアン、キングストン、ケルヴィン、ネイピア、ナイザム。クレタ戦期間中、巡洋艦以上の艦艇で全く無傷を通したのは僅かに戦艦1、クイーン・エリザベス。軽巡2、フィービ、コヴェントリーのみ。それに敷設巡洋艦アブディールがあるに過ぎなかった。
このうち局地修理が不可能な大損傷で、大規模修理の為にアメリカや本国などに回航を余儀なくされたものは戦艦2、ウォースパイト(アメリカ西岸行き・戦列復帰7ヶ月要)、バーラム(南ア、ダーバン行き・戦列復帰3ヶ月要)。空母1、フォーミダブル(アメリカ東岸行き・戦列復帰6ヶ月要)、巡洋艦2、オライオン(アメリカ東岸行き・戦列復帰8ヶ月半要)、ダイドー(アメリカ東岸行き・戦列復帰5ヶ月要)、駆逐艦2、ヌビアン(戦列復帰12ヶ月要)、ケルヴィン(戦列復帰数ヶ月要)。
なんとか現地の応急修理のみで作戦行動に復帰できそうなものは戦艦1、ヴァリアント。巡洋艦4、※2エイジャックス、パース、ナイアド、カーライル。駆逐艦6、デコイ、ハヴォック、アイレクス、キングストン、ネイピア、ナイザムだけとなり、これに無傷の艦艇を糾合しても、地中海艦隊の戦力はクレタ戦開始前の二分の一かそれ以下にまで落ち込んでしまった。
イギリス地中海艦隊はイタリア参戦以来、海軍省がやり繰りした新造艦。改装艦を逐次受け取りながら強大な艦隊戦力を持つイタリア海軍との戦力均衡に努めてきた。このシーソー・ゲームはタラント奇襲の成功で一気にイギリス側に傾き、マタパン沖の勝利で更にその格差は開いたかに見えたが、このクレタ戦で戦力の半数以上を撃沈されるか戦列外に追いやられたことで一気に引き戻された。
イタリア参戦時以来の全盛期とも言える状態から戦力半減に追い込まれた地中海艦隊と、損傷の修理を終えて戦艦を復帰させつつあるイタリア海軍との戦力差はこのクレタ戦を境に次第に逆転し始めることになる。第8航空軍団は「バルバロッサ」作戦のためにポーランドに引き揚げたが、その穴を埋めるように第10航空軍団が東地中海に移動し、空母を失って追い詰められた地中海艦隊に更なる圧迫を加えることになる。
あるいはクレタの戦いで利益を得たのはイタリア海軍であるのかもしれない、タラントとマタパンの痛手を舐める時間を稼ぎ、イギリス海軍の注意をクレタ島水域にひきつけることで北アフリカへの大規模補給を何度も成功させた。この補給に支えられたロンメル以下の独伊軍地上部隊はトブルクの包囲を続け、「ブレビティ」作戦・「バトルアクス」作戦といった英第8軍の解囲作戦を何度も撃退した。
イギリス海軍がクレタ水域から引き下がりこの北アフリカへの補給線攻撃に集中すると、断固船団を通そうとするイタリア大艦隊との間で何度も激しい突破/阻止戦が展開される。実力に勝るイギリス海軍はその課程で何度も勝利を収め、補給の途絶えたロンメルは英第8軍の「クルゼイター」作戦により一時後退を余儀なくされたが、クレタ戦の傷を癒す間もない連戦に地中海艦隊の戦力は枯渇し、最後にイタリア潜水兵の破壊工作で戦艦クイーン・エリザベスとヴァリアントを撃破されてイギリス地中海艦隊は最後の戦艦を失い壊滅した。補給再開で勢いづいたロンメルが、最終的にはエル・アラメインの地に至る再度の大反攻を開始するのはその後のことである。
クレタの戦いは42年初頭に至るイギリスの中東、極東戦略大崩壊の危機に直結する最初の蹉跌であるといえる。その意味で、イギリスの大海軍戦力を地中海という狭い海に拘束し、痛めつけ、疲労させ、磨耗させ、そして更に多くの戦力を投じさせるに至ったクレタ海上の戦いの意味は消して小さいとは思われない。