スダの陥落は時間の問題で、撤収部隊の回航まで持ちこたえられる保証が無い上に、ギリシャのドイツ空軍基地に近接した悪夢のクレタ島北岸にあったため、西部地区の部隊は山岳地帯(ホワイトマウンテン)※1を越えて南岸の寒村スファキアまで退却するように命じられた。
西部の部隊にとっての救いは、当初ドイツ側がこの山岳地帯で包囲形成に使用する予定の第5山岳師団が、降下猟兵の早期の大損害によってマレメ飛行場の確保に投入されたために、守備隊の南海岸への脱出を阻止するドイツ軍兵力が存在していなかったことである。
戦闘を避けられたのは幸運ではあったが、舗装などされていない悪路の中で将兵は過酷な行軍を強いられた。靴のかかとが磨り減ってしまったために、撤退してきた時には素足のかかとが蹄のように割れてしまった痛々しい姿の海軍パイロットもいた。このようにある者は滑落する危険を冒してホワイトマウンテンのごつごつしたむき出しの岩肌を越え、またある者は落石と沢に落ちる危険を乗り越えて断崖絶壁のサマリア渓谷を縫うように撤退した。
退却を開始した英連邦軍将兵の頭上をドイツ空軍の戦闘機と急降下爆撃機が飛び回り、目に付くものに手当たり次第に銃爆撃を加えていった。ある将兵などは曲がりくねった急勾配の山道でシュトゥーカに出くわし、冷静に岩陰に身を隠しながら心底うんざりした気分を味わった。後に彼はこう回想している。「(一時間も上空のシュトゥーカに付きまとわれた挙句)、私はおしまいに反吐を吐きたくなるほど嫌な気分になった」。
東部地区のへラクリオンでは守備隊はドイツ軍に圧倒されることを許しておらず、港を確保できる見込みであった為に、そこで艦隊を待つことになった。
クレタ島周囲の警戒は20日の時点とは比較にならないほど厳戒である事が予想され、全く発見されずに撤収を行うことは考えられなかった。カニンガムは減耗した兵力を再び大きな危険にぶつける事態に直面したが、「彼らに、わが陸軍を打倒させてはならない」と今度はカニンガムにも躊躇いは無かった。
既にクレタを巡る戦闘で巡洋艦2隻と駆逐艦4隻を沈められており、※2戦艦3隻、空母1、巡洋艦2、駆逐艦3隻が大きな損傷を受けていた。※3
敵制空権下を突破して撤収作戦を行う今回、22日に証明されたとおり鈍足かつ敵の目標になりやすい戦艦の投入は論外であった。軽い損傷を押して作戦可能なのは軽巡洋艦7隻と駆逐艦であり、これをすり潰せば地中海艦隊そのものの存在を危険に晒しかねなかった。※4
地中海艦隊の参謀が損害の大きさに嘆いたとき、カニンガムは「船の建造には3年掛かる、しかし、伝統を再建するには300年掛かるだろう」と、一歩も後には引かない姿勢を示した。そう、カニンガムは理由の無い損害を恐れをすれ、チャーチルが疑ったように決意に欠けるような人間ではなかったのである。
第一次撤収は28日の夜に開始された。南岸のスファキアへは駆逐艦ネイピア、ナイザム、ケルヴィン、カンダハルの4隻が赴き、往路では空襲を受けることなくスファキア沖に到着した。黎明までにそれぞれの艦に将兵が乗り込み、例えばこの4隻を束ねる艦長兼隊司令S・H・T・アーリス大佐の乗艦ネイピアには296名の兵士、3名の女性、1名ずつのギリシャ人と中国人、10名の船員、2名の子供と1匹の犬!が乾舷のラッタルを登った。
総計724名の兵員と20名の雑多な人々―ギリシャ人、女性、子供、そしては犬まで−を救出して、午前3時に駆逐艦はスファキアを後にした。帰路に部隊は敵の空襲に捕まり、ナイザムが数発の至近弾により軽い損傷を蒙ったものの、なんとかこの損害だけで、4隻は無事にアレクサンドリアまで帰りつくことが出来た。