マウントバッテン大佐は乗艦ケリーと、カシミール、キップリングの駆逐艦3隻を従えマレメ沖へと向かった。並行してクレタに逃れていたギリシャ王族(ジョージ国王ら一行)を救出するため、駆逐艦デコイとヒーローがクレタ南岸の寒村ルメーリに赴いた。
22日の夜から翌23日にかけて、一行を無事救い出したデコイとヒーローの2隻はアレクサンドリアに無事に帰りついたが、北岸に回りこんだマウントバッテンの方はドイツ軍から猛烈なしっぺ返しを喰らうことになる。
22日から23日に日付が変わるまでの深夜、アンティキティラ海峡を通過してクレタの北岸沖に回りこんだマウントバッテンの駆逐艦3隻は、新手のドイツ船団を捜索しながら、ドイツ軍が制圧し、輸送機で増援部隊を吐き出しているマレメ飛行場に艦砲射撃を加えた。
しかし暗闇の海上に前日のような独伊軍船団の姿は見えず、マウントバッテンは艦を無用の危険に晒すまいと、真夜中のうちに侵入路と同じコースを辿ってクレタ南方の水域に出て、夜明けにはクレタからかなり離れた海上にまで進んでいた。しかし、これでもドイツ軍機を振り切るには遅すぎたのである。
フベルトゥス・ヒッチュホルト大尉が指揮する第2急降下爆撃航空団第1飛行隊(I/StG)の24機のシュツーカが早朝攻撃に出撃し、7時55分、クレタ南岸のスファキア沖にまで退避していたマウントバッテンの駆逐艦を捕捉した。
ヒッチュホルト大尉は直ちに攻撃を開始し、ケリー、カシミール、キップリングの順に並んで航行していた英駆逐艦のうち、まず中央のカシミールに最初に攻撃が集中された。カシミールの周囲に弾着の水柱が立ち上り、その中でカシミールは艦の中央に直撃弾1発を被弾、わずか2分足らずの間に沈没した。
激しい回避運動を続けていたケリーにもシュトゥーカが喰らい付き、ケリーの中央部にある煙突に爆弾が命中、爆弾はそこを突き抜けてケリーの缶室で爆発した。艦底部に致命傷を受けたケリーは被弾とほとんど同時に転覆した。
海中からマウントバッテン大佐は沈みゆくかつての乗艦に、「ケリー万歳」と大音声で叫んだといわれている。残るキップリングは海に漂う生存者の救助を開始したが、停船するなり敵機に攻撃され、それをやり過ごしてまた艦を泊めて救助作業を始めるとまた敵機が襲ってくるというイタチごっこを何度も繰り返した。艦長セント・クレア-フォード中佐の巧みな操艦と、なりにより強運に恵まれた結果、キップリングはなんとかマウントバッテン大佐を始めとする279名の生存者を救い上げて戦場を離脱することに成功した。※1
海軍大佐ルイス・マウントバッテン伯はヴィクトリア女王の曾孫、現在のエリザベス女王の夫エディンバラ公の伯父にあたる。彼の乗艦ケリーは、戦時中同型艦ジャーヴィスの艦長を務めたロジャー・ヒルによると、ヒルは新任の艦長として赴任したジャーヴィスの艦長室に「(それまでの駆逐艦と較べれば)まさに最高、素晴しいの一言に尽きた」と評した後で、「彼女ら(ケリーとジャーヴィス)の建造中、どちらの艦にルイス・マウントバッテン卿が艦長として乗艦されるか、まだ決定していなかったので、両艦ともこのように豪奢な艦長室が出来上がったのだ」との噂があったと記している。
マウントバッテンもケリーには思い入れがあったのか、ケリーがノルウェー作戦中独魚雷艇S41の攻撃で大破した際、損傷に酷さに造船所側が廃棄を提案したにも拘らず、マウントバッテンは修理を断固主張して譲らなかったほどだった。しかしそのケリーも、今度こそ修理も浮揚も不可能なクレタ沖の海底に沈んでいった。
ドイツ軍機による攻撃は英軍の小艇群にも向けられていた。スダ湾に展開していたイギリス魚雷艇(MTB)第10MTB艇隊を、前日ウォースパイトを撃破した戦闘爆撃機部隊、第77戦闘航空団第3飛行隊III/JG77(指揮官、フォン・ヴィンターフェルト少佐)が襲撃、MTB67号、同213号、214号、216号、217号の5艇全てを爆撃と銃撃により撃沈、ないし炎上させ使用不能としたのである。
連日の勝利にドイツ軍機、特にシュトゥーカ搭乗員の士気は沸き立ったが、中にはお祭り騒ぎの輪に入ることの出来ない不運な者もいた。ハンス・ウールリッヒ・リーデルもその一人で、後にスターリンから「ソ連人民最大の敵」と名指しされるほどの伝説的なシュトゥーカパイロットも、この時は長距離偵察機からJu87に機種転換してまだ日が浅く、それを理由に上官から実戦出撃参加を許されず辛い目にあっていた。
彼は同僚のI/StG2搭乗員がお互いの連日の戦果を自慢し合うのに耐えながら、影で悔しさのあまり男泣きに泣いていた。彼がそれまでの鬱憤を晴らすかのように鬼神の如き活躍を見せるのは、これから数ヶ月のソヴィエト侵攻以降のことである。
このようなドイツ軍機の跳梁はカニンガムにとって最早我慢できないものとなっていた。過去一年間に渡って彼が受けてきたのと同じくらいの損害を、既にこのたった数日間で受けていたからである。しかし問題だったのは、その認識を本国も含む全軍が認識できていないことだった。この戦争でしばしば見られるように、ロンドンの海軍省は実戦前線部隊の一々に渡って口を挟み、その行動を強制してきたからである。その一例がこの23日にも見られていた。