たかがバケツされどバケツ

ものごとにはコツがある


 大東亜戦争の勃発が、「空襲」に対する意識を、よりシビアにしたであろうことは云うまでもない。桐生悠々が信濃毎日新聞をやめざるを得ない事態になった、「関東防空大演習」をふくめ、いままで行われていた大小の防空演習の成果を発揮する時がきたのである。
 しかし、国民がどれだけ空襲を現実のものとして捉えていたかについては、個人差があったようで、熱心に訓練にはげむ者もいれば、隣組のひんしゅくを買っていた人もいたようである。このあたりの温度差については、松竹映画「敵機空襲」にも描かれており、興味深いものがある(映画自体は面白くも無いのだが…)。

 国家当局と外郭団体は、さまざまな方法で空襲への覚悟と備えを国民に訴えている。有名なところでは「時局防空必携」のような小冊子や、「防空絵とき」のようなビジュアル本があり、その他防空啓蒙書籍や一般雑誌での特集記事などもあり、その一部については「兵器生活」でも紹介したことがあるが、総数がどのくらいあるのかについては、よくわかっていない。

 今回紹介するのは、大日本防空協会発行の「空のまもり」昭和17(1942)年9月号特篇画報、「水のかけ方」である。

 当時の日本では、防空を「軍防空」「民防空」に大別していた。哨戒艇や電波警戒機、防空用戦闘機や高射砲といった軍主導のインフラ整備と、敵機発見〜迎撃までの行動を「軍防空」とし、軍からの情報の伝達、待避所の整備や、焼夷弾の消火、救護といった、主に空爆を受けた後のケアを「民防空」が受け持っていたわけである。
 したがって幼児、病人等を除く国民一人一人は、「防空戦士」としての活動を期待されていたのである。 「防空戦士」の大きな職務は、何と云っても迅速な消火活動による被害の最小化である。そのために消火用具の整備と消火訓練が必要不可欠で、このような防空指導者向け雑誌が刊行されていたわけである。

 例によって前置きが長くなってしまったが、この特集に使われた写真を通して具体的な消火方法を見ていきたい。現在と違い、各家庭に消火器が無かった時代の消火器具と云えば、何といっても「バケツ」であり、消火方法は「水をかける」なのである。

 水はどんな時に どんなように かけるのがよいか

これが特集のテーマである。

 現代においても、バケツはさまざまなところで利用されているので、つい「水のかけかたなんぞ教わらなくても…」と思ってしまうところである。が、たき火を消したり、道路にまかれた吐瀉物を流す時のように、「上から水を流す」事態が常にあるとは限らない。火災の状況によっては、遠距離から水をかけたり、上に向けて水をかけたりする場合もあるのだ。そして、これがけっこう難しいのである…。


 記事は

 消防の訓練に就いて注意すべきことはバケツ送水の練習も勿論必要であるが、それよりも猶大切なのは注水の訓練である。バケツ注水の方法には集中注水、拡散注水、流下注水の三種がある。

 で始まり、集中・拡散・流下の三種類の注水方法の概要を説明した後(本稿では以下写真の紹介時に行う)、空襲火災に対する心構えとして

 火災の消火に當って注意しなければならないのは先ず第一に燃え進む先に水をかけて逐次燃焼箇所を局限することである。そして最早延焼の危険が絶対ないという確信のつくまで完全に消火してしまわなければならないのである。

 と云う結びで各論(水のかけ方)に入るのである。「燃え進む先に水をかけて」と云う語句に注意したい。

 バケツである。右側はおなじみブリキ製の「朝顔型」、左は琺瑯引きの「円筒形」である。現代はプラスチック製のものもあるが、火災時に変型してしまいそうである…。

 水はバケツ一杯に入れてはこぼれるばかりで実効に乏しい 六分目ぐらいに入れるのがよい

 東京の下町を歩いていると、「防火用水」と書かれた四角い桶(植木の飾り台になっていたりする)を目にすることがある。これには水が100リットル入ることになっている。正しくは、一戸あたり100リットル(二階建ての場合はその倍)の消火用水を確保することが要求されたので、こう云う設備が用意されたのである。

 空襲が始まれば、水道は消防が使ってしまうし、爆弾による断水も予想される。つまり汲み置きしておいた水を使って消火活動をしなければならない。水の無駄は避けなければならないのである。
 防火用水の桶から水をくみ、火元にたどりつくまでには、数メートルから数十メートルの距離を、迅速に移動しなければならない。バケツいっぱいに水を入れてしまうと、その際に貴重な水をこぼしてしまう可能性が極めて高いのである。
 さて、ここからが本題である。「空のまもり」の紙面構成は、イラストで注水方法の内容を紹介し、写真で実際のバケツ操作法を図示しているのだが、イラストの部分は割愛し説明文だけを掲載する。

集中注水
 集中注水は四、五米先の燃えている火勢の中心へ強く水を打ちつけるようにして火を消す方法である。庭先から家の中へとか、庇、妻等へかけるのは此の方法で注水出来る。
 四、五米まではバケツは朝顔型がよい。

 路地のような所に焼夷弾が落ちて先方の家が燃えているような場合は 注水が困難だから此の方法で注水する。
 同じ集中注水でも五、六米以上になると円筒形のバケツを用いねばならぬ。

 では、実際の注水動作を分解写真で見てみよう。写真は右から左に流れるものとしてご覧いただきたい。
 これは四、五米までの距離に対する注水動作である。

 一部の隙もない、防火服姿にも注目したい。
 「分解写真」と書いたが、三カット目の左足横に水がこぼれた形跡があるのがわかる。最後のカットでは、それが右足下にあることから、一連の動作を映画撮影機で一度に撮影したのではなく、写真機で一枚一枚撮影しているようである。カメラ位置も微妙に移動していることがわかる。

 バケツを後ろへ引いた時の姿勢、手先だけで操作するのではなく、足と腰をよく働かせること、また、バケツは真直ぐ後ろへ引きそのまま前へ持っていくこと。そうでないと水が真直ぐ火点へ行かない。

続いて五、六米以上の距離に対する集中注水。
四、五(本文ママ)以上の距離への集中注水は、片手でバケツの蔓を持ちバケツを後方に振って注水の予備動作を行い、再び前方に振ってバケツの水を目的の箇所にかけ様とする寸前に、他方の手を底にかけて勢いよく注水するのである。この方法によれば七米位の距離迄は有効な注水をすることが出来る。

「次の頁へ」と盛り上げるところが良いですね

 「次の頁」では、説明も無く、ひたすら写真だけが掲載されている。B5版の見開きを贅沢に使ったレイアウトである。雑誌の統廃合や、ページ数の制限が行われつつある時期であることを想起されたい。

拡散注水
 拡散注水は図(略)のように火勢が比較的弱く火面が広い場合に用いる注水法である。

上から見おろした拡散注水

見ての通りである。読者諸氏が飽きてくるといけないので、このページに掲載された広告をアップにしてみる(下)。

木製手廻サイレン/瓦斯警報器である。下の棒を握って上の箱を手首の回転を利用して廻すことで音を出す仕組みのようである。「木製」と云うのが時局を反映したモノであるといえる。

 拡散注水の続きである。今度は横から撮影したものである。

拡散注水
 拡散注水はバケツの水を目的の面に広げてかけるのであって、最もよい方法は集中注水の第一の方法と同じ様にバケツを持ち勢いよく半円を描く様にして注水するので、概ね五米位は有効な注水が出来る。

 最後の写真の、バケツを持った手首の位置がポイントのようである。

流下注水
 流下注水はバケツの水を流してかける方法である。

 足をひらいているところがポイントか? たき火を消すときなど、現在でも使われている方法であるから、集中注水、拡散注水にくらべると説明もあっさりしたモノである。それでも1ページを使っているのである。

 こころなしかモデルのオッサンも気合いが抜けているように見える。
 特集の最後はバケツの持ち方である。

 バケツは蔓と縁を一緒に持ち、底に手を平らにかける(上図のように 註:下の二枚 下図のように蔓だけ持っていると怪我をする。(註:一番下の写真)
 底を握る人もあるが、平らに手を當てる方がよい。


(良い例)


(悪い例)

 
 国民に対する防空指導と、その目的で刊行された防空啓蒙書籍については、空襲規模の見積の甘さや、避難よりも消火を優先した指導など、後世からの批判は多い。(参考:空襲本格化以前の啓蒙記事)

 しかし、初期消火のための教則本として使える部分もある。今回紹介したバケツによる水のかけ方などは、習得しておくと地域での消火訓練をはじめ、万一の事態に活用することが出来るものであると確信している。
 消防士のような職業的消火作業者は別として、普通の社会生活を営む上で、バケツで火を消す機会は無い。無いからこそ、それが求められる事態に対処出来ない、とも云えるのである。

 以前、総督府の近所でボヤがあった時の事を書く。日曜日の午後だったので、近所の人が出て消火にあたっているのだが、誰も火の近くまで寄らずに、ホースでチョロチョロと水をかけている状態であった。消火器は誰も持ち出していない(つまり近所の家には消火器が無かったわけだ)。煙がたちこめていて、火元もよくわからない状態であった。
 他人の家が焼けても知ったことではないのだが、総督府の2件先から煙りが出ているので、下手をするとウチまでとばっちりを喰う。と云うわけで総督府から消火器を持ち出して、一番煙が出ているように見えたところに消化剤を打ち込んだのだが、そこは風呂場の扉だったのである(笑)…。
 近所の人がバケツを出してくれたので、バケツで水をかけたのだが、あわてているので水が頭上に上がってしまい、目標には半分もかからない。そうしているうちに消防車が到着したので、後はプロにお任せして、濡れた衣服を着替えに戻ったのである。
 風呂釜から出火した火は、風呂場を焦がした程度で済み、その家は今でも健在である。消火器の有難味をつくづく感じたが、本当の「初期消火」でしか使えないな、と思ったのも事実である。

 その時目を疑ったのが、近所が騒いでいる最中に、その家の隣りのアパートから、一人の若者が何事も無いかのように平然と出てきて、そのままどこかに出かけてしまったことである。以後、そのアパートが燃えていても、私は手を出さないことに決めている。三軒先だからウチは大丈夫だろう(笑)。
 余談が過ぎた。今回のまとめに入る。
 以下の状況に対し、適切な注水方法を記述せよ(5点)

 1.娘が婚約者を家に連れてきた場合
 2.呑み屋(喫茶店でも可)の看板娘を巡って、常連客(複数)が喧嘩を始めた場合
 3.大便が流れない場合(和式水洗便所の場合)

 回答例は以下の通りである。
 1.婚約者の一張羅を、確実にずぶ濡れにするためには、「帰れ!」と一喝しながらの集中注水が適当である
 2.複数の人間の頭を冷やすには、看板娘自ら「やめなさーい」と云いながら拡散注水をするのが望ましい
 3.便所を水びたしにしないためにも、「クソっ」とつぶやきながらの流下注水が最適である