補遺 リノレース今昔(1) リノまでの道



さて、エアレースの歴史は飛行機そのものの歴史と同じくらい古くに遡ります。まだ人が空を飛ぶというだけで驚天動地だった1900年代初期には、飛行機が上空を何周か回って降りてくるだけでもエアショウイベントとして成立し、それが2機・3機も集まれば時間を計って速度を競うようになるのは当然の成り行きでした。
「エアショウ」と「エアレース」が分かれるのは第一次大戦後です。戦争で大量に養成された航空兵は一次大戦終結(1919)後の軍縮で多くが除隊され、しかしまだまだ発展途上の民間航空に「飛ぶ仕事」は多くはありませんでした。しかし「飛ぶ仕事」に生き甲斐を見出す若い飛行機乗りたち、特にアメリカでは格安で放出された軍用練習機を買ってドサ回りの曲芸飛行を披露する「バーンストーマー」としてエアショウの基礎を作ります。映画「華麗なるヒコーキ野郎」の世界ですね。
一方、エアレースは(とりあえず)戦争の無くなった平和な世界でメーカーの最新技術、あるいは国威発揚を宣伝する場所として使われるようになります。アニメ映画「紅の豚」にも登場した水上機レースのシュナイダー杯(1913-1914, 1919-1931)はもともと商用水上機の開発促進を意図したものでしたが、一次大戦後はイギリスとイタリアが実用性皆無のレース専用機を繰り出して激戦を繰り広げ世界を沸かせました。また1934年にメルボルン創立100周年を記念して開催されたロンドン〜メルボルン地球半周レース「マック・ロバートソン杯」ではアメリカとイギリスの航空機メーカーが最新鋭機を出し合って優勝を競っています。



そんな中で少し変わっていたのがアメリカのオハイオ州クリーブランドで行われていた「トンプソン杯(パイロン周回短距離)」と「ベンディックス杯(アメリカ横断長距離)」のエアレースです。クリーブランドでは1920年以降、毎年秋に一週間ぶっ続けのエアショウを開催して全米から観客を集め、なかでもエアレースは最大のイベントとして位置づけられていました。まるで一次大戦前への回帰ですね。そこに出場する機体は軍用機でもなければ航空機メーカーの技術デモンストレーション機でもなく、パイロット兼メカニックが自宅裏庭の倉庫で組み立てたような、「バックヤード・レーサー」と呼ばれる小型の自作機が多くを占める、いわば空飛ぶ草レースでした。そんな草レーサーの中から当時の(まだ複葉・羽布張りが主力だった)制式戦闘機を凌ぐ高速機が出現したりするのが1920-30年代の「黄金時代」の面白さでもありますが、第二次世界大戦の勃発(1939)によりクリーブランド・エアショウは一旦その幕を閉じます。



zクリーブランド・エアショウは第二次大戦終結翌年の1946年から再開されますが、その様相は一変していました。大戦に万の単位で量産されたレシプロ軍用機はジェット時代を迎えて旧式化し、軍からスクラップとして捨て値で叩き売られた戦闘機…P-39エアラコブラ、P-51ムスタング、P-63キングコブラ、F4Uコルセアといった機体が、若く血の気の多い新世代のパイロットによってエアレースに出場するようになります。翼端を切り詰めたりキャノピーを換えたり、エンジンを弄って定格の1.5〜2倍ものパワーをひねり出すようになったのはこの戦後クリーブランドのトンプソン杯がその始まりでした。当然ながら事故も多く発生していましたが、なんせ戦争で若いパイロットがどんどん死んだ直後のことですから、当時はあまり問題視されなかったようです。しかし1949年のレースではP-51レーサー「ビギン」が墜落して民家を直撃、主婦と子供を巻き添えにする惨事を起こしてさすがに問題となり、また朝鮮戦争の勃発で軍がスポンサーを離れたこともあってクリーブランド・エアレースはその歴史を閉じることになります。



第二次大戦後、最新航空技術を競う場所はもはやエアレースではなく、米・英・ソによる飛行記録の更新合戦になっていました。ベルX-1が音速突破を果たしたのが1947年ですからまさに映画「ザ・ライトスタッフ」の時代です。クリーブランドのメイン・イベントも当然のように空海軍の最新軍用機の展示飛行になっており、レシプロ機のエアレースはいくらパイロットが夢中になろうとも、観客の多くにとっては時代遅れの酔狂な出し物でした。クリーブランドの終幕も「ビギン」の墜落事故というより、軍用機の展示飛行が無くなった影響が強いとも言われます。クリーブランド時代のパイロットはほとんどがエアレースから足を洗い、レーサー機の多くは野晒し・スクラップの末路を辿ることになります。

ネバダ州リノでエアレースが再開されたのはクリーブランドから実に15年後、1964年のことでした。リノ・エアレースの成立はほとんど一人の男、ビル・ステッド(William McIllravy Stead)の夢と情熱によって推進されています。ネバダ州リノで牧場・農園主を営んでいたビルは1920年生まれ、自らも操縦免許を持ち車・モーターボート・飛行機ありとあらゆるメカにスピードの情熱を傾ける彼は、自分が見ることが遂にかなわなかったクリーブランド・エアレースの記録に取り憑かれ、これを再体験するためには自分の手で復活させるしかないと決意した、と伝記には語られています。観光資源に飢えていたリノ市にも働きかけ1964年には自らの所有するスカイランチ空港(未舗装滑走路!)で15年ぶりのエアレース・イベントを再現することに成功します。収益は赤字だったものの参加者・観客の反応は上々で翌65年もイベント開催、66年以降は空軍が閉鎖したステッド空港跡地を使って舗装滑走路でより本格的なイベントとして継続することになります。この「ステッド」の名は皮肉にも仕掛け人ビル・ステッドではなく、空軍での訓練中に事故氏した彼の実弟クロストン・ステッドを顕彰して付けられた名前でした。しかも更に皮肉なことに66年4月28日、フロリダ州セント・ペテルスブルグのエアレース・イベントで自ら操縦者として出場していたビル・ステッドは機体故障により墜落事故死、自らが始めたリノ・エアレースが成長した姿を見届けることなく世を去ってしまいます。

人類が月に到達しようかという1960年代に再開されたエアレース・イベントが世間にどう受け止められたのか、その「空気」を伝える資料には私は巡り合っていません。おそらく「何だかちょっと変わったイベント」「昔の飛行機がぶんぶん飛ぶらしい」といった程度の反応だったのではないか、と思われます。実際64年のイベントはエアレースだけではなく気球やスカイダイビングのコンテストもあり、戦前のクリーブランド色を色濃く残したものだったようです。そしてやはり観客を惹きつけたのは米空軍のデモンストレーションチーム「サンダーバーズ」(当時はF-100が使用機)でもありました。
エアレースの出場者も、当時たまたまP-51やF8Fなどの古典機を所有していたオーナーが「クリーブランド時代みたいなエアレースが復活するって?どれ、一丁出てみるか」程度のノリで、エンジン弄ってブースト上げたり翼端切り詰めたりしてまでガチで優勝を狙う気は無かったと思われます。…ただ一人を除いては。ただ一人、ダリル・グリネマイヤーという男を除いては。

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