リノ・エアレース観戦記 2011年 ギャロッピング・ゴースト墜落事故


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2011年9月16日の金曜日。サンフランシスコ発リノ行きの便にダブルブッキングがあり、 予定より一本遅れの便で僕が会場に着いたのは、丁度スポーツクラス予選が始まる所だった。セクション5スタンド前のエリア…ギャロッピングゴーストの墜落地点からそう遠くない場所で、「今年のサンダーマスタングは調子良さそう」などとツイートしていた。そのあとレース観戦に徹するか、地上展示機を見に行くか少し考えたが、結局ピットパスを買ってアンリミのピットエリアへ移動した。既に予選出場機は誘導路に出ていたが、ピットに残っている機体を撮りまくっていた。ジェットクラスのレース途中で撮影を切り上げ、ミス・アメリカのピット前に陣取ってアンリミテッド予選を待つ事にした。

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アンリミ予選はしょっぱなから飛ばすストレガ、食い下がるブードゥの1・2位集団と、レアベア・ギャロッピングゴーストの3・4位集団、その後ろをマイペースで飛ぶドレッドノート、先頭から半周遅れの新参シーフューリー・ソウボーンという展開になった。ストレガとブードゥは甲高いマーリンの快音を奏でてパイロンを回る。ギャロッピングゴーストも調子が良さそうで、二周目でレアベアを捉えて前に出る。抜かれて黙っているベアではあるまい、どう切り返すか?!そんな展開をはらみながら、レースは三周目に入った。僕の近くに来た老夫婦が「Is this Unlimited Race?」と聞いて来たので「Yes, this is the Unlimited Race」と教える。3・4位集団が通り過ぎたら、先頭を飛んでいる白い機体が優勝候補の No.7 ストレガだと、レースの見どころを教えようと思った。

ホームストレッチに入ってきたギャロッピングゴーストが、ピットエリアほぼ正面で不意に高度を上げた。プルアウトか?リノでプルアウトは日常茶飯事だ。機体に何が異常を感じたとき、パイロットは速度を高度に変えるべく急上昇する。そして必要ならば上空でエンジンを切り、速度を殺して着陸する、リノ・エアレースにおける緊急時の標準対応手順だ。
だが、この時のギャロッピングゴーストは様子が変だった。急上昇ではなく、ふわーっと浮くように高度を上げ、しかも機首が不安定にピッチングしていた。「おいおい、大丈夫かよ」と口に出して呟いたのを覚えている。だがその時は、まだあんな事態になるとは思ってもいなかった。

不安定に浮き上がった機体はその直後、コースを右方向に逸れた。明らかに異常だと気が付いたのはこの時だ。コース右側には駐機場・観客席・売店があり、その向こうは学校や教会もある住宅地だ。一体何が起きて、パイロットはどこへ行こうとしているんだ?!「What Hell!?」と誰かが叫ぶ。鉄色のムスタングは猛烈なスピードを保ったまま、危険な低高度を向かってはいけない方向へとすっ飛んで行く。首をねじ曲げ、見上げるように追う視線の先で、機体は左に傾いた。そしてそのまま背面姿勢になり、垂直になって地面に突っ込んだ。あまりの事態に、そしてあまりに一瞬の出来事に声も出ない。土埃と大きな破片が、何十メートルもの高さに飛び散るのが見えた。あれは観客席スタンドか駐機場の方向だ、まさか直撃したのか?!僕の恐怖を後押しするかのように、滑走路側に出ていた誘導員が「Oh no! He hit the stand!!」と悲痛な声で叫んだ。僕は鉄柵を握り締めて俯いた。

僕は iPhone から twitter に第一報を入れた。「事故発生。ギャロッピングゴーストが墜落、観客席を直撃」と。機体がコースを離れてから墜落するまで、ほんの5秒程の出来事だった。

しばらくの間、誰もが立ち尽くしていた。「Oh, My God...」「Shit...oh, shit...!」誰にともなく呟く嘆きの言葉。会場のアナウンスが何を言っていたのか、全く覚えていない。ステッド空港の各地に散っていた消防車や救急車が、続々と事故現場へ向かって行く。滑走上には緊急着陸したスティーブ・ヒントンの先導機 T-33 と、四番手を飛んでいたレアベアがタキシングして来るのが見えた。いつものリノであれば、手際の良い緊急着陸には観客から拍手が贈られるのだが、今はとてもそんな雰囲気ではない。他の機体も降りていた筈だが、それも覚えていない。早くも飛来した報道ヘリが、墜落現場の上を旋回していることだけは実感をもって感じられた。

やがて、会場のアナウンスが「Everyone, get out...please」と繰り返しているのに気がついた。救助隊と医療班が全力を尽くしている、彼らの邪魔にならないよう、一刻も早く会場から立ち去ってください、と。うなだれ、悄然とした観客の列に混じって、僕もバイプレーンハンガーの前を通って裏口へ向かう。パトカーに先導された救急車が三台、サイレンを鳴らしながら会場を出て行くのを、誰もが無言で見送っていた。
僕は会場外をとぼとぼ歩いて駐車場へ向かった。患者を搬送するらしいヘリコプターが慌ただしく離陸してゆく。オリーブドラブの UH-1 なので陸軍のメディバックかと思ったが、米陸軍がいまどきヒューイを使っているはずがない。後になって、地上展示に出ていたベトナム塗装のヒューイが急遽搬送に使われたと聞いた。

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ホテルのフロントデスク前では、エアレース引き揚げ組らしい人々が今日の出来事や、明日からどうするかを話し合っていた。僕の予約は三夜だが、一夜に変更する可能性が高いと断ってチェックイン。部屋に入って iPhone を充電しながら、実家や飛行機会社に連絡を取る。フライト変更は可能だが 200 ドルかかるとのこと。チケット代より変更料のほうが高い程だが、やむを得ない。TVを点けると、今日の事故についての記者会見が中継されていた。被害規模はまだ未確定、レース中断もこの時点では決定していない。TVに映る YouTube の動画から、墜落現場の映像を初めて目の当たりにする。スタンド席をわずかに外れてVIP席に落ちたこと、機体が垂直に突っ込んだこと、火災が起きなかったことから、予想していた最悪の事態より小さな規模で収まったらしい事を知ったが、それで気が楽になる訳でもなかった。
リノの街をぶらつく気にもなれず、ホテル内のレストランで遅い晩飯を取る。分厚いプライムリブは美味しかった。隣のロングテーブルに集まっている集団もエアレースファンのようだ。1人が立ち上がり「皆、聞いてくれ。エアレースに刻まれてしまった歴史に、そして失われた命のために」とグラスが掲げられる。僕もクアーズの瓶を小さく掲げて黙祷した。

クアーズ二本で酔っ払って、部屋に戻るとそのままベッドに倒れて寝てしまった。深夜過ぎに目が覚めて、TV を点けるとまだ事故のニュースが流れている。死者数三名、負傷者五十数名、うち重傷者二十数名という報告。事故機パイロットの故ジミー・リーワード氏の経歴。今年のイベントキャンセルが正式に決定したこと、NTSB が事故調査に入ってステッド空港が閉鎖されていること、明日は関係者限定版で慰霊式(メモリアルサービス)が営まれることを聞く。来年以降のイベント継続について「現時点ではまだ何とも言えない」とも。キャスターの表情にも混乱と憔悴が見て取れるが、これだけの事故が起こってなお語られる「再開」という言葉に、絶望に塞がっていた心がほんの少しだけ軽くなる。

翌日ホテルをチェックアウトしたあと、僕はリノの数少ない名所のひとつナショナル・オートモビル博物館を訪ねた。リノレースに通って10年にもなるのに、この博物館に来るのは初めてだ。鈴木考氏の著書に紹介されていたアダムス・フェアウェル、ジュリアン、シルバーゴースト、コルベア、デューセンバーグといった珍車・名車の数々に、文字通り時間を忘れて気がつくと四時間も経っていた。
この博物館にも、僕と同じように行き場を失ったエアレース組が多く訪れていたようだ。昨日目撃した惨劇を携帯電話で誰かに伝えている女性がいる。自家用機でステッド空港に飛来したのか、「空港が閉鎖されて身動きが取れない」とぼやいている男性がいる。そんな言葉を聞くたびに、背面姿勢で墜落する鉄色のムスタングを、飛び散った破片を思い出さずにいられなかった。

多少時間が余ったが、早めにリノ=タホ空港に戻ってレンタカーを返す。例年は空港のレストランバーでビールを傾けながらのんびり夕食を取るのだが、お酒を飲む気になれなかったので、マクドナルドで早めの晩御飯を済ませる。その間この記事をタイプしていたら、出発時間近くなって呼び出しを食い、慌ててソルトレイク経由オレンジカウンティ行きの便に飛び乗る。四ヶ月ぶりの自宅に戻ったのは夜の9時過ぎだった。

ここ最近、僕の生活にもいろいろあった。実は、リノを訪れるのも三年ぶりだった。今後も通えるのかどうか判らない。だから今年は初めて日曜の晩も泊まって、精一杯リノを満喫するつもりだった。Tシャツゃグッズも沢山買い込もうと思っていた。僕だけではない、レースファンも出場者も売店の業者も開催者も、それぞれに想いを秘めてこのイベントを待ち望んでいたと思う。
犠牲者への補償はどうなるのか、再発防止に万全を期せるのか、課題は山積していると思う。「廃止」の二文字は楽な選択肢かもしれない。それでも、関係者はやはり再開に向けて全力を尽くすだろうし、そうして欲しいと僕は願う。


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