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初投稿になります。日清、日露戦争で活躍した砲艦赤城の主砲配置について質問します。要目では12cm砲を4門装備となっています。写真などで見る限り、前後に各1門ずつ装備されているのは分かるのですが、残り2門の配置が分かりません。よろしくお願いします。 出沼ひさし |
- ほぼ船体中央両舷です。
下記のサイトからも見れます。
http://hush.gooside.com/name/a/Akagi/Akagi.html
わんために
- ありがとうございました。永年の疑問が氷解しました。
出沼ひさし
- 御紹介多謝。
あの写真は明治30年代に神戸港で撮影されたものだそうですが、「世界の艦船」には中心線配備と書いてあり、謎じゃと思っております。
砲身はボートに隠れて見えませんが、あのスポンソンでしょうね。
hush
- 「廿七八年海戦史」の折込平面図によると中心線配置ですケド
艦尾 ( −○ −○ ○− ○− > 艦首
駄レス国務長官
- >4 御教示ありがとうございます。
出沼様、早とちりで申し訳ありませんでした。
わんために
- 駄レス国務長官様
ご回答頂きありがとうございました。ところで「廿七八年海戦史」には他の艦の図面も掲載されているのでしょうか。個人的には清国軍艦の図面に興味があります。
hush様、わんために様
赤城の写真をみて、舷側のふくらみがスポンソンかな?とは思っていたのですが、hush様の回答のように「世界の艦船」で中心線上と記されており、確信を持てず質問した次第です。hush様のHPの写真を拝見しますと、スポンソン?に砲らしきものが見えたので納得してしまいました。私の質問のせいで恥をかかせてしまったようで申し訳ございません。これからもよろしくお願いいたします。
出沼ひさし
- >>6.
前段
黄海海戦(9/17)に参加の全艦(水雷艇除く)の簡単な側面図と平面図が折込で収録されており、平面図で中口径砲以上の配置は判ります
後段
新造時は21cm, 12cm各1門で、それぞれ艦首と艦尾に配置されていたようですケド、日清戦争の前に12cm×4門に改められたものと思われ
駄レス国務長官
- >6
いや、私は艦名の調査をしているだけですので、恥も何も…
しかし、第1、4砲は写真で確認できますが、残りの大砲が確認できませんね。
>7
フォロー多謝
ただ、この艦の比(フェブリーユ)式120mm砲と言うのがよく分からないですね。
資料によっては25口径と言うのと35口径と言うのがありますし、
http://www.lise.jp/honyaku/abbjm.html
にはFive Lille typeと出てきますが、Fivelilleで検索しても何も出てきません。
大島と赤城以外は搭載されていない砲ですし、あまり注目されないのも仕方がないのですが。
新造時は21cm、12cm各1門でと言うのも、120mmx4で建造されたというのもあって混乱が見えますし、貨物船時代も入れますと物凄い長寿の船なのですが、謎ばかりです。
hush
- 摩耶型が搭載した4.7in25口径砲はクルップ式ですよ。赤城と大島のみが
装備した比式は32口径砲だと世艦は書いてますね。
なお、世艦と洋書のとある資料によれば、8.3in×1、4.7in×1と言う
兵装で就役したのは鳥海と愛宕のみで、摩耶は新造時5.9in×2装備です。
問題の赤城は完成時は比式4.7in×4装備かもしれませんが、就役直後に
4.7inQF(40口径)×4に換装されたと受け取れる記載があります。
(世艦の就役直後と日清戦争時の写真を見ると、気のせいかもしれませんが、
本職には確かに砲が違うように見えます)。その洋書では大島も就役後
間もなく備砲を4.7inQF×4に変えたとしていますが、これは写真で
確認できないのがちと辛いトコです。
大塚好古
- >7 平面図で中口径砲以上の…
あまりにおいしそうで、つい、よだれが…。「廿七八年海戦史」を入手する手段を考えて見ます。どうもありがとうございました。
>8 しかし、第1、4砲は写真で確認できますが、残りの…
6において「砲らしきもの」と書いてしまいましたが、よく見たら煙突の基部でした。そこに砲があると思って見ていたので、つい錯覚してしまいました。
>9 洋書のとある資料
とありますが、Conwayの1860〜1905でしょうか?残念ながら、私はそのドイツ語版(とおもわれる)のKriegsschiffe der Welt Band2しか所有しておらず、私の皆無に等しいドイツ語力では…。
ここで尋ねる前に自分の持っている資料を再チェックしろ!と言われそうですね。お騒がせいたしました。
出沼ひさし
- >10
参考にしたのは英語圏での日本軍艦研究のバイブルとなっている”Warships of the Imperial Japanese Navy, 1869-1945”です。これは些か古い資料で記載もやや怪しい面があるのですが、日清・日露戦争時代の艦を調査する際には、その記載内容を他の資料で検証をする前提で使用すれば以外と役に立つ資料であります。
因みにConwayの1860-1905はこのクラスについては殆ど何も書いて無いですね。
大塚好古
- >5 お詫びかたがた
小生手持ちの、海と空社版、「写真 日本軍艦史」昭和9年、によれば、摩耶が25口径15センチクルップ×2、47ミリ×2、1インチ4連ノルデンフェルト×2、鳥海及び愛宕が21センチクルップ×1、25口径12センチクルップ×1、1インチ4連ノルデンフェルト×2、赤城が32口径12センチ×4(メーカー名無し)、47ミリホチキス×4、30ミリ5連ホチキス×2となっています、データは原則として完成時のものとの事です。
わんために