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続けての質問をお許しくださいませ。 伯父の船の積載品の中に特殊連絡艇というものがあります。一緒に乗船した特殊連絡艇隊の装備と思われますが、これはどのような隊でどのような艇なのでしょうか、ご存知でいらっしゃいましたらどうぞお教えくださいませ。 なおこの艇に関しては、「自動車のエンジンが二機付きで、ベニヤ板で作った小さな船」と生還者の方の手記にあります。 どうぞよろしくお願い申し上げます。 半月 |
- >特殊連絡艇
自動車のエンジンが2機、ベニヤ製船体といったことから、○レ(マル レ)と称される四式連絡艇(肉薄攻撃艇)を指しているのではないでしょうか。
簡単に説明すれば、トラックのエンジンを積んだ1人乗りモーターボートの後ろに爆雷を乗せ、敵船近くで投下・攻撃する事を目的とします。
この辺は、海軍の震洋と混同されたり、任務秘匿のために正式な名称を用いなかったりするため混乱する(例えば、運用部隊が海上挺身部隊と名乗ったり、海上勤務隊や水上輸送隊と称したり様々)のですが、『震洋』や『マルレ』などで検索すると結構ヒットします。
また、木俣慈郎氏の著作「四式連絡艇」(書名失念)といった書籍も出ておりますので、ご参考までに。
能登
- 能登様
さっそくご回答くださいまして本当にありがとうございます。
どういった艇かがやっとわかりました。感謝申し上げております。お教えいただきました検索方法を実行し、書籍を探してみたいと思います。
厚く御礼申し上げます。
重ねての質問でたいへん恐縮でございます。こういった隊が任務秘匿のため正式名称を名乗らない可能性があるとお教えくださいましたことで思いつきました。この隊は生還者の手記には「特殊連絡艇隊」と記載されています。しかし駒宮真七郎氏の「戦時輸送船団史」の中には、この隊の名はなく、第十海上挺進基地大隊の名称があります。これは同じ隊を指していると考えてよろしいのでしょうか。ご回答をいただきながら、再度質問を致しますことをどうかお許しくださいませ。
ご存知でいらっしゃいましたらどうぞお教えくださいますよう、
お願い申し上げます。
半月
- 能登様
ただ今、マルレを検索いたしました。写真を見ることも出来ました。
それによりますと、マルレの隊は「海上挺進戦隊」と呼ばれる事実上の特攻隊という記述がありました。やはり特殊連絡挺隊は第十海上挺進基地大隊のことを指しているようです。しかも乗組員は特別幹部候補生と書かれていましたので、乗船者を記述した中の、「特幹」の文字も納得がいきました。
本当に貴重なお教えを頂きまして感謝申し上げております。ありがとうございました。
半月
- >1
「日本特攻艇戦史」(木俣慈郎著・光人社・ハードカバー)
蛇足1,今月の「軍事研究」(04年9月号?)にも特攻兵器の記事が出ていました。
蛇足2,それぞれの性格が似ていることから、同時出撃が考えられるので、本土決戦に関する取り決めにより、マルヨン(震洋)とマルレはひっくるめてマルハチ(○八)、それを使用することを震天戦法と呼びます。
tomo
- 3010とも絡みますが、駒宮氏の著「戦時船舶史」も参照されましたでしょうか。
未参照でしたら、参考になりますので一度ご覧になって下さい。
参考までに海上挺身部隊側の方から追いかけますと・・・。
海上挺身基地第一〇大隊側の記録では、大隊本部と第一中隊が「大捷丸」に乗船となっていますが、「大彰丸」と読みが同じなので同一の船を指している可能性があります。しかし沈没騒動についての記述がなく十一月一日マニラ着とあり、またマルレ艇を積んでいたかどうかは不明です。
なお海上挺身部隊は戦闘を担当する海上挺身戦隊と、基地設営と艇の整備を担当する海上挺身基地大隊とがあります。
移動の際はマルレ艇は海上挺身戦隊と一緒に移動するのが通常ですが、基地大隊(特に整備中隊)が戦隊への補充等の為に艇を伴う可能性はあります。
モマ05船団には他にも海上挺身隊が乗船している船があります。
「泰洋丸」に海上挺身第一一戦隊第二中隊、第三中隊が乗船。(26日撃沈)
「江差丸」に海上挺身第一三戦隊第一中隊、第三中隊(? 泰洋丸の可能性有り)が乗船。(26日撃沈)
「大博丸」に海上挺身第一四戦隊本部、第一中隊が乗船。(26日被雷。船体前半部は沈没したが、後半部は曳航により北サンフェルナンドへの座州に成功)
「大博丸」には上記のような特徴的な経緯がありますので、「大彰丸」との区別がつけやすいかと存じます。
じゃむ猫
- tomo様、じゃむ猫様
ご親切なご教示を頂きまして、本当にありがとうございます。
ご紹介いただきました「日本特攻艇戦史」「戦時船舶史」ともに未読でございます。お教えいただきまして感謝申し上げております。さっそく読ませて頂きたいと存じます。
どうぞ今後ともよろしくお願い申し上げます。
tomo様
「軍事研究」を書店で探したいと存じます。
マルレも震洋もこちらで初めてお教えいただいたのですが、同時出撃の作戦があったとはとても驚きです。お教えいただきまして御礼申し上げます。
じゃむ猫様
海上挺身部隊側からの視点は、考えても見ませんでした。本当にありがとうございます。
叔父の部隊(127飛行場大隊…独立混成57旅団内)と船(『大彰丸』と考えております)につきまして少し説明させていただきますことをお許しくださいませ。
伯父の部隊の生還者の方が五名いらして、そのうち三人の方が戦後手記を記されています。その中二名の方の文(一人は隊の副官、一人は兵器担当軍曹)に「特殊連絡艇隊」と「特殊連絡艇三十隻」の記述があります。このモマ05船団の指揮官は伯父の隊の隊長でしたので、副官は指揮官船となった船のサロンに常駐していらしたのでかなりお書きになったことは正確かと思います。
魚雷の攻撃を受けた時、その上の甲板に積んであったこの連絡艇が爆発して火災になったそうです。特に兵器担当だった軍曹氏はこの時のことをを「自動車のエンジン二機付きでベニヤ板で作った小さな船が噴き上がったのと同時に火の手が上がった」と書いていらっしゃいます。(この記述から私はこの船がどのようなものなのか知りたいと思いました)
この輸送船はこの後大爆発して沈没します。隊の副官の少尉は、助け揚げられた掃海艇の上でこの光景を見て「千万両の大花火である」と書いていらっしゃいます。(沈没しているので『大博丸』ではないと考えました)
三千名の乗船者のうち千五百人が亡くなりました。伯父もその中の一人です。
伯父の隊は403名が半数になり、フィリピンへ渡りました。
今まで伯父の隊の動きばかりを追ってきて、他の隊の視点で考えることはぽっかりと欠落いたしておりました。新しい視界を開いていただいた思いでおります。本当にありがとうございます。心から御礼申し上げます。
半月
- 「大彰丸」「大博丸」は共に大阪商船の持ち船ですので、野間恒氏の「商船が語る太平洋戦争」にも記載があります。
こちらも機会がありましたらご覧になってみて下さい。
これによると独立混成第57旅団は「大彰丸」「大博丸」に分乗していたようです。
「大博丸」には舟艇35隻積載という記述があるのですが、「大彰丸」には積み荷は書いてありませんでした。
海上挺身基地第一〇大隊がマルレを持っていなくても他の戦隊のマルレを載せていた可能性は捨て切れません。
もし両船にマルレが積載されていたとしたら区別がつけられるポイントにはならないかも知れません。
私がお手伝いできるのはこれくらいが限界です。。。m(__)m
じゃむ猫
- じゃむ猫様
ご丁寧なご教示とご親切なお心遣いを頂きましてお礼の言葉も思いつかないほど、感謝申し上げております。
野間氏のご著書は大彰丸と大博丸の部分だけコピーを所持いたしておりますが、もっと全体を読ませていただかなければと痛感いたしております。
実はじゃむ猫様にご報告申し上げたいことがございます。
海上挺身隊につきましてのお教えを基に、残された手記を良く読み返しましたところ、私が読み違えていた部分に気がつきました。副官が書かれた手書きの手記なのですが、乗船者を「127ab(飛行場大隊のことです)403名、南方軍要員補充兵700余名特殊連絡艇隊、特幹○(この部分は判読不能です)港湾設定隊等11ヶ部隊三千余名」と書かれていると思っておりましたが、じっくり見ると、「特殊連絡艇隊ノ特幹○」と書かれていることに気がつきました。これが戦隊ではないでしょうか。そして港湾設定部隊が基地大隊ではないかと思われます。(第十海上挺進基地大隊の名称はどの手記にもなく、駒宮氏のご著書に書かれていたのを拝見いたし、こういう部隊も乗っていたのかと思ったのです。港湾設定部隊は港湾整備の部隊だと勝手に思い込み、これが基地大隊かもしれないという考えは今まで浮かびませんでした)
なお、大彰丸の積載品は「高射砲二門、高射機関砲四門、同弾薬、特殊連絡艇30隻、重砲弾薬2000発、ガソリンドラム缶40本、車両48両、各個人兵器、食糧、水、資材等」と軍曹氏の手記に書かれていました。
お陰さまで伯父の船の中の状態がだんだんわかってまいりました。
本当にありがとうございました。
どうぞ今後ともご教示くださいませ。お願い申し上げます。
半月
- じゃむ猫様、「商船が語る太平洋戦争」はいつ頃の本ですか? Amazon.co.jpと古本のネットワーク2箇所で検索したけど、その書名では引っかかりませんでした。
Yp
- ググッてみてください。この本は「世界の艦船」での委託販売で、そのページが出てきます。
tomo
- 感謝!
Yp