Page 338 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼343空はなぜボックスカーを迎撃できなかったか 千沼 11/8/14(日) 16:16 ┗余裕が無い・・ BUN 11/8/14(日) 22:35 ┣Re:余裕が無い・・ 千沼 11/8/14(日) 22:59 ┃ ┗Re:余裕が無い・・ BUN 11/8/14(日) 23:52 ┃ ┣疑問がいくつか 千沼 11/8/29(月) 14:04 ┃ ┃ ┗343空が出撃できなかった理由 千沼 11/8/30(火) 23:25 ┃ ┗1945年7月〜8月の本土空襲の惨状 千沼 11/9/15(木) 22:37 ┃ ┗Re:1945年7月〜8月の本土空襲の惨状 片 11/9/16(金) 7:11 ┗Re:余裕が無い・・ ヤマイモ 11/8/15(月) 19:51 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 343空はなぜボックスカーを迎撃できなかったか ■名前 : 千沼 ■日付 : 11/8/14(日) 16:16 -------------------------------------------------------------------------
8月6日放送のNHKスペシャル「原爆投下活かされなかった極秘情報」で、 1.日本軍の情報部は原爆搭載したボックスカーの追跡に成功していた 2.にもかかわらず、軍上層部は長崎市民に避難警報を出さなかった 3.しかも、長崎の近くには最新鋭の紫電改を装備した航空隊があったのに、迎撃命令も出さなかった という感じで、原爆情報を得ながらもなにもしなかった日本軍上層部の怠慢が批判されていました。 ところが、Wikipediaの長崎原爆投下についての項をよむと、少数ながらも陸軍の五式戦や海軍の零戦がボックスカー迎撃に出ていたということでした。原爆搭載機がくるとわかっていたのに、なぜもっとたくさんの迎撃機をあげなかったのでしょうか? また、紫電改装備の343空といえば、松山上空の迎撃戦で大活躍した部隊ですが、そのような有力な航空隊が長崎の近くにあったのに、ボックスカー迎撃に出撃させなかったのはなぜでしょうか。 343空は、長崎原爆投下の当日、あろうことかハイキングに出かけていたともいわれていますが、ボックスカーが相手でなくても、普通の迎撃戦は毎日やっていたはずなのに、何か変じゃないですか。 <Mozilla/5.0 (Windows NT 6.1; WOW64; rv:5.0.1) Gecko/20100101 Firefox/5.0.1@distaff.lunarbreeze.com> |
原爆機を捕捉していながら有効な避難指示ができなかったことは本当に残念なことですけれども、当日の状況は、こんな推移です。 西部軍管区司令部が〇七四八に警戒警報発令 〇七五〇に空襲警報発令 その後敵機が認められないため〇八三〇警報解除 国東半島から北九州地区に向かうB29 2機が発見され、 西部軍管区司令部は一〇五三に空襲警報発令 原爆搭載機と判断。 敵機は八幡上空を旋回後南西方向に向かう。 第十六方面軍司令部は攻撃目標を長崎と判断、ラジオその他各種通信機関を通じて「B29少数機 長崎方面に侵入しつつあり。全員退避せよ。」と繰り返し連絡。 B29 2機は有明海および島原半島北部上空を経て長崎市北東方から侵入 先導機は一一〇〇頃に長崎市上空侵入 一一〇九 長崎地区に空襲警報発令 一一〇二頃 原爆機侵入 投下 原爆投下目標を即断できなかったのは原爆機自身が目標を迷っていた為ですが、 小倉上空が雲に覆われ、長崎も雲量8/10だったと報告されているように、 爆撃する側も条件に恵まれず、観測機ともはぐれてしまい、 防空戦闘機の邀撃も視認されるなどそれなりの混乱があります。 これだけ時間に余裕が無い中で、邀撃機を発進させ長崎上空に待機させることは 当時の防空システムと兵力では難しかったことでしょう。 <Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 7.0; Windows NT 6.0; GTB7.1; SLCC1; .NET CLR 2.0...@cr4-182-251.seaple.icc.ne.jp> |
> 西部軍管区司令部が〇七四八に警戒警報発令 > 〇七五〇に空襲警報発令 > その後敵機が認められないため〇八三〇警報解除 > > 国東半島から北九州地区に向かうB29 2機が発見され、 > 西部軍管区司令部は一〇五三に空襲警報発令 > 原爆搭載機と判断。 ということは、「原爆搭載機の追跡成功」っていうのが実は間違いだったんですね。 最初の兆候はつかんだものの、その後取り逃がしてしまった。再度発見したときにはもう手遅れだった・・・。 > これだけ時間に余裕が無い中で、邀撃機を発進させ長崎上空に待機させることは > 当時の防空システムと兵力では難しかったことでしょう。 原爆搭載機を発見するための哨戒機を増やして、偵察をもっと密にするとか、そういうのはできなかったんでしょうか。 <Mozilla/5.0 (Windows NT 6.1; WOW64; rv:5.0.1) Gecko/20100101 Firefox/5.0.1@i60-42-168-115.s02.a043.ap.plala.or.jp> |
> 原爆搭載機を発見するための哨戒機を増やして、偵察をもっと密にするとか、そういうのはできなかったんでしょうか。 この頃は沖縄航空戦の損害回復と本土決戦準備を進める一方で、米軍の地方都市空襲が広範囲に開始されたことで崩壊しつつあった国民の戦意回復を意図した「制号作戦」が発令され、どちらに重点を置くかで防空作戦指導が混乱した時期でもあります。 しかも空母搭載の小型機による空襲も開始され、日本側は手も足も出ない状況でしたから、もし実施しようと試みても原爆搭載機への邀撃集中は困難を極めたことと思います。 もともと少数機による侵入を完全に邀撃することはとてもハードルの高い作戦ですし、長崎の場合にしても「原爆機と判断」したとはいえ、長崎への通信でも「原爆である」とは伝えられていません。 100%の自信が無い、という事情も読みとれると思います。 <Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 7.0; Windows NT 6.0; GTB7.1; SLCC1; .NET CLR 2.0...@cr4-182-251.seaple.icc.ne.jp> |
BUNさんに教えてもらったことから思いついた疑問をいくつか並べてみます。 1.長崎原爆投下当日に、ボックスカー迎撃にあがった日本軍の防空戦闘機は、全体で何機なのか? 2.広島原爆投下のときや、その他のB−29迎撃戦と比べて、ボックスカー迎撃に投入された戦力は多いのか? 少ないのか? 3.もし投入戦力が多いとすれば、それは特情部が原爆搭載機の探知に成功し、警報を出した結果なのだろうか? 4.ボックスカーは、日本軍の防空戦闘機の出撃を認め、投下目標を長崎に変更した(他にもいろいろな悪条件が重なった結果ですが)。このとき日本軍はボックスカーの存在を把握していたのだろうか? 日本軍の航空隊は、ボックスカー迎撃のために出撃したのか? それとも出撃は単なる偶然? 5.長崎の343空に待機命令や迎撃命令が出なかったのはなぜ? 343空は一応有力な航空隊のはず。後で警報解除されるとはいえ、朝7時50分には空襲警報が発令されているのだから、その日は万一に備えて待機させておくとか…。 陸軍の飛行第59戦隊や海軍の203空が、防空戦闘機を緊急発進させているわけですから、343空にも同じことができたのではと思うんです。 NHKの番組では、343空の紫電改パイロットの方が「出撃命令が出ていれば」と悔しがっていました。 6.軍が長崎に発した警報は実は長崎に届いていなかったという記事があったのだが、その真相は? 退避勧告 本当に連絡あったのか http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/2004/kikaku/kikaku4/02.html 「当時福岡にあった第一六方面軍司令部は、八幡上空を旋回後、南西に向かった敵機の攻撃目標を長崎と判断。ラジオや各種通信機関を利用し、「全員退避」を繰り返し連絡した、とある。 この連絡は本当にあったのか―。荒木正人が長年抱き続けてきた疑問の一つだ。「こんなラジオ放送は誰も聞いていない。証言集にもそんな記述はない。もし聞いていれば、市民は防空壕(ごう)に逃げ込んだはずだ」」 <Mozilla/5.0 (Windows NT 6.1; WOW64; rv:6.0) Gecko/20100101 Firefox/6.0@distaff.lunarbreeze.com> |
大村の343空について調べてみたところ、8月8日の空戦で、部隊が半壊するような大損害を受けていたことがわかりました。 もしかすると、この損害が原因で、9日に待機命令も迎撃命令も出なかったのではないでしょうか? もしくは、8日の出撃で、燃料を使い果たしていたのかも知れません。 「飛べる飛行機が一機もない」という事態にでもならない限り、搭乗員みんなでピクニックに行くなんて変ですもん。 <Mozilla/5.0 (Windows NT 6.1; WOW64; rv:6.0) Gecko/20100101 Firefox/6.0@blade112.mijndomein.nl> |
日本が受けた空襲を時系列でまとめたサイトを見つけましたが、ひどすぎますね。 7月〜8月までの数字だけでも、「手も足も出ない」って言うのがよくわかります。 空襲以外にも、偵察、機雷投下、ビラ撒きなどやっていたでしょうから、当時の日本上空は毎日B−29が飛んでたんでしょうね。 それにしても、長崎原爆投下当日に迎撃に出た零戦10機と五式戦っていうのは、当時の日本軍からすると、かなり気張ってた数なのかも…。 原爆機情報は有効活用されたのでは? 日本本土空襲 http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/air_raid.html 7月1日:熊本大空襲。 7月3日:【姫路大空襲】 深夜から4日未明にかけ、米軍のB29爆撃機107機が野里方面を除く姫路全市を空襲。死者170人をだして市街地の大半が焼け野原に。姫路城は焼失を免れた。 7月4日:【高松空襲】 米軍のB29爆撃機90機が高松を空襲。死者1359人、罹災家屋18,913戸、罹災者8万6400人。 7月6日:【千葉空襲】 米軍のB29爆撃機124機が千葉を空襲。死傷者1679人。 7月6日:【甲府空襲】 米軍のB29爆撃機131機が甲府を空襲。死者1027人、全焼1万7920戸。 7月9日:【和歌山大空襲】 夜から10日未明にかけて米軍のB29約100機が和歌山の紀ノ川北岸から和歌山市中心部にかけてを空襲。和歌山城が炎上、国宝の天守閣をはじめとする多数の国宝や建築物が焼失した。死者約1200人。 7月9日:【堺空襲】 米軍のB29爆撃機約100機が堺を空襲。死者1860人、焼失1万8000戸。 7月9日:【岐阜空襲】 米軍のB29爆撃機約130機が岐阜を空襲。死者約900人。 7月10日:【仙台空襲】 米軍のB29爆撃機124機が午前0時3分より約2時間にわたって仙台を空襲し、約11万個の焼夷弾を投下した。市街地の17%にあたる5平方キロメートルで約1万2000戸が被災し中心部は焦土と化した。死者約1,000人、被災者約6万人。 」 7月12日:【宇都宮大空襲】 午後11時12分、米軍のB29爆撃機133機が宇都宮市を空襲、市街地の大半が焼失した。隣接の鹿沼市にも空襲。死者521人、罹災者約4万8000人。 7月12日:敦賀空襲。死者109人 7月16日:【大分空襲】 夜半から17日にかけて米軍のB29爆撃機30数機が大分市の中心部を空襲。 2358戸が焼失。 7月16日:【平塚大空襲】 米軍のB29爆撃機136機が平塚を空襲。市域における面積の約8割、戸数の約6割を焼失。死者343名。 7月17日:沼津空襲。 7月17日:【桑名空襲】 未明、米軍のB29爆撃機が三重県・桑名を空襲。市内の約80%が焼失。 24日、午前10時頃からの攻撃で市内西北部一帯が粉砕された。 死者416人、行方不明者51人。 7月19日:【福井空襲】 米軍のB29爆撃機128機が福井を空襲。死者1576人。 7月19日:【日立空襲】 米軍のB29爆撃機127機が日立を空襲。死傷者2199人。 7月19日:【銚子空襲】 米軍のB29爆撃機91機が銚子を空襲。死傷者1181人。 7月24日:【大阪空襲】 米軍のB29爆撃機約400機を含む大小2,000機が大阪を空襲。死者187人、焼失554戸。 7月25日【保戸島空襲】 米軍グラマン戦闘機が大分県津久見市保戸島を空襲。 3発のうちの1発が授業中だった保戸島国民学校(現=津久見市立保戸島小学校)を直撃し、児童125人、教師2人が即死。 7月28日:【青森大空襲】 米軍のB29爆撃機61機が青森を空襲。午後10時37分に焼夷弾の投下を始め午後11時48分まで8万3000本の焼夷弾が降り注いだ。従来型に黄燐を入れ威力を高めた新型焼夷弾の実験場にされた。市街地の88%の1万8,000戸が焼失。死傷者1767人。東北地方では最大の被害。 7月29日:【大垣空襲】 米軍のB29爆撃機が岐阜県大垣市を空襲。罹災者約30,000人市街地の大半は焼失し、国宝大垣城、開闡寺(大垣別院)なども焼失した。死者50人、全半壊家屋約4,900戸。 大垣市は工場が多かった計6回空襲を受けた。 8月1日:【水戸空襲】 米軍のB29爆撃機99機が水戸を空襲。死傷者1535人。 8月1日:【八王子空襲】 2日未明にかけて米軍のB29爆撃機169機が八王子を空襲。落とされた焼夷弾は数十万発、1600tにも及んだという。市街地の80%が焼失。死者400人あまり。 8月1日:【長岡空襲】 米軍のB29爆撃機125機が長岡を空襲。死者1470人余、焼失11,986戸。 8月2日:【富山大空襲】 米軍のB29爆撃機170機が富山を空襲。市街地のほとんどの約2万5000戸が焼失。死者約3,000人。罹災者約11万人。 原爆以外では地方都市として最大の被害。 8月5日:【前橋・高崎空襲】 米軍のB29爆撃機92機が前橋・高崎を空襲。死傷者1323人。 8月6日:【広島原爆】 8月7日:豊川海軍工廠空襲。死者2477人。 8月8日:【福山大空襲】 米軍のB29爆撃機91機が福山を空襲。市民の82%にあたる約4万7000人が被災した。死者354人、焼失家屋数約1万戸。 8月9日:【長崎原爆】 8月10日:花巻空襲。熊本空襲。 8月11日:久留米空襲。死者212人、焼失家屋4506戸。 8月14日〜15日:【最後の空襲】 無条件降伏を決定した8月14日から翌15日未明にかけて米軍は日本の都市に対して「最後の空爆」を敢行した。7市にわたり、少なくとも2,300人が死亡した。 大阪大空襲:14日早朝、米軍のB29爆撃機145機が大阪市を空襲。死者は500人から600人。 土崎空襲:米軍のB-29爆撃機100機以上が秋田市土崎を空襲。日本で唯一無傷の石油精製工場であった土崎港〔つちざきみなと〕の日本石油秋田製油所(現=新日本石油加工秋田事業所)の破壊を目的としたもの。死者250人以上。 小田原空襲:米軍のB-29爆撃機が神奈川県小田原市を空襲。高梨町、青物町、宮小路、一丁田など、焼失家屋約400戸、罹災者1500人以上、死者約50人。 熊谷空襲:14日深夜、米軍のB29爆撃機約80機が埼玉県熊谷市を空襲、市街地の7割を焼失した。死者266人。 伊勢崎空襲:米軍のB29爆撃機84機が群馬県伊勢崎〔いせさき〕市とその周辺地域を空襲。市街地の約40%が焼失。死者29人、焼失家屋約2000戸。 岩国大空襲 山口県光市光海軍工廠空襲。 <Mozilla/5.0 (Windows NT 6.1; WOW64; rv:6.0.2) Gecko/20100101 Firefox/6.0.2@server-r004.hostpoint.ch> |
かなり数を挙げておられるわけですが、それでも全然足らない感じです。 http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/m4507.html http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/m4508.html http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/jul45.htm http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/aug45.html マリアナからの爆撃任務(機雷作戦を含む)の任務番号TMNを数えるだけでも90作戦以上になります。 以上のほか、パンプキン爆撃もありますし、写真偵察、気象観測爆撃作戦、リーフレット作戦、さらには艦載機空襲が行われています。 通常爆撃ミッションに任務番号があるように、写真偵察にも任務番号があるのですが、自分が確認した限り、7/2「RP5M 312」から8/15「RP5M 410」に至るものがあります。 (7/1分がわからなくてごめんなさい) 1945年に入ってから終戦までのマリアナからの写真偵察ミッションは410か411回あったことになり(「RP5M 412」は8/29です)、最後の1ヵ月半でこの四分の一を占めるおおよそ100回の写真偵察が行われていたことになります。 気象観測WSMは一日あたり3ミッションほどがマリアナから飛んでいたのではないかと思いますが、これらは、単に気象観測するだけでなく、爆装の上、最後には日本本土に投弾の上帰投します。 原爆戦部隊509CGの任務番号は「5SBM 18」まで数えられ、このうちの2回が広島、長崎です。パンプキン爆撃は、通常、1ミッションあたり複数機がそれぞれ個別の目標に向かいます。 RPM、WSM、SBM合わせて、単純計算すると、7、8月の間にこれだけで250ミッション以上の「少数機による日本本土上空侵入」が行われていたことになります。 (すみません、リーフレット作戦はまだ自分で数えられていないので未算入です) <Mozilla/5.0 (Windows NT 5.1) AppleWebKit/535.1 (KHTML, like Gecko) Chrome/13.0...@nttkyo008233.tkyo.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp> |
> 一一〇九 長崎地区に空襲警報発令 > 一一〇二頃 原爆機侵入 投下 微妙なタイミングだったのですね。 素人知恵ですが、原爆搭載部隊と判断された時点で、周辺地区すべてに ダメ元で空襲警報を出しておく、といったことも難しかったのでしょうか。 <Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 8.0; Windows NT 5.1; Trident/4.0; GTB7.1; .NET C...@CF211005100033.cims.jp> |