Page 163 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 通常モードに戻る ┃ INDEX ┃ ≪前へ │ 次へ≫ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▼特務士官出身者の著作と士官名簿類について ラインバッカー 03/4/26(土) 22:23 ┣あ あるめ 03/5/2(金) 0:07 ┃ ┗Re:あ ラインバッカー 03/5/3(土) 13:58 ┃ ┗こんなものを書いてみました ラインバッカー 03/5/11(日) 20:44 ┃ ┣名簿に見る特務士官たちNo.1 ラインバッカー 03/5/14(水) 21:42 ┃ ┃ ┗ここから先はやはり御自身のホームページで。 TETSU29 03/5/15(木) 7:28 ┃ ┃ ┗名簿に見る特務士官たちNo.2 ラインバッカー 03/5/28(水) 15:52 ┃ ┃ ┗名簿に見る特務士官たちNo.3 ラインバッカー 03/5/30(金) 20:46 ┃ ┃ ┗HP書くレベルとかじゃなくて・・・ P-kun 03/5/31(土) 1:57 ┃ ┗少佐進級者 あるめ 03/5/25(日) 0:38 ┃ ┗Re:少佐進級者 ラインバッカー 03/5/25(日) 23:23 ┃ ┗人員の増大 あるめ 03/5/27(火) 1:45 ┃ ┗Re:人員の増大 ラインバッカー 03/5/27(火) 22:33 ┣ここは発表の場ではありません。 SUDO 03/5/31(土) 1:13 ┃ ┗もったいない。 無頼庵 03/5/31(土) 1:35 ┃ ┗Re:もったいない。 SUDO 03/5/31(土) 1:46 ┗すごいですねえ・・・ P-kun 03/5/31(土) 1:23 ┗おわび ラインバッカー 03/6/1(日) 7:47 ┗Re:おわび ラインバッカー 03/6/2(月) 19:47 ─────────────────────────────────────── ■題名 : 特務士官出身者の著作と士官名簿類について ■名前 : ラインバッカー <hongo@cocoa.ocn.ne.jp> ■日付 : 03/4/26(土) 22:23 -------------------------------------------------------------------------
特務士官出身者の著作と士官名簿類について Ans.Qで海軍の特務士官について若干触れさせていただいた者です。ここでは、資料とした特務士官出身者が戦後書いた自伝的戦記と手持ちの士官名簿類を整理しておきたいと思います。いずれも私の所有のもののみです。若干の解題も付けたいと思います。自伝の欠点は著者の思い違いその他で内容は他資料による検証が必要なことです。 特務士官制度は日本海軍独特の制度のようで模倣先の英国海軍にもみられない制度です。 職掌で分隊長(特務中大尉)であるにもかかわらず、軍令承行令の順位では上位の海兵出身少尉が軍隊指揮権を継承することも理論的には可能です。特務士官が分隊長の分隊では分隊士には特准士官がなり、海兵出の分隊士は特務士官の分隊長の部下にはならないという不文律があったようですが、明文の軍令承行令と艦船職員服務規定とは矛盾するわけです。 海兵の教育もノンキャリアの特務士官を劣位に置き単なる尉官代行者としか見なさない ようにする組織的教育を行っていたのでしょう。年功と、兵より士官まで昇進出来たと いう優秀なセンスを評価することは無かったのでしょうか。 給料は年功からいっても特務士官の方が高かったようですが、恩給は仮定棒給といって 一階級1本立てのようで年功は評価されない制度になっていたようです。 職掌上の判断基準としては航海中の軍艦の当直将校に勤務できるか出来ないか、すなわ ち航海術の知識があるかということのみしかなく、人にもよりますが軍事指揮も含む仕 事の面では経験の深い特務士官の方が上だったとおもいます。 (1)自伝的回想録的戦記 [1]「海軍特務士官の記録」4等水兵から大尉までの17年間 近藤太 監修者宇井和雄 (ターミナルレポート社取締役)昭和47年8月 特務士官出身者の自伝的戦記としては最初に書かれたもののようで古典である。どのよ うな過程を経て兵・下士官より准士官、特務士官に昇進するのかを知るのには最適であ る。たんたんと客観的に書かれている。私が興味をひかれたのは、兵科、各科の少尉候 補生の遠洋航海に下士官として乗組していた部分である。准士官以上と下士官以下では 外国に行った時でも外出制限の差が厳然としていたようである。 筆者の准士官に昇進したときの軍装一式(私服としての背広なども含む)にかかる費用 総額なども興味深かった。 昭和3年12月1日に徴兵で横須賀海兵団入団(4等水兵) 昭和15年3月25日兵曹長 昭和15年5月29日海兵選修学生(19期)卒業 昭和18年6月1日海軍少尉 最終階級はポツダム大尉 [2]「秘話!海兵選修学生」佐藤宗次 MBC21(東京経済)昭和61年10月10日 [3]「海軍パイロットの証言」選修学生から中支・南方戦線へ 佐藤宗次 MBC21 平 成7年12月8日 [2]、[3]は内容が重複する部分が多い。海軍の3バカなど獰猛で横暴な海兵 出の将校に対する憤懣が両著出版の動機と思われる。筆者自身が海兵出以上に経験のあ る優秀な士官であったことが解る。[2]には礼装(仁丹服)を着た著者自身の写真が 掲載されている。昭和20年5月以降の撮影と思われ著者がなにを示そうとしていたのか 興味深い。[3]の巻末には不完全(2期が欠で、先任順でなくあいうえお順、氏名の 誤植が多すぎる)な初期(1〜12期)の操縦練習生の名簿が載っており便利である。 大正14年6月1日横須賀海兵団舞鶴練習部志願入団(4等機関兵) 昭和3年5月29日第12期飛行練習生課程卒業(1等航空兵) 昭和11年11月頃 航空兵曹長 昭和13年3月16日海兵選修学生(17期)卒業 昭和15年11月頃 航空特務少尉 昭和19年11月頃 海軍大尉 昭和20年5月より航空神経症の為自宅療養、終戦にいたる [4]戦争と人間の記録「一海軍特務士官の記録」二藤忠 現代史出版会徳間書店1978 年7月10日 特務士官だった著者自身の惨めな境遇から特務士官制度と横暴なエリート士官、横暴で はないにしてもそれをかばったエリート士官に対する怒りと憤懣からのみ本書は書かれ ている。[2]、[3]や後述する坂井三郎氏の著作にも登場する海軍3バカの筆頭岩城 大尉など実名で登場させている。イニシャルで登場させる無能で臆病なエリート士官も 数多く、リアリテイに富んでいる。反面、高橋東吾少佐など特務士官の先輩に対する敬 愛の念はきわめて深いものがある。著者の戦後の人生の大部分は特務士官制度と横暴な エリート士官に対する怨念で占められていた。この本の出版で著者自身の戦後がやっと 終わったと自ら書いている。 著者は旧制の普通科中学を卒業してから海軍を志願している。海兵出と学歴は同等なわ けであり、海軍志願後のあまりに違う処遇が憤懣の根源だったようである。海軍の制度 自体が高学歴化しつつあった当時の実社会とかなり乖離があったことを、この著作から 読み取らなければならない。[2]、[3]の著者佐藤大尉とは戦後かなりの親交があっ たようである。 昭和2年6月1日横須賀海兵団志願入団(4等機関兵) 昭和10年8月16日第23期高等科整備術練習生卒業(3等整備兵曹) 昭和15年5月1日整備兵曹長 昭和18年4月1日海軍少尉 最終階級はポツダム大尉 [5]「波涛のしぶき」海軍船匠兵の記録 元海軍特務大尉松本春雄著 光和堂1982年8 月20日 名誉兵曹長(1等兵曹より1日だけ兵曹長になり翌日予備役編入)を目標として下 士官勤務をしていたが戦争苛烈化のために兵曹長昇進予備役編入即日召集され予備役の ままポツダム大尉まで昇進した著者の軌跡は面白い。[4]のような怨念による気負っ たところがなく淡々と予定外の召集された予備役兵曹長、予備役特務士官の昇進過程を 描いていて興味深い。海兵出の息子はいなかったようであるが東宝映画「連合艦隊」の 小田切武一予備役兵曹長(財津一郎)のモデルかもしれない。 大正13年6月1日呉海兵団志願入団(4等船匠兵) 大正15年11月6日船匠術練習生教程卒業(高等科待遇) 昭和13年12月1日高等科工作術練習生教程ヲ卒業シタモノトミナス(1等工作兵曹 ) 昭和14年1月25日海軍工作兵曹長 昭和14年1月26日充員召集 昭和18年6月1日海軍少尉(予備役) 最終階級はポツダム大尉(予備役) [6]「空と海よもやま物語」本田寿男 光人社 昭和61年2月25日 著者は特務士官だったのだが[2]、[3]、[4]に見られる特務士官の憤懣、 怒りなど全く見られない。海軍生活全般をユーモアも含めたエピソードで極めて詳細に 描かれている。憤懣、怒りは全く述べられていないので必然的に一人称で書かれておら ず客観的である。したがって、著者自身の昇進歴は解らない。 大正13年佐世保海兵団志願入団 最終階級は大尉(ポツダム大尉ではないように思われる) [7]「どっこい特准は生きている」元海軍中尉・戦闘機搭乗員 坂井三郎 月刊「丸 」昭和55年7月号 特集ああ 海軍特務士官 に所収 坂井三郎中尉の自伝的回想録的戦記の著作は大量多数であるが、ここでは特務士 官制度、エリート士官への怒りと憤懣のみを取り上げて書いている。同氏の大量の著作 の中で特務士官制度についての憤懣と怒りに割かれている部分はかなりある。 昭和8年5月1日佐世保海兵団志願入団(4等水兵) 昭和12年11月末第38期操縦練習生課程の全てを終え(首席)卒業 昭和17年10月31日飛行兵曹長 昭和19年8月1日海軍少尉 最終階級はポツダム中尉 「丸」同特集号には坂井氏の記事のほかに、主計科特務士官出身で少佐に昇進し た方、エリート士官が特務士官制度について述べたもの、中佐まで昇進した特務士官出 身者など、特務士官についての物沢山な記事が掲載されており、面白い。 (2)特務士官准士官の名簿類 [8]昭和7年6月1日調「昭和7年度水交社員名簿」 [9]昭和14年3月1日調「昭和14年度水交社員名簿」 昭和7年および昭和14年水交社員名簿は水交社を利用できる資格のある全ての海軍士官 、すなわち学校(海軍兵学校、機関学校、経理学校。軍医、技術士官などはは大学、高 等専門学校)出身の正規士官のみならず特務士官、奏任官待遇以上の軍属文官、その予 後備役、退役までも先任順に網羅した士官名簿である。正規士官は海軍省、特務士官は 各鎮守府と人事の管掌が違うのでで士官名簿も別である。それが現役、予後備役、退役 まで合冊になっているのは極めて便利であり、私的戦記などは別として現在まで殆んど アプローチが無かった海軍の特務士官・准士官を制度・人事史などから検討するうえで 貴重な史料と言える。 昭和7年と昭和14年を比較してみると厚さでは14年の方が倍以上ある。14年は活字も小 さく記載人数は7年の4倍くらいある。サイズも一回り小さくなっている。紙質も悪い。 日中戦争開始以後の海軍の規模拡大と物資の欠乏が窺われる。入手してないが昭和15年 度までの存在は確認されており、より新しい年度のものを見てみたい。当時の住所、電 話がある人は電話番号ものっており便利である。 [10]昭和17・12・15「現役海軍特務士官准士官名簿」上巻(横・呉)の中表紙、索引 、P437、P482 [11]昭和?「海軍特務士官准士官名簿」(佐世保鎮守府在籍者)海軍省の表紙、索引 、P489、P530 [12]昭和19年6月1日調「現役海軍特務士官准士官名簿」(横鎮)の中表紙、索引、P3 89、P431 防衛研究所図書館より上記[10]、[11]、[12]の計12枚のコピーを取り寄せ 所持している。特准士官の任官履歴、所属、選修別、生年月日、電報符(先任順位)な どがわかるようになっている。未だ全貌には接していないが特務士官制度研究の基礎的 データとなるべきものであろう。 増員のための手書きする空欄がほとんど埋められており、戦死など線を引かれた ものも多数ある。戦争末期のすさまじさを彷彿とさせられる資料である。 |
これは、すごい。より多くの方の目に触れるようにラインバッカーさまのHPに掲載なされば如何でしょうか。 |
> これは、すごい。より多くの方の目に触れるようにラインバッカーさまのHPに掲載なされば如何でしょうか。 おほめいただいたようで、嬉しく思います。ありがとうございます。 HPは作った事が無いので、トライしてみようかと思います。 特務士官制度に関する有用な資料はまだまだあると思います。皆様方に新たなる資料のご教示、感想などとりあえずここにお寄せいただければ多幸とします。 |
濱田二省機関少佐 防衛研究所図書館より「昭和12年1月1日調現役海軍士官名簿」[13]の極く1部分をコピーで取り寄せてみました。機関少佐の末席に濱田二省機関少佐が載っています。濱田機関少佐は特務士官出身です。明治38年6月1日5等機関兵、大正10年11月1日機関特務少尉、昭和5年12月1日機関特務大尉、昭和11年12月1日に機関少佐に特進しています。年齢は50歳4カ月です。初雪機関長兼分隊長とあります。初雪は駆逐艦ですので軍艦籍にありません。所轄長(軍艦の艦長のあたる)は駆逐隊指令です。WEB[1]の11条に「機関長ハ司令ノ命ヲ承ケ隊ノ機関ニ関スルコトヲ掌リ各艦艇機関長ノ職務及機関科員ノ教育訓練ヲ監督シ主管ノ兵備品ヲ整備ス」とありますので司令直属の駆逐隊機関長がいます。濱田機関少佐の機関長とは<<各艦艇機関長>>にあたり軍艦の機関長とは同格ではありません。 「昭和14年水交社員名簿(昭和14年3月1日調)」[9]では、既に後任者が数十名になる地位にまで序列が昇進しています。日中戦争の影響が大きいことが窺われます。特務士官出身少佐の現役定限年齢(定年)は52歳ですから、そろそろ定年でしょう。予備役編入以降も召集され軍務についていたかどうかなどはわかりません。戦歴も初雪機関長兼分隊長以外はわかりません。住所は呉になっています。呉鎮守府出身なのでしょう。自宅に電話は無かったようです。 WEB[1] http://homepage2.nifty.com/nishidah/mlk204.htm 文献[9]「昭和14年3月1日調昭和14年水交社員名簿」 文献[13]「昭和12年1月1日調現役海軍士官名簿」 |
濱野喜作(飛行特務)大尉 タイトルは昨日の全国経済紙最終面の見出しをもじらせていただきました。あしからず。 昭和14年水交社員名簿175ページに濱野喜作航空特務少尉が記載されています。 大正13年に飛行機に乗りはじめ、大正15年に偵察練習生を終えたとのことです。 操縦大西大尉 偵察濱野というペアも組んだことがあるようです。 海軍のナビゲーターとしては大変なキャリアの持ち主です。 昭和14年の水交社員名簿の航空特務少尉の欄で先任順では最下位から2番目に記載されているので、昭和13年の11月ころに兵曹長より昇進したほやほやの航空特務少尉だったものとおもわれます。 住所は横須賀市です。文献[15]によれば「長崎の自宅に復員」とありますので鎮守府籍は佐世保なのでしょう。当時、少尉では電話はもてなかったようで電話番号は記載されていません。 昭和18年にはラバウルの251空に所属し夜間戦闘機[月光]の後席(偵察)で中尉でした。司令は後に厚木302空司令として徹底抗戦を叫んだ小園中佐でした。B−17、B−24などの米大型爆撃機迎撃のために月光に20mm斜銃を装備するというアイデアは濱野飛行特務中尉のもので、特務士官の悲しさか小園司令の発明にすりかえられたとする説もあります。 昭和20年8月濱野大尉は厚木302空(司令小園大佐)の第2飛行隊の分隊長でした。文献[14]、[15]によれば「徹底抗戦で活動したのは第1飛行隊、第3飛行隊のガンルーム士官が多く。濱野大尉も心動かされますが積極参加せず、8月22日長崎県の自宅に復員」とあります。忸怩たる戦後生活を送ったようです。 文献[14]「重い飛行機雲」渡辺洋二 文春文庫 2000年6刷 文献[15]「大空の攻防戦」渡辺洋二 朝日ソノラマ 1992年第1刷 |
いろいろな資料を基にお調べになった上でお書きになっているのはよくわかりますが、経歴という紛れも無い個人情報を実名で掲載なさっているのですから、責任の所在を明確にさせる為にも御自身でホームページをお作りになってそちらで発表なさるのが筋かと思います。 |
HPへのトライはもうちょっと先になります。今回はS.T、S.M両氏とも歴史上、高名な人物ですのでここにアップさせていただきます。念のため両氏ともアルファベットの頭文字にしました。 昭和14年水交社員名簿、予備役、後備役、退役特務士官の部にS.T退役軍楽特務少尉が記載されています。明治元年生まれのS軍楽特務少尉は昭和14年3月調の時点では74歳くらいです。とうに後備役も終わり身分としては単なる退役軍楽特務少尉です。奏任官待遇(士官)以上は完全に退役し海軍とはほとんど関係なくなっても終生その官階を名のる事が出来ます。当然水交社を利用できる資格もあります。そのために予後備退役軍楽特務少尉の項の最先任に記載されているものと思われます。 S軍楽特務少尉は有名な”軍艦マーチ”の作曲者です。明治30年に作曲したとのことですが、S軍楽特務少尉はその時点で軍楽師、即ち兵科で言う上等兵曹、大正9年以降で言えば兵曹長(准士官)でした。明治15年に海軍軍樂生として海軍に身を投じ、明治27年に軍樂師に昇進してますから准士官まで丸12年かかっています。 同時代人に旅順口閉塞作戦に参加し軍神広瀬少佐とともに戦死したS.M上等兵曹(准士官)がいます。S上等兵曹は慶応2年生まれで明治19年浦賀屯営に2等若水兵として入営、明治36年に上等兵曹(准士官)に昇進しています。入営より17年かかっています。明治37年戦死後1階級特進し兵曹長(大正9年以降の特務少尉相当)になっています。 S軍楽特務少尉は明治36年に軍樂長(大正9年以降の軍楽特務少尉相当)に昇進、海軍軍楽隊隊員としては花の配置である東京派遣海軍軍楽隊の隊長を明治末より大正の初めにかけて2回に渡り就任しています。大正7年に軍樂長で予備役に編入されました。 大正9年に旧兵曹長が特務大中少尉に変更された時点でS後備役軍楽長も後備役軍楽特務少尉に横滑りしたものと思われます。 北清事変(明治33年1900年)時には常備艦隊旗艦の常盤に乗組と有りますから常備艦隊が上海付近を示威航海したときに常備艦隊司令部付きの軍楽隊隊長だったのではないでしょうか。北清事変の従軍記章はもらっていたのではないかと思います。 住所は東京市になっています。 文献[16]「日本陸海軍総合辞典」秦郁彦編 東大出版会 1994 |
私の手持ちの資料の中に戦艦大和乗組員戦没者名簿というのがあります。「男たちの大和」下 辺見じゅん 角川書店[17]に収録されているものです。 戦艦「大和」沈没後、残務整理にたずさわったI・N氏の協力を得て作成したとあります。I氏は大和の下士官乗組員で2番測的手でした。 この名簿は大和を旗艦とした第2艦隊司令部要員も含めて戦死者を階級別、先任順に整理して作成されています。遺族ないし縁故者には階級別は良いとしても、先任順では探すのに苦労します。あいうえお順の方がよりよかったかと思います。 戦死者は全員1階級特進しています。以降この文章では特進前の階級を使用します。 この名簿の中に昭和14年水交社員名簿に記載されている特務士官が8名見出されます。全員が大尉(1名が主計大尉)です。なぜならば昭和14年3月調の時点では大和沈没時での中尉以下は未だ兵曹長以下で水交社員名簿に記載されていないからです。水交社員名簿での8名の明細は特務中尉4名、機関特務中尉1名、特務少尉2名、主計特務少尉1名です。 吉田満氏の「戦艦大和」の最期で有名な臼淵大尉(海兵出身)も特進して少佐でこの戦没者名簿に名を連ねています。同じく少佐に特進した戦没者名簿での特務士官出身者の最先任某大尉よりも2席先任で載っています。年齢は臼淵大尉は24,5歳でしょうか、某大尉はゆうに40歳は越えています。 臼淵大尉は士官室在籍のまま士官1次室(ガンルーム)の室長(ケプガン)という事ですが、寝るときはどちらで寝ていたのでしょうか、気になります。ケプガンというのは海軍独特の和製英語でキャプテンオブガンルームの略です。オスタップ(ウオッシュタブ洗濯桶)、ワッチ(ウオッチ見張り)など海軍ではこの手のものは多数あったようです。 昭和14年3月調の時点で特務少尉だった某大尉は「戦艦大和艦歌」の作詞者だそうです。 特務士官出身の最先任の某大尉は住所が呉になっています。「戦艦大和艦歌」の作詞者の某大尉は横須賀に住んでいます。大和は呉鎮守府籍の軍艦ですが、特務士官以下の乗組員に呉鎮守府在籍者以外もいたようです。 2人は第2艦隊司令部付ではありません。念の為。 文献[9]昭和14年3月1日調「昭和14年水交社員名簿」 文献[17]「男たちの大和」下 辺見じゅん 角川書店 昭和59年6版 |
えーと、上にも書いちゃいましたけど、訂正します。 TETSU29さんの書き込みは読まれましたでしょうか? ここって議論スペースなんですよ。発表の場じゃないんです。 こういうこと、できればBirdsTownの方か自前のページで詳細やっていただけるとうれしいです。 仮にも人様の場所で書いてるんですからそれなりの節度を保っていただけませんでしょうか? なんか生意気な発言ですが申し訳ないです。 |
既に後任者が数十名> 約2年間で少佐進級者がそれだけあったわけですね。これは平時と較べて多いのでしょうか。もっとも日華事變は海軍にとっては戦争とまではいかない状態なので、また陸軍のような大規模な動員もないので、平時進級者と変わらない数なのかと思っていますが、どんなものでしょう。 |
近衛首相は蒋介石政権を相手にせずなどとのんきな声明を出していますが、日中戦争は日本にとっては陸海軍をとわず国力をかけた総力戦ではなかったのでしょうか。海軍は上海陸戦隊、96陸攻の渡洋爆撃、陸軍の柳川兵団の杭州湾上陸作戦援護など華々しいものだけでなく、長江の制江権(?)維持による補給線の確保、山東方面の制海権維持による北中国への補給線確保など地味で兵力のいる作戦も展開しています。海軍3バカの筆頭I中尉(昭和20年には神雷部隊の飛行長で中佐)が94水偵で後席(偵察員)を戦死させ被弾でボロボロになった機体で生還したのも日中戦争の初期の頃だったと思います。 昭和16年までに国家総動員法など戦時立法の主なモノはほとんど公布施行されているはずです。国力の疲弊に対応した結果だと思います。 甲飛予科練の成立発展も日中戦争抜きには考えられないと思います。 階級章が肩章になっているネクタイの3種軍装も日中戦争時に着始められたようです。反面、正装(大礼服、仁丹服)は贅沢禁止の風潮のなかでだんだんと着用は控えられるようになったようです。 このような情勢を反映して水交社員名簿も<<昭和7年と昭和14年を比較してみると厚さでは14年の方が倍以上ある。14年は活字も小さく記載人数は7年の4倍くらいある。サイズも一回り小さくなっている。紙質も悪い。>>ということになったと思います。7年のは上質紙で活字も版も大きく本当に読みやすいです ちなみに、現役の航空特務少尉は昭和7年水交社員名簿ではたった8名しか居ませんが14年では45名に増えています。 [8]昭和7年6月1日調「昭和7年度水交社員名簿」 [9]昭和14年3月1日調「昭和14年度水交社員名簿」 |
すると、この増員分は應召者や、豫備士官、特務士官進級者などであったのでしょうか。兵學校出舜者の數が限られている中で、急激に幹部を増やすには、そういう手段となるように思えますが。なかなか興味深いテーマですね。 |
軍隊の階級構成はピラミッド型とよく言われます。戦争が拡大し人手が不足するのは大尉以下の下級士官でしょう。元現役の尉官はそう多くはいないでしょうから、補充は高等商船出の予備士官の召集と兵曹長から昇進させる特務士官の数を多くする事でまかなっていたように想います。昭和7年と14年の水交社員名簿で現役特務(航空を除く兵科)大尉の数を比較してみると7年は50名弱、14年は100名弱です。 その人員の拡大の結果、日米開戦以降(直前から?)は従来分隊長止まりで科長になれなかった特務士官が一部の軽巡洋艦(菊の紋章のついた軍艦籍の範疇では一番各が低い)などで水雷長、運用長などの科長に補職されることになったようです。 WEB[2]http://www.warbirds.jp/ansqn/ansq07.cgi の584段7 文献[8]昭和7年6月1日調「昭和7年度水交社員名簿」 文献[9]昭和14年3月1日調「昭和14年度水交社員名簿」 |
ここは議論ボードです。 ご自身の研究成果を発表する場所ではありません。 内容の問題ではなく行動の問題です。 即刻止めてください。 |
> ここは議論ボードです。 > ご自身の研究成果を発表する場所ではありません。 > > 内容の問題ではなく行動の問題です。 > 即刻止めてください。 ちょっとちょっと SUDOさん。おっしゃる通りですけど。 ちょっと言い方が、なんかポリスメンみたいですよぉ。 う〜ん。とりあえず。BirdsTownで、BBSを開設して、意見を交換すれば 良いのではないでしょうか。 そんで、BBSのログがまとまったら、 「真実一路」へ掲載してもらう事を検討するなり、 なんなりすれば良いと思います。 |
> ちょっとちょっと > SUDOさん。おっしゃる通りですけど。 > ちょっと言い方が、なんかポリスメンみたいですよぉ。 すいません、言葉遣いが悪いもので。 > う〜ん。とりあえず。BirdsTownで、BBSを開設して、意見を交換すれば > 良いのではないでしょうか。 そうですね、そうするのが手っ取り早いですよね。 |
いや、すごいです。よくもまあって感じです。素直に。 こんなネタ殺伐とした議論ボードじゃあもったいないですよ。 HP立ち上げてはいかがでしょう? 私が言うのもなんですが、理事長に言えばきっと別館を増設してくれるはずです。 試しにHP書いてみて発表なさってはいかがでしょうか? 先ほども言いましたがもったいないです。 ぜひ資料としてHPにあげてもらえれば幸いです。 議論ボードじゃあ資料としての価値を減ずるだけです。 |
私は本当はこの手の機械は苦手です。今回は場所がらもわきまえずここに勝手な文章を書き込んで皆様にご迷惑をおかけした事をお詫びいたします。 早速、Birds Town 104番地に住民登録しBBSを開設させていただきました。「名簿にみる特務士官たち」No.4以降は、とりあえずこのBBSに書きこませていただくつもりです。 HPはトライしてはいますが完成はもうちょっと先になります。 皆様に掲載先のご教示、ご提案をお寄せいただければ多幸とします。 |
意外に早くHPをアップすることが出来ました。 http://homepage3.nifty.com/hongo/page0.htm です。海軍特務士官制度大事典と大げさなタイトルですが、大業なわけではありません。 Birds Town 6丁目 104番地よりアクセスできます。 とりあえず、名簿に見る特務士官たちNo.4をアップさせていただきました。 順次、No.5以降、その他を書いていきたいと思います。 皆様のご意見ご批判をいただければ多幸とします。 |