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> またできる場合は、やはり四式戦闘機もどきになってしまうのでしょうか?
これについては、結論からいうと「ならないでしょう」。
昭和12年に支那事変が始まって以来、日本国内は戦時体制になっています。「戦時」というのはある種の法的拘束の発動を伴った状態のことをいいます。
日本国内の航空機製作会社は、「陸軍管理工場」「海軍管理工場」に分けられます。中島飛行機の場合は、陸海軍中央協定により、社内の機体工場はそれぞれ同等の生産能力を持った陸軍機体工場と海軍機体工場に二分されることが定められていました。
また、これにより陸軍機体工場としては太田製作所、海軍機体工場では小泉製作所に新しい機種の試製開発部門(設計を含む)がそれぞれ別々に置かれるようになります。中島本社としては中央にひとつの技術研究所を置くことを目論みますが、それは終戦まで実現せず、ちょっと特殊な富嶽の場合を除いて、各機種の設計は太田・小泉で別々に行われていました。
この両製作所は空力の研究部門、風洞などもそれぞれ別個にもっています。
中島の空力部門の最前線にあった糸川英夫技師は昭和16年11月にすでに中島を退社して母校である東京帝大に戻って研究員になっています。
糸川技師に代わって太田製作所の陸軍キ八十四の場合近藤芳夫技師が空力を担当しています。
また、小泉製作所ではここで設計する全機種の空力を司る性能課が設けられ、内藤子生技師が統括しています。
両者の違いは、たとえば、太田のキ八十四と、小泉の天山や彩雲の主翼平面型を比べてみれば、「前縁が一直線」「前縁に後退角がついている」などの違いを見ることができるでしょう。こういうところに、空力担当者の考え方の違いが出ているのです。
主翼についてもっと重要なこととしては、キ八十四が在来のNN系の翼型を使っているのに対し、小泉の天山や彩雲の翼型は小泉製作所が独自に開発した層流翼K系であるという違いがあります。
このように、中島の陸軍機部門と海軍機部門では、性能に影響を与える技術の基礎からして違ってきている部分がかなりあります。
中島小泉製作所で戦闘機を設計したとして、それが中島太田製作所の設計に似る可能性はごく小さく、むしろ彩雲などと大きな共通点を持つものになるだろうと予想されます。
そしてこれには、三菱のものとはまた違ったものになっていただろう可能性があります。
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