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> もし日中戦争で九五式水上偵察機等の水上観測機が搭載機銃で敵機を撃墜するなどの意外な活躍ができず「水上機は、所詮陸上機に勝てない」という考えが日本の常識となり二式水上戦闘機の開発がされなかったとします。
以上について、
「二式水戦の開発がなかった場合に空くであろう設計人力を使って艦戦の設計行う」
ということだと読みました。
この部分についての結論を申しますと、二式水戦の開発がなかった場合にも艦戦の設計を行うだけのものは得られません。
中島の海軍用の機体部門である小泉製作所における機体設計は、
技師長
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設計部長
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第一機体主任、第二機体主任、第三機体主任
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第一機体課、第二機体課、第三機体課
という編成で行われていました。各機体主任の統括下で各機体設計課が設計の実務を行います。
二式水戦の設計について書かれているものは、「三竹忍技師の指揮のもと、田島敦技師が設計を担当した」というのが専らです。しかし、この三竹さんは技師長であり、田島さんは入社二、三年目くらいの若い人なのです。
また、二式水戦の設計には、小泉製作所の空力部門である性能課が噛んでいません。零戦に新しく付け足される浮舟の空力は、空技廠科学部の風水槽データが与えられており、これを基に構造設計を中島小泉で行っています。
中島の海軍機機体部門については、海軍が定めた「試製能力標準」というものがあり、昭和17年改訂では、中島に対して「大型1機種、小型(双発小型艦攻級)2機種」の同時試製能力、それが出来るだけの設計能力を整備することと定めています。第一〜第三機体課はこれに対応したものなのですが、余計に舞い込んだ仕事である二式水戦はこうしたメインどころのラインを使わずに、ちょこちょこっとこなされた、という感じのものなのです。これを空けたからといって、人手はほとんど得られません。
もし、中島に艦戦をつくらせるために何かを停めるとしたら、「第一機体課の天山、彩雲」「第二機体課の大攻」「第三機体課の天雷、銀河、零戦」のどれかひとつの課を丸ごと開ける必要があるのです。
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