|
> また日本航空工業の活動実態、製造実績も、ネット検索の範囲では発見できません。合併後の日本国際航空工業が戦争末期にキ-105を作っていたのは以前から知っていましたが、軍需を嫌った彼らも結局は軍需の軛から逃れられなかったのでしょうか?
川西を辞めるこのグループの人たちは、はじめ川西財閥の資金で別会社を作ろうとしていました。坂東氏が川西龍三氏の慶應同級生ということから始めたことでしたから、その先の支援も約束があってのことだったのです。ですが、これがうまく行かず、結局別のスポンサーを求めることになります。これが南海電鉄社長寺田甚吉氏でした。
昭和12年4月川西を辞めるにあたっては円満退社という形を取ってもらい、翌5月には寺田甚吉単独資本による日本航空工業株式会社が設立されます。
しかし、時代悪く、7月以降日中戦争が勃発し、13年3月には国家総動員法と、それに連動した航空機製造事業法が成立し、あらゆる航空機製造は国家統制の下に置かれることになります。
日本航空工業は、大日本航空での運用を狙う民間用輸送機TK−3(寺田航空機の略)を開発します。こうしたことが、川西を出た彼らの「道」だったわけです。
完成したTK−3は、航空局の堪航証明書を取ることが出来ましたが、肝心のユーザーである大日本航空の実用審査で不合格とされてしまいます。ここへ陸軍が手を延ばし、TK−3の改良型がキ59として試作内示されます。以降、陸軍管理工場となり、陸軍からの発注に沿う以外に会社を維持することは不可能になります。
(つづく、ということにさせて下さい)
|
|
|