駆逐艦に見るミッドウェイ海戦
−12隻の目撃者たち−
Eウォッチャー3号 深雪よしのり
jam@venus.dti.ne.jp
飛龍ニ爆弾命中火災(一四三〇)
機動部隊より各艦隊へ、短い一通の電報が放たれました。
事実を短く伝えるだけの電報ですが、その重大性は幾百幾万の言葉を連ねるよりも大きなものでした。
「飛龍」は南雲機動部隊、否、MI作戦参加全部隊最後の希望であったからです。
ミッドウェイ海戦。
日本人にとっては有名すぎるほどに有名な海戦です。
恐らく海軍に興味のある方はまず聞いたことのある戦でしょう。
更に大半の方がこの海戦で南雲機動部隊の中核空母4隻が失われたことをご存知でしょう。
開戦以来、日本軍をして西に東に南方に破竹の進撃を成功せしめた原動力であった主力空母「赤城」「加賀」「蒼龍」そして「飛龍」が、アメリカ機動部隊の放ったSBDドーントレス艦上爆撃機によってことごとく撃滅されたのです。
もっとも空母戦の詳細を追うことは本稿の目的ではありません。
本稿では「赤城」や「飛龍」といった空母ではなく、「利根」「霧島」といった重巡・戦艦でもなく、南雲機動部隊に随伴した駆逐艦たちに焦点を当てていきます。
彼女たちは一体何を目撃したのか。
彼女たちの行動を追うことが本稿の目的です。
ナグモ・タスク・フォース
昭和17年5月27日、海軍中将・南雲忠一率いる第一機動部隊は、広島湾を抜錨しました。
彼女たちこそ、指揮官の名からしばしば「南雲機動部隊」と呼ばれる強力無比の空母機動部隊。
二等巡洋艦「長良」を先頭に立て、堂々たる艦列が太平洋上へと押し出していきます。
新たな作戦のために。
その作戦の名は、ミッドウェイ作戦。
第一機動部隊編制。
第一航空艦隊司令長官、海軍中将・南雲忠一(兵36期)
同参謀長、海軍少将・草鹿龍之介(兵41期)
区分、空襲部隊。
兵力。
海軍中将・南雲忠一直率、第一航空戦隊、航空母艦「赤城」「加賀」
海軍少将・山口多聞(兵40期)麾下の第二航空戦隊、航空母艦「飛龍」「蒼龍」
そしてこの4隻の空母の護衛兵力として、2隊。
区分、支援部隊。
兵力。
海軍少将・阿部弘毅(ひろあき)(兵39期)率いる第八戦隊、重巡洋艦「利根」「筑摩」
第三戦隊第二小隊、戦艦「霧島」「榛名」
区分、警戒隊。
海軍少将・木村進(兵40期)の兵力は、第十戦隊。
旗艦軽巡洋艦「長良」
子隊は2隊。
第十駆逐隊、駆逐艦「秋雲」「夕雲」「巻雲」「風雲」
第十七駆逐隊、駆逐艦「谷風」「浦風」「濱風」「磯風」
更に固有の第七駆逐隊に換えて四水戦より一個駆逐隊を指揮下に編入。
第四駆逐隊、駆逐艦「萩風」「舞風」「野分」「嵐」
更に補給担当として、2隊。
区分、第一補給隊。
「旭東丸」「神国丸」「東邦丸」「日本丸」「国洋丸」
区分、第二補給隊。
「日朗丸」「第二共栄丸」「豊光丸」
この南雲機動部隊は、現代の日本人が抱いている評価以上に、アメリカでは全き恐怖として描かれます。
集中運用される空母、高練度の搭乗員、高性能の搭載機によって支えられたその強大な破壊力は、米海軍を恐怖のどん底へ叩き落としていました。
指揮官であるナグモの名と共に、日本海軍機動部隊は世界最強の海上戦力として太平洋上に君臨していたのです。
多少の手違いや準備不足、情報漏洩という不利な条件を前にしてなお、彼らは圧倒的な自信に満ち溢れていました。
第二次攻撃ノ要アリ(〇四〇〇)
6月5日。
その日の日出時刻は1時52分(日本標準時。以後全て同じ。現地時間は日本標準時+3)。
その時には既に日本軍の攻撃隊が白銀の翼を連ね、ミッドウェイへと進攻を開始していました。
南雲機動部隊の戦が始まったのです。
本来であればこのままミッドウェイ攻撃隊の方へと視点を移すべきなのでしょうが、本稿ではそのまま艦隊に視点を据えます。
ミッドウェイ攻撃隊を発艦させた南雲機動部隊の艦隊戦力は出撃時と若干変更があります。
前日の6月4日3時07分に補給隊を分離し、戦闘艦だけの部隊になっていました。
その護衛に第十駆逐隊の「秋雲」を割いています。
この時点で南雲部隊の兵力、空母4、戦艦2、重巡2、軽巡1、駆逐11。
4時ちょうど、攻撃隊指揮官・友永大尉より「第二次攻撃ノ要アリ」との電文が入電します。
ミッドウェイ所在機の撃滅に失敗したことを悟った南雲中将は、残りの搭載機を用いてミッドウェイへの再攻撃を企図します。
しかし友永隊と入れ違いになった形で、ミッドウェイ航空隊は南雲機動部隊上空へ到達しようとしていました。
警戒隊の各駆逐艦は、敵機を発見する度に煤煙幕の真っ黒な煙を流し、敵機来襲を全艦に知らせます。
敵航空隊は艦爆、艦攻、重爆、陸攻と雑多な機種で構成され、攻撃法も降爆、雷撃、水平爆撃と様々であり、しかもてんでばらばらに艦隊上空に突入してきました。
敵に制空戦闘機は付随せず、上空直掩の零戦は圧倒的な強さを発揮して、来襲する敵機を次から次へと撃墜していきます。
零戦の迎撃を逃れた敵機はこれと定めた艦に対して突入を試みますが、猛烈な対空砲火に遮られ、あるものは撃墜され、あるものは恐れを為したか遠方で爆弾、魚雷を投下していきます。
南雲機動部隊の各艦に命中した爆弾・魚雷はなく、機銃掃射や至近弾による被害が若干生じた程度でした。
しかし断続的に続いた敵機の攻撃により、友永攻撃隊の収容作業と第二次攻撃隊の発艦準備作業は手酷く妨害されていたのです。
南雲機動部隊を襲ったのは航空機だけではありません。
6時10分、「赤城」を直衛していた四駆の司令駆逐艦である「嵐」が敵潜水艦を発見、爆雷による制圧を報じています。
これにより、ただでさえ空襲の見張で張り詰めている神経が、今度は海中からの敵に対する警戒にも振り向けられることになりました。
見張員たちの神経の磨耗には尋常ならざるものがあったと容易に推し量ることが出来ます。
一方で、空襲の最中の4時28分、索敵に放っていた利根4号機(甘利機)が敵艦隊発見を報じて来ました。
更に5時20分には、空母を発見したとの報告も入ります。
南雲機動部隊は米空母を撃滅すべく、対地兵装で待機していた第二次攻撃隊を対艦兵装に改めようとします。
続いて、断続的に帰投してきた友永隊の収容作業も重なりました。
既に述べた通り、断続的に続いた敵機の攻撃は、これら南雲機動部隊の攻撃準備作業や発着艦作業を大幅に遅滞させていたのです。
加賀・蒼龍・赤城大火災ヲ生ズ(〇七五〇)
第二次攻撃隊の準備が急がれていた6時過ぎ、しばらく途絶えていた空襲が再開されました。
進攻してくるTBDデバステーター雷撃機隊を認めたのです。
これは「ホーネット」と「エンタープライズ」所属の雷撃機隊でしたが、零戦隊が取り付くと瞬く間にその大半が撃墜されてしまいました。
日本艦隊には損害なし。
続いて7時、「ヨークタウン」所属の雷撃機隊が珍しく護衛戦闘機を伴って来襲します。
「飛龍」を目指して突き進む彼らを零戦隊が阻止しようとしますが、5機に投下を成功させてしまいます。
しかし全て「飛龍」に回避され、結局何らの損害を与えることもありませんでした。
この際、「嵐」が撃墜された「ヨークタウン」所属雷撃機のパイロットを救助し、捕虜にしています。
「嵐」ではこの捕虜を尋問し多大な情報を得ることに成功、獲得した情報を長文の電文にして10時に各艦隊宛てに発信しています。
内容は、敵空母の数と艦名、陣容、行動、そして搭載機数と、極めて有益なものでした。
もっともその情報が生かされることはありませんでした。
なぜなら、7時24分。
「赤城」から上空直掩の零戦が飛び立とうとしたその時、見張員の絶叫が響き渡ったのです。
「急降下!」
7時23分「加賀」被弾、24分「赤城」被弾、25分「蒼龍」被弾。
公式にはこうなっています。
殊勲を挙げたのは「エンタープライズ」と「ヨークタウン」の急降下爆撃機隊でした。
そしてその瞬間を、周囲の護衛艦上にあった多くの乗組員が目撃しています。
しかし突然のことでどうすることも出来なかったという回想も共通しています。
次々と誘爆する弾薬、引火する艦載機の為、被弾した3隻の空母はあっと言う間に火炎に包まれてしまいました。
ちなみにこの攻撃にも「嵐」が関わって来ます。
「エンタープライズ」所属の艦爆隊は、潜水艦攻撃から帰ろうとしていた「嵐」を偶然発見、追跡したところ、日本空母を発見することが出来た、という有名な逸話です。
「嵐」の戦友会はこれを否定しています。
実際のところ、完全に信頼に足る情報が不足していることから、今更第三者がその正否を判定するのは困難でしょう。
本稿でも判断は避けます。
とにかく、3空母は被弾したのです。
3空母の被爆により、南雲機動部隊は混乱します。
それと同じように、この辺りから記録や関係者の記憶も錯綜してきます。
錯誤、そして様々な事情を完全に排除し、真実を見極めることは筆者には不可能です。
それをよく心得た上でこれから後は読み進めていって下さい。
南雲中将は、炎上した「赤城」での指揮を諦め、旗艦を「長良」に移すことにします。
「戦史叢書」によると移乗開始は7時46分、まず「野分」に移乗し、しかる後に「長良」へ移動、8時30分に中将旗を「長良」へ翻したとされていますが、実はここにも異論が存在しています。
草鹿参謀長は、近くの駆逐艦に移乗しようとしたが「長良」が近くに来たので直接移動した、と回想しています。
「風雲」艦長・吉田正義中佐(兵50期)は、「風雲」へ移乗してから「長良」へ移ったと回想しています。
また「嵐」乗組員の中には、「嵐」に移乗してから「長良」へ移ったのだと主張している人もいます。
「嵐」は南太平洋海戦時に南雲中将が将旗を移したことがあることから、その際の記憶と混同しているのだという説もあるので可能性はかなり低いとしても、残りの3つの説の真偽については判定し難いものがあります。
当の「野分」はと言えば、ミッドウェイ海戦当時の乗組員の残した手記が見当たらず、結局確認不能でした。
ただ、「谷風」生存者が残した手記に「特徴ある将旗を旗棹にたてて移動したのが印象的であった」とのエピソードがあったことを記しておきましょう。
話を元に戻します。
八戦隊司令官・阿部少将は、序列上、第一機動部隊の次席指揮官でした。
南雲中将が「赤城」から将旗を下ろしたのに気づいた阿部少将は、自分が指揮権を継承したと自覚、7時50分、それを艦隊内に示すと同時に連合艦隊に向けて第一機動部隊の状況を速報します。
阿部少将は、連合艦隊に対しては「加賀・蒼龍・赤城大火災ヲ生ズ」との内容の電文を打ち、二航戦司令官の山口少将に対しては「敵空母ヲ攻撃セヨ」と打電します。
しかし同時刻、入れ違いに山口少将から「全機今ヨリ発進敵空母ヲ撃滅セントス」との信号が、阿部少将の元に送られてきたのです。
阿部少将の電文に対し山口少将が返答するまで、多少の時間が必要です。
時間的に見ると山口少将は独断で攻撃命令を発したのではないかと言われています。
ともあれ、ここから「飛龍」の逆襲が始まったのです。
晝戰ヲ以テ敵ヲ撃滅セントス(〇九二五)
周知の通り、「飛龍」の逆襲は限定的ながらも結果を得ました。
小林隊と友永隊、二波にわたる攻撃隊を送り出し、大きな損害と引き換えに「ヨークタウン」を撃破することに成功したのです。
攻撃隊の活躍についてはいくつもの戦記に書かれており、特に友永雷撃隊の様子はよく知られています。
しかしながら、「飛龍」の行動が実は推測の域を出ない点については、皆さんあまり意識されたことがないと思います。
読者の皆さんは、お手元に合戦図をお持ちでしょうか。
戦史叢書、もしくは学研の歴史群像「ミッドウェー海戦」の付録などに付いてきていますので、お持ちでしたら参照して下さい。
「飛龍」の航跡が破線で描かれ、「飛龍(推定)」と書かれているはずです。
確かに「飛龍」は後に自沈し、航跡図などは残っていません。
艦橋火災の際に焼失したものと思われます。
しかし「飛龍」自身のログでなくても随伴艦のものを代用すれば良いのではないでしょうか。
それなのになぜ「飛龍」の航跡が「推定」なのでしょう。
旗艦変更後の南雲機動部隊1隻1隻の行動を検証しながら、その理由を考えてみましょう。
3空母被爆の後、「飛龍」が被爆現場を離れ独り突出し始めたことは確かなようです。
それが「突進」なのか、それとも残存機収容そして攻撃隊発艦のために風上に向かって走っていたのかは不明です。
但し当時の風向きから推して、風上に向かって航行していたとは少々考えにくいです。
理由は何であれ、「飛龍」は3空母被爆の現場から高速で走り去ろうとしていたのは間違いないでしょう。
「飛龍」が小林大尉率いる急降下爆撃機隊を発進せしめたのは8時少し前。
友永大尉率いる雷撃隊を発進せしめたのは10時半頃と言われています。
しかし空母以外の乗組員によるミッドウェイ海戦の回想を読む限り、この2隊のついては触れていません。
3空母が炎上している以上、「敵討ち」である小林隊や友永隊が発艦し編隊を組んでいる光景を目撃していれば、自ずと感想が漏れてしかるべきだと思うのです。
ですが残念ながらそういった回想はまだ見たことがありません。
少なくても小林隊の発艦は「利根」「筑摩」より認められているようなのですが。
南雲機動部隊の艦で行動をはっきり追えるのは、実は「長良」だけです。
「長良」は8時30分に南雲中将を迎え、やがて残存戦力を糾合して「飛龍」を追跡、合同したのは12時過ぎとされています。
南雲中将は「長良」に将旗を移すと、落ち込む士気を自ら鼓舞するように、威勢の良い命令文を矢継ぎ早に発しています。
「今ヨリ攻撃ニ行ク集レ」(〇八五三)
「敵ニ向フ集レ」(〇八五六)
この頃既に「飛龍」は小林隊を発進させ、二航戦司令官・山口少将は航空戦を継続する意志を明示していました。
南雲中将は更にこう続けます。
「晝戰ヲ以テ敵ヲ撃滅セントス」(〇九二五)
「間モナク會敵ヲ豫期ス」(〇九二五)
これらの命令は勇ましさと同時にやや空虚な感じを受けます。
しかし「長良」は艦隊を率い正しく「飛龍」を追及、合流するとこれを取り囲み護衛しています。
不運な被害を受けたものの南雲中将は未だ冷静さを失っておらず、その真意は航空戦を継続することであったと考えるべきでしょう。
話を戻しましょう。
「飛龍」を追っていないことがはっきりしている艦は、第四駆逐隊の4隻と第十七駆逐隊のうち2隻。
まず十七駆から見てみましょう。
「磯風」は「ヨークタウン」爆撃機隊の一機から至近弾を受け重油タンクに海水が混入、これにより全力発揮が不可能になっていました。
この至近弾により襲撃運動が不可能になったためか、その後は専ら搭乗員と「蒼龍」乗組員の救助とに従事します。
「濱風」は健全でしたが「磯風」と同じく「蒼龍」救援に従事しています。
次に四駆。
「嵐」「野分」は終始「赤城」の側にありました。
「萩風」「舞風」は同じく「加賀」の救援に当たっています。
彼女たち6隻のことは後述しますが、結論から言いますとこのままミッドウェイ海戦の表舞台から去っていきます。
「巻雲」
彼女にはこんなエピソードがあります。
燃えさかる「蒼龍」に覚悟して残る艦長・柳本柳作大佐(兵44期)を何とか退艦させようと、「巻雲」艦長・藤田勇中佐(兵50期)の助言で救助隊が赴いたというものです。
このエピソードが示す通り、当初被弾した「蒼龍」救援を主に担っていたのは「巻雲」だと言われています。
しばらくの間「巻雲」は「蒼龍」の傍らにありましたが、やがて「磯風」「濱風」の2隻がこれに代わりました。
「蒼龍」救援を交替した「巻雲」は南雲中将の新たな旗艦、そして己の属する第十戦隊の旗艦でもある「長良」の後を追ったと考えられます。
残る4隻、第十駆逐隊の「夕雲」「風雲」、そして第十七駆逐隊の「浦風」「谷風」ですが、これが問題です。
出所不明ですが「飛龍」側の証言らしきものとして、8時20分頃には2隻の駆逐艦が付いていた、というものがあります。
各駆逐艦はそれぞれ直衛する空母が割り当てられていたらしいので、「飛龍」に2隻程度の直衛艦が充当されていたとしても不思議ではありません。
真珠湾攻撃の帰途、ウェーキを空襲すべく分離した「飛龍」「蒼龍」の直衛に選ばれたのが「浦風」「谷風」の2隻であることから、艦隊編制が変わっても直衛艦であったと考えることもできます。
しかし「谷風」乗組員の手記にはこの点について特に言及した記述はありません。
「浦風」は海上に不時着した「飛龍」搭乗員を救助したというエピソードを持っています(拾われた「飛龍」搭乗員側の回想)が場所を特定できず。
「夕雲」については手記を発見できず手がかりなし。
「風雲」艦長・吉田中佐の手記には、進撃中の「飛龍」に随伴した話は出ていない。。。
淵田/奥宮の古典「ミッドウェー」には、旗艦変更後の「長良」に従う駆逐艦が5隻である、と記されています。
四駆4隻と十七駆「磯風」「濱風」を除き、「巻雲」が「蒼龍」救援を中止して「長良」に追従していれば確かに5隻になり、勘定は合います。
もし「ミッドウェー」の記述が正確であり、また推定艦名に間違いなければ、突出する「飛龍」に追従する護衛駆逐艦は1隻もいなかったということになります。
あるいは記載されている「5隻」という数が合っていたとしても、一度は「長良」を追跡して被爆現場を離れたが後に被爆空母救援のために舞い戻った艦があったとしたら、「飛龍」護衛駆逐艦はいたということになります。
一方、アメリカ側では11時45分、ヨークタウン機(アダムス機)の発した「飛龍」発見電が残されています。
それには「空母1、戦艦2、重巡3、駆逐4」という数字が記されています。
異説として「空母ヨークタウン」に「空母1、戦艦2、重巡2、駆逐4」の数字が挙げられており、駆逐艦の内訳を「風雲」「巻雲」「夕雲」の3隻と「長良」を誤認した1隻であると断定しています。
駆逐艦ではありませんが、第八戦隊と第三戦隊の行動についても触れておきましょう。
一般に、八戦隊の「利根」「筑摩」は「飛龍」を追尾した、とされています。
確かに追尾はしているのですが、この表現はあまり的確とは言えません。
なぜなら、「飛龍」の後をすぐに追い始めたのか、それとも南雲中将が移った「長良」と共に追尾したのか、判然としないからです。
普通であれば、次席指揮官たる阿部少将の座乗する「利根」は航空戦を指揮するためにすぐに「飛龍」を追った、と考えるべきでしょう。
しかしながらすぐに追尾したという証拠は発見できませんでした。
それどころか、「飛龍」に近接していそうにない気配すら認めることが出来ます。
八戦隊の「利根」「筑摩」が至近距離にあったことは、両艦の間でしばしば発光信号や旗旒信号による通信が交わされていたことから、間違いないものと思われます。
そして「利根」と「飛龍」の間の通信は、8時20分の発光信号による通信を最後に、10時20分頃まで専ら電波によって行なわれています。
また既述していますが、8時半頃の小林隊の発艦が「利根」の記録に残されています。
他方「利根」と「長良」の間の通信は、ほとんどが発光信号による通信であり、無線通信は稀なのです。
これら乏しい資料から推測するに、「利根」「筑摩」は、「飛龍」の小林隊発進時は「飛龍」の側にあったが、友永隊発進時には「飛龍」とは離れ「長良」と共にあったと考えられます。
いえ、小林隊発進時には「飛龍」の方がまだ3空母被爆現場からそう遠くない位置にあったと言うべきなのかも知れません。
三戦隊の「榛名」「霧島」についてはこれら手がかりがもっと少ないです。
彼女たちは八戦隊司令官の指揮下にあったので、特段の指示がなければ恐らく「利根」「筑摩」と同一海面にあったことでしょう。
数少ない三戦隊の消息を知る手がかりを挙げましょう。
「長良」に将旗を移した南雲中将が部隊を集結させ、敵艦隊に挑もうとした際の電文があります。
「部隊集結敵攻撃ニ向フ10S8S3S順針路一七〇度一二節〇八三〇」(「S」とは「戦隊」の略)
ここに三戦隊の序列が書かれており、各部隊はこれに従ったようですから、三戦隊は恐らく八戦隊の後方にあったと思われます。
また「飛龍」に追いついた「長良」以下の南雲艦隊本隊が、「飛龍」を護衛する際の隊形を指示する電文が残っています。
「3S8Sハソレゾレ飛龍ノ北西及ビ南東ニ就ケ」(一一四五)
この2つの電文を繋ぐと、三戦隊もまた「長良」と終始行動を共にしていたのだろうと想像できます。
「飛龍」の航跡がなぜ「推定」なのか。
前述のような状況から導き出した筆者の想像は、そう、突出する「飛龍」には護衛艦はいなかったかも知れない、ということです。
少なくても「利根」は同航してはいなかったのではないでしょうか。
下手をすると駆逐艦の1隻も続航していなかった可能性すらあります。
もちろん、「長良」から完全な視界外ではなかったでしょうが。。。
随分と歯切れの悪い憶測ですが、「飛龍」の破線の意味はこんなところだったのではなかったかと思います。
刺違戰法ヲ以テ敵ヲ撃滅セヨ(一五三〇)
激しく炎上、漂流する3隻の空母に対し、南雲中将は救援のために各空母に2隻ずつ、計6隻の駆逐艦を配します。
敵方に突出しつつあった山口少将は残る3空母の身を案じ、各空母に1隻ずつ救援用駆逐艦を手配するよう、八戦隊司令官阿部少将に無線で依頼しています。
しかし駆逐艦は小さく、万一の事態があった場合、1隻の駆逐艦に大人数の空母乗組員を収容しきれません。
よく言われるのが1隻あたりの収容人数は乗組員以外に500名ということです。
このことに思い当たったか、あるいは助言を受けたのか、山口少将はすぐ後になって「1空母あたり2隻」にして欲しいと改めて申し入れています。
結局南雲中将が残した駆逐艦は、以下の6隻。
「赤城」救援に当たったのは第四駆逐隊「嵐」「野分」
「加賀」救援に当たったのは第四駆逐隊「萩風」「舞風」
「蒼龍」救援に当たったのは第十七駆逐隊「磯風」「濱風」
そして彼女たちは、地獄を見たのです。
救援駆逐艦乗組員たちの手記の多くには、地獄の様相を呈する炎上空母の様子が描かれています。
彼女たち駆逐艦は、動力を失いポンプが動かなくなったために消火作業のはかどらない空母に出来るだけ近寄り、手押しポンプを譲渡したり駆逐艦から放水したりと、空母の保存に懸命の努力を払います。
しかし駆逐艦の背丈は低く、空母の特に「赤城」「加賀」の舷側は高く、火災のために次々と誘爆していく高角砲弾や機銃弾の破片、燃え落ちる塗料、火の粉などを頭上から浴びるという、救援する側にとっても非常に危険な作業でした。
保全作業の傍ら、火災に追われて逃げ場を失い海に飛び込む空母乗組員や、退去を命ぜられた搭乗員たちを助け上げていきます。
救助した乗組員の多くは、重度の火傷を負っていたと言います。
助け上げられた駆逐艦の上が人の焼ける臭いで充満していた、という証言も残っているほどです。
およそ文章で表現されることを許されるレベルではないのでしょう。
これら駆逐艦の行動がどれだけ困難であるか、火炎地獄から生還した空母乗組員たちは身を以て知っていました。
ですから駆逐艦たちは生き残ることの出来た空母乗組員たちから、後々まで感謝されています。
また、上空に残っていて燃料切れになってしまった零戦が、駆逐艦を目標に不時着することもありました。
駆逐艦はその都度停止し、カッターを下ろし、搭乗員たちを救助していきます。
しかし炎上する空母を前に冷静さを失っていた兵員も多く、それゆえ誤って味方機を撃墜してしまう悲劇も起きました。
中には不時着水を潔しとせず、駆逐艦に対して残る「飛龍」の方位を教えてくれと頼んでくる零戦もあったそうです。
希に撃墜された米軍機の搭乗員が浮いていることもあり、これを捕虜にする場合もあればそのまま拾わないでおく場合もあったようです。
駆逐艦たちの任務は救助・救援ばかりではありませんでした。
14時、いきなり「加賀」に向けて雷跡が走ったのです。
敵潜水艦の伏在海面にあったことは知っていたのですが、警戒駆逐艦はもはや対潜警戒どころではなく、米潜による雷撃は全くの不意打ちでした。
米潜「ノーチラス」の放った3本の魚雷のうち1本は遂に「加賀」船体を捕らえました。
しかし日本側にとって幸いなことにその魚雷は不発に終わり、頭部が脱落した魚雷は浮遊、海に落ちていた「加賀」乗組員がそれに跨るという危なっかしくも滑稽な場面が展開されています。
これに対して「加賀」を護衛していた「萩風」はその後1時間以上にわたり爆雷を投射して「ノーチラス」を制圧、「ノーチラス」に対して「加賀」を雷撃したという以上の名誉を与えることを許しませんでした。
この際、「巻雲」も米潜制圧に加わったとする資料もあります。
「巻雲」に関しては「蒼龍」「加賀」に関わるエピソードがある一方で、後述しますが「飛龍」にも深く関係しており、行動が特にはっきりしない艦です。
漂流する空母を見守る6隻の駆逐艦たちは、やがて「飛龍」の被爆炎上を知ります。
この電文のせいか、第四駆逐隊司令・有賀幸作大佐(兵45期)は麾下の6隻の駆逐艦に対してこんな電文を送るのです。
「各艦ハ今夜擔任母艦附近ニ在リテ敵潜水艦及機動部隊ニ對シ警戒ヲ嚴ニシ敵機動部隊来タラバ刺違戰法ヲ以テ敵ヲ撃滅セヨ」(一五三〇)
この電文に示された決意は嘘ではありませんでした。
24時頃、「赤城」を警戒中の駆逐艦隊は、西方から接近してくる艦影を認めます。
これに対し第四駆逐隊4隻は第五戦速で突撃を開始したのです。
やがて四駆は艦影を見失い再び「赤城」周辺に戻りますが、後の調査ではその艦影は夜戦に参戦せんと攻略部隊への合流を急いでいた二水戦だったようです。
この闘志溢れる電文を放った有賀大佐は、後に「大和」艦長に補され沖縄特攻作戦で「大和」と共に戦死します。
それではこれら6隻の活動を簡単に追ってみましょう。
蒼龍沈没セリ(一六一五)
まず「蒼龍」救援の任に当たった「磯風」「濱風」
彼女たちは第十七駆逐隊所属です。
重複しますがもう一度書いておきましょう。
「磯風」は米軍機の爆撃により至近弾を受け、全力発揮が不可能になっています。
そのせいか「磯風」は十七駆の僚艦「濱風」と共に残り、「蒼龍」の救援に当たっていました。
「蒼龍」は被爆空母の中で最もダメージが大きく、記録では7時45分、総員退去命令が下されていました。
8時12分、「筑摩」は救助用の短艇を1隻派出しています。
「筑摩」艦長・古村啓蔵大佐(兵45期)が「蒼龍」艦長・柳本大佐を惜しいと思い「筑摩」を「蒼龍」に近づけたとの証言が残っていますが、短艇派出の記録は状況的に古村大佐の回想と合致しています。
「筑摩」はその後「長良」を追及して短艇を残置して行きますが、後に「磯風」に乗員のみ収容されています。
被爆空母の側を離れてしまった南雲中将は、「蒼龍」の状況が分からず、「磯風」「濱風」に向けて「蒼龍」を護衛しつつ後退しろと命令を発しています。
しかし「蒼龍」は既に行動不能であり、とてもそのような状況ではありませんでした。
「磯風」「濱風」は附近にいる四駆司令・有賀大佐に対して採るべき行動を問い合わせます。
返ってきた答えは「蒼龍」附近にて警戒せよ、でした。
「磯風」「濱風」は退艦した「蒼龍」乗組員を救助しつつ、炎上しながら漂流する「蒼龍」の側に付き従っていたのです。
炎と黒煙を吐きつつ漂流する「蒼龍」を見守る2隻の乗組員の心中はどうだったのでしょうか。
突然「蒼龍」は大爆発を起こし、やがて静かに沈んで行きました。
時に16時15分。
「蒼龍」の最期を看取った「磯風」「濱風」は、附近にあって「赤城」「加賀」を警戒中の第四駆逐隊に合流すべく行動を開始したのです。
この時「濱風」の打った電文が「蒼龍」の最期を記録に残しています。
「蒼龍沈没セリ」(一六一五)
次に「加賀」救援を担った「萩風」「舞風」
彼女たちは第四駆逐隊所属でした。
荒れ狂う炎に身を任せる「加賀」に対しては全く手の施しようがなく、「萩風」「舞風」は1000メートル付近まで接近して、投げ出された乗組員たちを拾っていきました。
惰性で進む「加賀」の航跡には、3000メートルにもわたって「加賀」乗組員の頭が点々と浮かんでいたと言います。
「加賀」の火災は船体を引き裂き、ペンキをすら燃やすほどの勢いで、「加賀」乗組員は長大な船体の前後のわずかな部分に集まって灼熱の炎を避けていました。
被弾の際に艦長・岡田次作大佐(兵42期)を始め首脳部を失った「加賀」は、生き残った飛行長・天谷中佐が先任士官として指揮を執っていました。
10時25分頃、「萩風」は「加賀」から御真影と軍艦旗の奉遷を受け入れています。
「加賀」では延焼を食い止めることが出来ず、遂に14時頃、総員退去が下令されました。
ちょうどその頃に、先に述べた「ノーチラス」による「加賀」雷撃が発生しました。
「萩風」は救助活動と米潜の制圧とを並行して行なったと言います。
天谷飛行長はかなり早い段階で「萩風」が拾い上げていました。
また時刻は不明ですが「舞風」では山本長官より平文で加賀曳航の可否について問い合わせを受けたという証言も残っています。
無論、出来る相談ではありませんでした。
やがて16時25分、ガソリン庫か弾薬庫に引火したらしい「加賀」は大爆発を起こし、急速に傾斜を増し横転、海面から姿を消したのです。
記録によると16時26分。
「加賀」の沈没を認めた「萩風」「舞風」は、まだ燃えている「赤城」の側にある「嵐」「野分」を探し求めその場を立ち去りました。
傾斜を増す「加賀」の機銃甲板に手を振る者があった、「萩風」乗組員の数人がそれを確認したと言います。
「赤城」に付き従ったのは「嵐」「野分」
「嵐」は第四駆逐隊の司令駆逐艦でした。
他の2隻と異なり、艦長・青木泰二郎大佐(兵41期)以下首脳部は健在で被弾数も少なかった「赤城」は、しばらくの間は自力航行が可能でした。
しかし火勢は強く、まず7時46分に南雲中将以下の機動部隊司令部が「赤城」を退艦、ついで8時30分頃、「赤城」艦長・青木大佐は負傷者と搭乗員の退艦を命じました。
「嵐」「野分」はこれら退艦者を受け入れています(機動部隊司令部要員は受入艦不明)。
操舵は不自由になったものの辛うじて機関が健在だった「赤城」ですが延焼は止まらず、10時38分、青木大佐は御真影を「野分」に奉遷。
そのすぐ後の10時50分、遂に機関が停止してしまいました。
「嵐」「野分」は重傷者と搭乗員の移乗を13時には完了しています。
その間進展する「飛龍」による航空戦を無電で傍受しつつ、「嵐」「野分」は「赤城」の状況を食い入るように見つめていました。
錨甲板上には青木大佐が健在で、消火の指揮を執っています。
ですがやはりポンプが動かなくなっていた「赤城」の消火能力は弱く、延焼を食い止めるには燃えるものが無くなるまで待つという他ない状況でした。
16時20分、青木大佐はやむなく総員退去と「赤城」放棄を決意し、その旨を南雲中将に伝えています。
この電文は残っていませんが、恐らく「野分」を介して発信したのではないかと思われます。
17時、「赤城」乗組員が退艦を開始。
「嵐」「野分」はその受け入れに努めました。
恐らくこの頃には既に「磯風」「濱風」と「萩風」「舞風」が「赤城」周辺に集結していたと思われますが、「赤城」乗組員救助に従事したという記録は特にありません。
他の4隻は既に「蒼龍」「加賀」の生存者を満載しており、「赤城」乗組員を収容する余裕がなかったものと思われます。
「嵐」「野分」が「赤城」乗組員を収容し終わるのは、記録では19時半となっています。
最後の収容者は青木大佐でした。
最初は艦と共に沈む覚悟で「赤城」錨甲板の柱に自らの身体を固縛していた青木大佐は、しかし山本長官の「赤城処分待テ」という電文によって、とにかく夜戦の趨勢が決するまで処分はないし沈没する気配もないと「赤城」乗組員に説得されたらしく、やがて「嵐」に移されてきました。
中には四駆司令の有賀大佐が直接出向いて青木大佐を説得したとする証言もありますが、さすがにこれはなかったようです。
日付が変わっても「赤城」は浮いていました。
しかし既にミッドウェイ作戦の中止命令は下されており、翌朝になれば米機動部隊の追撃が必至の状況で、1時50分には山本長官から「赤城」の処分命令が出されていたのです。
「赤城」の処分には第四駆逐隊の4隻が当たることになりました。
この時点で「磯風」「濱風」がそれを見守っていたかどうかは定かではありません。
第四駆逐隊の側にも「磯風」「濱風」に関する記述はなく、また「磯風」「濱風」の方も「赤城」の最期に関する記述はありません。
あるいは機動部隊本隊に合流すべく、先行していた可能性もあります。
「戦史叢書」には各駆逐艦はバラバラに本隊を追及していたと注意書きがされており、その可能性を示唆しています。
「赤城」「加賀」の生存者を上甲板に溢れるばかりに収容している四駆の4隻の駆逐艦が、生存者たちの目の前で発射管を旋回させます。
そして「嵐」「野分」「萩風」「舞風」の順番で「赤城」の右舷2000メートルの射点へ進入、酸素魚雷を発射したのです。
各艦1本。
この時「赤城」に命中した魚雷は2本とも3本とも言われています。
「嵐」「萩風」の魚雷が命中したのは確認されています。
「野分」の魚雷は爆発しなかった可能性が高いようです。
「舞風」は発射したかどうか不明ですが、3本命中であれば「舞風」の魚雷も「赤城」を介錯したものと判断して良いでしょう。
第四駆逐隊の魚雷を受けた「赤城」は20分ほどをかけてじりじりと沈下し、やがて艦首を高々と上げて駆逐艦たちの目の届かないところへと隠れて行きました。
6月6日午前2時のことだとされています。
水没5〜7分後「赤城」は水中で大爆発を起こし、駆逐艦は激震を感じたと言います。
「蒼龍」「加賀」の最期を見届け、そして今「赤城」を葬った駆逐隊は、「長良」率いる機動部隊本隊と合流すべく舳先を返したのです。
反轉セヨ我反轉ス(二二一二)
14時03分、「飛龍」被爆。
「飛龍」は被爆したとは言え操艦の自由は失っておらず、機関も健在で、依然30ノット近い高速発揮が可能でした(可能なだけであって、実際は第一戦速を超える速度は出していないものと認められる)。
しかし飛行甲板は完全に破壊され、格納庫内の魚雷や爆弾は誘発、なお火災は延焼中であり、当然ながらこれ以上の航空戦の継続など夢物語です。
ここに南雲機動部隊の誇った4隻の母艦航空戦力は壊滅を見たのです。
その時「飛龍」の周囲にあったのは「利根」「筑摩」「霧島」「榛名」、そして「長良」、ここまでは確実です。
「長良」率いる十戦隊隷下の駆逐艦ですが、恐らく十駆「風雲」「巻雲」「夕雲」、そして十七駆「浦風」「谷風」の5隻であろうと思われます。
戦闘不能になった「飛龍」ですが15時43分に日没を迎え、米空母による追撃はしばらくの間ないはずです。
消火能力を失っていた「飛龍」は火勢を弱めるために高速航行をやめ、停止します。
この際、停止した「飛龍」に付近の駆逐艦が放水を開始、消火に協力しています。
但し、この後の「飛龍」と南雲艦隊の動向がよく把握できません。
本稿の中でも最も不明確な部分であることをお断りしておきます。
不明確であることとは、南雲機動部隊が「飛龍」を残して夜戦を挑もうとしたのかも知れない、という一点です。
日没を迎えた後暫くの間、「飛龍」周囲の駆逐艦は「飛龍」消火に協力しています。
三戦隊や八戦隊の艦は、昼間に索敵に出していた水偵を帰還させ揚収に当たっており、かなりの低速で行動していた様子です。
17時に「筑摩」が二号機を揚収していることが記録されており、少なくてもこの時間までは南雲機動部隊の各艦に大した動きはなかったものと考えられます。
従って飛行機の揚収に関係のない駆逐艦が「飛龍」支援に専念できた状況があったということは言えます。
駆逐艦による消火活動の一部には、ホースを駆逐艦から「飛龍」甲板上に上げ駆逐艦側がポンプを回して放水する、という形式もあったようです。
「飛龍」は多くの消火ポンプの動力に電力を用いていたとのことで、電力の供給が止まった「飛龍」の消化能力は著しく落ちていた模様です。
この際「飛龍」消火に協力した駆逐艦は4隻であるとされています。
南雲中将の手元にあった駆逐艦は5隻であると思われますが、「飛龍」消火に加わっていないとされる艦名は残念ながら全く不明です。
「軍艦飛龍戦闘詳報」には19時05分に「風雲」が左舷から、19時45分には「谷風」が右舷から、それぞれ「飛龍」の消火に協力したと記録されています。
「風雲」艦長・吉田中佐も回想の中でこれを認めています。
「風雲」は「飛龍」に対して500メートルから1000メートルの距離で併走しつつ、消火活動に従事していたとのことです。
なお19時45分頃、火災の激しくなった「飛龍」は御真影を「風雲」に奉遷したと記録しています。
この他「筑摩」が自分の消防蛇管を「夕雲」に渡そうと試みていることが記録から読みとることが出来ます。
20時20分過ぎに「夕雲」に消防蛇管が渡ったようですが、それが「飛龍」に手渡されたかどうかは不明です。
これら駆逐艦の支援活動が功を奏したのか、「飛龍」の火災は一時下火になったとされています。
また前後関係が今ひとつはっきりしませんが、「飛龍」艦長・加來止男大佐(兵42期)は火災が鎮火しつつあると判断したのか、協力している駆逐艦に対して礼を述べ消火活動を中止させたようです。
この後、21時頃と言われていますが、「飛龍」で再度誘爆が発生、機関室との連絡が取れなくなったことも相まって、23時30分、加來大佐は「飛龍」の放棄を決断したのです。
さて時間軸が錯綜しますが、日没後の17時30分頃、第八戦隊の「利根」「筑摩」は夜戦を開始しています。
号令上のことですが、どうやら水平線上に浮かぶ雲を敵艦と見間違え、これに対する行動のようです。
雲の誤認であることが判明するまでの15分間、「利根」「筑摩」は正しく夜戦を戦っていました。
恐らく十戦隊麾下の駆逐艦もこれに随伴したのではないかと思われますが、特に記述はありません。
また時間が下って21時、攻略部隊を率いる近藤信竹中将(兵35期)は南雲中将に対し、夜戦命令を下しています。
これを受けたのか、南雲中将は機動部隊内に対して21時30分、翌朝敵機動部隊に向かうという意味の信号を発しています。
そして第十戦隊を先頭にし、三戦隊、八戦隊の序列を麾下部隊に伝え、行動を開始します。
これは翌日の昼戦を狙った行動のようで、針路から察するに敵機動部隊の方角へ向かうつもりだったものと推定されます。
ですが近藤中将の夜戦命令の直後の21時15分、山本長官は攻略部隊と機動部隊に対して主隊への合同を発令していました。
この信号を受信していた八戦隊は南雲中将の行動に驚き、慌てて「長良」に対して山本長官の合同命令を転送しようとしたそうです。
しかしその信号を転送する前に、「長良」より発光信号が発せられたのです。
「反轉セヨ我反轉ス」(二二一二)
南雲中将のミッドウェイ海戦の、事実上の終息を告げる信号文でした。
さて、南雲機動部隊が「飛龍」を残して「夜戦を行なおう」とした気配は、上記の2回のみにしか感じ取れませんでした。
従って上記のどちらかの際に「飛龍」を単艦残し、戦闘行動に移った可能性が高いです。
どちらにしても、よく言われる南雲中将が夜戦をしたがったという逸話に対する、良い回答例と思われます。
この時点において南雲中将の手駒は、「飛龍」を捨てたとしても「長良」「利根」「筑摩」「榛名」「霧島」、そして「浦風」「谷風」「夕雲」「巻雲」「風雲」しかなかったのです。
「長良」の持つ水上偵察機は依然としてその艦上にあり、触接機の全てを収容したので敵機動部隊の詳細な位置は不明、これで夜戦を挑むとなった場合、南雲中将は5隻の駆逐艦を掃航させる必要があるために、手元には襲撃用の駆逐艦がいないという事態を招くわけです。
これでは有効な水雷戦が実現できようはずもなく、水雷の権威である南雲中将こそその駒数の不足を最も痛感していたのではないでしょうか。
従って、3空母救援に駆逐艦6隻を残した時点で、南雲中将は動的に対する夜戦を行なう可能性が物理的に消えたと考えていた可能性が高いのではないでしょうか。
南雲中将は、夜戦をしたくとも行えない立場にあった、と言えるのです。
話が横道に逸れました。
「飛龍」消火活動に協力していた駆逐艦が、夜戦のために一度「飛龍」を離れたことは、恐らく間違いないのではないかと思われます。
そしてそれは上記の2回のうちのどちらかでしょう。
ミッドウェイ海戦についての回想にある時間が全て錯綜しているため、整合性のある説明はなかなか困難です。
南雲中将の旗艦「長良」の姿が「飛龍」側乗組員の回想などから消えていることなどからして、恐らく2回目、敵機動部隊への接触を試みた際ではないかと筆者は考えます。
そして海戦を諦めた南雲機動部隊は、山本長官の命令に従い「飛龍」警戒艦を残置、主隊に合同すべく針路を改めたのです。
只今ヨリ謹デ雷撃撃沈ス(時刻不明)
孤立した「飛龍」の元に再び援軍が現れます。
はっきり艦名が残っているのは、「風雲」「巻雲」の2隻のみ。
南雲機動部隊の駆逐艦は、今やばらばらに分離してしまいました。
「赤城」の傍らに佇む、「嵐」「野分」「萩風」「舞風」「磯風」「濱風」の6隻。
「飛龍」の消火に向かわんとする、「風雲」「巻雲」の2隻。
海戦の埒外に置かれてしまった「秋雲」
そして失意の南雲中将に付き従う、「浦風」「谷風」「夕雲」の3隻。
誰がこのような結末を想像し得たでしょうか。
22時、必死の消火活動も空しく、火災の延焼を止められなかった「飛龍」は、遂に機関科との連絡が絶たれてしまいました。
どんなに火災を起こしていても機関さえ無事であれば本土に回航できる、最後の希望であった機関科との連絡が絶たれたのです。
22時20分、「飛龍」は機関科指揮所総員戦死、と判断します。
そしてこの報告を以て、艦長・加來大佐は総員退去を決断したと言われています。
集合ラッパ、そして艦内に散る伝令たち。
23時30分、生き残っていた乗組員たちが飛行甲板に集合しました。
しかしその中に機関科員の姿はほとんどありませんでした。
「飛龍」より「風雲」「巻雲」に発光信号。
各艦適宜の位置にて乗員救助の短艇を送られたし。
その後、飛行甲板上では加來大佐、続いて山口少将の訓示が行なわれました。
その夜は月が美しかったと言います。
「巻雲」「風雲」の2隻は、要請を受けた短艇を下ろし、また「風雲」は「飛龍」の左舷に横付けを試みました。
しかしここでちょっとしたハプニングが起こりました。
「風雲」は艦首だけをつけるつもりであったのに、艦尾から投げたロープが引っ張られ、「飛龍」に全く横付けする形になってしまったと言うのです。
頭上から「飛龍」の飛行甲板に押さえつけられた「風雲」はマスト折損、測距儀も破壊されてしまったと言います。
日が明けて6月6日0時15分。
総員退去が下令された「飛龍」から、生存者が2隻の駆逐艦に続々と乗り移ってきます。
恐らくこの時分でしょう、十駆司令駆逐艦である「風雲」から南雲中将に対して「飛龍ハ總員退去シツゝアリ」との電文が発信されたのです。
全員の収容が終了したのが、1時30分。
日出が近くなり、空はかなり白んでいました。
退艦してきた「飛龍」副長・鹿江隆中佐(兵48期)は、山口司令官からの伝言を携えていました。
それは「飛龍」の処分命令でした。
十駆司令・阿部俊雄大佐(兵46期)は、「巻雲」に対して「飛龍」の雷撃処分を命じます。
「巻雲」は「飛龍」の右舷1000メートルの位置に移動します。
信号兵が「飛龍」に対し、こんな手旗信号を繰り返していたと伝えられています。
「只今ヨリ謹デ雷撃撃沈ス」
2時10分、「巻雲」、魚雷発射。2本。
1本目は爆発しませんでした。
2本目が「飛龍」の船体に命中し、炸裂しました。
その様子は、索敵に出てたまたま上空を通り過ぎようとしていた筑摩4号機(福岡機)から視認されています。
「風雲」「巻雲」の2隻は沈没確実と判定し、「飛龍」を残して高速でその場を立ち去りました。
遠ざかる「飛龍」の影。
その艦尾付近のマストから手を振る人影があるのを「風雲」「巻雲」艦上の「飛龍」乗組員たちが確認しています。
これを認めた鹿江中佐は、引き返して収容するように進言したとも言われていますが、結局それは実行されませんでした。
彼らの多くが山口少将と加來大佐のお別れの挨拶であろうと言い合っていたそうです。
しかしそれは、山口少将と加來大佐の手によるものではありませんでした。
駆逐艦はそんな「飛龍」に対して、発光信号にてお別れの言葉を投げ続けていたようです。
飛龍ノ生存者ヲ救難セヨ(時刻不明)
この手旗信号を受け取ったとされる駆逐艦は「谷風」
第十七駆逐隊司令・北村昌幸大佐(兵45期)の座乗する司令駆逐艦でした。
「飛龍」は第十駆逐隊の「風雲」「巻雲」が魚雷によって処分したはずでした。
しかし6日4時頃、「鳳翔」の放った九六艦攻がまだ海上にある「飛龍」と、その飛行甲板上で手を振る人影を発見したのです。
それは、艦底の缶室に閉じこめられ総員退去後にようやく飛行甲板に脱出を遂げた機関科員たちを中心とする、11名の生存者でした。
「飛龍」を雷撃し高速で走り去る「風雲」「巻雲」が「飛龍」艦上に見た人影は、実は彼らだったのです。
九六艦攻の「飛龍」発見の報はすぐさま山本長官の元に送られました。
連合艦隊司令部ではこの情報を重視し、「飛龍」処分を担当した十駆司令・阿部大佐に対して確認の電文を送ります。
阿部大佐はこれに対し、(魚雷は当てたのだから)沈没は確実のため確認不要、と返答したとされています。
この結果、十七駆の「谷風」と「長良」の水偵が「飛龍」救難の為に分派されることになったわけですが、その発令者について複数の説があります。
通説は、前述のやりとりを聞いた南雲中将が「谷風」に「飛龍」捜索を命じたとしています。
一方「谷風」の乗組員の回想には、「大和」から手旗信号にて命じられた、とあります。
この時点で南雲機動部隊は、未だ主隊に合同していないとされています。
かなり近距離に近づいてはいたもののその距離は依然約40浬近くあり、それが本当であれば手旗信号による通信可能域ではありません。
どちらが本当なのか、あるいはどちらも本当なのかも知れませんが、「谷風」は「飛龍」の捜索に向かったのです。
「安全ナ航海ト健闘ヲ祈ル」
「谷風」に対し、「長良」はこんな信号を送ったと伝えられています。
一方、前日にナグモ・タスク・フォースの空母4隻を撃破した米機動部隊は、6日朝に発見した「炎上する空母」1隻に対してとどめを刺さんと、日本艦隊を追撃していました。
そして撃破された「ヨークタウン」を除く「エンタープライズ」と「ホーネット」より15時、合計58機のドーントレスを放ったのです。
更にミッドウェイに展開する米陸軍航空隊に所属するB17・12機も、この「炎上する空母」を探し求めてミッドウェイの滑走路を蹴っていました。
「炎上する空母」とは「飛龍」のことでした。
一説によると、南雲機動部隊の駆逐艦のうち最も燃料残額が豊富だったことが、「谷風」の「飛龍」捜索受命の理由とも言われています。
それでも「谷風」はこの時点までに、満載約600tのうち半額弱を消費してしまっていました。
「谷風」の向かう方角は、「飛龍」と米機動部隊が控えているであろう方角でした。
米機動部隊は、恐らく追撃をかけてくるでしょう。
既に夜は明け、昨日南雲機動部隊を悩ませた艦爆隊が跳梁する時間帯です。
単艦、「飛龍」の捜索に向かう「谷風」の乗組員たちの心境はどのようなものだったのでしょうか。
鳳翔機の伝える地点まで、「谷風」はひた走ります。
何時間走ったかについては、特に記録されてはいません。
「飛龍」沈没地点から見て、「谷風」の走った時間はそれほど長かったわけではないでしょう。
「谷風」は鳳翔機の伝えた「飛龍」漂流地点にたどり着きました。
しかし「谷風」見張員たちは、その目に「飛龍」の姿を捕らえることは出来ませんでした。
「飛龍」は既に沈没してしまっていたのです。
「飛龍」艦上の生存者たちは、鳳翔機による発見の後更に増え、70名前後になっていました。
内30数名は後に米軍に発見され捕虜となりましたが、敗戦後生きて祖国の地を踏むことが出来ました。
そして彼らの口から、「飛龍」の最期の様子が語られたのです。
「飛龍」は鳳翔機に発見された午前4時前後でもまだ沈む様子がありませんでしたが、その後緩慢に沈没の時を迎え、艦首からゆっくり沈んでいったそうです。
生存者のうち数名は腕時計をしていました。
沈み行く「飛龍」から海に飛び込んだ際に腕時計は止まってしまいましたが、その時刻は6時10分内外を指していたそうです。
これらのことから、「飛龍」沈没時間は6時過ぎ頃とされています。
なお「飛龍」沈没後に生存者たちが漂流に用いた短艇は、「風雲」が残していったものと思われます。
しかし彼らは、捜索に来たはずの「谷風」や捜索の水偵を覚えてはいません。
我敵機ト交戦中(時刻不明)
それが往路だったか復路だったか、意見が分かれています。
「戦藻録」を情報源とする一連の書籍は往路説、「谷風」乗組員の回想は復路説を主張しています。
「飛龍」の影を発見することが出来なかった「谷風」は、仕方なく南雲機動部隊の方へと踵を返します。
既に夕暮れ時でした。
ちょうどその時、「谷風」の見張員が右舷後方に敵機を発見したのです。
まず最初に「谷風」を襲ったのは、「エンタープライズ」を発したドーントレス急降下爆撃機32機でした。
戦闘時間約30分。
次に、ミッドウェーからやってきたB17、6機が「谷風」の上空に進入します。
更にもう1波、同じくB17の別働隊6機が「谷風」に爆弾の雨を降らせます。
B17との戦闘時間は約2時間と回想されています。
そして最後に「ホーネット」のドーントレス、26機が「谷風」に向けて急降下を試みたのです。
この戦闘も約30分とされています。
以上は、ある「谷風」乗組員の手記に従った記述です。
実は「谷風」の対空戦闘についてはいくつかはっきりしない点が存在します。
最初に述べた「谷風」が爆撃を受けたのは「飛龍」探索行の往路か復路かという論点もありますし、「谷風」を襲った米軍機についても、機数、回数、順番などが立場により主張が異なっているのです。
筆者の参考にしたアメリカ側の史書には戦闘についての詳細な記述がなく、「エンタープライズ」隊と「ホーネット」隊が同時に「谷風」を攻撃したのではないかと思われる記述がありますし、攻撃隊の母艦への帰投についても両隊で異なるとは描いていません。またB17については機数すら判然としていません。
また「第一航空艦隊戦闘詳報」には、13時36分に爆撃機(B17)4機、15時07分に艦爆26、15時45分に艦爆6機と記されています。但しこれについては数えたもののみを記録していますので、もともと正確性は期待されていないでしょう。
この海空戦について、どの記録が正しいのか、乏しい証言記録からは判別がつきません。
しかし結果だけははっきりしています。
ドーントレスによる投弾は、500ポンド爆弾が機数と同じ58発。
B17の投下した爆弾は、弾種が複数ありますが合計で79発。
全部で137発の爆弾が「谷風」に集中したとされていますが、この中で「谷風」に実質的な被害を与えたものは1発の至近弾のみでした。
「谷風」は艦長・勝見基中佐(兵49期)の操艦により、投下された全弾を回避しきったのです。
残念ながら至近弾の弾片が2番砲に飛び込み装薬が引火、砲員6名戦死の損害を受けたものの、その他には大きな被害を受けることはなかったのです。
「谷風」は主砲弾を一発残らず撃ちつくし最後は演習弾まで撃つという応戦ぶりで、25ミリ機銃、13ミリ機銃とともに群がり来る米軍機に対して火線を送り続けたそうです。
戦果そのものはあまり芳しいものではありませんが、「谷風」の機銃弾は「ホーネット」隊の1機を捕らえ、これを海中に放り込んでいます。
この「谷風」の演じた美技に対しては米側の評価者も惜しみない賛辞を贈っており、勝見中佐の名と共に多くの書に記録されています。
当の「谷風」では、乗組員たちが長時間に及ぶ対空戦闘に疲れきってしまい、勝見中佐はそんな乗組員全員に対してサイダーのご馳走を以て労ったとの回想が残っています。
「谷風」は「我敵機ト交戦中」と報告した後、空襲でアンテナが損傷したらしく、空襲終了後もその無事を伝えられないでいました。
ですからその時、その生存の喜びは「谷風」乗組員たちだけのものだったのです。
「谷風」は南雲機動部隊を追って独り、暗闇の中を高速で走り続けます。
南雲機動部隊はこの頃既に主隊、攻略部隊と合同していました。
「谷風」の針路上にあったその大艦隊は、洋上の只中で停止していました。
沈没した空母の生存者を、駆逐艦から戦艦などに移乗させていたのです。
空母の生存者たちの中には、火傷を中心とする重傷者も多く含まれていました。
医療施設も医薬品も治療の出来る者も少ない駆逐艦では、彼らに十分な治療を施すことができませんでした。
艦も狭いので生存者は狭い艦内に溢れ、予備物品も少ないため彼らに新しい服すらも満足に支給してやれませんでした。
巨大な戦艦ならばこれらの問題を解決できるので、特に四駆司令・有賀大佐が移乗を強く具申したとも伝えられています。
生存者の戦艦への移乗は認められ、日本艦隊は夕刻米機動部隊の追撃を気にかけつつも航進を停止、駆逐艦から戦艦に生存者を移すことにしたのです。
「嵐」「野分」から「榛名」へ、「萩風」「舞風」から「長門」へ、「風雲」から「霧島」へ、「巻雲」から「陸奥」へ、そして「濱風」は「山城」へ、「磯風」は甲標的母艦「千代田」へ。
当日はうねりが大きく、短艇による移乗には大変苦労したと言います。
「谷風」が知る由もありませんでしたが、「谷風」の死闘はこの移乗作業を間接的に助けたことになったと評価されています。
もしドーントレスが「谷風」を攻撃せずにそのまま進攻していたら、主隊や南雲機動部隊は移乗作業中に攻撃を受けていた可能性もあると言われているからです。
帰国
南雲機動部隊の戦は終わりました。
本稿の結びに、南雲機動部隊の各駆逐艦のその後を簡単に書き留めましょう。
第十駆逐隊、「秋雲」「夕雲」「巻雲」「風雲」
補給部隊の護衛に任じていた「秋雲」
彼女の南雲機動部隊への合流は、恐らく7日朝でしょう。
補給部隊は敵空襲圏のすぐ外側にて補給の準備をするように、山本長官より指示を受けていました。
ただ1隻、補給部隊の船団を護衛していた「秋雲」は、再び合流した南雲機動部隊の陣容を見てどう思ったのでしょう。
再び4隻が揃った第十駆逐隊は、生存者の移乗と燃料補給を終えた9日北方部隊に編入され、三戦隊第一小隊「金剛」「比叡」、八戦隊「利根」「筑摩」、水上機母艦「神川丸」と共にアリューシャン方面に行動しました。
彼女たちは特に大きな戦闘を見ることもなく、6月24日に大湊に無事帰投を果たしています。
第四駆逐隊、「萩風」「舞風」「野分」「嵐」
彼女たちは救助した生存者の移乗と燃料補給を済ますと、第十駆逐隊と同様6月9日に北方部隊に編入されました。
四駆の4隻は「瑞鳳」を直衛しアリューシャン方面に向かったのです。
6月14日には「龍驤」「隼鷹」を基幹とする第二機動部隊に合流、小隊毎に6月20日まで同方面にて行動しました。
同方面では濃霧、激浪の中での作戦行動が多かったと言います。
内地への帰投は6月24日。
彼女たちも大湊に錨を投げ入れたのです。
そして第十七駆逐隊、「谷風」「浦風」「濱風」「磯風」
「谷風」が南雲機動部隊に合流できたのは7日早朝。
丸2日間高速を発揮し続けた「谷風」の重油タンクは、かなり危機的な状況を迎えていました。
既に述べましたが、「谷風」は空襲でアンテナが損傷したらしく、その無事を伝えられないでいました。
旗艦「長良」をはじめ「谷風交戦中」の通信を傍受した艦のほとんどが、「谷風」が撃沈されたと考えていたようです。
何とかアンテナの修理を終えた「谷風」からの電文を受け取ると「長良」はその生存に非常に驚いた様子でした。
が、すぐさま油槽船「日本丸」から補給を受けるように指示を下し、「谷風」は重油の補給を受けることが出来たのです。
そして、至近弾で傷だらけになっていた「谷風」は「長良」より内地回航の指示が与えられ、単艦帰国の途に就きました。
呉帰着、6月13日。
「磯風」もまた損傷を受けていたため、その後の戦闘行動は断念せざるを得ませんでした。
救助した「蒼龍」生存者を移乗させた後、単艦で内地に帰投するよう指示を受けています。
「谷風」と同じく帰投地は呉。6月13日。
特に記述はありませんが、あるいは「谷風」と共に帰投している可能性もあります。
「浦風」「濱風」
第一航空艦隊司令長官である南雲中将は7日昼ごろ、内地に残る「瑞鶴」の急速出撃準備を命じます。
その指示電文の中で「浦風」「濱風」は「瑞鶴」護衛艦に指定されており、「瑞鶴」を迎えに行くことになっていました。
その後「瑞鶴」出撃命令は撤回されたため、「浦風」「濱風」は「長良」と共に6月14日、柱島に帰還しました。
振り返れば5月27日、南雲中将は3万6千トンにも及ぶ空母「赤城」に座乗し、燦たる栄光に輝く空母機動部隊を率いて出撃しました。
それが一月と経たないこの日、わずか5500トンの軽巡「長良」に将旗を掲げて帰国せざるを得ませんでした。
南雲中将の率いるは、「浦風」「濱風」、たった2隻の駆逐艦に過ぎなかったのです。
彼女たちの長い航海は終わりました。
5隻の空母を取り囲み、広島湾に堂々の凱旋を果たすことを約束されていた、南雲機動部隊の駆逐艦12隻。
彼女たちは数こそ欠けませんでしたが、しかしその帰国は、作戦前の確信を全く裏切る結果になってしまったのです。
目撃者たちは語ります。
自らの姿ではなく、共に凱旋するはずであった4隻の空母たちの最期を。
了
参考文献:
古村啓蔵回想録刊行会編 「海の武将」(原書房)
駆逐艦秋雲会編 「栄光の駆逐艦秋雲」(駆逐艦秋雲会)
佐藤和正著 「艦長たちの太平洋戦争〈続編〉」(光人社)
Walter Lord著 「逆転」(フジ出版社)
澤地久枝著 「記録 ミッドウェー海戦」(文藝春秋)
桂理平著 「空母瑞鳳の生涯」(霞出版社)
萬代久男著 「空母飛龍の追憶」(飛龍会)
萬代久男著 「空母飛龍の追憶・続編」(飛龍会)
Pat Frank/Joseph D. Harrington著 「空母ヨークタウン」(朝日ソノラマ)
井上理二著 「駆逐艦磯風と三人の特年兵」(光人社)
佐藤清夫著 「駆逐艦『野分』物語」(光人社)
真子平治著 「駆逐艦『浜風』栄光の航跡」(私家版)
倉橋友二郎著 「激闘駆逐艦隊」(朝日ソノラマ)
柴田正著 「死生の海から還った駆逐艦『谷風』」(日本植生株式会社)
曾爾章著 「重巡最上」(軍艦最上関係世話人会)
橋本敏男/田辺彌八ほか著 「証言ミッドウェー海戦」(光人社)
外山三郎著 「図説・太平洋戦争海戦史・2」(光人社)
防衛庁防衛研修所戦史室著 「戦史叢書 北東方面海軍作戦」(朝雲新聞社)
防衛庁防衛研修所戦史室著 「戦史叢書 ミッドウェー海戦」(朝雲新聞社)
戦艦霧島編纂委員会編 「戦艦霧島」(霧島会)
生出寿著 「戦艦『大和』最後の艦長」(光人社)
吉田俊雄著 「壮烈! 水雷戦隊」(秋田書店)
Samuel Eliot Morison著 「太平洋戦争アメリカ海軍作戦史・第四巻」(改造社)
阿部三郎著 「特攻大和艦隊」(霞出版社)
雑誌「丸」編集部編 「日本海軍艦艇写真集・17 駆逐艦初春型/白露型/朝潮型/陽炎型/夕雲型/島風」(光人社)
木俣滋郎著 「日本空母戦史」(図書出版社)
木俣滋郎著 「日本水雷戦史」(図書出版社)
碇義朗著 「飛龍天に在り」(光人社)
淵田美津雄/奥宮正武著 「ミッドウェー」(PHP研究所)
亀井宏著 「ミッドウェー戦記」(光人社)
Gordon W.Prange著 「ミッドウェーの奇跡」(原書房)
生出寿著 「烈将 山口多聞」(徳間書店)
草鹿龍之介著 「聯合艦隊」(毎日新聞社)
末国正雄/秦郁彦監修 「連合艦隊海空戦戦闘詳報」(アテネ書房)
歴史群像 太平洋戦史シリーズ「ミッドウェー海戦」(学研)
ご意見箱
もしお読みになられましたらば、お名前を記入していただいた上で、OKのボタンを押してください。ご面倒であればコメント欄への記入はいりません。ただ押していただくだけで結構です。あなたのワンクリックが、筆者が今後のテキストをおこしてゆく上でのモチベーションになります。
うまく送信できない方はこちらをご利用下さい→ jam@venus.dti.ne.jp
Back