北方見聞録
−冬のドイツ第五空中艦隊よもやま話−
文:まなかじ
ZUN01214@nifty.ne.jp
序
ときは昭和18年2月。
ドイツ駐在の我が陸海軍合同視察団はフィンランドへと向かった。
同盟国ドイツの空軍が、ラップランドの酷寒の中、なにをやってるかのぞきに行くのが目的の旅である。
なんと、ドイツ空軍の第一線部隊を視察に行くのは、今回が初めての試みだったのである。
西方電撃戦やらバトルオブブリテンやら、バルバロッサ作戦やら、はなばなしいドイツ空軍の大作戦がいくつもあったというのに、我が駐在武官どもは今の今までいったい何をしておったのか、とツッコミたくなるが、それはおいといて・・・。
視察団は、陸軍の大谷修少将を団長、同じく陸軍の小野打寛大佐を副長とし、三浦弘軍医中佐、花岡實業兵技中佐、小林茂航技少佐、海軍側からは豊田隈雄中佐、吉川春夫技術中佐、後に秋水計画で重要な役割を果たすことになる巌谷英一技術中佐、野間口光雄技術少佐の九名で編成された。
一見してわかるように、この視察行をより重視していたのは陸軍のほうである。むろんこれは満州という酷寒地でソ連軍と対峙しつつある陸軍としては当然といえよう。さて、それじゃ見にいくべ!、となって、航空省に1月上旬に申し込みに行ったのではあるが、そーか、やっとヤル気になったかと航空省では喜ばれたものの、それはちょっとくるところが違うのでありますことよ、とたらいまわしにされてしまった。
本当は、OHL(空軍総司令部)に話を持っていくべきだったのだ。
それでも、航空省側でOHLと話をつけてくれ、OHLは第Vルフトフロッテ(最近では第5航空軍と訳すことが多いが、以後原本の報告書にあるように「第五空中艦隊」と呼ぶ)司令部に調査団の受け入れと案内の段取りを命じたのである。
旅行日記
2月12日
予定不明のまま、ルフトハンザの定期便でベルリン発、レヴェリ泊。13日
ヘルシンキ着。ヘルシンキから夜行列車で発。車内泊。14日
オウル経由、ロヴァニエミ着。
ようやく着きました。15日
ロヴァニエミ飛行場視察、同飛行場駐留第五空中艦隊Ju87補充隊視察、陸軍第20軍司令部(エドゥアルト・ディートル山岳兵大将)訪問。
16日
ロヴァニエミ飛行場高射砲隊視察。アラクルチ飛行場(カンダラクシャ戦線後方20kmの前線基地)へ空路移動、アラクルチ飛行場視察。17日
アラクルチ飛行場在戦闘機隊(Bf109)、遠距離偵察隊(Ju88)、急降下爆撃機隊(Ju87)視察。陸軍第XXIV軍団第168歩兵師団前線視察。
18日
ケミヤルビ飛行場へ空路移動。ケミヤルビ飛行場視察。近距離偵察隊(Fw189)視察、駆逐機隊(Bf110)視察予定は、部隊がムルマンスクへ出動中のため果たさず。在フィンランド高射砲兵学校視察。ロヴァニエミへ空路戻る。
19日
フィンランド航空管区司令部(ロヴァニエミ)訪問。
20日
ケミ飛行場へ空路移動。ケミ飛行場視察、重爆撃機隊(He111)視察、第五空中艦隊司令部(ハンス・ユルゲン・シュトンプ空軍大将)訪問。21日
ヘルシンキへ空路移動するも、乗機のエンジン故障のためカウハバ飛行場(フィンランド空軍基本操縦学校)に不時着。夜行列車でヘルシンキへ。22日
ヘルシンキ着。
これがドイツの航空弁当だ
航空加給(Startverpflegung)
戦地に限らず、2時間以上の飛行、高度6000メートル以高の飛行、一日に6回以上の離陸、急降下爆撃(訓練)のいずれか1つ以上に該当する場合に、通常の給与に追加されるメニューである。
牛乳500cc、鶏卵1個、バター25g、白パン200g、ビスケット65g
語義からすれば『離陸加給』なのだろうが、航空加給と意訳しているようである。牛乳を半リットルも飲んでから急降下爆撃訓練に飛ぶのは危険なような気がする(笑
余談だが、筆者として最も乗りたくない乗り物は、急降下爆撃機の後席である。機上加給(Bordverpflegung)
すべての対敵飛行、または4時間以上の飛行に際し、機上に持ち込む給与で、これすなわち航空弁当である。
加温コーヒーまたは茶、チョコレート50g、デキストロエネルゲン50g、ドロップス30g、ビスケット100g
単座戦闘機などの場合、持ちこんでもそのまま持って帰ってきてしまうか、はじめから持っていかないことが多かったと思われる。
しかし、ノルウェーからアイスランドあたりまで飛ぶFw200の乗員にも、たったこれだけの弁当しかなかったのだろうか??
彼らの作戦飛行は10時間を越えるものだったはずなのだが…。
デキストロエネルゲンというのは耳慣れないが、デキストリンを主要成分とする栄養補給食品であろうと思われる…って、そのまんまやん!(汗
ということで、やたらと炭水化物に偏っているという印象である。冬季用落下傘付属キット(abspring ausrustung)
個人用落下傘に付属のサバイバルキットである。
敷布団(つまりマットレス)1枚、掛布団(というか、封筒型シュラフらしい)1枚、毛手袋1組、毛皮製大手套(ミトン)1組、毛製靴下1組、方位磁石1、斜光眼鏡1、肉缶詰1、タバコ、マッチ、標識用赤布、繃帯材料、共用辞書
もちろん、夏季用、熱帯地用も用意されているが、第五空中艦隊は持っていない。
これに加えて、全キットに共通の
降下加給(Notabsprangverpflegung)
ショカコラ錠、噛みゴム、ペルビチン錠、斜老軟膏
がある。
これは、とにかく気合を保つことだけを考えた内容である。
ショカコラとは要するにカフェインであり、某「エスタロンモカ」と同じである。
噛みゴムは、チューインガムを支給できないドイツの苦し紛れの暇つぶし用具で、つまるところ生ゴムの板である。
ペルビチンは、日本ではヒロポンと呼ばれていたものに他ならない。メタンフェタミン系の覚醒剤である。
斜老軟膏はよくわからないのであるが、打撲傷の薬であるらしい。大型機では
冬期不時着用給養(Winternotlandungsverpflegung)
を持っていく。
上記機上加給に加え、円匙(歩兵用シャベル)、斧、標識筒(発煙筒か)、雪上草履、コンロ及びベンチン、繃帯材料及び錠剤若干、色ハンカチ等土人(!)との交換用品、食糧(一人あたり四日分を角缶に詰める、パン、ビスケット、肉、乾燥スープ、圧搾コーヒー、茶、塩、砂糖、チョコレート、デキストロエネルゲン、タバコ等)といった資材を、搭乗人数分だけ、長さ1.5メートルの木製橇1基に積んで機内に搭載する。
これからすると、大型機の場合は乗員が散らばることを恐れてか、落下傘降下で脱出するよりも不時着することを基本にしていたことがわかる。
また、これでは洋上遭難には堪えられないが、そちらに関する記述はないのが残念である。
それでも、エンジンはかけられなくてはならない
ドイツ空軍は、1940年の冬にノルウェー駐留の部隊が経験するまで、マイナス20℃以下の本格的な(?)寒冷地での経験は薄かった。
20年代から30年代にかけて、ラパロ条約の秘密条項に基づき、ソ連奥地のリペツクに独ソ共同の秘密基地を設けて、数年にわたって飛行機を飛ばしたものの、当時とは飛行機の出来が違えば規模も違う。
ドイツ空軍が耐寒装備の研究を本格化させたのは、それこそ1941年の春から(ドイツ本土のレヒリンにある空軍技術廠には、新たにアンモニア冷媒によるマイナス50℃までの状況を再現できるという寒冷地実験室が設けられた)であり、1941年の冬にはまだ十分でなかった。
しかし、そこからさらに1年を経たところでは、どうやらはるかに経験では優るはずのソ連や日本をも上回る成果を出しつつあったようなのである。
エンジン加温法
これは、どこでもやっている方法で、新味はない。ただ、ドイツ軍では、常設基地、後方基地にはボイラー車や分解組立式ボイラーを置き、出動前に何機もまとめて接続してエンジンを温めることができたほか、分散駐機の前線基地でも制式兵器のポータブルなエンジン予熱機(熱風発生器)が何種かあり、エンジンにコンロをぶら下げるというような方法は、すでに1942年冬の段階で補助的手段となっていたことが注目される。
ラジエータの水は不凍液入りなのはもちろんだが、給水車自体に加温装置(ボイラーに接続)がついている、「湯沸しタンクローリー」(燃料にも使用できる)の如きも制式装備として存在する。
いや、そもそも、このエンジン加温自体、それしかやりようがなかったような日本やソ連と違い、念の為にやっているにすぎないのである。
滑油希釈法
これは、視察団がもっとも注目した点といえるところで、要するにエンジンオイルに燃料油を混ぜて粘性を下げておいて、潤滑不良によるエンジンの破損を防止し、且つ暖機運転の手間を少なくしてしまおうという方法である。
この方法に始動専用燃料またはアセチレン始動を併せ用いるならば、その気になればマイナス30℃の気温でも冷態始動でスクランブル発進が可能である。
燃料油はオイルが温まってくれば自然と揮発し、粘度が下がりすぎるということはない。減少分の追加や希釈割合などは時間管理により、これらはレヒリンの実験センターで得られたデータを元にして、完全にマニュアル化されている。
オイルの希釈は原則としてその機体の使用するのと同じ燃料油を用いるが、ディーゼルエンジン(Jumo205)の場合、K1燃料は当然軽油で揮発性に乏しいので、A3(80オクタン)燃料で希釈する。始動専用燃料法
寒冷地ではガソリンの揮発性が低くなるため、気化器にせよ燃料噴射にせよ、うまく混合気を形成できず、ああだこうだやっているうちにプラグは濡れてしまうし、始動自体が困難なのである。
とくに、高オクタン価の燃料になるほど揮発性が低い(つまりはアンチノック性能が高い)ので、高性能を狙ったエンジンほど始動が難しいということになる。
マイナス30℃、バナナで釘が打てる世界では、缶に入れたB4(87オクタン)燃料に火のついたマッチを放り込んでも、ちゅっと消えてしまうだけで、引火など起こらないのだそうである。
これを克服するための燃料が始動専用燃料である。
純直溜石油ガソリン95%、鉱油エンジンオイル5%、耐爆剤・防蝕剤・樹脂状物質生成防止剤等一切含まずという、なんのことはない純粋ガソリンみたいなもの(70オクタン)なのだが、これはコロンブスの卵というヤツであろう。
エンジンのリザーバータンクに入れておくだけでいいので手間もかからず、エンジンにも何ら手を加える必要がない。
もちろん、高揮発性なので絶対火気厳禁、密閉容器でないと「とんで」しまうという注意点はあるが…。アセチレン注入法
寒冷地では、始動時の爆発を起こすこと自体が困難なので、エンジンシリンダー内にアセチレンを吹き込んで爆発させ、強引に始動させようという方法である。
これは、エンジンに若干追加配管を必要とするため、あまり普及はしなかったようであるが、始動専用燃料よりも先に実用化されたこともあり、確実に実用された方法である。
スパーク強化
エンジンのマグネトーにバッテリをつなぎ、低温下で低下しがちなプラグへの電圧を確保する。
これには自動車用バッテリーを用いる。追加用なので、これで十分ということらしい。これらの施策が1942年冬までに実用化されていなければ、スターリングラードへの空輸も早期に頓挫を来したことであろう。
また、この当時、第五空中艦隊の保有する燃料はA3(80オクタン、アルグスAs10・As410、BMW132等に使用)、B4(87オクタン、BMW323、DB601、Jumo211等に使用)、K1(ディーゼル燃料、Jumo205に使用)の三種のみで、C4(95オクタン)は持っていない。
これはもちろん、この方面が第二線級で、Bf109の最新タイプやFw190などがまだ配備されていなかったことが主たる要因であろうが、C3使用エンジンの寒冷地用データが完成していなかった可能性もあると思われる。
また、最後までBf109の生産が続き、且つ後期になっても87オクタンタイプの109が生産されていたのは、Fw190A/G/Fの心臓たるBMW801のコマンドゲラートの寒冷地整備にやや難があったことと、東部戦線での冬期作戦には、C3よりもB4のほうが稼働率が高いという理由もあったのではないか・・・という推測も成り立つ。
このほか、各種エンジンの寒冷地用調整法についても書かれているが、ハ-40であり熱田でもあるDB601以外のエンジンについてはごく簡潔にしか触れられていないのは、実際的で面白い。
すべてが凍りついても…
もちろん、エンジンが回るだけでは、作戦飛行はできない。風防は曇る…
寒いとどうしてもつき物なのが、風防の曇り・霜付きであるのは、現在のわれわれも自動車の運転で親しく経験するところである。
飛行機でこうした現象が起きるのは、車どころではなく大変に深刻な問題である。
まず、自動車のリアウインドでおなじみの電熱線入りガラス。これは、ゲッチンゲン式防弾ガラスとして戦闘機の前面風防に使用される。この当時、第五空中艦隊ではBf109とBf110に適用されていた。
さらに、109と110の前面ガラスにはウインドウォッシャーも装備されている。
これはもともとオイルがかかったときや小鳥が衝突したとき、泥がはねたときなどにガソリンを吹いて洗浄する目的の装置で、ドイツ戦闘機の標準装備なのである。なにしろ、109にせよ110にせよ190にせよ、一度滑走に入ってしまえば着陸して機体が止まるまでは、爆薬で吹き飛ばしでもしない限り風防を開けることができないので、こうした装備は必要不可欠なのである。寒冷地では不凍液(エチレングリコール75%、エタノール25%)をタンクに入れることで、霜付きを防止する。
Ju88では、風防枠にニクロム線を入れる、風防内面にセロハンを貼る等の対策をしている。
Ju52およびHs129では、ストーブを搭載する。
C3燃料(18リットル)使用で、外気をラムエアで採りいれて温風として吹き出させるという温風ヒーターである。Ju52では2基、Hs129は1基を装備し、Hs129では厚い防弾ガラスと内部風防の間の間隙に温風を通して曇りを防ぐというギミックも仕込まれている。
その他、飛行用ゴーグルにはグリセリンを塗布していた。武装も凍る…
機関銃砲の耐寒対策は、陸軍のとそう変わりはない。ガンオイルを全部洗い落とし、そのあとごく薄く、オイルを染ませた布で拭く程度にして、凍結を防ぐ。
MG151系の電気装填の機関砲は、モーターの凍結を防止するためにブラシオイルを最低限にしておく。空気装填のMGFFの場合、低温下では空気圧が下がるため、定格よりも圧縮空気圧を高めにして対処。
MGFFについてはやや詳しく記録されているが、陸軍では使用されておらず、むしろ後にマウザー砲として購入するMG151/20の砲の記述が少ないのには、やや奇異な感がある。
爆弾は次に述べる氷結防止ペーストの塗布と、雪上用延長信管で作動確実を期していたが、LT F5b航空魚雷の機関部がマイナス10℃で凍結してしまうのにはほとほと困っていた様子である。氷結防止ペースト42式(Enteisung Paste 42)
当時最新鋭の氷結防止材で、詳細は視察団にも明かされなかったらしい。成分の記録がなく、代わりに詳しい性状を記録して、コピー化を狙っている様子がある。
飴状液と透明液を混合、約30℃に発熱する(これは重要でない)。30分ほど放置してから、翼前縁、プロペラ、爆弾頭部(信管部)、方向探知アンテナなどの外部に露出する氷結しやすい部分に、3〜5ミリ厚に塗布する。(苦味ヲ有ス、と注意してある)
吸湿性、および弾力性があり、氷結を防ぎ、また付着した氷を吹き飛ばす効果もある。
これは、本質的に米軍重爆が持つ前縁防氷ゴムと同じ働きをし、また適用範囲が広い点でそれよりも便利かもしれない。
Ta152やBv155といった高高度戦闘機の主翼がそっけないのも、これがあるということを前提としてのことだったのかもしれない。飛行場も凍る…
もちろん、雪も降れば氷点下にもなるのであるから、飛行場は真っ白になる。
しかし、ドイツ空軍は飛行機に雪橇を履かせることを潔しとしなかった。
主力戦闘機たるBf109は橇なんか露出していたら戦闘機として存在できるかどうかも怪しいし、Bf110もHs129もFw189も、橇を出していては片発停止での安定飛行が不可能になってしまうからである。
では、どうしていたかといえば、飛行場にローラーをかけて圧雪し、十分な硬さを持ちながらも凍結はしていない、という状態(雪密度0.5kg/m^2)を人工的に作り出していたのである。
こうしたノウハウはスキーのゲレンデの保守と似たようなもので、雪密度測定器などもスキー場用のものをそのまま使用している。
晴れた日の早朝などに雪面が凍結していれば、針を植えたローラーや馬耙(まぐわ)で、いったん凍結面を耕してからローラーをかけなおしていた。
凍結面では、着陸時のタイヤのバースト事故がたいへん起こりやすいためである。
新雪が降った場合は降雪中にタイミングを見てローラーがけをするが、さぼって15センチ以上積もってしまった場合は、手すきの人員や、場合によっては捕虜も動員して「雪踏み」をしてから、ローラーをかけなおす。
雪橇はまったく使用しなかったわけではなく、不整地での発着を行うFi156シュトルヒには標準装備であったし、春先の解氷期に過荷重での離陸を行う場合にも使用される。
この、春用雪橇はタイヤに下駄を履かせるかたちで準備され、脚部に固定はされない。離陸すると橇は地上に残るが、勢いがついているので、できるだけ軽く造ってあるとはいうもののデカイ橇が一対、地上をどこまでも滑ってゆくという物騒なものである。
常設基地では暖房のきいた掩蔽整備所も用意されている。
地上員には、なんと使い捨てカイロが用意されている。
Warmebeutel(Wの後のaにはウムラウトがつく)、「暖め袋」と呼ばれるそれは、紙袋に酸化鉄粉と木粉を入れたもので、これに水か雪を入れて揉めば40〜50℃に発熱し、3時間ほど持続する、というものである。
乾燥すれば水を追加して10回程度の繰返し使用に耐えるというのだが、原理的には、完全に今の使い捨てカイロと同じものである。
ちなみに、飛行場の急速設定に関し、ドイツ軍は爆薬で整地した上に木製のすのこ(2メートルx1.8メートルの大きさで、厚さ7センチ、幅15センチの角材を2センチのピッチで木釘で止めたもの)を千鳥格子に組み合わせて滑走路を設定する。
これは、米軍が穴あき鉄板を使用して飛行場の急速造成をした手口(笑)と驚くほど似ているが、この点ではドイツ軍のほうが先輩格で、ヴェーザーウューブンク作戦のときには既にこの方法を使っていたという。
なるほど英空軍の先手を取れたはずである。プロペラの調整法にも触れられているが、エンジンの詳細と同じく、パス。こちらも、住友でライセンスしつつあるVDM以外のプロペラについては、ごくそっけない。また、このころはまだユンカースのプロペラを買うつもりがなかったことも窺える。
その他モロモロ
いろいろと1942年初め頃の第五空中艦隊の様子について。
第五空中艦隊の組織
といっても、体系的なものではない(^^;
当時、フィンランド領内、北緯65度以南はフィンランド空軍の管轄区域であった。
ドイツ第五空中艦隊は、北西地区(N.W. ノルトヴェスト、ノルウェー南部担当)、ロフォーテン地区(Lofoter. ノルウェー中部以北担当)、北東地区(N.O. キルケネス、ペッツアモ地区を含むカレリア中部以北担当)の3つのフリーガーフューラー(戦闘部隊の地区司令部)と、ノルヴェーゲン(司令部・オスロ、ノルウェー全土の飛行場を管掌)、フィンラント(司令部・ロヴァニエミ、北部7箇所と中部9ヶ所の飛行場を管掌)の2つのルフトガウ(地上支援部隊の地区司令部)からなる。
フリーガーフューラー・ノルトオストの司令部はキルケネス、ペッツアモ、またはアラクルチにあり、第五空中艦隊司令部は通常はケミにあるが、夏には英船団攻撃たけなわとなるため前進してキルケネスに移動する。
敵の状況
ソ連空軍及び海軍航空隊の基地は、ムルマンスク、キロフスク、カンダラクシャ、アルハンゲリスクにそれぞれ基地群として存在する。
当時この方面のソ連戦闘機は、主としてハリケーンとMiG3からなっていた。
ムルマンスクの高射砲は主として英国製と思われる4.2インチ砲で、50〜70中隊が展開しているように思われる。
高射砲は精度良好であり、航続距離の不足により単座戦闘機の護衛もつけられないことから、ムルマンスクに対する爆撃航空団の空襲は困難である。
英軍はノルウェー方面で活発に行動しており、ドイツ軍沿岸補給線の遮断を目的としている模様。
ノルウェー西岸では沿岸航空軍団の飛行艇や雷撃機が跳梁し、北氷洋方面では潜水艦の行動が活発である。本国艦隊の水上艦艇は、主として自国の船団護衛に従事しているようである。第五空中艦隊の作戦
ムルマンスク空襲は上記の理由にて困難であり、地上軍協力も北方戦線の特性上、重要度も頻度も少なく、主として英船団攻撃、及び英ソ軍機に対する邀撃が現下における重要任務である。
英船団攻撃のため、長距離偵察機としてFw200、中距離の偵察・索敵・触接機としてBv138を使用しているが、どちらも鈍足で防御弱く、とくにBv138は飛行艇ということで、最近はJu88に任務を肩代わりさせつつある。
また、ロフォーテン諸島の前進基地から、飛べる限り毎日1機のHe111を出して気象観測を実施。
海上救難機としてはDo24を使用。随時出動する他、船団攻撃隊には波高3メートルを超えていない限り必ず随伴させる。
これはもっともな話で、流氷限界にほど近い北極の海に出撃するのであるから、不時着水したら、すかさず救出しなければ乗員の命はない。
結
以上、とりとめもなく書いてきたが、この報告書がどの程度日本軍の装備や教範に影響を与えたのか、よくわからない面が多い。
とくに、この報告書の巻末についているはずの各視察団員の所見の章がすっぽり抜け落ちているのが残念であった。
果たして、目次にあるだけで実際にはなかったのか、別に提出されたのか。
なにしろ、原資料は手書きのカーボンコピーであって、正式に提出されたものなのかどうかもわからない。
ただ、署名こそないものの、当時の将校というのはたいへんに字が上手だな、とか、でも軍医中佐の書いたとおぼしきページだけは読みにくくて、今の医者が書いたカルテを覗いてもなにやらちんぷんかんぷんなのといっしょなのかな、などという楽しみはあった(笑
ともかく、当時フィンランドに展開していたドイツ空軍部隊の状況の一端を知る、というだけの文章になってしまった。
ご笑覧いただければ幸いに存じまする。
参考文献
在芬蘭土独逸第五空中艦隊における冬期作戦、特に整備状況視察報告
文庫版航空戦史シリーズ13「北欧空戦史」・朝日ソノラマ
文庫版航空戦史シリーズ53「極北の海戦」・朝日ソノラマ
その他
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