雷電の(どうでもいい)秘密


特設雷電勉強家 BUN
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 みなさん、こんにちは。特設雷電勉強家のBUNです。
 身内が大活躍する学研の「雷電」が出ましたので、急遽、雷電について書いてみることにしました。あの本は非常に良い本ですので、ぜひ読んで欲しいものですが、より楽しく「雷電」を読む為に、少しだけお付き合い願います。


零戦の後継機、雷電?


 雷電は爆撃機を邀撃する為の高速戦闘機として開発された飛行機です。しかし、開戦後、激戦が相次ぎ戦場の様相も当初の予想とは異なり、零戦が対爆撃機戦闘はおろかP-40等のとの戦闘においても苦戦する状況が認識され始めた昭和17年秋、開発中の新型高速戦闘機である雷電への期待度は非常に高まります。
 この当時、雷電の実戦配備は当初、翌18年の3月を予定していたことが航空本部関係の書類から判明していますが、当の雷電はエンジンの出力不足問題からJ2M1からJ2M2へ開発が移行しています。
 昭和17年9月21日決裁の航本機密第一一二五四号「航空兵器製造並ニ供給ニ関スル応急処置ノ件仰裁」には次の如く記載されています。


十四試局戦

1. 多量生産は十四試局戦改(J2M2)にて実施しJ2M1は生産せず
(理由)
(イ) 速力310節程度にて零戦と大差なく空戦並着陸視界不良、操縦性良好とは言い難く局戦として価値少なし
(ロ) 局戦改の多量生産機出現(18年4月に予定)に比し一ヶ月早きのみ
(ハ)J2M2装備発動機実験成績不良なる場合は改めて研究す


 以上の如く雷電の生産はJ2M2から開始されることとなったのです。J2M1は昭和17年9月21日に決裁されるまでは量産の予定が存在しており、J2M2から生産開始するとの方向が決定したのがこの9月21日という訳です。
 この決定以降、雷電装備予定部隊が既に計画され始めます。それは後に雷電の装備を試みてトラブル続出の為に零戦装備で前線に向かった381空や301空だけではなく、一般に「陸上基地の艦上戦闘機部隊」と認識されている200番台の航空隊にも及んでいるのです。200番台の番号冠称の航空隊は艦上戦闘機装備の部隊という訳ではありません。
 雷電の実戦配備が予定された18年4月頃から新編成された部隊、あるいは装備機を改変した部隊の中にはその装備内容を「陸上戦闘機」と規定された部隊が数多く出現します。これは通常、局地戦闘機装備の部隊番号である300番台の航空隊だけでなく、200番台の航空隊、例を上げるならば281空、251空、202空等も「陸上戦闘機」装備の航空隊として定められているのです。陸上基地の艦上戦闘機だから陸上戦闘機なのではないか、との疑問もあることと思いますが、そうではなく、同じ時期の253空、204空、201空、203空等は装備機を「艦上戦闘機」として前述各航空隊と同一の文書上に記載されているのです。また、地名冠称の常設練習航空隊においても、同様に「陸上戦闘機」とした航空隊(厚木空など)と、「艦上戦闘機」とした航空隊(二代台南空など)に分かれており、この区分は末期に戦闘機の類別を甲、乙、丙に分類し始めるまで続きます。また、中には202空のように19年に入ってから「陸上戦闘機」を隊内に取り込む編制となる航空隊も現れ、陸上戦闘機隊と艦上戦闘機隊を両方持つ航空隊も公式に編成されるようになるのです。このように多数の部隊で装備が予定された「陸上戦闘機」とは雷電のことなのです。源田実の回想にもそのような記述がありますが、三菱社内の飛行機開発史をまとめた文書にも「J2はA6の次期第一線戦闘機として大いに期待せられ・・・」とあるように、紛れも無く雷電は零戦の後継機でした。
 実際の生産計画もまた、三菱での零戦の生産を19年5月より減少させ、19年10月の30機の生産予定でこれを中止、雷電の生産に集中する計画が18年12月に立案されています。零戦の後継機は烈風ではないのです。ただ、艦上戦闘機としての烈風の実戦配備までの航空母艦用艦上戦闘機としての需要を満たす為に中島での零戦生産は昭和20年以降も予定されていました。このように雷電は非常に期待された新型機であったことが想像できる事と思います。ただ、当の雷電はこれら航空隊では一機も実戦に参加することはありませんでしたが・・・。


雷電にまつわる怪しげな「改」


 視界問題、発動機出力不足問題、振動問題と、次々に問題を抱え続けて開発の難航した雷電には様々な仮名称があり、ちょっと見ると何が何だがわかりません。学研の「雷電」の機体解説にも色々と書いてありますが、仮名称についてのみ少し整理してみます。
 まず、J2M1十四試局戦のエンジン換装計画に対して最初の「改」が付けられます。J2M2、後の雷電一一型がこの「十四試局戦改」です。分かりにくいことに十四試局戦改は後にもう一度仮名称が変わります。それが「試製雷電」です。
 その後、雷電は武装を強化することになり、ご存知の雷電二一型となる訳ですが、この型もまた、分かりにくいことに「雷電改」と呼ばれるのです。十四試局戦改は発動機の換装でしたが、今度は武装強化が「改」の名称を生む事になります。試製雷電に対しての武装強化型が「雷電改」という訳ですから、雷電の制式採用前に開発の終了していた視界改善型の雷電三一型もまた同様に「雷電改」と呼ばれます。これは19年10月19日の内令兵七九号に明記されていますが、雷電は二一型、三一型共に「雷電改」なのです。しかもややこしいことにこの「雷電改」の名称は制式採用後も、ほぼ終戦まで続けて使用されるのです。あの紫電改がそうであったように雷電改の名称も非公式ながら、公式文書に記載され続けるという何だかわからない状況となります。もちろん最終型である雷電三三型も「雷電改」の中に含まれてしまいます。三三型を「試製雷電改二」とした文書はほとんど存在しませんし、二一型の生産は終戦まで続行されていましたので、特に区別することなく一般的な「雷電改」の名称に取り込まれてしまった、ということなのでしょう。


雷電高々度戦闘機計画


 19年に入り、B29邀撃対策として、雷電の高々度戦闘機計画が開始されます。
 雷電ファンには残念なことですが、これは帝国海軍の戦闘機の中で雷電に対する期待が高かった為というよりも、本格的な高々度戦闘機である烈風改などの生産見込みが全く立たない為に応急的に雷電に排気タービン装備の白羽の矢が立った、というニュアンスで決定されています。
 雷電排気タービン装備機の計画は、18年晩秋には既に20粍二号銃の優先供給が決定していたりしますので、航空本部内ではその構想は具体化していたようですが、三菱への試作指示は19年1月に出ており、その後2月8日に空技廠で研究会が開かれ、高橋技師、田中技師が主務者となって計画に着手されています。
 さて、謎の多い雷電三二型といいますか、雷電の排気タービン装備機には、海軍側で製作した機体と三菱側で製作した機体という、全く別の二機種が存在し、実に理解しにくい状態なのですが、ここを頑張って解明しましょう(笑)。
 まず、昭和19年6月27日に三菱で行われた雷電排気タービン装備機について打ち合わせの内容からチェックして行きます。
 ここでの生産予定は、



19年
6月
19年
7月
19年
8月
19年
9月
19年
10月
19年
11月
19年
12月
20年
1月
20年
2月
20年
3月
一空廠 2 7月から20年1月まで毎月5機
二十一空廠 2 5 7 10 12 15 15 20
三菱(案) 試作1機 試作1機 2 5 15 36 75

となっており、記号「タE」と呼ばれた海軍側の機体と記号「タF」と呼ばれた三菱側の機体との関係がこの生産予定から想像することができます。すなわち、海軍側で独自に製作した排気タービン装備機は三菱側の機体の遅れをカバーする為の応急生産機であるということです。ですからこのように秩序立った生産計画が存在し、一部で勘違いされているような「現地改造機」といったものではないことが理解できます。
 さてこのように排気タービン装備機の生産計画は段々と具体化して行きますが、そもそもこの排気タービン装備機の海軍内での位置付けはどのようなものなのか、主力邀撃機なのか、そうでない実験機なのか、はたまた別のものなのか、を検証して見ましょう。
 次に挙げるのは航空本部での19年11月19日に行われた打ち合わせの内容です。


「雷電高々度戦闘機に関する打合覚」


決定事項


(イ) 実施予定

雷電改造型 火星二三乙型 排気タービン

一空廠   10月2機(実績) 11月2機 12月3機 1月5機 (九三中練大修理全廃)

二十一空廠 10月2機(実績) 11月2機 12月6機 1月10機 (零観複操縦改造中止)

雷電三二型 火星二三丙型(増速ファン径650粍のもの) 排気タービン

現型式(胴体内140リットル内袋タンク急設のため落下増槽使用不能)

三菱   12月10機 1月13機

改善型(油冷却器改善 落下増槽使用可能 増設タンク電燃ポンプ装備)

三菱   20年1月2機 2月20機 3月30機

雷電三三型 火星二六甲型

三菱   12月20機 1月15機 2月10機

注 航空廠に対する機体 排気タービン中間冷却器、加圧マグネットの謬主は完成一ヶ月前とす

(ロ) 三菱社は烈風改立上り迄に極力絞るものとす

(ハ) 高座廠 日建社は差当り現状通りとし火星二六甲型の成果に依り同発動機への換装を考慮す(雷電三三型) 排気タービン装備は考慮せざるものとす 生産目標は二〇年三月において三菱、高座日建 総計月産一〇〇機程度とす

 さて、三菱製の雷電三二型に現行型と改善型の二種類が存在したことも大切ですが、ここで注目すべきことは、雷電の高々度戦闘機計画というものは雷電三三型をも含んだものであるということです。上記文書からは雷電の高々度戦闘機は排気タービン装備機と機械式過給器の火星二六甲型の両者で計画されていたことがわかります。そして雷電高々度戦闘機は烈風改までのつなぎの応急的存在であり、高性能の実績を残せた雷電三三型でさえ、少しも「期待の星」ではなかったことがこの計画に記された生産数からも読み取れます。B29来襲後でさえも、残念ながら雷電は再評価などされていないのです。
 悪戦苦闘の中、一空廠、二十一空廠とも、それぞれの機体修理、改造作業を捨てて雷電の生産に協力していますが、生産規模は御覧の通り縮小されており、雷電三三型を含めても、とても主力邀撃機とは言えない状態であることが納得できることでしょう。雷電の生産は通常型を含めても20年3月でさえも合計100機程度で良い、と言われているのです。
 ここで雷電三三型が登場したついでに、雷電の型式を混乱させる原因の一つである雷電二三型についても触れます。雷電二三型は二一型の機体に火星二六甲型を装備した機体とされていますが、三三型がJ2M5、三一型がJ2M6であるのに対して、二三型はJ2M7とされています。これは何故なのでしょうか。
 本来ならば、三三型の前に二一型に火星二六甲型の搭載が試みられ、それが二三型と呼ばれたと解釈したいところですが、現実には二三型の量産機は存在しないようです。この謎の答えは三菱の社内文書に存在しました。
 雷電で散々に指摘された視界問題の改善策として実施された三一型、三三型での風防の改造が当然のことながら速力を低下させたことが問題となり、三菱の跡を継いで雷電の主力生産工場となる予定であった高座工廠製の機体には視界改善対策は実施しない、とあるのです。ですから、上記航空本部の文書中の高座工廠で生産予定の雷電三三型こそが、J2M7、雷電二三型なのです。はい、スッキリしました。

 以上、以前から喉に引っ掛かった魚の骨の如く気になっていた雷電にまつわる謎を解明してみましたが、元々強烈な個性を放つ特異な機体である雷電であるからこそ、「雷電とはこうしたもの」という先入観に囚われやすいものであり、それ故にこうした疑問の解明が先送りされて来たのだろうと思います。不運な機体ではありますが、一時期は栄光の零戦の実質的後継機に予定され、海軍唯一の実戦配備された排気タービン付単発戦闘機としての実績もある雷電に、せめて我々ファンだけは冷遇せず、熱い視線を送ろうではありませんか。



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