保存掲示板〔6〕04-3-1 ⇒04-10-31
掲示板を改定致しました。過去の投稿は「ご意見交換室」を含めて、 「保存掲示板」に保管しております。今後とも宜しくお願いいたします。
掲示板の様式を変更しましたね。書き込みが楽になりました。 今後のご活躍を期待致します。
姉妹篇「蒼空の果てに」のアクセス数が100,000件を突破しました。 このサイトも、70,000件に達しました。 ご愛顧ありがとうございます。
平家の財宝の話、面白いですね。場所は特定できているのですか?
私も探してみたい。田川は近いから。ヒント頂戴。
イラクで大変の問題が起こりましたね。ある方が、あの画像 を見て、あれは「狂言」ではないかと言っています。 蒼空さんはどう思われますか?
類似のご意見が「多事X論」の掲示板に書き込まれています。 画像を見る限り、緊迫感にやゝ欠けるようにも思われます。 何れににしても、3日後の成り行きを見たいものです。 http://www5f.biglobe.ne.jp/~SS777/index.html
■平成16年4月9日(金) 邦人人質事件 〜あれっ テロを容認するの?〜 イラクでの人質事件だが、あちこちの掲示板が沸騰し、多く論客が今回の事件の 胡散臭さを指摘されているので、今更とやかく指摘する必要もないだろう。大体、 人質と犯人の利害が一致している誘拐事件など、まともに相手にするのも馬鹿 馬鹿しい話だ。仮に、出来レースじゃなかったとしても、よく、ふざけ半分で 川の中洲に渡ったものの、増水して取り残されヘリで救出される大馬鹿野郎が いるが、それと同じ次元の話だろう。 しかし、例によって常軌を逸した左巻きの倒錯振りは滑稽ですらある。 思い出して頂きたい。昨年、外務省田中均宅に時限爆弾(もどき?)が仕掛け られ、石原都知事が「爆弾を仕掛けられて当たり前だ」と発言したら、左巻きは 烈火の如く怒り「テロを容認するのか!?」と散々批判していたではないか。 ところが、今はどうだ? 「自衛隊は撤退せよ」と皆テロリストと同じ主張をしている。 何たる倒錯ぶりだろうか・・・。 さて、今回の件で改めて感じたのは北による拉致被害者の家族と今回の被害者 家族との落差だ。家族会は、北に残された家族や自らに危害が加わるの可能性 があっても怯まず、テロリストには毅然とした対応を貫くよう再三要請している。 また、昨年の10.28拉致都民集会(於:東京芸術劇場)に参加して気付いたのだが、 家族会の方々は皆ひな壇に掲げらた国旗に一礼してから登壇されていた。これぞ、 国家の本質だろう。国民が国家に敬意を払い、その裏返として国家が国民の生命 を守る義務が生じる。しかし、国家を敵視し否定するならば、そもそも国家が国民 の生命を守る道理は生まれない。 人質の18歳の男は地球市民を公言していたらしいが、であるならば日本政府に 対応を求めるのは全くの筋違いだ。 http://www5f.biglobe.ne.jp/~SS777/index.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~SS777/index.html
成16年4月11日(日) 邦人人質事件 〜ダッカ事件もビックリの茶番劇〜 もはやコメントするのも馬鹿馬鹿しい展開だ。 誘拐犯と人質の利害が一致していたり、人質を焼き殺すと公言していたテロリスト が一転人命を尊重したり、人質や家族に同情どころか批判が集中したり・・・。 古今東西、こんな馬鹿げた誘拐事件は初めての出来事ではあるまいか? ニュースで人質の家族が自衛隊の撤退を訴える署名を渡し「もう時間がありません」 と涙まじりに話すシーンを放映していたが、犯人が釈放すると公言してるのに何を とち狂った事をやっているのか・・・。 今回の件では多くの論客が世界から失笑を買ったダッカ事件の轍を踏むなと指摘 されていたが、その指摘を裏切る事になるだろう。 間違いなく、ダッカ事件もビックリの茶番劇だ。 どうせ、米軍突入の情報に驚いたのだろうが、仮に自衛隊が救出にでも来たら 人質の連中はどんなリアクションをするつもりなのだろう? さて、前回も指摘したが今回の件で際立つのは同じ拉致事件でも北の拉致事件 との落差だ。とっくに化けの皮が剥がされているが、3人の救出に積極的な連中 に限って北の拉致問題には冷淡である。実は、昨日野暮用で長野に行き、今朝 帰ってきたその足で、救う会神奈川主催の市民集会に参加したのだが、そこで 象徴的な出来事があった。 今回は有本恵子さんのご両親が講演されたのだが、その会場になんと社民党の 阿部知子衆院議員が会場に現れ、しかもマイク持って挨拶をしたのである。どの 面下げてとはまさにこの事だが、もっともらしい事を言ってはいたものの、社民党 本部で人質救出対策本部の会合に出席しなければならんとかで、途中でそそくさ 退席していた。万死に値する社民党が北による拉致事件の対策本部を設けたな んて話しは聞いた事がないが、反自衛隊の3人の為には早々に対策本部を設置 する手際のよさ。人権・平和が聞いて呆れる。
3日の期限がきました。まだ先行き不明ですね。しかし、 危険を承知で自らイラク入りした以上は、責任を他人に 転化すべきではないと思います。
人質は開放されました。しかし、いろいろな問題を残しました。 4月16日の西日本新聞「こだま」を紹介致します。 http://www.warbirds.jp/senri/jasdf/kodama/kodama04.html
ひらつか様 人質事件も一段落しました。返事が遅くなってご免なさい。故郷方城町には 「平家屋敷」の地名が今でも残っています。 口伝の内容はその目印となる樹木の名前です。私はある時期、真剣にその 樹木を探しました。しかし、発見できませんでした。その後、裏の意味を悟り ました。祖先の方は口伝が他人に洩れることを恐れて、その内容を吟味した ものと思います。 また、子孫の中で口伝を受けてもその意味が理解できないような未熟者には、 平家再興の能力なしと判断されたものと理解しております。 メール頂ければ、口伝を教えてもよいのですが、その目印となる樹木は見つ からないと思います。
私の家系は自衛隊一家であります。当然私も自衛隊です。 さて、自衛隊が派遣されて幾日…。まだ事件がおきません。私達一家の考えで ありますが、この自衛隊派遣は腐れきったといえば語弊がありますが、堕落した 自衛隊へよい死を伴った薬、カンフル剤、ビタミン剤です。昨今の自衛隊は甘く なった、普通のサラリーマンのように休みをとろうとかいう風潮が溢れている。 これを是正する意味でも私はおいに自衛隊派遣は賛成です。 どうも失礼致しました。ごきげんよう
それにしても、未だ事故がないのは幸運です。 先日も隊友会の会合で、派遣隊員の無事帰還を皆で祈りました。
自衛隊のイラク派遣については、賛否についていろいろな議論が交わされました。 賛否はべつにして、未だ全員が無事故で活躍されていることは幸運です。 全員が無事に帰還されることをお祈り致します。
「休暇は前段、整列は後列」と言われます。第一陣のイラク派遣隊員は無事帰還 されました。第二陣以降の派遣隊員が無事帰還されることを、切にお祈り致します。
本年度、弁城小学校の校長が移動になり新しい校長が赴任しました。 大層、パソコンに興味をお持ちで、当小学校のHPも色々と前向きに考えてくださる 方です。HPのリンクの話をしましたら、 「是非、卒業生のHPを紹介してください!」とおっしゃってくださいました。 また永末さんのHPをリンクさせていただきたいと思います。 ご承諾、よろしくお願いします。
リンクの件了解しました。私の自己紹介の欄からは既にリンクしております。 http://www.warbirds.jp/senri/jasdf/ 「自衛隊こぼれ話」 http://www.warbirds.jp/senri/ 「蒼空の果てに」
「老兵の繰り言」同じ17歳でも雲泥の相違ですね。 感無量です。
毎日、暑い日がつづいていますが、お元気でいらしゃいますか。私は、先日、 教育基本法の改正の勉強会がありました。 イギリスを手本にすると良い、又国を思う教育が今まで、足らなかったのでは、 倫理・道徳を教える機会が少ないなどでした。 先輩からの、今日のありかたどう思われますか?ご指導くださればと思っています。
私は一時期「教官」と呼ばれる立場にありました。 教育基本法も大切ですが、現在の教員の資質に問題があるように思います。 一度会ってお話したいと思います。機会を作ってください。
蒼空様、以前神風のホームページで御返事を頂いた者です。そこで、ホームページを 紹介していただき、ありがとうございます。私は今年で26歳になります。大東亜の為、 世界平和の為に戦われた、祖父母の教えを受け継ぎとうございます。教えは日本の 歴史、伝統だと私は思っております。 私の祖父母は昭和5,6年の生まれで先の大戦、美しい(精神)日本を知っています。 幸運な事に明治生まれの曾祖母が御健在ですので私は幸せ者です。 最後になりますが、蒼空様がいつまでも御健康でありますようお祈りしています。
ありがとうございます。 健康に留意して、亡き戦友のため「神風」の真意を語り継いでゆきたいと思います。
今日、「テレビ西日本(TNC)」から取材を受けました。 「アジアの8月15日」という、終戦特番だそうです。 8月14日に放送予定とのことです。 細部分かり次第報告致します。
取材の案内ありがとうございます。お元気にご活躍の様子ですね。 特番、観させていたきます。
蒼空 様こんにちは。1年振りの書き込みをさせて頂きます 15日、正午、「神風特攻隊の英霊と、自爆テロの違いを、アメリカが、 とことんまで、理解する事が出来ますよう・・・ 蒼空 様の、ご活躍を、お祈り申し上げております! 我が日本国代表として、頑張って下さい!
昨日「アジアの8月15日」が放送されました。 企画・編集に疑問を感じました。
お疲れさまでした。東京でも、放送したのでしょうか?
残念ですが、福岡県内だけのようです。 何れビデオを編集してご覧にいれます。 http://www.warbirds.jp/senri/
http://www.warbirds.jp/senri/
私の親も元空挺部隊の一員でした。とても優秀だったそうです。 もしかしたら蒼空様と会ってるかもしれませんね。 いまでもご活動なさっている蒼空様ご活躍期待しております。
激励ありがたくお受け致します。今後とも頑張ります。http://www.warbirds.jp/senri/
先ほど述べたように親は空挺部隊でした。ちなみに自衛隊です。 習志野駐屯地空挺部隊榎本二等兵?辺りだと思います。 知っていたらご返事お願いします。
私は航空自衛隊で、習志野駐屯地には行ったことはありません。 恐らく会ったことはないと思います。 ご免なさいね・・・
芦屋基地航空祭の案内状を頂きました。10月24日(日)です。 皆様のご来場をお待ち致します。現地でお逢いできますことを 楽しみにしております。
私は父の仕事の関係で幼少期に防府、奈良、横須賀、千歳、と転々としました。 と、書けば一目瞭然、私の父は航空自衛隊の自衛官でした。 防府や奈良の話を始め、大変興味深く読ませて頂きました。 父にもこのホームページを見せた所、実に懐かしそうに見ておりました。 どうも私の父は奈良にいた時期が永末さんとダブっていたようです。 (私はすぐ近くの古墳に面した官舎に住んで循環バスで幼稚園に通っていました。) 残念ながら、私の父は学生隊付きだったとかで、経理会計関係の方とあまり親しく する機会は無かったようです。 ただ、文面に登場する、武者さんや、校長の北川さんのお名前を懐かしそうに話し ておりました。二人共、大変厳しい方だったそうですね。 私の父は旧陸軍出身で、満州で飛行機の訓練を受けていた所で戦争が終わり、 ぎりぎりでソ連軍に抑留されずに済んだ事。戦後しばらくは近海の貨物船に乗った り市役所の職員をしたりしていたが、どうもなじめず自衛隊に入ったものの、 リフレッシャーコースは募集が終わっていて、パイロットはあきらめた事。 警察予備隊や保安隊の時代は回れ右や敬礼の仕方まで米軍式で、あんな所には 入るものかと思った、など、折につけて話してくれることが有ります。 ですから、ホームページを見ていると、なんだかよく似た話が多く、他人の話とは 思えなくなってしまいます。 しかし、よく読むと父とは違って実戦をくぐった重みのような物を感じます。 リンクをたどると、やはり実戦経験のある特攻隊の隊員でいらしたのですね。 これからもお元気でホームページ、出版などで活躍される事をお祈りしております。
懐かしいですね。私は赴任当初は佐紀町に間借りしていましたが、 六条西町の市営住宅が当たり、引越しました。子供は都跡小学校です。 掲載している写真には、お父上も写っていると思います。 お父上に宜しくお伝えください。
私は西大寺幼稚園に通っていました。 小学校の入学直前に横須賀に引っ越したので、小学校の事はわかりません。 ただ、入学前の検診をどこかの小学校で受けた記憶が有ります。 それは、当然奈良市内の小学校のはずです。 その記録は横須賀の小学校には届いておらず、クラスで私だけ「健康手帳」の 入学前検診の欄は空欄になっていたのを覚えています。 入学式でも、クラス割の一覧表には私の名前は無かったし、母と学校側のすった もんだの後に入った教室には私の名前を書いた机は有りませんでした。 でも、やさしい女の先生がその場で他の部屋から持ってきた机に紙を貼って名前 を書いてくれた事を思い出します。 それと、奈良に居た頃は外では関西弁を使い、家の中では共通語(若干の九州弁 の影響有り)の使い分けをしていたので、休み時間にに隣の奴に話し掛けたら、 関西弁が珍しかったのか、何人もが寄ってきたので、あわてて共通弁に切り替えた、、 とか、この手の転校にまつわる事には慣れっこになっていた筈ですが、 30年以上経っても覚えている所から見て、結構な事件だったのかもしれません。 あと、母の話では防府では米軍の住宅だった建物を真中で区切って二世帯が住ん でいたとか? 庭の芝生だか雑草を刈りそろえるのが大変だったとか? 冷蔵庫は電気式じゃなくて氷を入れるただの箱だったとか聞かされました。 私の記憶では、官舎の庭から少し離れたところで、地元の子供(?)に浅い池に突き 落とされた事が有ったのを覚えています。 幼稚園前の子供でもヒザ位の水位だったので大した事は有りませんでしたが、、 噴水でも有ったのか、単なる水溜りだったのかは不明ですが。 写真は、父も見ていましたが、ちょっと分からないようでした。 虫眼鏡で見ると逆に画像が荒れてしまい、余計分からなくなってしまったようです。 父は、ある日、北川校長から教科の説明をせよ。と急に言われたが、たまたま授業 で使おうと用意したチャートが有ったのでそれを使いながら概要を説明したところ、 「うん、うん」と言われた。 後で同僚の方に「イチャモンが付かなかったのは校長にしては珍しい」と言われた、 などと得意げに話しておりました。
転勤に次ぐ転勤で子供は大変だったと思います。防府南基地に勤務の際、 上の子が保育園に入りました。そして35年5月、脊振山に転属。ここで、 曰佐小学校入学。38年8月、奈良へ転勤。当初、歌姫小学校。次に都跡 小学校。中学校の途中、43年7月、芦屋へ転属。ここで高校入学。高校の 転校は簡単ではありません。そこで一念発起、故郷にも近いこともあって 現住所に住居を構えました。以後BOQ生活でした。
どこで何年、あそこで何年、、なんてあんまり細かく書くと人物が特定されてしまい そうなので、この辺にしておきますが、転居、転校は当たり前だと思ってました。 大体、2,3年おきに住居が変わるし、家具を買うときも必ず分解出来るものを買って いたと思います。 私が中三の時に父が定年になったので、高校での転校はありませんでしたが、 単身赴任では大変だったでしょう。でも、以前、別の土地で一緒だった友達と新しい 官舎で一緒になったなんて事も有りましたね。 車買う時も、「○○業務群の××○佐(友達の父親)だってまだ買ってないんだから、 うちはこの程度の車で良いんだ」なんて会話が父母の間で有った事を覚えています。 仕事とプライベートが切り離せない世界だったようですね。 私が電気の世界に入るきっかけは友達(某高射群の○隊長の息子)と一緒に部下の 士長さんに隊内でアマチュア無線の講習を受けた事です。部品のカラーコードの読み 方など、今でも役に立っています。 家族入門証を持って基地に通った事は懐かしい思い出です。 本当に懐かしい話が山程有るんですが、この辺にしておきますね。 保存掲示板へ