自衛隊こぼれ話
☆採用 ★不採用 ○参考
★(2012.12.29)
★(2012.1218)
☆(2012.12.8) 採用されました。
★(2012.11.28)
★(2012.11.16)
☆(2012.11.3) 採用されました。
★(2012.10.24)
★(2012.10.05)
☆(2012.9.29) 採用されました。
★(2012.9.20)
☆(2012.9.05) 採用されました。
★(2012.8.02)
★(2012.6.25)
皆さんは「特攻隊」をご存知でしょうか。大戦末期、爆弾を積んだ飛行機で敵艦に
体当たり攻撃を行いました。これが「特攻隊」です。勿論、搭乗員は助かりません。
私は十六歳で予科錬に志願しました。訓練を終えて、海上護衛部隊である、九〇三
航空隊に配属され、対潜水艦作戦に従事していました。
そこえ、大井航空隊への転属命令が発令されました。大井航空隊は練習機「白菊」
を使って偵察員を養成する練習航空隊です。だから、操縦教員のつもりで赴任しまし
た。ところが、燃料不足などですでに教務飛行は中止され、「特攻隊」が編成された
のです。同じ練習航空隊の、高知、徳島、鈴鹿の各航空隊も同様でした。
そして、高知、徳島両航空隊は沖縄方面に出撃し、帰らぬ人となったのです。次は
我々の番だと覚悟を決めて待機していました。そこへ幸運にも終戦を迎えることがで
きました。
★(2012.5.15) 採用されました。
沖縄の本土復 帰から四十年
私は昭和四十一年一月、沖縄を訪問致しました。嘉手納基地内には、米軍の沖縄
侵攻作戦の模様を伝える資料館があります。
案内役の米軍将校は、床面に設置した沖縄戦の模型を示しながら、上陸作戦に続
く戦闘の推移を説明しました。
一九四五年六月、バックナー中将戦死。続いてイーズリー准将が戦死した様子を
説明しました。また、沖縄戦での戦死や行方不明者は一万二千人、戦傷者は七万二
千人に達したとのことです。
さて、この米軍将校の説明は、裏を返せばこれだけ大きな犠牲を払って占領した、
戦略的重要拠点を、米軍は決して手放さないという、決意の披瀝とも受け取れまし
た。
昭和四十七年五月に、「沖縄返還協定」が発効して、沖縄の本土復帰が実現しま
した。だが施政権が返還されて四十年が過ぎても、広大な基地施設は、依然米軍の
管理下に置かれています。この現実を認識すれば、沖縄の戦後処理は、決して終わ
ったとは思えません。
☆(2012.5.17) 採用されました。
★(2012.5.06)
母親の愛情で 今も生きてる
私は姉三人と兄二人の末っ子として生まれました。母親は、両親との縁が一番
短い子だと言って、特に私を可愛がってくれました。
大戦当時、私は予科練に入隊し、兄二人は陸軍に勤務していました。昭和十九
年十月に、長兄がフイリピン方面で戦死しました。私は二十年四月、静岡県の大
井航空隊で、練習機「白菊」による、特攻隊に編入され、特攻待機の状態にあり
ました。
何時出撃命令が下されるのか、悶々の日々を送っていたのに、運命の八月十五
日を迎えることが出来たのです。
復員して間もなく母親が体調を崩して亡くなりました。四十九歳でした。葬儀
後父親の話によると母親は、私の無事生還を願って、「茶断ち」「塩断ち」の
「願掛け」をしていたとのことでした。
今の私は、母親の愛情で生かされていることを深く感じています。
★「塩断ち」について
昔の田舎では、冷蔵庫などありませんでした。田舎では新鮮なお魚などはお祝い
ごとなど特別な場合しか食べられませんでした。保存食はすべてが塩漬けでした。
「塩鮭」や「塩鯨」などが代表的な食べ物でした。母親は、これらを絶って私の
無事を願ったのでした。
☆(2012.5.09) 採用されました。
★(2012.4.29)
原発再開より みんなで節電
東日本大震災のあと、原子力発電所の再稼動が、各地で問題になっています。
本当に原子力発電なしに、電力供給は不足なのでしょうか、我が家でもささや
かながら、節電を行っています。
ところが一方では大型建造物の ライトアップが大々的に報道されています。
これらも節電の対象にすべきだと思います。
町の「福祉センター」を利用していますが、ここでも「親方日の丸」で節電
の意識は全くありません。議員を通じて申し入れを行いましたが、改善はみら
れません。
国民全員が協力して、無駄な電力を節約すれば、危険な原子力発電に頼らず
に社会生活は維持できると思います。
☆(2012.4.19)
国防担う責任 自衛隊自覚を
北朝鮮のミサイル発射の予告を受けて、自衛隊はPHC3の配置やSM3搭載
のイージス艦の配備などで大騒ぎをしました。予告を受けてこれだけの騒ぎです。
もし、予告なしで発射された場合、果たして対応できるのでしょうか?
自衛隊は日ごろから有事に備え必要な配備を行うべきだと思います。この調子
では国家の安全を任せられないと思います。防衛庁が省に昇格してから数年が経
過しました。しかし、有事に際しての備えが不十分なことが、今回の事件で発覚
しました。
願わくばこれを機会に、国防の責任を自覚していただき、日ごろから適切な配
備を怠らないよう切にお願いする次第です。
私の投稿がどうやら採用されました。
★(2012.4.9)
防衛省は常時 国防に専念を
北朝鮮の人工衛星発射の予告を受けて自衛隊はPHC3の配置やSM3搭載
のイージス艦の配備などで大騒ぎをしています。予告を受けてこれだけの騒ぎ
です。もし予告なしで発射された場合、果たして対応できるのでしょうか?
自衛隊は日頃から有事に備え必要な配備を行うべきだと思います。この調子
では国家の安全を任せられないと思います。
防衛庁が省に昇格してから数年が経過しました。しかし、有事に際しての備
えが不十分なことが、今回の事件で発覚しました。願わくばこれを機会に、
国防の責任を自覚して頂き、日頃から適切な配備を怠らないよう切にお願いす
る次第です。
私の「こだま」への投稿が採用されなくなりました。
私の提案に間違いがあるのでしょうか? 皆様のご意見をお伺いいたします。
★(2012.4.2)
特攻隊の悲劇 後世へ伝える
私は大戦中に予科練を志願し海軍に入隊、訓練を終えて海上護衛部隊に
配属され、船団直衛や敵潜水艦攻撃に従事していました。次に大井航空隊
に転属になりました。
当時、大井・鈴鹿・高知・徳島の各航空隊は、練習機「白菊」を使って
偵察搭乗員の養成を行っていました。だから教員配置の積りで喜んで赴任
しました。ところが燃料不足などで教務飛行は中止され「特攻隊」が編成
されたのです。「白菊特攻隊」です。当時は志願ではなく命令による編成
でした。
沖縄戦が始まると高知・徳島の「白菊」は二百五十キロ爆弾二発を抱い
て、敵艦に「体当たり」しました。
次は我々の番だと覚悟を決めて、夜間飛行訓練をしながら待機していま
した。だが幸運にも出撃目前で終戦を迎えることができました。
最近はホームページやブログを通じて、戦没同期生の慰霊顕彰に余生を
送っています。
★(2012.3.27)
残してほしい 昔の行儀作法
有名な方のテレビ対談が放送されていました。室内なのに帽子を被った
ままでした。私達の子供の頃は、小学校でも中学校でも室内で帽子を被る
ことはありませんでした。それは、帽子を被る意味を知っていたからです。
またその方は「僕」を使っていました。新明解国語辞典(昭和五十六年
三省堂)で「僕」確認しましたところ「男が同等(以下)の相手に対して
使う砕けた自称」とありました。対象語は君です。貴方と私・君と僕・貴
様と俺などですね。
私は海軍の予科練に入隊して、上官にも同僚にも失礼にならない「私」
を使うように指導されました。陸軍では「自分」が使われていました。
昔の行儀や言葉が失われていくのは、我々年寄りにとっては寂しいもの
です。
★(2012.2.3)
保険料の行方 解明すべきだ
最近の報道では我々の年金は、若い世代の掛け金に拠って支給されている
とのことである。確かにそうかも知れません。しかし、これでは若い世代が
保険に加入しなくなるのも当然です。
我々の世代は、老後の安寧を願って四十年に亘って保険料を払ってきまし
た。ところが、その運用を誤ったのです。我々の掛け金で、無意味な箱物を
造りその上放漫な経営で、更に赤字を増やした経緯を説明すべきではないで
しょうか。確実な運用を図っていれば、今日の事態は避けられたはずです。
当時の責任を誰も取ろうとせず、若い世代の保険不加入を強調するのは誤
りと思います。
★(2012.1.10)
昔を思い出す懐かしい方言
西日本新聞「春秋」に各地の方言が紹介されていました。私は殆ど理解
することが出来ました。
理由は私の出身地田川郡方城村には、三菱方城炭鉱があり各地から労働者
が集まり、それぞれ方言を使っていたので聞き覚えていたからです。
また、戦争中は海軍の予科錬に入隊、各地から集まった戦友との雑談で
も方言に接しました。
「長崎バッテン、肥後ニャーニャー、有ってもナーイのが肥前の言葉、
チョルチョル付くのが豊前の言葉」子供の頃はよく使っていました。喧嘩
シチョル、喧嘩ヤッチョルなどなどです。
私も昔は方言を使っていましたが最近は殆ど使いません。時おり帰省し
た折には、旧友と方言で話しています。
皆さん次の方言が理解できますか。
アサンマ、セカラシイ、オロイイ、カガル、コギル、グゼル、コナス、
ワヤク、イレクル、ヒョークレル、トゴエル、
★(2012.1.2)
今年こそ縁起のよい初夢を
縁起のよい初夢として「一富士、二鷹、三茄子」が定番です。一富士とは
その山容の綺麗さではなくて、その裾野で行われた曽我兄弟が、父親の仇を
討って、宿願を達成した史実がめでたいとされているのです。
次に、有名な赤穂浪士が主君の仇を討って悲願を成就した、浅野家の紋所
は、ご承知のように鷹の羽の組み合わせです。
では茄子の縁起とは何でしょう。私の田舎では、「親の意見となすびの花
に、千に一つのあだはない」との格言があります。
茄子の花には、南瓜や胡瓜の花と違って、あだ花(空花)はありません。
必ず実を付けます。即ち願い事が必ず成就するとの意味があるのです。
さて今年はどんな初夢を見ることが出来るのでしょう。
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