自衛隊こぼれ話

☆採用 ★不採用 ○参考

   カタカナ氾濫 世の中に疑問

      ☆(2011.11.25)
 国会中継を見て感じたことです。あまりにも、カタカナ語が多い。日本語で 表現できる言葉まで、得意気にカタカナ語を使用していました 。  マンパワー、データーベース、イニシヤチブ、フォーラム、パネル、その他 数えあげたら限がありません。  また、小学校での英語教育について議論されていました。小学校では正しい 日本語教育こそが必要との提言に対して、早く外国語になじませるべきだとの 回答がなされていました。   カタカナ語を覚えなければ、 日本ではもう生活できない世の中になるので しょうか。

   カタカナ表現 先人から学べ

      ☆(2011.10.27)
 十七日の「春秋」欄に日本語の一人称「私」について記述がありました。 最近では「僕」が日常的に使われています。  古い国語辞典によると、「僕」の対象語は「君」で、男が同等かそれ以下 の相手に使う砕けた自称とあります。  貴方と私・貴様と俺・君と僕が対象語ですね、昔海軍では「私」を使うよ うに指導されました。  陸軍は「自分」を使っていました。日本語も時代により変遷します。  最近の辞書で「僕」を引いてみました。すると、男が自分を指す代名詞と なっていました。  次にカタカナ語の氾濫です。日本語で表現できるものまでネカタカナ語を 使っています。  「ヒフテイヒフテイ」、「半々」や「五分五分」ではいけないのでしよう か。ベースボールを野球に定着させた、先人の知恵に学びたいと思います。    

   第二次大戦の 呼称について

      ★(2011.07.10)
 「大東亜戦争」の呼称は開戦直後の昭和十六年十二月十二日に閣議 決定され、以後改変されていません。  終戦後GHQの命令で、「大東亜戦争」の使用が禁止されました。 しかし、講和条約の発効によって、これは解除されました。 そもそも「大東亜戦争」は、植民地化されたアジア地域から欧米諸 国の勢力を排除し、日本を盟主とした「大東亜共栄圏」の建設がその 目的でした。  わが国が当時「大東亜戦争」の呼称で戦争を遂行したのは、歴史的 事実です。事の善悪は別として、この史実を抹殺するのは不可能です。  「大東亜戦争」の戦域は中国大陸をはじめ遠くビルマ及びインド洋 にまで達しました。これら歴史的事実を無視し、米国との戦争のみを 強調する名称、「太平洋戦争」を使用するのが、果たして理に適って いるのでしょうか。    

   サマータイム 節電で実施を

      ☆(2011.04.25)
 福島第1原発の事故を機に節電の必要性が増加しています。そこで、 夏時間の実施を提案します。過去の経験から、時計の針を動かすので はなく、勤務時刻の繰上げを提案致します。  まず、官公庁や学校、大企業のの1時間繰り上げることを法律で決 めます。すると中小企業や商店なども、これに追従するはずです。  人員の移動時刻が変われば、各交通機関はこれに応じた、夏季ダイ ヤを組まざるを得ません。  社会で時計の針を一斉に動かす至難を考慮すれば、この提案は実行 可能な制度だと思います。

   特攻命令直前 終戦で命拾い

      ☆(2011.02.03)
 私は十六歳で予科練を志願して、 昭和十八年に海軍に入りました。 厳しい訓練を受け、昭和十九年末に一人前の操縦員として実戦部隊へ 配属されました。  次に、昭和二十年四月大井航空隊に転属を命じられ、「白菊特攻隊」 に編入されて、特攻訓練を開始しました。 夜間突入の訓練は激烈で 犠牲者もでました。  そして、五月から六月にかけて、高知航空隊と徳島航空隊の「白菊 特攻隊」が沖縄に向けて、帰らざる攻撃に旅立ちました。  次はいよいよ我々の番だと悲痛な思いで待機していました。そこに 運命の八月十五日が訪れたのです。  助かった。これで死なずにすむんだ」。これが実感でした。 当時 私は十八歳でした。  戦後は 福岡県予科練の会の慰霊祭や、 戦死した同期生の慰霊祭、 それに、ブログなどを通じ戦没者の慰霊顕彰に余生を送っております。   
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