自衛隊こぼれ話

    

平家の財宝

福智山系の峰続きで、私の生まれた集落の端に「シロヤネ」と呼ばれる竹林に覆われた山 があります。山城の跡をしめす礎石や空堀などが今も残っています。古老の話を総合する と次のようになります。   この城は源平の昔(保元三年)、平家の手によって築城されました。そのとき、杵島姫の命 (弁財天厳島神社)を祀り、居城を「弁財天」を戴して「弁天城」と名づけました。そして 城主として「永野新九郎貞恒」が派遣されました。 今でも、ベザイテン(弁財天)の地名があり、その近くには、ヤノドンやオコンドンなどの 屋号が残っています。ヤノドンは矢野殿の意味で、矢野伝左衛門宗冬という武将の屋敷跡 と言われ、オコンドンは右近殿のことで、右近少監友房の屋敷跡と言われています。 永野新九郎貞恒は、平家が壇ノ浦で滅亡したとき、その落人を導き匿くまったそうです。 その場所は平家屋敷と呼ぶ地名で今も残っています。 また彼の一族は、平家の滅亡によって武士を捨て、農民となって暮らすことになりました。 そして、平家の落人たちも氏素姓を捨て、武具を農具に変えて農民として生きる道を選び ました。 私は先祖伝来のある口伝を親から受け継いでいます。それは平家の落人たちが氏素姓を隠 して農民となる際、何時の日か平家再興のために挙兵することを誓って、武具や軍資金に するための財宝を隠匿したというのです。口伝はその場所を伝えるものです。 これは文章や図面ではなくて、一定条件の者に対して、先祖代々口伝として伝えられたも のです。しかし、今考えるといろいろと疑問もあります。口伝だから代々伝えるうちに、 内容が多少変化しているのかも知れません。しかしながら、今となっては確かめようもあ りません。     口伝の内容は財宝を隠匿した目印「白の八重椿」という言葉です。子供の頃から平家屋敷 やその周辺を探してみましたが見付かりませんでした。また「城の八重椿」の聞き違いか とも思って、弁天城の城跡も探してみましたがやはり見つかりませんでした。長い年月で 枯れたのかも知れません。 しかし、最近になって別の解釈があるのではと思うようになりました。それは祖先の知識 でも、樹木が枯れることは承知のはずです。だから、「白の八重椿」の花に模ったものを 目印として、岩などに彫り込んだのではないかと思うようになりました。 私の郷里には地質の関係で深い洞窟が散在します。恐らくその洞窟の一部に財宝を隠して 部分的に塞ぐか洞窟そのものの入り口を塞ぎ、目印の木を植えたか、その木の花を模った 印を残したものと想像するようになりました。              「庭」だった道50年で消えた ☆西日本新聞「こだま」(2004.11.21)   私は昭和初期、福岡県田川郡方城村に農家の三男坊として生まれました。子どもの頃から 里山に入り、雑木などを切って持ち帰り、燃料にしていました。また、ワラビやキノコな ど四季折々の山菜を採取して母親が野菜を売りに行く際に一緒に売ってもらい応分の小遣 いを貰っていました。 わが家は長兄が戦死し次兄が農業を継ぎました。過日、次兄の長男から相続した山林の場 所を確認したいと言ってきました。この土地はもとは竹林でタケノコを採ったり細工用の 竹を切りに再三出入りしていて、一部に杉苗を植え毎年下草刈りにも行っていたので簡単 に案内できると思って出掛けました。 ところが私が古里を離れて五十余年。里山は急変していました。庭先同様に往来していた 山道が跡形もなく消えていたのです。現在は山菜など見向きもされずマキをたく家庭など 一軒もありません。だから里山には誰も入らなくなっていたのです。           *  夢と散り果てた平家の再興や、生まれ育った故郷の山々の荒廃を目の当たりにして、寂寥 の念一入でした。わが家の姓、永末は口伝にもあるように平家の末裔と聞かされています。 私は平家縁の者として、平家財宝の由来だけは子々孫々へ語り継いでいきたいと思ってお ります。 また弁城の集落に永末姓が多いのは、明治初期平民にも名字が許された際、弁天城の城主 永野新九郎の名字に因んで、永野の末として名乗ったと言われています。           
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