学生教育を担当して
私は昭和30年2月、発足後間もない航空自衛隊(防府)に入隊した。導入教育を修了 した後、西部航空警戒隊(春日・下甑島)、輸送航空団(美保)、第1航空教育隊(防府)、 第43警戒群(脊振山)、幹部候補生学校(奈良)、第3術科学校(芦屋)、 第12飛行教 育団(防府)で勤務した。 そして昭和52年2月20日、満50歳で停年退職した。 3等空曹で入隊し、以後昇任して停年の際は3等空佐であった。 昭和46年4月のことである。 第3術科学校の第1教育部で、教官として勤務していた 私は、学校長中村空将補に呼ばれた。話の内容は、学生隊第1大隊長として学生の面倒を みてほしいとの要請である。第3術科学校の編制表では第1大隊長は2等空佐(教育特技) の配置である。その配置に教育専門の職種でもなく、 しかも2階級も下の1等空尉を充て ようというのである。 航空自衛隊の術科学校では、入校した学生を学生隊に所属させて監督指導する。基本訓 練をはじめ体育や武術それに精神教育その他営内生活全般の指導を行う。術科教育(職種 別の専門教育)以外の教育訓練はすべて学生隊の担当で実施する。 一般社会に当てはめれば、教育部が専門知識を教える学校に当たり、学生隊は衣食住そ の他の面倒をみる家庭に相当する。 学生隊の編制は学生隊本部の下に、第1大隊と第2大隊とがあり、第1大隊は総務人事 ・会計調達・給養厚生・補給など主として事務関係の職種で構成していた。また、第2大 隊は車両輸送・車両整備・施設・消防その他技術系統の職種で構成していた。大隊はそれ ぞれ5個区隊の編制であった。 各区隊は職種ごとの課程を単位として構成されていた。課程には基礎的知識を習得する 初級課程と、4〜5年間部隊で実務を経験した隊員を教育する上級課程があった。もちろ ん幹部課程学生も入校するが、彼らは大隊には所属しない。 入校学生の人数は時期により増減があるが、最も多い時期には1個区隊に100名近く が在籍していた。各区隊には幹部の区隊長と区隊付として空曹や空士が配置されていて、 入校した学生を監督指導する。 教育部の教官はそれぞれ専門職種の授業を受け持つだけである。それに比較して学生隊 の区隊長や区隊付は幅広い仕事を担当するので大変である。特に、新隊員教育隊で自衛官 としての基礎教育を受け、引き続き術科学校の初級課程に入校してきた、入隊後間もない 学生を受け持つとなおさらである。 そのころは「いざなぎ景気」と呼ばれる好景気が続いていた。民間の雇用状況が良くな れば、必然的に自衛隊の志願者は減少する。したがって、素質の悪い連中が入隊してくる。 当時の新入隊員は中学校出身者が主体で、一部高校中退者や高校卒業者も含まれていた。 また年齢は、20歳未満の未成年者が大部分を占めていた。 成田の新国際空港用地を強制収用する問題で、警察機動隊と学生の衝突が連日のように 報道され、世情は騒然としていた。各地の大学紛争は終息の方向に向かっていたが、中学 や高校では校内暴力やいじめなどで荒れていた時代である。それがそっくり自衛隊に持ち 込まれ、いじめや暴力沙汰などの規律違反事故が続発していた。 * 航空自衛隊では、幹部自衛官に対して毎年一件「研究論文」の提出を義務づけていた。 課題は指定されることもあったが、ほとんど自由課題であった。中村校長は、私が前年度 に提出した、「神風特別攻撃隊員の精神基盤について」を読んで、私の経歴や考え方に興 味を持たれた様子である。 中村校長は、私の特攻隊時代の年齢と、問題を起こしている学生の年齢が重なり、その うえ、学生の父親の年齢層にも近いことから、彼らの心理状態を理解できると考えたので あろう。それとも、「特攻精神」で学生指導に取り組んで欲しいとの要望なのだろうか。 何れにしても、特技制度を無視したこんな型破りな人事構想を打ち出すこと自体、学校長 が藁にもすがる気持になっているのに違いない。 現在の第1大隊長である多良2佐に相談に行った。彼は元海軍第13期飛行予備学生の 出身で、903空で飛行士をされていた方である。そして特技区分も教育職種で学生教育 にも経験が深い。いろいろと内輪話を聞くことができた。彼が少々お手上げの様子を見る と、やはり大変な仕事であることは想像できる。 教育部での授業は、教程(教科書)と試験問題を準備すれば、後は同じことの繰り返し である。これを2年近くも続けてきたのでマンネリ化していた。それに比較すれば確かに やり甲斐のある仕事のように思われる。 4〜500名もの隊員を指揮監督するのもよい経験になるであろう。また、1等空尉に 昇任してすでに6年以上も経過している。上級の職務に就くことで、次期の昇任が有利に なるかも知れない。あれこれと自分に都合のよいことばかりを考えて引き受けることにし た。 ところが仕事を始めてみると想像した以上に大変である。しかも聞くと見るとでは大違 いである。次々に難問が噴出してくる。こんなはずではなかったと気が付いた時にはもう 後の祭りであった。いじめと暴力事件が続発して、早々に音を上げる始末となった。一つ を片付けると次の事件が起きるという具合で際限がない。目次へ 次頁へ [AOZORANOHATENI]