自衛隊こぼれ話

       運命の八月十五日

 昭和二十年八月、私は大井空で再編成された「神風特別攻撃隊・八洲隊」の一員として、 「特攻待機」の状態でさらに訓練を続けていた。その当時、空襲の被害を少なくするため、 兵舎は解体され基地の外に分散されていた。 飛行場のある牧之原台地から堀之内へ向かう 道路の南側に、大きな農業用の溜池がある。その周辺の松林の陰に小さなバラック建ての 兵舎があった。われわれはここをある種の感慨をこめて、「湖畔の宿」と呼んでいた。  夕暮れに、水面に映る風景を眺めながら、遥かに古里の山河を偲び。薄暗い裸電灯のも とで、トランプ占いやコックリさん(占いの一種)のお告げに一喜一憂しながら、明日の 運命を模索する生活を続けていた。  限りある生命だから、一日一日を大切に生きなければと思いながらも、己が運命の儚な さや明日に希望のないその日暮らしの生活を、当時流行していた高峰三枝子の「湖畔の宿」 の歌詞に重ね合わせて、感傷に耽けっていたのである。  そして、連日連夜死ぬための訓練が続けられていた。同じ機上作業練習機「白菊」で、 先に沖縄周辺に出撃した高知空や徳島空の戦訓に基づき、昼間の攻撃は不可能と判断され た。そのため、 夜間攻撃の訓練に専念することになった。  日暮れとともに「湖畔の宿」を出て飛行場に向かう。終夜飛行訓練を実施して夜明け前 に「湖畔の宿」に帰って就寝する。昼と夜とを入れ替えた生活が続いたのである。 兵舎の窓には暗幕を張って中を暗くしている。作業などで止むを得ず外に出る場合は、 色眼鏡を着用するように指示されていた。暗闇に慣れるための処置である。しかし、昼間 はなかなか熟睡できるものではない。窓が小さいうえに暗幕を張っているので、風通しが 悪くて蒸し暑いのがその原因である。  そのうえ、死に対する恐怖や生に対する未練など、人生経験の浅い18歳の身には解決 すべき問題があまりにも多く、ベッドに横になってもいろいろな妄想が浮かび、肉体的な 疲労とは裏腹に寝つかれない日々が続いた。  また、度重なる敵機の来襲により、食事の時間も不規則となり、睡眠時間も不足がちで あった。ある日、朝昼晩と3食も続けて、豚汁が配食された。主計科が残飯で飼育してい た豚が、前日の空襲で被弾したため、思わぬ大御馳走にありついたのであった。  当時、基地の施設は飛行場の外に疎開していた。金谷の町から坂道を登り、飛行場へ向 かう道路の両側は一面の茶畑である。その西側の林の中に、30名程度の外傷患者を収容 した、小さなバラック建ての病室があった。ここに、飛行隊の搭乗員が2名入室していた。 過日敵機動部隊の空襲に際して、交戦中に負傷した者たちである。彼らを看護するため、 同僚が交替で付き添いに行くことになっていた。  看護といっても特別な仕事などはない。空襲その他の非常に際して、彼らを安全な場所 へ退避させる手助けをするのが目的である。だから、航空食などを持ち込んで食べながら、 囲碁や将棋などで遊んでいればよかった。手頃な骨休めである。  8月15日、その日私がその病室当番に当てられていた。暑くならないうちにと思って、 朝食が終わるとすぐに病室に行った。負傷して入院している関戸兵曹(乙飛17期出身) と雑談していると、看護科の当直下士官から「総員集合、 格納庫前」の指示が出たので、 患者以外の者は飛行場へ行くようにと伝達された。  私は、せっかく休養を兼ねた病室当番に当たったのに、暑い最中を30分近くもかけて 飛行場まで歩くのが厭なので、横着を決め込んで、空いたベッドに寝転んで雑誌を読んで いた。  しばらくして、総員集合から帰ってきた看護科の兵隊たちが、何やらヒソヒソ話をして いる。「戦争が終わった……」などの言葉が聞こえる。  「オイ、総員集合で何の話があったんだ?」「ハイ、天皇陛下がラジオで直接放送され ました。雑音がひどくて、よく聞き取れませんでしたが、戦争は終わったらしいですよ」 「エェッ、それ本当かっ?」半信半疑である。一刻も早く事実を確かめたい。こんな所で ぐずぐずしているわけにはいかない。すぐに「湖畔の宿」に向かって急いだ。これが本当 ならもう死ななくて済むんだ……。今まで胸につかえていた重苦しいものが一挙に消し飛 んで、浮き立つような気持ちで茶畑の小道を走った。  「湖畔の宿」に帰ってみると、皆も興奮して今後のことについて議論を交わしている。 やはり戦争は終わったのだ。しかし、戦争が終わったと言ってもどんな形で終わったのか 見当もつかない。  戦争に負けたらしいとは分かったが、それでも負けたとは思いたくなかった。同僚の話 によれば、一度「総員集合」が伝達されたが「搭乗員は兵舎でラジオを聞け」と指示され、 総員集合には参加しなかったという。それなら私の集合欠席は正解であったのだ。           *  当日予定されていた夜間飛行訓練は中止された。その夜は久し振りに酒盛りとなった。 取って置きの酒や缶詰などを持ち寄っての無礼講である。戦争に負けた悔しさと、死から 解放された嬉しさが交差した妙な雰囲気であった。  翌日から、先行き不透明で不安な生活が始まった。目的を失いぼう然自失している時、 厚木航空隊から「銀河」が飛来して、「徹底抗戦」を訴える檄文を撒いて行った。これに 呼応する意見も出たが、賛同者は多くはなかった。      陸海軍健在ナリ 満ヲ持シテ醜敵ヲ待ツ 軍ヲ信頼シ我ニ続ケ 今起タザレバ 何時ノ日栄エン 死ヲ以テ 生ヲ求メヨ 敗惨国ノ惨サハ 牛馬ノ生活ニ似タリ 男子ハ奴隷 女子ハ悉ク娼婦タリ 之ヲ知レ 神洲不滅 最後ノ決戦アルノミ              厚木海軍航空隊 日が経つにつれ、終戦の実状も次第に明らかになった。軍隊は解体され帰郷できるとの 話である。また日本全土は占領され、敵対した軍人は皆殺しにされるとの噂も流れていた。 まさかと思いながらも、アフリカ大陸での奴隷狩りや南北アメリカ大陸における先住民族 の抹殺、さらにアジア各地を征服し植民地として搾取してきた、西欧諸国の過去の歴史を 考えると、一概に否定できないものを感じていた。  文永・弘安の役で、対馬や壱岐それに鷹島の住民が、来襲した蒙古軍から受けたような 残虐な仕打ちが、今度は全国各地で再び行われるのであろうか。また、白人に土地を奪わ れ、騎兵隊に追い立てられて行くインディアンの悲哀を、映画ではなく、現実のものとし て体験することになるのだろうか。厚木航空隊の「銀河」が撒いて行ったビラの内容が、 将来の我が国の姿を暗示しているように思われて、不安は増すばかりであった。  アメリカ軍の指示により、飛行機はプロペラを外されて飛べないようにされた。機関銃 などの武器も一ヵ所に集められ、種類ごとに区分して並べられた。昔映画でみた、忠臣蔵 の赤穂城明け渡しの場面を思い出させる情景であった。  「任海軍上等飛行兵曹、依命予備役編入」という、帝国海軍から最後の命令を受け復員 が決まったのは、8月も終わりに近くなっていた。持ち帰る品物を整理して、手荷物にま とめた。そして、不要になった所持品を焼却することにした。  大切にしていた航空記録(機種・飛行時間・任務等を記入した個人別記録簿)その他も、 皆にならって次々に焼却した。最後に「御守袋」を取り出した。過日、父親が面会に来た 際にいただいたものである。片手で拝む仕種をして火中に投じた。  その瞬間、いつの間にか中身の板札が真っ二つに割れているのが指先の感触で分かり、 慄然とした。なぜなら、「御守札」が割れるのは、危難の際に身代わりとなった証しだと 言われていたからである。  いよいよ復員できる日がきた。復員証明書といくばくかの旅費を受け取り、思い出深い 「湖畔の宿」を後にした。私は石井勝美兵曹(長崎県壱岐郡出身)と一緒に帰ることにし て、堀之内駅から汽車に乗った。汽車はすし詰めで、おまけに鈍行であった。乾パンなど の食糧は準備していたものの、最悪の旅となった。  京都駅で途中下車して、石井兵曹の親戚宅に一泊することにした。浜松、名古屋、岐阜 と焼け野原ばかり見てきた目には、数回の空襲を受け、相当数の死傷者を出したと聞いて はいたが、比較的被害の少なかった、古い京都の街のたたずまいは、妙に落ち着いた雰囲 気を醸していた。  それにしても、ほとんどの店はまだ閉めたままであった。八坂神社の前で氷屋が一軒店 を開けているのを見つけ、氷を一角買った。蜜や砂糖など有るはずがない。オガ屑を拭き とり、タオルに包んで玉垣に打ち付けカチ割りにした。そして、石段に腰かけてカリカリ と噛んだ。暮れなずむ京都の街並みを眺めながら、物を食べるという事だけで満ち足りた 気分になり、戦争が終わった喜びをしみじみと感じた。  翌朝、しばらく親戚の家に滞在して、様子をみるという石井兵曹と別れて、今度は一人 で汽車に乗った。広島駅で乗り換えのために下車したので、ついでに街に出た。「70年 間は草木も生えない」と、いわれていた市街地の様子を見て回った。一面瓦礫の山である。 「体当たり攻撃」などでは太刀打ちできない化学兵器の破壊力を、まざまざと見せ付けら れた。  夕方、下関駅に着いた。古里九州はもう目の前である。関門海峡を見渡すと、おびただ しい数の沈没船が、マストや船体の一部分を海面にさらしていた。この光景を眺めながら、 フト歴史の教科書でみた挿絵が頭に浮かんだ。それは「弘安の役」で、博多湾に押し寄せ た蒙古軍の大船団が、「神風」に吹き寄せられて、折り重なるように沈没する様子を描い たものであった。  今眼前に広がる情景が、本土上陸を目指して押し寄せた敵艦船群が、「神風」によって 壊滅した残骸であればとの願いが、一瞬脳裏をかすめた。しかし、現実にはB29の投下し た機雷による、味方船舶の被害であった。 われわれが、心密かに必ず吹くと期待していた 「神風」は、ついに吹かなかったのである。  また源平の昔、都を追われ壇之浦の合戦に敗れた平家の落人たちが、源氏の追討を恐れ て九州各地の山奥深く隠れ住んだ故事を思い回らし、先行き不安な敗戦の現実を認識した。 その反面、生きて再び古里の土を踏むことのできる喜びを、全身に感じていた。      
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[AOZORANOHATENI]