白木の箱
昭和20年3月1日、海軍では本土決戦に備えるため航空部隊の編制改正を実施した。 特筆すべきは、搭乗員の養成を中止して、練習航空隊を実施部隊に改編したことである。 そして、今まで教務飛行に使っていた練習機を「特攻機」に改造し、教育訓練を担当して いた教官や教員で、「特攻隊」を編成し「体当たり攻撃」を命じたことである。 同じ練習航空隊でも、戦闘機や艦攻それに艦爆など実用機を使用して訓練を行っていた 航空隊では、機体は少々古くても本来その目的で造られた飛行機だから実戦にも対応する ことができる。だが、赤トンボと呼ばれた中間練習機や偵察員を養成する機上作業練習機 まで狩り出すとは狂気の沙汰である。
特攻に使用された練習機「白菊」
この改編で、偵察員の養成を担当していた鈴鹿空・大井空・徳島空それに高知空では、 機上作業練習機「白菊」による「特攻隊」を編成した。いわゆる「白菊特攻隊」である。 「白菊」を特攻機に改造して編成した「特攻隊」は、夜間攻撃を主体とした猛訓練を開始 した。それは、最高速力が100ノットしか出せない「白菊」では、昼間の出撃は不可能 と判断されたからである。 そして、猛訓練により夜間出撃が可能となった5月20日、聯合艦隊の命令により実戦 配備についた。関東方面に備える第3航空艦隊には、 若菊隊(鈴鹿空)と八洲隊(大井空) が配属され、「特攻待機」の状態でさらに訓練を続けることになった。また、九州及び沖 縄方面に対処する、第5航空艦隊に配属された徳島白菊隊(徳島空)は串良基地へ進出、 同じく菊水白菊隊(高知空)は鹿屋基地へ進出して、ともに出撃準備を完了した。 そして、5月24日の「菊水7号作戦」を皮切りに、6月25日の「菊水10号作戦」 に至るまでの間、118機の「白菊」が「体当たり攻撃」を敢行し、 230余名の尊い命 が失われたのである。高知空で編成した「菊水白菊隊」には、 同期生増田幸雄君(宮崎・ 17歳)と春木茂君(愛知・19歳)が所属し、帰らざる攻撃に飛び立ったのである。 当時の状況を、第5航空艦隊司令長官宇垣纏中将は「戦藻録」に次のように記している。 「五月二十五日 金曜日 曇 沖縄周辺艦船攻撃機また出撃せるが、中には練習機白菊 を混入す。敵は八五ノットか九〇ノットの日本機、駆逐艦を追うと電話しあり。幕僚の中 には駆逐艦が、八〜九〇ノットの日本機を追いかけたり、と笑うものあり。特攻隊として 機材次第に欠乏し、練習機を充当せざるべからずに至る。夜間はともかく、昼間敵戦闘機 に会してひとたまりもなし。情けなきことなり。従って、これが使用には余程の制空を全 うせざるべからず。数はあれども、これに大いなる期待はかけがたし。」 これが、「体当たり攻撃」を命令した宇垣長官の本音であろう。練習機「白菊」までも 「特攻」に駆り出しておきながら、「数はあれども、大いなる期待はかけがたし……」で は、必勝を信じ我が身を捨てて国難に殉じた英霊は浮かばれない。 * 「菊水白菊隊」の増田幸雄1飛曹は、昭和20年5月27日1910、鹿屋基地を発進 し、嘉手納沖の敵艦船群に対して「体当たり攻撃」を敢行し、 祖国防衛の礎となった。 宮崎県都城市に住む増田ミキさんのもとに、「白木の箱」が届けられたのは、昭和21 年5月の始めであったという。長男幸雄君が戦死してから、すでに1年近くが経過してい た。箱の中には遺骨や遺品など何も入っていなかったそうである。 増田幸雄君は昭和18年8月、旧制都城中学校から予科練に入隊した。予科練卒業後は 上海空に移って、偵察や通信などの技能を修得した。昭和19年9月、飛練卒業と同時に 高知空に配属され、教員として後輩の指導に当たっていた。 明けて昭和20年3月、高知空は実施部隊に編成替えとなり、「特攻隊」が編成された。 そして、練習機「白菊」を使っての特攻訓練が開始された。同年5月20日、 作戦参加を 命ぜられて鹿屋基地へ進出した。出撃命令を受けた「菊水第1白菊隊」は5月27日夜半、 鹿屋基地を離陸、沖縄の空へ向け還らざる攻撃に飛び立つたのである。 出撃を前にして一時帰省した幸雄君は、「必ず敵を撃破してみせる。これが最後の別れ になるかも知れない」そう話しながら、母親ミキさんには元気な表情を見せていたという。 彼は昭和2年10月20日生まれで、当時17歳7ヵ月であった。 * 防衛庁戦史室の資料によれば、川田茂中尉を指揮官とした「菊水第1白菊隊」は、5月 27日1848から1937の間に20機が出撃した。そのうち12機が「体当たり攻撃」 を敢行して、悠久の大義に殉じた。 戦後の調査によると、駆逐艦ドレックスラーを撃沈、サウザード以下9隻の艦船に損害 を与えている。当日の出撃は「菊水第1白菊隊」のみであった。だから、すべて彼らの挙 げた戦果に相違ない。 * 昭和20年6月25日、春木茂1飛曹の所属する「菊水第3白菊隊」は鹿屋基地を発進、 沖縄周辺の敵艦船群に対し「体当たり攻撃」を敢行した。そして、この出撃を最後にして、 「白菊」による沖縄方面への「特攻作戦」は中止された。 「白菊特攻隊」の殿を務めて散華された、春木1飛曹の出撃の模様は次のとおりである。 沖縄はすでに玉砕し、「いまさら特攻とは」という気分が基地内に高まっていた。だから、 前日に出撃した3機は全機引き返している。6月25日「菊水第3白菊隊」は前日の3機 を含めて6機の出撃を予定していた。1900から1930までに3機が発進した。 ところが、この日も全機が引き返してきた。春木1飛曹の機は油漏れのため止むを得ず 引き返したのであった。彼は整備兵を督励して修理を急がせた。 「もう出なくてもよい! 次の機会を待て」。そう言って制止する指揮官を振り切るよ うにして、単機で離陸した春木機は、何のためらいもなく沖縄の空へと飛び去って行った。 6月26日0018、春木機から「ユタ ユタ ユタ」との電信が発信された。これは、 「我今ヨリ、輸送船ニ体当タリスル」を意味する略語である。この決別の電信を打ったの は、彼のペアである甲飛13期出身の岩下武2飛曹であった。 春木1飛曹は予科練時代は私と同じ第22分隊で、 隣の6班に所属していた。正義感が 強く責任感も旺盛で、その行動は常に積極的であった。分隊対抗や班対抗の競技などが行 われる場合纏め役の中心で、存在感のある人物であった。その彼が、「白菊特攻隊」最後 の突入者としてその名を残したのも、偶然とは思われないものがある。目次へ 次頁へ [AOZORANOHATENI]