自衛隊こぼれ話

       いさぎよく

     昭和20年7月3日、福岡県三井郡山本村に住む弥永ハルヱさんのもとに、一通の封書 が届けられた。ここしばらく音信が途絶えていた、光男君から来たのだろうと裏を返した。 ところが、差出人は「茨城県東茨城郡百里原海軍航空基地 万善東一」と、見知らぬ人の 名前が書かれていた。胸騒ぎを覚えながら封を切った。        母上様 長い間色々とお世話になりました   いさぎよく敵空母に突込んで行きます   皆々様 どうか御身体に充分注意されんことをお祈り致します  出撃の朝       神風特別攻撃隊 海軍二等飛行兵曹 弥 永 光 男      母 上   様    姉 上
  弥永君の遺書
   私は戦後この遺書を拝読した。出撃の朝とあるのは、百里原基地から串良基地へ出発し た日のことである。するとこの遺書は4月25日前後に書かれたことになる。万善東一君 がどんな経緯でこの遺書を預かったのか、そして、なぜ発送までに2ヵ月もかかったのか、 その間の事情はわからない。  万善東一君は当時同じ百里原基地に所在した、601空攻撃第1飛行隊に所属していた。 部隊こそ違っていたが、彼も予科練時代には弥永君と同じ23分隊で共に訓練を受けた仲 であった。恐らく同じ基地での再会を喜ぶとともに、同期生の誼みで遺書の発送を引き受 けたのであろう。  「特攻隊」という同じ境遇を体験していた私には、ある程度その間の事情を推察するこ とができる。当時われわれが家族や友人に出す手紙は、機密保全という名目で開封のまま 一括して分隊士に提出して、検閲を受けなければ発送できなかった。各自が勝手に手紙を 出すことは禁止されていたのである。  だから、「元気に軍務に服しておりますから、 ご安心ください」などの、建前の文章し か書けなかった時代である。「特攻隊」に編入され、今生の別れに母親宛てに遺書を送る のも例外ではなかった。  恐らく弥永君も、遺書を分隊士に読まれるのが嫌だったに違いない。だから、同期生の 万善君に相談し、母親の住所を教えて発送を依頼したのであろう。しかし、万善君も当時 帝国海軍では自他共に認める精鋭部隊、601空攻撃第1飛行隊の一員である。いつ「特 攻隊」に編入され、 出撃するかわからない立場であった。  「出撃待機」の境遇で外出もままならず、預かった遺書をどうして発送しようかと機会 を窺っているうちに、日時ばかりが経過したのであろう。そして、彼にも最期の時が刻々 と迫っていたのである。  昭和20年8月9日、万善東一1飛曹は、「神風特別攻撃隊・第四御盾隊」の一員とし て彗星艦爆に搭乗し百里原基地を発進した。そして、金華山東方海上に来襲した敵機動部 隊に対して、必死必殺の「体当たり攻撃」を敢行し、17年の短い生涯に終末を告げたの である。終戦を1週間後に控えての出来事であった。  鹿児島県姶良郡横川町在住の万善君の母親シズさんの許には、東一君からの遺書や手紙 などは届けられていないという。恐らく敵機動部隊本土接近の報に接し、急遽「特攻隊」 が編成されて直ちに出撃したため、遺書を書く暇もなかったのであろと推察する。  それとも、遺書を書いてだれかに預けていたのが、発送の機会がないうちに終戦となり、 あの混乱の中で散逸したのかも知れない。いずれにしても、間もなく戦争が終結すること など夢にも知らず、遠い古里の母親に今生の別れを告げることもできずに、命令に従って ただひたすら、敵艦に向かって突撃したのであろうと想像する。母親シズさんにとって、 この1週間の差は、百年にも相当する惜しみて余りある痛恨事であろう。               *  故海軍少尉弥永光男君は、昭和20年4月28八日、「神風特別攻撃隊・第1正気隊」 1番機の電信員として97式艦上攻撃機に搭乗して串良基地を発進し、沖縄周辺の敵艦船 に対して、必死必殺の「体当たり攻撃」を敢行して大空に散華された。その功績は前掲の とおり、聯合艦隊告示第145号により全軍に布告された。  私は、弥永君の絶筆を拝読する度に、その行間に隠された彼の心情を感じ取り、涙を止 めることができない。当時われわれ下士官・兵の営舎内での生活はすべて束縛され、自由 など存在しなかった。一枚のハガキを出すにも、分隊士に提出して検閲を受けなければな らず、自分の思いをそのまま書ける雰囲気ではなかったのである。  「特攻隊」に編入されて遺書を書こうとしても、「特攻は軍の機密だ、部外に漏らして はならぬ」と言われ、手紙に書くことさえ禁止されていた。また、遺書を書いたとしても 確実に肉親に渡してもらえる保証もなかったのである。そのうえ、検閲などで他人の目に 触れることを考えれば、心の中をそのまま書くことなど思いもよらないことであった。  恐らく弥永君も、死を覚悟しながら遺書を書くことで悩んだに違いない。まず検閲を受 けずに、確実に母親に届ける方法はないものかと思案したことであろう。それができれば、 本心をそのまま書き残すことができるからである。  次に、自分の心中をどのように書き表すかで悩んだことだろう。もし他人に読まれても 不自然でない文章で、肉親には本心を読み取ってもらえるような表現を模索したのではな かろうか。しかし、そんな器用な文章など書けるものではない。  あの当時、一般の家庭には電話などなかった。仮にあったとしても長距離の市外通話は、 ほとんど聞き取れないのが実情であった。電話の発達した現在では想像もできないことで ある。   私もその時期大井空で「特攻隊」に編入され、彼と同じ境遇を体験していた。だから、 彼の胸中を推察することができる。あれも書きたい、これも書き残したいと模索しながら、 本心を伝える言葉が見つからず、結果的には通り一遍の文章になったのであろう。彼は、 この数行の遺書を書くのに、恐らく一睡もできずに呻吟したのではなかろうか。  「いさぎよく」この5文字に、彼の胸中が凝縮されている。書きたいことが山ほどあり ながら一晩中かかってもまとめきれずに、万感の思いをこの五文字に託したのであろう。 この世の未練や肉親との哀惜の情を、いさぎよく断ち切って、命令に従って敵艦に「体当 たり」するという彼の決意は、だれに読まれても決して恥ずかしくない立派なものである。 だが、伝えたい事の万分の一も書けない焦燥に、打ち拉がれていたのではなかろうか。  そして出撃に際しては、 同期生万善東一君に託した遺書が、無事に母親の許に届くこと を念じていたであろう。そして、「体当たり」の瞬間、彼の脳裏には優しく微笑む母親の 面影が焼き付いていたに違いない。        * 拝啓 突然お手紙を差しあげる失礼をお許しください。 私は神風特攻隊員だった、弥永光男の姪にあたる者でございます。 去る八月十五日の夕方のことだったと思います。見るともなくつけ放しにしていたテレビ から特攻隊という言葉が聞こえて思わずテレビをみつめました。 父の弟が特攻隊員であったことから、幼いときから特攻隊と聞くだけで敏感になっており ました。 画面に永末様の年齢が七十歳と出ておりましたので、「あゝ光男さんも生きておられたら ちょうど同じ七十歳だなあ」と思いながら見ておりました。 ところが次の瞬間、弥永光男と書いた遺書が画面に映り、私はあっと息をのみました。 光男さんは私の父の末弟です(三男で末っ子)。 私たち兄妹にとりましては叔父にあたりますが、四人兄妹のうち昭和十三年生まれの兄と 十五年生まれの私だけはその面影を覚えており、「お兄ちゃん」と呼んでいた気がします。 私たちは光男さんのことを、「叔父さん」ではなく、「てるおさん」と呼んで、その生涯 を話したりしてその若い遺影をしのんでいました。 その間、いくたびか訓練の苛酷さを思い涙をふいたことでしょう。 志願なんかされなかったらよかったのに……。 いっそ試験に合格などされなかったらよかったのに……。 そんなことが何度も私の胸裡をよぎりました。 入隊から最期の日までの歳月、何か楽しいことのひとつもあっただろうかと思うのです。 光男さんの遺書は、どのような経路で届いたのか、幼少であった私にはわかりませんが、 三井郡山本村の生家にたしかに届いておりました。 母親ハルエにとりましては覚悟をしていたとはいえ、目に入れても痛くない末の男の子の 戦死はどんなにかつらかったでありましょう。 長男である私たちの父もまた、それまで妻子と共に台湾にあり、精糖会社に勤務しており ましたが、昭和十七年召集により出征しました。母は四才の兄と二才の私をつれて、はる ばる台湾から引き揚げてきて父の生家に落ちつきました。 祖母と母と私たち幼い兄妹という、いわゆる女子供だけの明け暮れの続くなかに、光男さ んの戦死の公報が入ったのでした。 父が光男さんの戦死を知ったのは、昭和二十二年、ジャワ島から復員してのことでした。 長兄である父は、年齢の離れた弟光男さんが可愛いくて、またふびんでならなかったので しょう。ことあるごとに特攻隊の記事があれば切り抜いて保存したり、また本を買ってき ては光男さんを偲んでおりました。光男さんの話になると胸が塞がる様子でした。 その父は昭和五十六年、他界いたしました。母もまた、「光男さんはほんとに愛らしい顔 をしてあったのよ」と、よく私たちに話をしました。 光男さんの遺書は祖母亡きあと母が大事に保管し、またいろいろな資料をアルバムに整理 したりして今も山本の生家にあります。その母も、光男さんの五十年忌の法要をねんごろ に営み平成七年に逝きました。 三井郡山本村であった村は、昭和三十三年に久留米市に合併し、久留米市山本町となって います。 両親なき後の生家は現在兄が守っていますが、ふだんは福岡市に在住のため、週末を山本 に来て過ごすという往ったり来たりをくりかえしています。 私は小郡市に住み、主人と娘と私の三人家族の生活です。すぐ隣りの大刀洗町は、昔大刀 洗飛行場があった所です。 JR基山駅から甘木まで、第三セクターによる甘木鉄道にはレールバスが走っていて、い つも利用する松崎駅から三つ先の大刀洗駅に平和記念館があります。 まだ一度も行ったことがありませんのでこの機会に行ってみょうと思います。 あの日のテレビ放送には感謝の念でいっぱいです。 あの放送を見なかったら、光男さんの飛行機が発進した串良基地のことも、また現在平和 公園となったその地に、昭和四十四年に戦没者慰霊塔が建立され、毎年十月十五日に追悼 式が行われていることも、全く知らずじまいになるところでした。 知らなかったとはいえ、長い間身内の者の訪れもなく、光男さんはどんなに淋しかったで しょう。旅なれない私ではありますが、お教えいただいてぜひその地を訪れたく存じます。 私ごとを長々と書きそのうえ悪筆にてわずらわしかったと思いますが、どうしてもお便り 差しあげたく、放送局に電話してご住所を教えていただきました。 失礼の段はどうぞお許しくださいませ。 永末様におかれましては御身をたいせつにくれぐれもお元気にお暮らしのほど切にお祈り 申しあげます。                             敬 具   九月一日                                        楢 崎 マ サ 子           *  平成9年8月15日、私の特攻隊時代の体験談が、「終戦特別番組」としてテレビで放 映された。楢崎様はたまたまこれを見られてお手紙を書かれたと言われる。それにしても、 単なる偶然とは思われないものを感じた。  このお手紙を受け取った私は、 9月28日に「甲飛12期生第18回慰霊祭及び全国同 期生会」を別府市で実施することになっていたので、早速この会の幹事役である別府市の 鈴木克美君に連絡して、楢崎マサ子様を同期生会にご案内するように手配した。  そして当日、鹿児島空や上海空それに百里原空で、弥永光男君と同じ部隊で勤務してい た、西部博俊君(福岡)や同じ中学校から一緒に予科練に入隊し、鹿児島空や上海空で行 動を共にした、筒井義春君(佐賀)を紹介した。  また、串良基地主催の平和公園での追悼式にも出席したいとのご意向を受け、東串良町 に在住され献身的にご遺族のお世話をなされている、中西スミ子様を通じて追悼式案内状 の発送を串良町に依頼した。そして、鹿屋市在住の同期生内山勇雄君には、追悼式当日の 案内役をお願いした。 拝啓 行く秋の風の冷たさが身にしむ候となりました。その後お変わりなくお過ごしでしょうか。 別府の同期生大会から串良の追悼式への出席まで、いろいろとお気づかいいただきました こと、心からお礼申しあげます。  おかげさまで、戦後五十二年にして初めて、叔父弥永光男の出撃の地、串良の戦没者追 悼式に参列することができました。会場にて、中西スミ子さんとお会いし、私が式に来ら れたことを自分のことのように喜んでくださいました。中西さんはとてもお元気でした。  また、同期の佐藤千年氏が「弥永君とは予科練で班が一緒でした」と、声をかけてくだ さいました。犬童憲太郎さんのお妹様夫妻ともお会いしました。いくつもの花輪のなかに、 元正気隊員の方からのものがあり嬉しく思いました。  懇親会では、はじめての出席なので誰も知っている方はいないだろうと思っていました ら、「楢崎さんいらっしゃいますか」と、四人連れの男の方が名簿を頼りに私をさがして おられ、「よかったらこちらの席へどうぞ」と、招かたのでした。正気隊員だった江名氏 と加藤氏それに前田氏。また百里原で皆と一緒だった小林氏、みんな光男叔父を知る方々 で、結局この方々が花輪をあげてくださったのでした。いろいろ資料をいただきました。  翌日、内山氏にホテルまで車で迎えに来ていただき、鹿屋の慰霊塔に行ったところ、こ こで、江名氏、小林氏に出会いました。内山氏が「よかったらご一緒にどうぞ」とお二人 を誘い、鹿屋航空基地史料館や、桜花の碑などゆっくり時間をかけて見学することができ ました。内山氏には二日間すっかりお世話になったうえに、帰りにはおみやげまでいただ いてきた次第です。  永末様とのご縁をきっかけに同期生の方々には、大変親切にしていただき感謝していま す。このことは、光男叔父にも必ずや通じたことと思います。戦後五十二年、膨大な月日 の流れにかかわらず、またこの世去りし人とは、十万億土へだたり住むにかかわらず、縁 の糸は切れてはいなかった。そういうことを痛感した秋でした。いろいろのご配慮ありが とうございました。寒さきびしくなる折から、ご健康にお過ごしになりますよう、お祈り 申しあげます。                             敬 具   平成九年十月二十八日                                   楢 崎 拝 追伸 今日夕方、別府大会の写真が届きました。     大変ゆき届いた会で心あたたまる思いがいたしました。
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