特攻串良基地
父上母上様、愈々私の出撃の日が参りました。
私も栄ある神風特攻隊八幡護皇隊の一員として、先輩兄鷲達の後に続く事が出来るのです。
父上、母上、皆喜んで下さい。私もニッコリ笑って出撃します。
今や沖縄の戦局は益々熾烈となり、この時我々が立たずんば誰がやりましょう。
大いに頑張ります。大いにあばれて敵の空母若しくは戦艦に体当たりします。
私の戦果を楽しみに待って居て下さい。私も十八才の春を迎へ、この間何ら孝行というこ
とも成すことなく散って行くのですが、之が私の最初の孝行で最後の孝行であります。
又母上には、家に居る時はいつもわがままな事ばかり言って、何と言ってお詫びして良い
かわかりません。
靖秀、ソミ子の事は呉々も宜しくお願いします。
ソミ子は一生懸命勉強せよ。靖秀も人に負けぬ様に頑張れ。
私もこの時に当たりて、母上の丹精こめられて作って下された千人針を、固く固く巻いて
行きます。家の裏で四人で写った写真と、兄上の写真を持って突込んで行きます。
兄上も靖秀も立派な軍人になって下さい。兄上もすぐに兵隊にいくと思いますが、いくら
上官になっても、常に下士官、兵の労を忘れてはいけません。軍隊は上と下とが一致して
はじめて強い軍隊が作られると思います。最後まで私の分まで孝養を盡くして下さい。
散る桜 残る桜もまた散る桜 我は征く
大日本帝国に生まれた事をつくづく感謝します。又小学校時代、中学校時代の先生方にも
宜しく。近所の方々や親類の方々には呉々も宜しく。
私は上海に居る時も、敵の戦闘機P51の為に顔に負傷しました。 益々敵愾心を旺盛にした
のです。上海から一年振りに内地に帰りましたが、一週間ぐらいで攻撃命令が下り、面会
もできたのですが、もし面会して未練でも残り、立派な働きができない様な事があっては
申し訳ないと思ったのです。どうぞ悪しからず。
出撃に当たっては、宇佐神宮に参拝しました。又佐世保鎮守府長官との握手や訓辞等を受
け、恩賜の煙草まで頂戴しました。必ず日本は勝つのです。最後の一人までが頑張り抜け
ば良いのです。私は神州の不滅を信じて飛び立って行きます。
父上、母上、兄上、靖秀、ソミ子の多幸を祈って已みません。御身体は呉々も大事に御働
き下さい。亡き母も亡き兄上も冥土で待って居られる事でしょう。有難う御座居ました。
遺骨は残らぬ故、遺髪を送ります。出撃の日は宇佐八幡神忠隊の指揮官機の電信員です。
敵艦目がけて突込む時の電信を皆に聞かせたいです。予科練、飛練と鍛へられた攻撃精神
で全力を振るいます。絶対人に後れはとりません。
同乗される方は、操縦員大石少尉。偵察員小野寺少尉。四月二十八日午後三時二〇分発進。
沖縄周辺の敵艦目がけて突込むのは、午後六時三〇分頃です。抱いて行く爆弾は八百Kg
の爆弾です。之一つあれば如何なる敵艦でも、一発で轟沈するのです。
上海でお世話に成った下宿の人にも知らせて下さい。宇佐より送った金子と小荷物は受け
とられましたか、あれは上海土産です。小波津君等の仇を討ちます。日本人なら最後まで
頑張れ。神州不滅 必中轟沈 これで何も思い残すことはありません。お元気で 佐様奈良
ニッコリ笑って行きます。兄上達の御健闘を祈ります。
二十年四月二十七日
串良基地にて 憲 太 郎
「八幡神忠隊」の指揮官清水少尉機(小野寺少尉は腹痛のため清水少尉と交替)の電信
席に搭乗した犬童2飛曹は、 1535離陸。1913「ヒヒヒヒ(敵機の攻撃を受けつつ
ありを意味する略語)」を発信した。その後、2009「敵艦見ユ」が発信された。次に
電鍵を押さえ放しにして「ツ──────」と、長符を送信した。この発信音が10秒間
続いて、2018に途絶えた。即ち体当たりの時刻である。
また、百里原空で編成された「第1正気隊」の指揮官須賀少尉機の電信席には、同期生
弥永光男2飛曹が搭乗して出撃。共に壮烈なる「体当たり攻撃」を敢行し、悠久の大義に
殉じた。
*
昭和二十年五月一日 讀賣新聞 [○○航空基地坂入報道班員發]
(大分県国東郡国見町 桐畑正寿氏保存)
突入の寸前連絡絶つ 愁いの基地に矢繼早や命中の飛電
沖縄周邊敵艦船群撃滅を期す豪壮な總攻撃が決行された廿八日、 この基地から總攻撃の
一翼を擔ふ神風特別攻撃隊の各隊員が、相踵く出撃をとげ人機諸共敵艦船に炸裂する嚴肅
な瞬間が刻々と迫つたのである。特有な金属音の中から特攻隊員の發信する電波を補捉し
ようと、全神經を打込んでゐた。緊急作戰電報は次々と届けられてくる。暮色漸く深く、
こゝ○○戰闘指揮所は、息苦しい程に張りつめた時を刻んでゐた。全神經を傾けて電波と
取組む電信員の左手は頻りとダイヤルを調節し、聴取り難い聲を補捉しようとする努力に
表情が蒼白んで見えた。
その時「突入」の電信が入つた。「發信機は」「○番機です」ー搭乗員桐畑小太郎上飛
曹、 安達卓也少尉、 菅澤健二飛曹であることが次ぎ くに判つた。よくぞやつてくれた。
敵戰艦を發見するや怒髪天を衝く必沈の氣魄凄まじく、これが頭上に殺到して征つた崇高
限りない機上神鷲の姿を想ひ、指揮所の誰もがふと瞑目した。
ところが同機から送られて來た電波は意外にも敵夜間戰闘機との遭遇であり、そのまま
電波は後を絶つてしまつた。深い愁ひの影が誰もの顔を横切つた。あの邊りに多い夜間戰
闘機の執拗な追躡攻撃を受け、しかも一度これを受ければ殆ど攻撃續行の不能なことは餘
りにも判然としてゐたからだ。幾時か経過した。また電波が入る。○○機下川正浪、上保
茂両少尉、三島章二飛曹の搭乗機である。電文は「空母に突入す」續いて「突入しつゝあ
り」「突入」と、傳はつた。これを最後として同機からの無電は斷つたのである。
私はこの日折柄の太陽のなかで、「最後の瞬間迄よく氣を沈め十全の技倆をつくして敵
撃滅に當つて欲しい」との司令の壮行の訓示を受けてゐた隊員達の中から、この三人の姿
を思ひ浮べようとしたとき、一番機が離陸する頃機上から擧手の禮で父祖の地に永別を告
ぐる敬虔な姿が腦裡をかすめるのであつた。
引續いて山西富三郎二飛曹、生良景少尉、赤堀彰司二飛曹機から「戰艦躰當り」との凄
絶な無電があつた。ついで大石正則、清水吉一両少尉、犬童二飛曹機からまたしても敵戰
闘機と遭遇との無念な電信だつたが、それから更に○○分を経過した頃には敵夜間戰闘機
に撃墜されたと諦められてゐた安達卓也少尉機から、大型輸送船撃沈の無電が送られ沈着
果敢克く敵夜間戰闘機の追躡攻撃をかはして、大型輸送船一隻を屠り悠久の大義に生きた
経緯を明らかにした。
*
昭和20年4月28日、串良基地から発進した「特攻隊」は次ぎのとおりである。
神風特別攻撃隊 八幡神忠隊 宇佐空 97艦攻 3機 少 尉 清水吉一以下9名
神風特別攻撃隊 第1正気隊 百里原空 97艦攻 2機 少 尉 須賀芳宗以下6名
神風特別攻撃隊 白鷺赤忠隊 姫路空 97艦攻 1機 候補生 後藤 惇以下3名
聯合艦隊告示第一四五号
布 告
神風特別攻撃隊第三草薙隊、第二正統隊、八幡神忠隊、第一正氣隊及白鷺赤忠隊員トシテ、
昭和二十年四月二十八日相續イテ勇躍出撃、敵ノ至嚴ナル哨戒網竝ニ猛烈ナル防禦砲火ヲ
冒シ沖縄周邉ニ蟠居セル敵艦船群ニ對シ、必死必中ノ躰當リ攻撃ヲ決行シ克ク其ノ精華ヲ
發揚シテ悠久ノ大義ニ殉ス、忠烈萬世ニ燦タリ仍テ其ノ殊勲ヲ認メ全軍ニ布告ス
昭和二十年八月七日 聯合艦隊司令長官 海軍中将 小 澤 治 三 郎
*
第5航空艦隊の司令部が置かれていた鹿屋基地は、鹿児島県大隅半島の中央部にある。
その東方志布志湾に面して串良基地があった。この基地は沖縄決戦に際して、艦上攻撃機
の作戦基地として使用された。特攻出撃に夜間雷撃にと数多くの艦上攻撃機がここを基地
として戦ったのである。
その当時、戦闘機は第1国分基地、艦上爆撃機は第2国分基地、銀河は宮崎基地そして
鹿屋基地には陸上攻撃機というように、機種によって使用する基地が指定されていた。各
航空隊から作戦参加を命ぜられた艦上攻撃機は、この串良基地に進出し、第5航空艦隊の
指揮下に入り、沖縄周辺の敵艦船に対して雷撃及び爆撃を敢行していた。
神風特別攻撃隊の編成を命ぜられた、第10航空艦隊隷下の宇佐空・姫路空・名古屋空
・百里原空の九七艦攻(97式艦上攻撃機)も、ここ串良基地から次々に出撃した。また、
131空の254飛行隊及び256飛行隊で編成された「菊水部隊・天山隊」も、ここを
基地として、沖縄周辺の敵機動部隊に対して還らざる攻撃に飛び立ったのである。
沖縄作戦で「特攻機」として使用された天山艦攻は39機(突入確実と認められたもの
28機)である。零式戦闘機の630機や彗星艦爆の120機それに白菊の118機に比
較すれば極端に少ない。これは「夜間肉薄雷撃」を反復実施することで、「体当たり攻撃」
以上の戦果が期待されていたからである。
ところが、昼夜を分かたぬ敵戦闘機の襲撃や、猛烈な対空砲火による被害は甚大で、無
事に帰還できる確率はきわめて少なく、200機を越える未帰還機をだしたのである。
このような状況下で、沖縄作戦に参加した艦上攻撃機の搭乗員は、日時に多少のずれは
あったが、大部分の者がここ串良基地に進出して戦った。131空攻撃254飛行隊には、
穂坂信也・上原俊一・福迫満の各2飛曹が所属し、ここから魚雷を抱いて出撃を重ねてい
た。
また、131空攻撃256飛行隊では、田中一夫・平岡健哉・島原芳高・酒井知通・出
直敏・石川繁の各2飛曹が練成訓練を終了して、 串良基地に進出した。彼らはいずれも、
百里原空で艦上攻撃機の延長教育を私と一緒に卒業した同期生である。
4月下旬のある日、攻撃254飛行隊の穂坂2飛曹が早めの夕食を済ませて、夜間雷撃
に出発するため掩体壕に向かっていた。すると、懐かしい97艦攻が駐機している。尾翼
のマークを見れば、間違いなく百里原空所属の機体である。
使い古したはずの飛行機なのに新造機と見違えるようにきれいに塗装されていた。源平
の昔、討ち死にを覚悟して出陣した平家の老武将が、白髪を染めて戦場に赴いた故事に倣
い、整備の連中が化粧を施したものであろう。
穂坂2飛曹は去る4月12日、われわれが飛行訓練に使用していた97艦攻に、高森大
尉を指揮官として中西中尉や先任教員横山上飛曹をはじめ、春原上飛曹、高尾上飛曹それ
に増子上飛曹ら当時われわれを直接訓練した教官や教員が乗り組んで、次々に出撃するの
を断腸の思いで見送ったばかりである。
引き続き4月16日には、吉池教員が皆の後を追うようにして出撃した。今度はだれが
出撃するのだろう。待機している搭乗員の中に桐畑教員の姿があった。半年前まで、われ
われ雛鷲を手取り足取り教え育てた親鷲が、その死期を迎えようとしているのである。
巣立ったばかりの若鷲たちが新鋭の天山艦攻で雷撃を反復実施しているのに、経験豊富
な教官や教員に、旧式の97艦攻で一回限りの「体当たり攻撃」を命ずるとは、あまりに
も理不尽に思われてならない。(海軍では士官を教官と呼び、下士官は教員と呼んでいた)
また、電信員として共に出撃する同期生、 弥永光男2飛曹(福岡)と菅沢健2飛曹(千
葉)が待機していた。今生の別れに聞いておきたいことや、 話したいことが山ほどありな
がら、いたたまれない気持ちになり早々とその場を離れた。
*
穂坂信也1飛曹(5月1日進級)は福岡県嘉穂郡の出身である。鹿児島空の予科練から
谷田部空の中間練習機そして百里原空の艦上攻撃機と、私と同じ課程を進んだ仲である。
飛練卒業後は131空の攻撃254飛行隊の所属となり、天山艦攻による練成訓練を終了
して串良基地へ進出した。そして、沖縄周辺の敵艦船群に対して夜間雷撃を敢行していた。
その間、「特攻隊」として串良基地から出撃する、百里原空時代の教官や教員それに同
期生を、断腸の思いで見送ったのである。沖縄作戦の終了にともない、攻撃254飛行隊
は香取基地へ移動した。だが彼は、串良基地所在の931空に転属となり、引き続き沖縄
周辺の敵艦船に対する夜間雷撃に出撃していた。
昭和20年7月21日、その夜天山艦攻4機が夜間雷撃に出撃した。4番機の操縦員は
穂坂1飛曹、偵察員湯川中尉、電信員は同期の浅野1飛曹(東京)で、串良へ進出して以
来の固有のぺアであった。彼らは最後に離陸した。この出撃の様子を同期の宮本1飛曹が
見送っていた。
離陸の際に排気管から〈パンパンパン……〉と異常な音を発していた。エンジンの調子
がおかしい様子であった。先に離陸した3機が左に旋回して行ったのに、彼らだけは右旋
回をはじめたので、引き返してくるものと思っていた。
ところが、彼らの飛行機はそのまま低く垂れ込めた暗雲の中へ爆音を残しながら、志布
志湾の方向へ姿を消した。そして翌朝、彼の飛行機だけは帰投時刻を過ぎてもついに帰還
しなかった。彼もまた教官や教員それに数多くの同期生の後を追うようにして、沖縄の海
に消え去ったのである。享年18歳であった。
福岡県護国神社で例年行われる予科練戦没者の慰霊祭に、穂坂君の母親が彼の姉さんと
参加された。その際、「偉い人は、息子が出た時期には戦争が終わることが分かっていた
はず、無理に命令を出さなくてもよかったのに……」と、慨嘆された。確かに母親の言わ
れるとおりである。状況を知りながら命令を下した者、そして必勝を信じてただ黙々と散
り果てた若者たち。一人残された母親の嘆きをお慰めする言葉は見つからなかった。
*
鹿児島県肝属郡串良町は、 旧串良海軍航空基地の跡地の一部を整備して「平和公園」と
した。そして、昭和44年10月11日、ここ串良基地より飛び立ち、祖国防衛のために
若くして散華された、300有余柱の英霊の鎮魂を願うとともに、この事績を後世に伝え
るため、慰霊碑を建立した。さらに、毎年10月にはご遺族をはじめ関係者が集まって、
追悼式を行っている。
平和公園慰霊碑。
今出撃せんとす
何も思い残すことなし
父母兄姉よ幸福であれ
心爽やかにして大空の如し
こうしているのもあとしばらくです
さようなら
太平洋戦争末期斯くして串良
航空基地より飛立ち 肉弾となりて
帰らざりし三百有余の御霊よ
安らかれ
必ずや平和のいしずえとならん
昭和四十四年十月十一日
旧串良海軍航空隊基地出撃戦没者
慰霊塔建設期成会々長
串良町長 佐 枝 潔
串良基地から出撃した特攻隊員の絶筆。氏名の判読できた方の所属及び出身県。
常磐忠華隊 増子定正上飛曹(福島)は百里原空時代の教員であった。
第二護皇白鷺隊(姫路空) 野元純候補生(長崎)・菅田三喜雄候補生(岩手)
福田茂男候補生(岡山)・古谷純男候補生(神奈川)・沢田久男2飛曹(大阪)
田中謙四郎2飛曹(東京)・森久2飛曹(香川)
第三護皇白鷺隊(姫路空) 栗村敏夫候補生(広島)・原正候補生(千葉)
大谷康佳2飛曹(香川)・羽生国明2飛曹(茨城)・入江義夫2飛曹(島根)
白鷺赤忠隊(姫路空) 山田又市候補生(静岡)・後藤惇候補生(和歌山)
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