旅がらす
あの当時、戦死者の遺品などを整理するのは、生前同じ部隊で勤務していた同期生など、 最も身近にいた者が、自発的に行うことが不文律となっていた。官給品は定数を確認して 返納し、私物などは目録を作って「海軍葬」に出席されたご遺族にお渡しする。これが、 一般的な手続きであった。 ところが、戦線が本土に近づくにつれて空襲も激しくなり、交通機関も混乱しはじめた。 そのため内地においても、従来のようにご遺族をお迎えして「海軍葬」を行うことは困難 になっていた。 そのうえ、搭乗員は飛行機と共に原隊を離れ、着替えの下着や洗面道具それに缶切りな ど最小限の生活用品を用具袋か落下傘バックに詰め込んで、訓練基地や出撃基地へと頻繁 に移動する。飛行機での移動は重量に制限があるため、制服その他の官給品や私物など主 な荷物は原隊に置いたままである。 戦死の連絡が出撃基地から所属部隊に届けられても、原隊には遺品を整理する同期生な ど一人も残っていないのが普通である。そのうえ、「海軍葬」も実施されなくなったので、 遺品などをご遺族に公的にお渡しする手段はなくなっていた。だから、つてを求めて個人 的に届けてもらうしか方法はなかったのである。 同期生が戦死した場合には後に残った者が、お互いに遺品整理などの後始末を仕合うと いうことは、無言の了解事項であった。だから日ごろの会話の中で、「俺が死んだら、後 を頼むぞ……」と言って、友情を確かめ合っていたのである。また、戦死した後に汚れ物 などを残こして同期生に迷惑をかけないように、常に気を配ったものである。 ところが、これらの遺品が確実にご遺族に渡される保証はなくなっていた。なぜなら、 「海軍葬」が実施されなくなったばかりでなく、「体当たり攻撃」が目的である特攻作戦 では、通常の出撃と違って、全機が未帰還となる場合が多いからである。 だから、後始末をする同期生など一人も残らないのが普通である。そのため、遺品など の処理は見ず知らずの他人が、事務的に行うことになる。これでは、出撃する者が後始末 に不安を感じるのは当然である。 そこで、整備兵など地上勤務の兵隊の中から同郷の者などを探し出して、遺書や伝言な どを個人的に依頼することになる。ところが、ここでも問題があった。「空地分離」と呼 ばれた新しい編制である。これは、 飛行隊の搭乗員と整備兵をはじめとする基地勤務要員 とを分離した制度である。 この制度では従来の部隊移動のように、航空隊のすべての機能が一体となって移動する のではない。整備兵などの地上勤務員は、それぞれの基地に張り付いたままで動かない。 移動するのは、飛行機とその搭乗員だけである。 そのため、飛行機の整備などは移動した先の整備兵が担当する。この移動方式は、作戦 運用にのみ重点が置かれた制度で、人間関係などは無視されていた。各航空隊で編成され た「特攻隊」の飛行機とその搭乗員は、艦上攻撃機は串良基地、艦上爆撃機は第2国分基 地、戦闘機は第1国分基地、 銀河は宮崎基地、それに陸上攻撃機は鹿屋基地と、あらかじ め機種ごとに決められた出撃基地に送り出される。 これらの出撃基地には、指定された機種ごとに専門の整備兵が効率的に配置されていた。 そのうえ、燃料をはじめ魚雷や爆弾それに機銃弾など、 それぞれの機種に応じた装備品が 重点的に集積されていたのである。 また出撃命令にしても、原隊の司令を通じて発令されるのでなく、航空艦隊司令部から 直接発令されるのである。出撃する搭乗員と飛行機は、訓練基地からこれらの出撃基地に 進出し、整備兵から燃料や爆弾などを積んでもらい、主計兵からは心尽くしの弁当を渡さ れ、「ありがとう……、お世話になりました……」と、お礼を言って飛び立つだけである。 だから、彼ら地上勤務員との間には私的な交流などない。個人的に遺書などを託せるほ どの信頼関係が生まれないうちに、出撃して行くことになる。搭乗員は昔の「旅がらす」 のように、原隊を離れて着のみ着のままで訓練基地から出撃基地へと、雨や嵐を気にしな がら、明日をも知らない一宿一飯の旅を続けていたのである。渡り鳥 帰らぬ身とは知りながら 一筆かきし 文となりにし これは「神風特別攻撃隊第3御盾隊」の右田勇君が、出撃の前日家族に宛てた絶筆である。
「………握る操縦桿にも撃ち出す機銃にも、はたまた叩く電鍵にも、昨夜の未練はさら にさらになし、あゝ俺ら空行く旅がらす、明日の命を誰が知る……」 これは、酒が入ると皆でよく歌った、ダンチョネ節の前説の終わりの部分である。続いて、 「沖のカモメと飛行機乗りはよ、どこのみ空でね果てるやら、ダンチョネー」 と、空飛ぶカモメに我が身を重ね合わせて蛮声を張りあげていたのである。
どこのみ空で果てるやら・・・・
「若い翼を茜に染めて、燃ゆる機上でにっこり笑ふ、それで良いのさ俺らの一生、残す 言葉も遺書もない……」 だれが作詞したのか知らないが、これもあの当時よく歌われた雷撃隊の歌の一節である。 皆の前では勇ましく歌っていた彼らだが、歌の文句とは裏腹に今生の別れに、父母や兄弟 に伝えたい言葉が山ほどあったに違いない。しかし、なに一つ書き残すこともできずに、 蒼空の果てに消え去ったのである。 「八幡護皇隊」の堤昭君の父親、同じく「八幡護皇隊」の小河義光君の母親、「第6銀 河隊」の光石昭通君の母親、それに「第9桜花隊」の相川和夫君の姉上からお便りをいた だいた。しかし、いずれも遺書や遺稿など受け取っていないとのことである。はじめから 書かなかったのか、それとも、何らかの手違いで届かなかったのか、どちらかであろう。 私は沖縄作戦が始まった4月上旬、大井空で「特攻隊」に編入されて配置についた。と ころが、出撃の機会がないまま沖縄作戦が終結したので、6月下旬「特攻待機」が解かれ、 鈴鹿基地に派遣された。ここで、相次ぐ「特攻作戦」で大量に喪失した搭乗員を補充する ため、機上作業練習機「白菊」を使って偵察員の急速錬成訓練を開始した。 ところが7月下旬に至って、急遽大井空に帰還を命ぜられた。そして、本土決戦に備え るため再び「特攻隊」が編成された。このように、前後2回にわたって「特攻待機」の境 遇にありながら、その間遺書を書いた記憶はない。だからといって、立派な覚悟ができて いたわけではない。ただ単に、一日延ばしにしていたに過ぎない。 あの当時、死を目前にして何か書き残さねばと思いながらも、他人に読まれることを気 にして自分の想いを纏め切れずに悩んでいた。それと同時に、上官の検閲を受けずに両親 に届ける方法はないものかと模索していたのである。 * 故海軍少尉松木学君は、宇佐空で艦上爆撃機の飛練を卒業し、同期の江藤君や古小路君 らと出水基地の762空攻撃406飛行隊に配属された。ここで、銀河による錬成訓練を 開始した。ところが、南九州地区が敵機動部隊やB29の空襲を頻繁に受けるようになった ため、飛行隊は原隊を離れ、美保基地に移動して錬成訓練を続けることになった。 松木君は錬成訓練終了と同時に「特攻隊」に編入された。そして、出撃基地である宮崎 に進出することになった。彼は、その移動の途中に編隊を離れ懐かしい生家の上空へ飛び、 母親に宛てた遺書を、マフラーに包んで投下するという非常手段をとったのである。 昭和20年5月10日、愛媛県宇摩郡長津村の上空に双発の飛行機が1機高度をさげな がら飛来し、低空を旋回しはじめた。そして、白い布に包んだ物を投下し、翼を振りなが ら南西の空へ飛び去った。 これを見ていた松本トキさんは、直感的にわが子が最期の別れに来たのだと確信した。 だから、この包みを拾って駐在所に届け出たうえで、警察官に立ち会ってもらいその包み を開けた。 謹みて生前の御礼申上候 今は此の感激が何にか譬へられず候 大日本帝国の繁栄を神仏賭けて御祈願申上候 誰の手に手折られけんか桜花 ただ知るのみは醜の御盾と 攻撃四〇六飛行隊 海軍一等飛行兵曹 松 木 学 母上様 松木学君の古里は、美保基地から宮崎基地へ移動する飛行経路に近い愛媛県であった。 そのうえ、ペアを組んだ偵察員が同期生の山根三男君という好条件に恵まれた。だから、 このような非常手段で、母親に今生の別れを告げることができたのであろう。 山根君の古里もまた、飛行経路に近い広島県の尾道である。松木君と相談してお互いの 古里の上空に飛び、最期の別れを告げることにしたのであろう。しかし、山根君が遺書を 投下したという話は残されていない。恐らく地形その他の状況から、低空飛行を断念した のではないだろうか。 だが、古里の上空を旋回しながら万感の思いを胸に秘め、陰ながらご両親に最期の別れ を告げたのであろう。山根君は昭和2年3月3日「桃の節句」生まれで満18歳であった。 彼は、次の辞世を遺している。 戦友と共に誓いし桜花 九段の庭に咲きてあはなむ 山 根 三 男
山根三男君遺影。
故海軍少尉松木学君(愛媛県・19歳)及び故海軍少尉山根三男君(広島県・18歳) 故海軍少尉伊藤勲君(乙飛・18期生)は、762空攻撃406飛行隊で編成した「神風 特別攻撃隊第九銀河隊」の第2小隊2番機として、昭和20年5月11日0525、宮崎 基地を発進した。目標は沖縄周辺の敵艦船群である。 同じくこの日、「第9銀河隊」では同期生、古小路裕1飛曹(大阪府在住)が第1小隊 2番機として出撃することになっていた。しかし、彼の飛行機はエンジン故障のため発進 できなくなった。出撃基地には予備機など準備されていない。だから、心ならずも出撃す る彼らを断腸の思いで見送ることになった。 次々に発進する出撃機を見守っていると、松木君たち下士官だけで編成されたペアは、 離陸直後から2度と着陸することのできない基地にオルジス(発光信号を発信する器具) を向けて、「サヨウナラ、サヨウナラ……」と、繰り返し繰り返し発信しながら、明けや らぬ大空の彼方へ消え去ったという。 恐らく彼らは遠ざかりゆく祖国の山河を振り返りながら、「さようなら……」と、 心の 中でもご両親に別れを告げていたに違いない。そして、沖縄周辺の敵艦船群に対して必死 必殺の「体当たり攻撃」を敢行して、祖国防衛の礎となった。その功績は、聯合艦隊告示 第232号によって全軍に布告された。目次へ 次頁へ [AOZORANOHATENI]